No.04「茂みの、中で」

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 日の出桟橋で水上バスを降りた時から、異変を感じていた。
 その時は、まだ大丈夫だ、と思っていた。
 ここから、次の避難所になる芝公園までは2キロ弱だという。
 それほどまで切羽詰ってはいかなったし、トイレくらいどこかにあるだろう、という思いはあった。

  ゴロゴロッ……

 その予想は裏切られた。
 急転直下。
 今のお腹の具合を表現するのに、相応しい言葉だ。

 2012年7月21日PM15:46。
 東京は、揺れた。

 ビルは崩れ、橋は倒れ、大地が裂ける。
 幾多の人間がそれに巻き込まれ、命を落としたのだろうか。
 分からない。誰も、本当の数字を把握出来ないだろう。
 街が闇に包まれると、その光景はおぞましさを増した。
 ほんの数日前まで、闇を消し去るかのような人工の明かりに満ち溢れていた街は、紅蓮に燃える炎に染まり、暗い夜空を赤く照らしていた。

 夜が明けた。
 夏の太陽は、昨日と変わらず街と人々を照らし続けている。

 大勢の人々が無秩序に一方向へと向かっている。
 家路を急いでいるのか、ただ単に安全な場所を求めて移動しているだけなのか。
 それは分からない。

 その中に、3人組の親子連れが……といいたいところだが、血が繋がってるわけではない。
 一人は、中学一年生の少女・未来。
 そしてもう一人は彼女の弟、小学生の悠貴だ。
 悠貴のたっての希望で、お台場で開催中のロボット展へ行った二人は、そこで震災に遭遇した。

 運悪く別行動の最中だったため、一度ははぐれてしまう。未来は必死に弟を探し回ったが、
 その時捜索に協力してくれたのが、今現在その姉弟に同行している大人・真理だった。
 真理は普段バイク便をしているシングルマザーで、やはりお台場で震災に遭遇してしまったという。
 ひょんなことから出会った三人だが、真理は姉弟を気の毒に思い、保護者役を買って出てくれた。

 悠貴は真理になついているようだが、思春期の未来にとって、大人の干渉は鬱陶しいものでしかない。
 確かに、食事の面倒までしてくれるのは有難いし、いればいたで何となくだがホッとする。
 しかし、未来にはそれ以上の想いが持てなかった。ただでさえ人見知りな性格の彼女は、
 どうしても心に壁を作ってしまう。

 未来のお腹が急降下したのは、そんな時だった。

  グルグルグルッ……ククッ……

 トイレに行きたい。
 家に辿り付くよりも前に、トイレに。

 いつしか彼女の身体からは、嫌な汗が流れ出していた。身体も、心なしか震えている。
 そんな状況を二人に気付かれたくないのか、悟られないようにお腹に手を当てる。
 しかし、それだけの様態と仕草を見せているのだ。近くにいる真理と悠貴が、その異変に
 気付かないはずがなかった。

 真理は未来を気遣うが、未来は、大丈夫だ、としか言えない。
 この歳になってまで、トイレを心配されるなんて恥かしいし、第一そんなところまで気を使ってもらっても、
 子供じゃあるまいし……という抵抗もあった。

 どうにか、次の避難所である芝公園まで来た。トイレはあるだろうか。
 いつまで我慢出来るか分からないし、早いところ用を済ませておかないと、後が怖い。
 トイレを探そうと思った矢先、真理はあるものを見つけてきた。

 それを見た未来は驚いた。というか、唖然とするしかなかった。

 携帯トイレ。

 使うときになったら言ってね、と真理は言う。
 冗談じゃない。たかだが、紙とビニール袋で出来た箱ではないか。
 恥かしすぎる。自分にこんなのを使わせようとするなんて、どうかしている。
 悠貴は面白がっているが、こんなのをトイレとは認めたくなかった。

  ギュルゴロッ……ククグッ……

 トイレに行きたい。
 その思いは、強まる便意と共にさらに膨れ上がる。
 公園は広いが、緊急避難所に指定されてるだけあり、広場には大勢の人がいる。
 無論、支援する側よりも、それを求める側の人間が圧倒的に多いのだが。
 真理と悠貴は食糧の配給を気にしている。しかし今の未来にとっては、
 口から入ってくるものよりも、腹の中で暴れている悪いものをどうにかしたかった。

 突然、足元が揺れた。
 予測出来ないぐら付きに、未来は立っていられなかった。
 真理悠貴は自らの意思でその場にしゃがみこんだが、未来の場合は違う。
 ただでさえ、便意をこらえるため足を踏ん張っている状態だ。
 それ以上の力をかけて、揺れに耐えることなど出来ない。

  グルグルグルグルッ……

 マズい。
 これ以上の我慢は、出来ないかもしれない。
 揺れが治まり、未来は真理の腕を掴みながら立ち上がる。

 と、真理と悠貴は、別の人だかりを見て言った。
 あれってテント?
 じゃなくて、トイレみたいね。

 見れば、高さが2メートルあるかないかという、縦長のテントが並んでいる。

 あれがそうなのか。
 とにかく、今はその言葉を信じるしかない。
 未来はおぼつかない足取りで、人だかりのある方向へと向かった。

 トイレは仮説のものだったが、避難所ということもあり、それなりの数が用意されていた。
 それでも……利用する人間は、余りにも多すぎる。
 順番待ちの長い行列が、トイレの個数分出来ていた。

 どうしよう。
 どの列なら、一番早く用が足せるんだろう。

  クククググッ……

 せかすように、便意が来た。
 パッと見て、一番人数が少なそうな列の最後尾に飛び込んだ。

 早く、早くトイレに。
 少しずつだが、列は動いている。
 男女が入り乱れた行列だ。誰がどれだけの時間を要するのかなど、分からない。
 それでも、ほんの少しずつ、前に進んでいく列に、身を委ねるしかない。

 ところが、そんな未来の期待を打ち砕くかのような、悪い状況が発生した。
 一人の男が別の列に割り込み、それを咎めた者同士で言い争いが始まったのだ。

 その時である。
 未来に、今までに無い凄まじい便意が襲ってきたのは。


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  グググググッ……!

「ひっ!?」

 内部から押し寄せる、猛烈な排泄要求。
 それがさらに、ズン、ズン、ズンと、早く出せと言わんばかりの勢いで迫ってくる。

(そんな……待ってよ……まだ……まだ待って……)

 だが、未来の目の前で繰り広げられるいざこざは、今だ止む様子が無い。ただ罵声の応酬のみが続いている。
 いつになったら納まるのか、いや、誰か納めようとする人は……
 そんな期待とは裏腹に、むしろそのいざこざの輪は周囲の人間を巻き込んで、徐々に広がっていく。

  ギュルゴロギュロロロギュロッ……
  グググッ! ググググッ!

「……!!」

 更なる内圧。
 もはや便意の波、とは呼べない。津波と呼ぶに相応しかった。後から後から、勢いが増してくるのだから。
 あとどれくらい……と考える余裕は無かった。順番待ちの列は崩れ、意味を成さなくなっている。
 待ち時間なんてものなど、もうありはしない。

  グググググググッ!

(……ヤダ……待ってよ……お願いだから……待って……)

 便意は、未来の願いに反して強まってばかりいる。
 早く出したい。出して楽になりたい。
 でも今は出したくない。出したい。出したい。出したい。でも今は出したくない。出したい。でも今は……
 排泄要求と羞恥心が、瞬時に激しい葛藤を巻き起こしていた。
 トイレに行きたい、早く出したい、でもまだ出したくない、トイレ、トイレ、トイレ……

 と、トイレという言葉が、未来の頭の片隅に残っていた、あるものを思い出させた。

 携帯トイレ。

 “……使うときになったら言ってね”

 真理の言葉が、頭に浮かんだ。
 だが、恥かしさのあまり一度は使うのを拒んでいる。

  ギュルゴロギュルルゴルリュ……

 排泄をせかすような、お腹の悲鳴。
 どうしよう、どうしよう。
 早く出したい、トイレに行きたい、でもどうしよう、早く、トイレ、出したい……

 出したい。
 排泄要求が、とうとう羞恥心を打ち負かした。

(……もう、何でもいい!!)

 咄嗟に、足が動いた。
 未来は両腕でお腹を抱えたまま、前屈みになりながら、輪の中を抜け出した。

 ベンチに座り、何やら談笑している真理と悠貴が、視界に入る。近付いている未来には気付いていない。
 さらに歩を進めようとしたその途端、

  ……グロロロロロロロッ!

 追い討ちをかけるかのように、腹部の不快感が増す。唇を噛み締め、何とかこらえようとする。
 しかし、日の出桟橋からずっと我慢し続けてきた括約筋は、疲れきっているのか、はたまた我慢しすぎて引きつっているのか、今まで以上に力を込めることが出来ない。
 その疲れと引きつりが足にも及んでいるようで、棒のように硬くなる。
 自分の足まで言うことを聞いてくれないのか。苛立たしさと危機感が、未来の心に覆いかぶさる。
 限界は目に見えている。それでも……

(まだ……まだダメ……まだ……!!)

 未来は、意思だけで便意を押さえ付けていた。

 ようやく二人のそばまで来た。だが真理も悠貴も、互いの方を見合って会話をしており、やはり彼女には気付いていない。
 未来は、腹部に回していた左手を、必死になって伸ばした。

 自分の服が引っ張られるのを感じた真理。
 フト振り返ると、滝のような脂汗を流す未来の姿があった。

「真、理、さん……」

 涙目で、必死に何かを訴えようとしている。だが、言葉になっていない。
 その時だった。

  プッ、ブスッ、ブッ!!

「!!!」
「!」
「!」

 三人全員が、何かを察した。
 咄嗟に、お尻―――肛門の付近に左手を回す未来。
 上着のポケットに手を入れ、携帯用トイレを取り出す真理。
 今まで見たことも無い姉の苦悶に満ちた表情に、唖然とする悠貴。

「! ……ダメ……ダメ……!」
「未来ちゃん、あと10秒我慢して!」
「お、お姉ちゃん!?」

 真理の手捌きは早かった。
 心配する悠貴の脇で、小さく畳まれていた携帯用トイレをあっという間に組み立てる。

「……はい、これ!」

 未来の、朦朧とした視界の前に、あのトイレと、ポケットティッシュが飛び込んできた。
 すぐにでも手を伸ばし取りたいのだが、先程伸ばしていた左手は……あいにくお尻に回している。
 離すと一気に噴出してしまうようで、ピクリとも動かせない。

「あ……ああっ……ああっっ……」

  グググググッ!!!

「未来ちゃん!」
「お姉ちゃん! 頑張って!!」

 二人には、未来がどういう状況なのか、もうはっきりと分かっていた。
 便意を我慢しているのはともかく、それがもう限界だということ。
 変わってあげられるわけではないが、せめて……という思いがあった。
 その未来はというと、腸内から迫る「津波」をこらえようと、ひとり戦っていた。

  グググググッ!! ググググッ……

(耐えろ……耐えろ……耐えろ……っっ!!)

 ひとたび力を抜いてしまえば、凄惨な光景が広がるのは目に見えていた。
 それだけは避けたい、それだけは……

  グググッ……ググッ……グッ……

(! ……おさ……まった……!)

 今しかない。
 お腹に当てていた右腕を、バッと伸ばし、真理の手から携帯トイレとポケットティッシュを
 奪うように掴み取る。

「未来ちゃん、あっちの茂み……」

  ゴロゴロゴロゴロゴロゴローッ!

  ……グッ……ググググググググ――ッ!!

  ……プチュッ……

「ダッ、ダメェェッ!!!」

 絶叫と共に、未来は真理が指差す方向へ―――

「お姉ちゃん……」
「悠貴君……お姉ちゃん、待っててあげよう。ね?」
「……うん」

 これ以上、後は追わない。
 それが、真理なりの気遣いだった。


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「ダメ……! ダメ……!! ダメ……!!」

  ……ププッ……ププチュッ……

 ガサガサッ、と茂みの隙間に突入する。
 進む、進む。とにかく進む。大木の枝が重なり、薄暗くなっている茂みの中を進む。
 想い通りに動いてくれない足だが、最後の力を振り絞って前進する。
 と、枝同士が風で揺れ、その隙間から光が差した。

(……あそこ……!)

 照らされた箇所は、目の前―――木々の間に出来た、僅かな空間だった。
 未来は、右手に持っていた携帯トイレを、放り投げるようにその場所に置いた。

(早く……! 早くっ……! 早く……!)

 よたよたとした足取りで、一歩、二歩、と進み、三歩目でトイレをまたぐ。
 しゃがみ込もうとするのと同時に、スカートと下着をまとめて手を掛け、
 一気に太ももの辺りまでズリ下ろした、その瞬間、

  ブジュッ!! ブバアァッ!!

「あはぁぁっ!!」

  ビジュブジュビチブチョビチブジョビチッ!!!
  バジュブジュボビジュバボジュビブッ!!!
  ボブジュボビジャボジュビジョブチュ……!!!!!!

 身体の中の全てが、抜け出ていくようだった。
 溜めに溜め、我慢に我慢を重ねた便意は、爆発と呼ぶに相応しい勢いで噴出していく。
 液状の便はまたたく間に、トイレの後ろ半分を満たし、そのままドロドロと前の方へ流れていく。
 所々で噴出するガスが、便の細かい飛沫を撒き散らす。その汚らしい音が、腹具合の悪さを如実に表していた。

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

(……間に……合った……)

 肩で大きく息をする未来。
 便意を感じてからというもの、気を抜ける時など一度も無かった。
 両親の安否、家の無事、弟の悠貴、真理さんの気遣い、いつ来るかも知れぬ余震。
 それに加えて、自分のお腹の具合。
 今は、何も考えたくなかった。

  シュシュッ……シュビビビビビビッ……

 気が緩んだのを見計らったかのように、前の方―――小水も出てきた。
 本来出そうと思ってはいなかったせいか、大した勢いでは無い。

  ククッ……

 まだ内圧を感じる。出し切れてないようだ。
 少しだけ、お腹に力を入れてみる。

  ブッ! ……ブチュジョビジョブッ……ビブブッ……プッ……
  プチュビッ……ブジョッ……ブッ……ブジョバブッ……ピピッ……

 ガスと液状の便が、交互に吹き出てくる。
 力むのに合わせて、前からの小水も、ピュッ、ピュッと断続的ではあったが続いていた。
 まだお腹の中に、うにょうにょと残るモノがあって、スッキリしない。
 下腹部にそっと手を当て、軽くさすってみた。

「……んん……」

 出し切っておかなくては。もう、便意でこんな想いはしたくない。
 二度、三度とさすりつつ、再び力を入れる。

  プププッ……ブップピッ……プッ……ブブッ……
  ……ブジュビジュブブブッ! ……プッ……ププウゥゥ……ブププゥ……

 やや多めの液便が出た後、ガスが断続的に噴出する。
 それからは、いくら気張ってみても、ガスしか出てこない。
 いつしか腹部に残っていたモノも、感じなくなっていた。小水も出ない。

「はぁ……」

 未来は、大きくため息を付いた。
 そして恐る恐る、視点を下へ向ける。
 下着とスカートは……とりあえず、シミらしきものはない。本当に、間一髪だったようだ。
 視点はさらにその下、携帯トイレの中へと移っていく。

 トイレの袋の中は全体的に液状の便が広がり、中心から少しずれた後ろ半分が僅かにうず高くなっている。
 その高低差によって生じた便の裾野のところに、先ほど出した小水が溜まっていた。
 大人が不足なく使えるよう、十分な容量を計算して作られているトイレだったが、
 未来が出したモノは、大と小を合わせてその3分の1近くを満たすまでに至っていた。

(……こんな……こんなのが……あたしのお腹に……)

 これをずっと我慢していたのか。
 今まで自分を苦しめ続けてきた、便意の猛烈さを知るには十分過ぎるほどだった。
 と、その視点をさらに奥、お尻の後方へ目をやった時だった。

  ドロッ……

「あっ……」

 はみ出ている。限界を突破した瞬間に飛び出した、第一波の最初の方はトイレの中心部を大きく外し、
 後方の縁の部分に、ベッタリとぬめりを残していた。

「……ヤダ……」

 上手く、トイレの中に納まってくれれば、まだ救いがあった。トイレを解体し、袋だけを捨てればそれで処理は終わるはずだ。だが縁に付いてしまった便はどうにもならない。
 ティッシュで拭くにしても、量が多すぎる。
 便意からの開放感を得ていた未来だったが、その様を見るや、急激に恥かしさが湧き上がってきた。

(……どうしよう……)

 不意に、便と小水の混ざった臭いが、未来の鼻を、つん、と突いた。
 本当は嗅ぎたくも無いが、木立の中に立ち込め動かない空気が、その場に臭いを滞留させる。
 普段なら、水を流せば臭いの元も消え去ってしまう。しかし自分の出した汚物は、どこへも行ってくれない。

 こんな情けない様相を作り出してしまった自分が、余りにも情けなく感じた。
 認めたくは無い―――が、自らの足元から放たれる悪臭が、止まることなく後から後から伝わってくる。
 忘れさせないぞ、と言わんばかりに。

 ひょっとしたら、この臭いが、あの二人のところまで伝わってるんじゃないだろうか。
 もし、臭いも伝わってるとしたら、さっき自分が発した音までも……。

 恥かしすぎる。
 絶対に聴かれたくない。
 こんなことをしているだなんて、絶対に思われたくない。

 ……もうヤダ。
 どうして、どうして。
 どうして自分だけ、こんな目に遭わなくちゃならないんだろう。
 どうして自分だけ、こんな恥かしいことをしなくちゃならないんだろう。

 悠貴も、真理さんも、同じものを食べたはずなのに。
 どうして自分だけ、お腹が痛くならなきゃいけないんだろう。
 どうして……こんなところで……

「……っっ……」

 目に、ジワッ、と溜まるものがあった。

 ……もういいや。もう知らない。
 どうせ自分だけこんな目に遭うのだ。
 どうせ自分だけ恥かしい目に遭う運命なんだ。
 どうせ……

 未来はそう思いながら、左足のふところに、ポツン、と落ちているポケットティッシュを手に取った。
 二、三枚程取り出し、尻の方へ持っていく。軽く前を拭いた後、そのまま後ろの方へ紙を進ませ、拭う。
 汚した紙をトイレの中に放り込む。それを何度か繰り返した。

 尻の始末を終えた未来は立ち上がりながら、スカートと下着を両方とも掴み、履き直そうとする。
 その時だった。


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(……あ)

 真正面にある、1メートルと離れていない木立の下に、ティッシュが散乱していた。使用済みのものらしく、クシャクシャになっている。
 未来は一瞬慌てた。今使った分が、気付かぬうちに風で飛んだのかと思ったからだ。
 恐る恐るトイレの中を見るが、紙は一枚残らず納まっている。
 では、一体なぜこんなところに?

「え……?」

 自分ではない、誰かが置いた。そうとしか考えられない。
 もしやと思い周囲を見る。

 ティッシュ、雑草、落ち葉、雑草、ティッシュ、雑草、ティッシュ、落ち葉、そしてティッシュ。
 見慣れた白くて薄い紙切れが、あちこちに山をなしているではないか。
 しかもそれらには、必ずといっていいほど、何かしらの色―――黄色、もしくは濃茶色―――が付着している。

「……?!」

 何に使用したか……は、すぐに判明した。
 黄色のものはともかく、濃茶のしみが付いたティッシュの下には、どこかで見かけた、というか、ほんの数分前に実施した、自らが噴出させたのと同じような物体があるのだから。
 無論、その形状は固形であったり、ペースト状であったりしたが、同じ行為から産み出されたものであることに変わりは無かった。

(……みんな……ここで……?)

 その中に一つだけ、ティッシュの量が他よりも多めの箇所があった。
 ……いや、ティッシュではない。下着だった。生地が丸まって、一体化して見えたのだ。
 その大きさや形状からすると、未来が今着けているのと同じような、女性向けのモノのようである。

「あっ……!」

 それを装着していたはずの人物が、下着を捨てざるを得ない理由は、すぐ分かった。
 股間の部分が、激しく汚れていた。茶色く、形を成していない物体によって。

(……あれって……我慢……出来なかった、ってことだよね……)

 未来も、ほんの四、五分前までは、便意を耐え続けていた。
 だが、自分は携帯トイレに何とか排泄をし、そして、いつそうなったかは分からないが、もう片方の女性は間に合わず、とうとう……

 不本意だったろう。本当は、きちんとしたトイレでしたかったに違いない。
 しかしそれは、未来も同じだ。だからこそ、ずっと我慢し続けてきたのだ。

 トイレで用を足す。
 そんな当たり前のことが、今、出来なくなっている。
 自分に限らず、みんなが。
 だからこそ、こんなところでしている人が、いるんじゃないか。
 間に合わない人だって、いるんじゃないか。

 トイレに行きたかったのは、あたしだけじゃ、なかったんだ。
 みんな、トイレに行きたかったんだ。

 ……そうだよね。
 みんな、トイレでしたかったんだよね。
 あたしだってそうなんだから、みんなそうだよね。

 あたし、とっても恥かしかった。
 でも、みんな、恥かしかったんだよね。そうだよね。
 きっとそうだよね。

 改めて、足元にある携帯トイレを見る。
 自分が限界を迎えた時、真理が大急ぎで組み立ててくれたトイレだ。
 最初見た時は拒絶の言葉しか浮かばなかったものの、今となってはほんの少しではあるが、不思議と有難く思えてくる。

(真理さん……悠貴……)

 二人の顔が、思い浮かぶ。
 トイレを受け取ってから、大分時間が経過しているはずだ。

(……心配……してるかな……)


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 真理と悠貴は、茂みに近い石垣へと移動し、腰掛けていた。
 本当は、元のベンチで待つつもりだったが、悠貴がひたすら、姉を心配し続けていたからだ。
 それこそ姉の後を追ってしまいそうな勢いだったので、ならば、と真理は場所を変えたのである。

「大丈夫かな……」
「大丈夫よ、お姉ちゃんなら」
「うん……」

 とは答えつつも、あんなに具合の悪そうな姉を始めて見た悠貴にとっては、心配でしかない。
 気になってしょうがないのか、少しでもその様子が分からないかと、茂みの方にチラチラと目線を向けている。
 これにはさすがに、真理も気になった。

「ねえ、悠貴君。そんなに気になる?」
「うん……だって、お姉ちゃん、どうしてるんだろう、って……」

 ヤレヤレ、という顔をする真理。

「悠貴君、もしおトイレするとこを見られたら、どう思う?」
「うーん……やっぱり、恥かしいかな……」

 真理は、悠貴に顔を近づけて言う。

「悠貴君……今大切なのはね、相手の気持ちを分かってあげることよ」
「相手の気持ち?」
「そう。……心配なのは、あたしも一緒。でもね、今お姉ちゃんのところに行ったら、きっとお姉ちゃん、恥かしがるわ。あたしたちに見られたくない……そう思ってるはずよ。」
「……」
「だから、今悠貴君が見に行ったら、お姉ちゃん……悲しんじゃうわね。悠貴君、悲しんでるお姉ちゃん、見たい?」
「そんなの……そんなの、見たくないや」
「そうよね……だから、待っててあげましょう、ね?」
「……うん」

 納得はしているようだが、悠貴の不安は完全には晴れていないようだ。
 思春期よりも前の子供に、この辺を理解するのは難しいかな、と真理は思った。

 ガサガサッ、と音がした。
 茂みの隙間から現れたのは、恥かしさから少しうつむき、赤面している未来だった。

「あ、お姉ちゃん!」
「未来ちゃん……済んだの?」

 コクリ、とうなずく未来。しかし、まだ終わったわけではない。
 うつむいた状態のまま、口を開いた。

「……真理、さん……」
「ん?」
「……後片付けは……どうすれば……」

 ひそひそ話をするかのような、小さな声で未来は言った。
 そういえばそうだった。真理は、持っていた携帯用トイレのパッケージを、再度開封する。
 中には、小さく畳まれたビニール袋が3つと、粉末が入った小さなパウチが3つ。
 袋とパウチをそれぞれ一つずつ取り出し、パッケージと一緒に未来へ手渡した。

「これを使って。方法は、ここの裏面に書いてあるわ」
「あ……はい。じゃ……やってきます……」

 やはり小さな声で、未来は答えた。
 茂みの方を向こうとした時、

「……待ってるからね、お姉ちゃん」

 悠貴が、声をかけた。
 先の、真理から言われた言葉がずっと気になっていたのだろう。彼なりの配慮だった。
 弟に気遣われるなんて、変な気分だ。
 未来は再び茂みの中へと入っていった。

 用便を足した場所へ向かう未来。改めて見ると、やはり周囲にはティッシュの数が多い。
 他の公園もこんななのか。トイレが元に戻るまでは、ここでする人がもっと増えるのだろうか。

(これじゃ……公園じゃないよね……トイレ、だよね……)

 やりちらかした跡。片付ける、ということは全く考えていなかったのか。
 それとも、そんなことを考える暇も無いほど、切羽詰っていたのか。

 自分が、ほんの数分前に用を足した場所へ戻ってきた。
 携帯用トイレは変わらずそこに鎮座し、中のものが出したて、ということもあり、今なお辺りを漂う
 悪臭の元となっている。

「うわ……」

 顔をしかめる未来。しかしこれをどうにかしなければ、事は終わらない。
 鼻に臭いが来ないように時々息を止めながら、先程受け取ったパッケージ裏面を読む。

 <・使用後、ポリマーを袋から出し振りかける>
 <・固まったら、サービス袋にいれ、お持ち帰りください>

 ポリマー? ……どうやらパウチの中の粉末がそうらしい。説明書きにある通り、振りかけてみる。
 すると、中の汚物はたちまち変貌を遂げた。
 振り掛けられた粉末はみるみるうちに水分を吸収し、携帯トイレの中でムクムクと膨らんでいく。
 あっという間に小水を吸い込んだかと思うと、今度は液状の便にも反応を示し始めた。

 若干、色は残ってしまっているが、それまで残っていた便を包み隠すように、徐々に膨張している。
 汚物が姿形を変えるのと同時に、その臭い……漂っていたものが、徐々に消えつつあった。

(凄い……)

 こういう風に出来ているのか。
 トイレに行きたくなった時に、真理はこれを使えばいい、と勧め続けた。
 そこら辺で済ませればいい、とは一言も発しなかった。
 これがせめてものエチケットなのだろう。未来は納得がいった。

 後は、サービス袋に入れるだけだが……後方部の縁には、ポリマーでは処理しきれない
 はみ出た汚物が付いている。汚れていない前方部を持ちながら縁を取り外し、サービス袋に捨てる。
 パッケージには「3回つカエル!」とあるが、仕方が無かった。

 続いて、便が収まっていた袋の端を摘み、縛る。もう一度縛る。中がこぼれないよう、ギュッと縛る。
 それもサービス袋に納める。しかし点々と残る場外ホームランの便は、納めようが無い。
 足元の土を二、三回程蹴り、便を覆い隠した。これで、用便を足したという痕跡は、もうほとんど残っていない。
 最後に、サービス袋を同じように硬く縛り、後片付けを完了させた。給水ポリマーと二重の袋のおかげか、臭いは全く伝わってこない。
 ようやく一区切り付き、未来は改めてため息をついた。

「ふう……」

 足元が片付いたせいで、周囲の散らかり具合が目立つようになる。
 その中で特に気になるのは、あの捨てられた下着だった。よく見れば、その布地は便だけでなく砂や泥にもまみれており、破棄されてからの時間の経過を物語っていた。

(……どうしたのかな……この人……)

 替えがあればいいだろうが、普段の外出なら宿泊でもしない限り、下着を持ち歩くことは少ない。
 となれば、考えられることは一つだけ。

(……着けないままで……避難、してるのかな……)

 これが自分だったら、と思うと猛烈に恥かしくなった。
 その不運を回避出来ただけでも、自分は恵まれているのかもしれない。
 それにしても、不思議な気分だ。
 見ず知らずの人のトイレを気にして、その後のことを心配しているなんて。

 “何だろう……人として、なんてね”

 昨晩の、真理の一言が思い浮かんだ。

(これが……そういうことなのかな……)

 最初に聴いた時は、何とも胡散臭く聞こえた。
 でも今となっては、ボンヤリとではあるが、分かるような気がしてきた。

 後で必ず、真理さんにお礼を言おう。
 そう思いながら、茂みを後にした。


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 真理は、未来が持ってきた袋を、捨ててくる、と言って受け取った。
 形状が変わったとはいえ、自分の便が他人の手に渡るのはさすがに恥かしかったが、休んでていいから、と強く勧められたため、お言葉に甘えることにした。
 真理の気遣いが、もう不快には思えなくなった。

 先程まで真理が座っていた石垣に、未来が腰をかける。ほんのりと、人肌のぬくもりが残っている。
 未来の頭の中で、茂みの中のことがリフレインされる。
 ほんの10分程前の出来事のはずだが、それ以上に時間が経過したように思える。

「お姉ちゃん……?」

 悠貴が、なおも心配そうに声をかけて来た。
 真理が去ってから一言も発していない姉を見て、まだ具合が悪いのかと思ったのだ。

 反応しづらい。
 かといって、何も答えないままでは、悠貴はいつまでもこの調子だろう。
 未来は、ゆっくりと、悠貴の方を向く。
 そして、それまでずっと閉じたままだった口を、そっと開いた。

「大丈夫、だから……」
「……本当?」
「あたしは……もう大丈夫だから……」

 そういって、口元を微笑ませた。

「……よかった」

 笑顔を見せる悠貴。
 不安げな表情を晴らした弟の姿が、嬉しく思えた。

「……お待たせ。これ、飲む?」

 戻ってきた真理は、未来と悠貴の前に二本のペットボトルを差し出した。

「未来ちゃん、こういう時は、水分補給が大事なのよ」

 言われるがまま、ボトルを1本手に取った。
 中身は、普通のミネラルウォーターだが、冷えてはいない。キャップを外し、口へ持っていく。

 美味しい。
 水って、こんなに美味しかったんだ。
 体内の汚物を出し切った後に、純粋な水が入ってくるような、そんな感じがした。
 悠貴も美味しそうに水を飲んでいる。そんな二人を観て、真理も嬉しそうな顔をしている。
 未来は半分ほど飲んだところで、真理の方を向いた。

「真理さん……」
「なあに?」
「あの……ありがとう……ございました……」
「フフッ、どういたしまして」

 真理は笑った。
 つられるように、悠貴も笑った。
 未来も、微笑んだ。

「そうそう、さっき向こうに井戸を見つけたの。飲み終わったら、手を洗いに行きましょう」

 真理は嬉しそうに言った。

 キュコッ、キュコッ、キュコッ……
 金属の擦れる音が、公園の片隅に響く。真理が、井戸のレバーを動かす音だった。
 冷たい水が、未来の手を潤していく。今までの苦悶を、全て洗い流してくれるかのように。

「あははははっ!」

 未来は、久し振りに心の底から笑顔を見せた。
 それを観た真理と未来も、嬉しそうだ。

 早く帰ろう。
 パパとママに、自分と悠貴の元気な姿を見せるんだ。
 絶対に。絶対に見せるんだ。

 真理さんも、娘さんに会えるといいな。
 会えるよね。
 絶対に会えるよね。

 真理と悠貴の笑顔を見ながら、未来は思った。

 夏の太陽は、先程と変わらず街と人々を照らし続けていた。




<あとがき>

 作者の東田裕而です。
 昔からこの手の「我慢」に並々ならぬ興味を持つ自分ですが、今回初めて「我慢」にまつわる二次小説を書かせて頂きました。
 ご存知の方も多いと思いますが、題材となった『東京マグニチュード8.0』第4話では、ヒロインである小野沢未来ちゃんが腹痛に襲われ苦悶するという場面を、一般作品とは思えないほどの丁寧さで描いております。
 一般向けゆえ、排泄の直接的な描写はありませんでしたが、気になるのはその間―――限界を迎えた未来ちゃんが、井戸で笑顔を取り戻すまで―――に、一体何があったのか、ということです。
 ここの管理者であり先駆者のbrown氏も、このエピソードを題材にした我慢小説を仕上げておりますが、同氏の想像を参考にしつつ、自分はこんな風に考えました、という想いを全てぶつけたような作品になってます。
 至らぬところが多々あるとはあるとは思いますが、ご了承ください。

 この場を借りて、この作品を発表する機会を与えて下さったbrown氏に感謝いたします。
 ご意見・ご感想等お聞かせ頂けたら幸いです。

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