No.07「夏の思い出」

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 ある夏の暑い、セミの鳴き声がよく聞こえる日のことであった。

「ただいまー」
「おじゃましまーす」

 その午後二時過ぎ。二人の少女が、静かで上品な空気の家を訪れていた。
 髪の長いおしとやかな顔立ちの少女と、おかっぱ髪のきりりとした印象の少女。

 綾瀬優美と伊吹鈴音である。
 学習塾の夏期講習の帰りであった。

「ふわー」
 柔らかな木の香りが、そっと体を包み込む。
 木漏れ日のように穏やかな光が差し込む玄関。
 クーラーこそ効いてはいなかったが、外の日差しは相当に強かったので、中に入るなり楽になった。

「おばさんは、おでかけ中なんだっけ?」
「うん、親戚の家に行ってる」
 同じ塾に通い、同じクラスで授業を受けている二人。
 共に今日の復習をし、そして息抜きに遊ぶために、鈴音は綾瀬家に来たのであった。

「あ、おねーちゃん、お帰りなさい。すずねーちゃん、こんにちは」
「こんにちはー。遊びにきたよ」
 すぐに、一回り小さい優美がとたとたと階段を降りてきた。一つ下の妹の香織である。

「いいなー、おいしそう」
 その指が唇に当てられる。
 二人は汗を流しながら、色鮮やかな棒アイスを手にしていた。

「香織ちゃんも、食べる?」
 すると、そう言いながら、鈴音は手にしていたビニール袋の中から新品のオレンジアイスを取り出した。
「え? いいの?」
「あ、これはね、優美ちゃんが、香織ちゃんのために買ったのだから」
「わあー。おねえちゃん、ありがとう〜」
「えへへ、今回だけだよ」
 香織が目を輝かせてアイスにぱくつくと、優美は穏やかにほほえんだ。
 自分も同じアイスをペロペロと舐めている。

「……でも、どうして、そんなにたくさん買ったの?」
 しゃりしゃりと涼しげな音を聞かせながら、香織はふと尋ねた。
 見ると、鈴音が手にしている袋には、まだ何本ものアイスが入っていた。

「すぐそこのお店で大安売りやっててね、ちょうどおかしだいが貯まってたから、いっぱい買っちゃったの」
「ふ〜ん……。って……え? もしかして、全部食べちゃうの?」

「そうだよ。少しずつね。――あっ、優美ちゃん、じゃあちょっと冷蔵庫貸してね」
「あ、うん。どうぞ」
 目を丸くした香織を尻目に、鈴音はずっしりとした袋を持ち、台所へと入っていった。優美には、もう話がついていたらしい。

「うそ〜。あんなに食べたら、おなかこわしちゃうよ……」
「わたしも止めたんだけど……。こんなチャンス逃せないって」
「よくばりさん……」
「すずちゃん、アイス大好きだから……」

「だれがよくばりさんよ?」
 二人が顔を見合わせていると、すぐに鈴音は戻ってきた。
 早くも二本目のアイスを舐めている。

「だって半額だったのよ? その上でこの暑さ。神様がわたしにアイスを食べるように言っているとしか思えないわ」
 頭を一気にかじり取ると、鈴音は胸を張ってそう言った。今日は、ことし一番の暑さだ。
 それを聞いた香織は「ごめんなさい」といたずらげにはにかみ、つぶらな瞳でアイスをほおばった。
「それに、たくさんって言っても、たかが五本とカップ一つよ。これぐらいでおなか壊すはずがないでしょ?」
「そ……そうだね……」
 苦笑する優美。香織はまた目を丸くした。

「それより、早く二階行きましょ? 香織ちゃんの部屋、クーラー入ってるんでしょ? ここ、暑いよ」
「あ、うん。ほら、香織、行こ?」
「んう」
 そうして三人はとんとんと二階に上がった。
 「ゆみのおへや」と書かれたプレート、そして「かおりのおへや」と書かれたプレートが目に入る。
 開かれた窓の向こうの青空を眺めながら、奥にある香織の部屋へと入った。


「ちょっと香織、クーラーききすぎ」
 中に入るなり、優美が怒ったふうな様子で声を上げた。
「そんなことないよお」
 と、香織。最後に入った鈴音は生き返った表情でドアを閉めた。

「うそ。ちょっとリモコン見るよ。……もお〜。二十度になってるじゃない」
 優美はベッドの上にあったリモコンを拾い上げるなり、唇を固めた。

「二十五度にしなさいって、お母さんいつもいってるでしょ? あんまり強くしすぎると、体と地球に悪いんだよ」
 素早くリモコンの設定を修正すると、優美は香織の前で腰に手を当てた。
「おねえちゃん、おかあさんみたい」
「ちゃかさないの」
 頬を膨らませる香織、珍しく逞しい目付きの優美。
 そんな二人にかまわず、鈴音は丸テーブルに座り、大人びた表情でNバッグを下ろし中身を取り出していた。
 どうやら、見慣れているらしい。

「おなかを冷やして、ゲリしちゃうかもしれないし……」
「それはおねえちゃんでしょ」
「ちょ……っ、いいかげんにしないとお母さんに言っちゃうよ?」
「いいもん」
「ねー、そろそろ始めようよー」
 優美が顔を真っ赤にする一方で、鈴音はもうテーブルの上に勉強道具を広げ終えていた。

「あ、うん。……とにかく、あんまり温度低くしたらダメだよ。二十五度でじゅうぶん涼しいんだから」
「は〜い」
 鶴の一声を聞いたかのごとく、ケンカを止めて床に座る二人。やはり息の合う姉妹であった。

「じゃ、はじめよっか。香織もほら、宿題のドリル出して」
「うんっ」
 そうして三人は静かに勉強を始めた。
 幼くも、真面目でよくしつけられた少女たち。すぐに部屋はクーラーの音のみに包まれた。
 外ではミンミンミンとセミが鳴く。


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「あはは、おねえちゃん、よわーい」
「わたしはもう、こういうの卒業してるから」
「負けるといつもそう言う」
「む〜」

 あれから約一時間後、要領よくノルマを終わらせた三人は、香織の部屋のテレビでゲームをして遊んでいた。
 複数人数で対戦できるアクション型のゲーム。
 読書にしか興味のなさげな姉妹であったが、昨年秋に近所の神社で催されたお祭りに行った時、ひも引きでゲーム機を当ててからというもの、時々、こうして姉妹同士や友達を交えたりして、楽しげに遊んでいた。
 やはり、二人ともクラスメートから話を聞いて興味があったのだ。ゲームは子供のためのものである。

「それにしても、すずねーちゃんはいつも強いね」
「えへへ。お兄ちゃんとよくやってるからね」
 いちばん上手なのは鈴音だった。アイスの木の芯の先っぽを前歯で噛み、ぱたぱたと浮かせながら、あぐら座りで巧みにコントローラーを操作している。すでに彼女は五本の棒アイスを平らげていた。いま口にしているのは、その五本目のアイスの芯だ。

「ああ〜……」
「おねえちゃん、もう三回連続で最初に負けてるよ」
「香織がずるいことばっかりするからでしょ」
「テクニックだもん」
 正座をしながら、あたふたとコントローラーを操作している優美。
 女の子座りでちょこちょこと操作している香織と比べて、明らかに下手である。
 いつもいっしょに遊んでいるので練習量は同程度のはずだが、やはり向いていないのだろう。

「……あっ……」
「えへへー。またわたしの勝ちー」
 そうしながら、すぐに香織も負かされる。鈴音はにんまりとした。

「あ、わたしまたアイス取ってくるから、ちょっと二人でやってて」
「あ、うん」
 そうして一段落つくと、鈴音はおもむろに立ち上がり、芯をゴミ箱に入れて部屋を出ていった。
「えへ、今度は一対一の勝負だね」
「よーし、こんどこそ負けないからね」
 勇んで対戦を始める姉妹。


 ――しかし、あっというまに。

「あ……」
「やったあ」
 またもや、優美が敗北して決着がついた。

「おねえちゃん、よわ〜い」
「今日はなんだか調子が悪いんだもん」
 優美はぷくっと頬を膨らませた。
「なーに、また優美ちゃん負けちゃったの?」
 その時、鈴音が戻ってきた。その手には、蓋の開いたカップアイス。いかにもおいしそうなバニラ色だ。
「おかえりなさーい……」
 コントローラーを置き、沈んだ表情で振り返る優美。けっこう傷付いているようだ。

「あ〜。いいなあ、おいしそう〜」
 一方、香織は、明るい表情で振り向くと、鈴音の手元を見て目を輝かせた。

「えへへー。最後にとっておいたんだー」
 鈴音はにかりと白い歯を覗かせた。

「ね、ちょっとだけ分けて」
 いかにも物欲しそうに、指先を唇に当てる香織。
「だーめ。自分で買いなさい」
「一口だけでいいからー」
 そうしながら、鈴音のアイスに顔を近づける。
「だめ。これは大好物だから。これだけはゆずれないわ」
「けちんぼさん」
「なんて言ってもだーめ」
「ぶー」
 今度は香織が頬を膨らませた。
 さっきの優美にそっくりな表情。優美はそれを見て苦笑した。

「おいしい〜。夏にクーラーのきいた部屋でアイス食べてると、まるで天国にいるみたいね」
 さっそく木のスプーンにぱくつくと、鈴音は世にも幸せそうな顔でうっとりと手を頬に添えた。
「すずねーちゃんのいじわる……」
「こんどそのうち、何かおごってあげるから」
「今がいいんだもん……」

「ね、早く続きしようよ」
 二人がアイスに夢中になっている一方、優美は真剣な目付きで、対戦準備の画面を見つめ始めた。
 今度こそ負けないぞ、といった表情である。

「ごめん、あと一口食べるまで待って」
「もう……」
「もう……」
 優美がむうっと顔をしかめると、香織もそっくり真似をした。

「ふあああ……」
 溶けそうな表情でため息をつく鈴音。
「もう、はじめちゃうよっ」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」
 ついに優美がスタートボタンを押すと、慌ててアイスを床に置いた。


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「……香織ちゃん……よかったら、これ……、のこり半分、食べてもいいよ……」
 次の次の対戦が香織の勝利で終わると、鈴音はコントローラーを置き、ふいに静かにそう言った。

「えっ? い、いいの?」
 それを聞くや、勝利の喜びを忘れ、香織は目を丸くした。
「うん……なんだか、急に、おなかいっぱいになっちゃって……」
 小さな声でつぶやきながら、まるまる半分残っているアイスを、鈴音はそっと香織の方に突き出した。

「わあー。夢みたい。すずねーちゃん、ありがとう」
 アイスのように甘くほほえみながら、香織は両手を出して受け取った。
「よかったねー。香織」
 優美は投げやりに画面を見つめたまま、投げやりにそう言った。
 珍しく、最初に鈴音が負けてしまったこの対戦。
 姉妹一騎打ちになるも、またもや優美は妹に負けてしまったのだ。

「おいしいよ〜。やさしいすずねーちゃん、だーいすきっ」
 さっそく、ぱくりと食べつく香織。
「ね、優美ちゃん……、ちょっと、クーラー、切ってもいいかな……?」
 その言葉に反応を見せず、鈴音は今度はやや早口でそう尋ねた。
「……え? う、うん、いいよ。ごめんね、ちょっと寒かった?」
「こっちこそごめんね、急に……」
 中途半端に答えながら、鈴音は側にあったリモコンをそっと拾い上げた。
 ピッ、という電子音が部屋に響き、ファンの音が停止する。

「ふわぁぁぁ〜」
 一方、香織はそれに全くかまわず、とろんと目を細めていた。
 それを見るなり、優美はぎゅっとコントローラーを握りなおした。
「ほら香織、次はじめるよっ」
「わっ、ちょっと待ってよ、おねえちゃんのいじわるっ」
 慌ててスプーンを口に運び、コントローラーを掴む香織。再び対戦が始まった。


「わあっ!」
「えへへー。また、わたしの勝ちっ」
 ……結果は、またもや優美の敗北だった。
 妙に動きの鈍かった鈴音こそやっつけることができたが、それに気をとられ、直後にあっさりと香織にやられてしまった。
 三人でゲームを始めてから、約三十分。今日の優美は、序盤の数回しか妹に勝てていなかった。
 もっとも、いずれの時も、その後にすぐ鈴音にやられてしまったのだが。

「もう一回っ! 今度は負けないんだから!」
「またわたしが勝つよーだ」
 スタートボタンを連打する優美。即座に次の対戦が始まった。


「……あ……」
「やったあ」
 優美は信じられないような表情で口を開けた。
 また、負けてしまった。
 今度はいいところまできたのだが、結局、ギリギリのところで香織に及ばなかった。
 ちなみに、鈴音は開始してすぐに操作を誤り、勝手にいなくなっていた。彼女にしては珍しいミスである。ちらりと優美が見ると、ショックだったのか、険しい表情で固まっていた。いつのまにか体育座りになっていた。

「うう〜。なんで勝てないんだろう……」
 コントローラーを掴んだまま肩を落とし、がっくりとうなだれる優美。
「だって、おねえちゃん、いつも動きがワンパターンなんだもん」
 その様をにやにやと見つめる香織。
「もう! 次こそは絶対勝つんだからっ!」
「何度やっても同じだよーだ」
 優美は力強くスタートボタンを押した。
 イントロの音楽と共に、対戦画面が映し出される。

「ごめん、ちょっとトイレ借りるね二人でやってて」
 その時、急に鈴音がコントローラーを置いて立ち上がった。
 「えっ?」と驚き、優美は咄嗟にポーズをかけて振り返った。鈴音はかなり早く歩き出していた。

「う、うん……いってらっしゃい」
 わずかに遅れて紡がれた言葉の最中、ばたり、とドアが閉ざされた。

「……」
「……」
 目を見合わせる二人。
 いざ、とテレビに意識を集中した瞬間のことだった。――拍子抜けした。

 そのまま、数秒。

「じゃあ、香織、ポーズ切るよ」
「あ、ちょっと待って」
「えっ?」
 そして再び画面に目を戻した優美だったが、香織はテレビではなく膝元に視線を向けた。
「ちょっとアイス食べさせて。おねえちゃん、さっきから休憩のひまくれないんだもん。溶け始めちゃってる」
「あ、うん。ご、ごめん」
 はっとして、優美は香織が手にしたアイスを見つめた。
 ペースト状だったバニラアイスは、いつのまにかドロドロの半液体状に溶け崩れていた。

「じゃあ、すずちゃんが戻ってくるまで、ちょっと休憩しよっか」
「うん」
 カップの縁に唇をつけ、香織はスプーンでアイスを口に流し込み始めた。


「おねえちゃん、わたしもトイレ行ってくるね」
「いってらっしゃい」
 すぐに食べ終わると、香織もそう言って一階へと降りていった。
 綾瀬家のトイレは、一階の玄関の近くにある。それ一つだけなので、ときおり朝などに姉妹がかち合うことがあるが、今のところ特に不都合は生じていない。

 軽く鼻歌を鳴らしながら、とんとんと階段を降りてゆく香織。
 静かでほのかに暗い一階の廊下が視界へと入ってくる。
 あれから一分ほどが経っていたが、トイレのドアはまだ閉ざされていた。
(すずねーちゃん、ゆっくりさん……)
 そんなことを思いながら、香織は降り立ち廊下を歩き始めた。

(……えっ……?)
 だがすぐに、トイレの数歩前で足を止め、困惑げに顔をしかめた。
 ふいに、ぷうんと大便の臭いが漂ってきたのだ。

(うそ……すずねーちゃん、もしかして、うんち……?)
 香織はどきりと驚き、目を丸めて息を止めた。信じがたいが、出所はトイレの中としか思えない。
 まさか、あのすずねーちゃんが人の家でうんちをするなんて……。
 ……それも、ひどく強烈な便臭だった。香織は緊張の極致に至り、そっと足を踏み出した。

  ブピピピピピッ!
(あ……)
 ドアの前に立つと同時に、中から恥ずかしい音が聞こえた。
  ブビビビッ!! ブビーービピピビビポチュブピピッ! ブポッ!
(……すずねーちゃん……おなかこわしちゃったんだ……)
 連続して鳴り響く水っぽい破裂音……下痢の音であった。
 同時に、この腐ったチーズのような悪臭が、下痢特有のそれだと気付く。
 香織は赤面し、口を手で覆った。

「ぅんんぅぅぅ……!」
  ブリブリビビビビビーーーーッッ!! ブオッ!!
 苦しげなうなり声。激しい噴射と放屁の音。鈴音は、完全に腹を壊していた。
(やっぱり……あんなにアイス食べるから……)
 原因は、あまりにも明らかだった。
 五本の棒アイスと半分のカップアイス……やはり、おなかを冷やしてしまったのだ。
 残り半分をくれたのは、ちょうどあの時におなかが痛み始めたからだろう。急にゲームが下手になったのも、これで納得がいく。彼女は別のものと闘っていたのだ。それであのときついに我慢できなくなり、いきなり立ち上がってしまったのだろう。

  グギュルルグウウウゥゥ……
「もおぅ……っ!」
 今度は物凄く大きな腹鳴りが聞こえた。
 さらに、もどかしくてくやしげな怒りの声。腹痛が止まらなくて焦っているのだろう。できることなら、自分たちには知られたくはないはずだ。
  ブポポポッ! ブジュポブピボポポポポポッ!! 
 そして再び、下痢便が便器へと注ぎ込まれる。
 搾り出すような排泄。だいぶ水っぽく下しているようだ。見事に下痢をしている。

  プポッ……ブプピピピピ……、ブビッ! ブゥゥブビビビィィ〜〜……!
「……っ、」
 ブピブピと下品な音が響き続ける中、香織は恥ずかしげに顔を逸らし、早足で階段へと戻った。


「あれ……? 香織、どうしたの? すずちゃんは?」
 部屋に戻ると、ベッドの上に転がっていた優美が、不思議そうに尋ねてきた。

「すずねーちゃん……ウンチしてた……」
 切ない表情で、申し訳なさそうに香織は答えた。
「……え……?」
 聞き間違えたか疑うような表情で、目を丸くする優美。かなり驚いたようだった。
「おなか、こわしちゃったみたい……」
「あ〜……」
 だが、"下痢"だと聞くなり、優美は納得げに息を漏らした。
 「やっぱり」、という顔つき。すぐに事情を飲み込んだ。

「もう……あんなにアイス食べるから……」
 香織と同じ切なげな表情で、はあっ、とため息をつく。
 彼女ぐらいの女の子ならみんなそうだが、特に鈴音は人の家で大便をできるようなタイプではない。
 よっぽどおなかの調子を崩してしまったのだろう、と優美は胸を痛めた。

 ――そして、はっとする。

「ね、香織、トイレのドアを、ノックしたりとかはしたの?」
「ううん、してないよ」
 慌てて首を大きく横に振る香織。
「よかった……。じゃあね、すずちゃんが戻ってきても、うんちしてたのは知らなかったことにしようね」
「うん……」
 優美の考えは、すぐに香織に伝わった。
 鈴音は大便をしてしまったこと――下痢をしてしまったことを隠したいことだろう。
 触れてはならない領域。優美は気を利かせることにしたのだ。

 もう、ゲームをする気にはなれない。
 部屋の中を眺めるなどしながら、二人は無言で鈴音の戻りを待ち始めた。


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 だが、十分経っても、鈴音は戻ってこなかった。

 クーラーが切れてから時間が経ち、部屋の空気が生温かくなってきている。
 ベッドの上で伸びてぼんやりとしていた優美は、静かに体を起こした。

「ね……すずちゃんの様子……どんな感じだった? 具合とか、けっこうひどそうだった?」
 枕をいじくりながら、不安げに尋ねる。窓から入道雲を眺めていた香織が、そっと振り向いた。
「うん……大きい音もたててたし……ピーピーってかんじ……」
「そっか……」
 重い表情でうつむく優美。

「……わたし、ちょっと様子見てくるね」
 少し悩んだそぶりを見せたのち、何かを決心したかのような表情で床に下りた。

「あ、うん……いってらっしゃい」
 ドアを開けたまま、優美はゆっくりと廊下に出ていった。


(すずちゃんったら……。あんなにアイス食べたら、おなかこわすにきまってるよ……)
 一学期の末、二本アイスを食べただけでおなかがピーピーになり、トイレから離れられずその日の塾を欠席する羽目になってしまった優美。
 複雑な想いを胸に抱えながら、慎重に階段を降りていった。

(……まだ、してる……)
 静かな一階へと降り立つ。閉ざされたトイレのドアが見えた。セミの鳴き声だけがミンミンと聞こえる。

(……このにおい……。本当に、おなか壊してるんだ……)
 数歩進むなり、むわあっ、と強烈な便臭が漂い始め、優美はたまらず顔をしかめた。完全に下痢の臭いだ。

 そして……トイレの前に立つ。

  ブピッ……、ブピピッ! プリトポトポトポトポポポ……、
「…………」
 静寂の廊下に、断続的な破裂音が漏れ聞こえてきた。
 やはり、まだ出られないらしい。

「ぐうぅぅぅぅ……っ!」
  ジュボポッ!! チュビビビピピピーーーーッ!
 重ねて、苦しげなうなり声。どうやら、腹がしぶっているらしい。
(すずちゃん、ほんとに……おなか、ピーピーだ……)
 優美はごくりと唾を飲み込んだ。肛門からおしっこをしているような音。大便が完全に液化しているのが分かった。冗談ではなく、鈴音の腹具合はかなり酷いようだ。

「……すずちゃん……だいじょうぶ……?」
 中からの音が途切れたのを見計らい、優美はそっとドアをノックした。
 彼女がここに来たのは、これが目的だった。
 あまりに気まずく、できればしたくなかったことだが、やはり親友の体調が気になる。それに、これだけ長くトイレに篭ってしまっている以上、もう、鈴音も隠せそうにないと自覚していることだろう。こうなると、出てくるまで放っておく方がむしろ不自然だ。

「…………ごめん……おなか、こわしちゃった……」
 わずかな沈黙の後、恥ずかしく申し訳なさそうに、中からかすれた声が聞こえた。

「あんなにアイス食べるからだよ……」
「えへへ……かっこわるいね……。ごめんね……ほんと……」
 明らかに疲れている印象の、痛ましい声。この臭いからして、かなりの量の下痢便を排泄したことだろう。
 ドアの向こうでは、鈴音が下半身を出して便座に座り、ぐちゅぐちゅに汚れた肛門を水面へと向けているのだ。
 しかしその水面は直上の穴から吐き出された大量の泥粥に埋められ、もはや"水の面"ではなくなっていることだろう。

「気になんてしてないから……。じゃ、わたし、二階に戻ってるね……」
「ありがと……、もうすぐ、出られると思うから……」
 ずりずりと、小さく衣擦れの音が聞こえる。……おなかを、さすっている。
「無理しないで。ゆっくりしてていいよ」
「うん……」
 そうして優美はそっとトイレの前から離れた。
 自分が来てから、鈴音が肛門を締め付けていることに気付いていた。

 そして、二階へと戻っていった。

(そうだ……ゲリ止め、出してあげよう……)
 が、そう思いつき、階段を上りきるなり引き返した。
 音を立てずに再び降り、薬箱のある洗面所へと向かう。トイレのすぐ隣だ。優美はそっと中に入った。

  ブウウウウゥゥゥーーーーーッ!!

 それと同時に、壁の向こうから壮絶な勢いで屁の音が響きわたった。
(……あ……)
 優美は申し訳ない表情で、手の平を口に当てた。
 自分が部屋に戻った頃を見計らい、鈴音が肛門を解放したのだと気付いた。

  ブポッッ!! プビピブビビブピピビィィィーーーーッ!!
 さらに、荒々しく、まるで怒っているかのような、物凄い下痢便噴出の音が壁を貫いた。
「もおおっ!!」
 それが止むと、今度は、明らかな激しい怒りの声がし、同時に、ぱんっ、と膝を打ち叩く音が聞こえた。
 びくっと脅える優美。……やはり、知られたことで傷付いてしまったらしい。鈴音がこういうことに関して意外と繊細なのを、彼女はよく知っていた。
 胸が切なく痛んだ。素早くゲリ止めを取り出すと、息を呑んでその場から離れた。


「あ……、すずねーちゃん、どうだった……?」
 ついに一階と同じぐらいまで気温が上がりだした部屋で。
 ベッドにぐったりと抱きついていた香織は、声をかけるより早く、気配に気付いて起き上がった。

「……だいぶ、具合が悪いみたい……」
「やっぱり……」
 沈んだ顔の優美。香織もそれで多くを察し、表情を暗くした。

「でも、もうすぐトイレからは出られそうだから」
「そうなんだ……。やっぱり、ノック、しちゃったの……?」
「うん……。出てきても、からかったりしちゃダメだよ」
 話しながら、優美は静かに窓を開けた。
「わかってるよぉ……」
 香織はぎゅっと枕に抱きついた。


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  ゴボボジャアアアアァァァーーーーッッ…………
  ガチャ……ッ……

 それからさらに五分後。
 再び様子を見に行った優美が一階に降り立ったと同時に水洗音が轟き、ついにトイレのドアが開いた。

「あ……ゆみ、ちゃん……」
 青ざめてげっそりとした表情。口元に皺を作り、疲れきった瞳で、鈴音はよろよろとトイレから外に出てきた。

「すずちゃん……大丈夫……? 二階におくすり用意してあるから。良かったら、飲んで……」
 ゆっくりと歩み寄る優美。
「ありがと……じゃあ、もらうね……」
 小さくため息をつきながら、鈴音は消え入るようにか細い声で答えた。
 普段だったら好意に対しほほえみでもするだろうが、今は重い表情のまま光が射さない。

  ……ゴロゴロゴロロロ……
「ぅぅぅ……」
「まだ、おなか痛いの……?」
「うん……、でも、もう、だいぶ楽になったから……」
 おなかから聞こえる下痢の音。鈴音は左手で下腹をさすり、腰を露骨に曲げていた。
 まだまだ調子が落ち着かないようだ。

  グゥゥゥ〜……
「はぁ……っ……」
「早くおくすり飲んだほうがいいよ。ほら、二階いこ」
「待ってよ、手、まだ洗ってないよ……」
「あ……、ごめんなさい……」

 丁寧に石鹸で手を洗い、その場のコップで水を三杯飲んだのち。
 心配に覆われた表情の優美に段上から見守られながら、鈴音はゆっくりと階段を上がった。


「おかえりなさい」
 部屋に入ると、ベッドの上に座って窓を眺めていた香織が、そっと顔を振り向かせた。
「すずねーちゃん、おなか、もうだいじょうぶ……?」
「心配させちゃってごめんね……。もう、大丈夫そうだから」
 胸に両手を押し付けて心配げに見つめてくる香織の顔は、優美のそれと全くそっくりだった。
 鈴音は胸を癒され、かすかに顔をほほえませた。
 香織も下痢を知ってしまっていることは、部屋に入る前に優美から聞かされていた。
 覚悟していたことなので、抵抗はなかった。
 いっぽう香織は、鈴音が来るなりぷうんと便臭が漂いだしたのを感じたが、つとめて気付かないふりをした。

 そして鈴音は用意されていたコップの水で、静かに下痢止めを飲んだ。
 正露丸。おなかを壊しやすい綾瀬姉妹にとって、なくてはならない常備薬であった。

「……じゃ、わたし、今日はもう帰るね……」
 飲み終わるとすぐに鈴音は勉強道具をカバンに戻し、力なく立ち上がった。
「うん……。お大事に。家でおかゆでも食べて、ゆっくりおなか温めて」
「もう、あんなにアイスぱくぱく食べちゃダメだよ……」
「ありがと……、今度からは、気をつけなきゃね……」
 優しい姉妹に囲まれて、恥ずかしくも暖かい会話を交わしながら、一階へと降りてゆく。

 真夏の午後中央。少女たちはいつしか汗に濡れていた。
 姉妹は部屋を圧す熱気でほのかに湿り、鈴音は腹痛で脂汗が噴き出して全身ぬるぬるだった。
 甘ずっぱく香る女児たちの汗の匂い。ミンミンとセミの声が今はうるさい。

「すずちゃん、もし明日になってもおなかの具合が悪かったら、無理しないで休んだ方がいいよ。わたし、ちゃんとノートとっておくから」
「ありがとう……できるだけ行きたいけど、もしそうなっちゃったら、助けてもらうね」
「またこんど遊びにきてね」
「うん。また、いっしょに、ゲームしようね」
「えへへ。今度はもっといっぱいしようね」
 玄関で交わされる会話。鈴音はいつになくしおらしかった。
 靴を履くべくしゃがみ込んだ時、香織はその身体が縮んでいるかのような錯覚を覚えた。

「じゃあ……ごめんね、今日はほんとに……」
 ドアを背にして、スカートの形を整える鈴音。
「ううん。ほんとうに気にしないで……。おだいじに……」
「……早く、おなか治るといいね」
「ありがとう。……じゃ、またね。おじゃま、しました」
 そして、振り返り鍵へと手を伸ばした。

 ……が。

「すずちゃん……?」
 かちゃり、と音がするのと同時だった。
 腰を曲げておなかを押し、ふいに鈴音は体をぎゅっと固めて動かなくなってしまった。
「あ……、」
「すずねーちゃん?」
 顎を上げて小さく声を漏らし、右の手の平をおしりに当てる。
 わずかに遅れ、香織も怪訝な表情で呼びかけた。一方、優美は気が付いた。

  キュグォォォォォ〜〜〜……

 さらに、不気味で重苦しい音が鈴音のおなかから放たれた。
 小さく震える身体。左手がゆっくりと動き始め、右手もおしりをさわさわと撫で始めた。
 それで香織も気が付き、切なげに目を細めた。……鈴音は、また猛烈な下痢の波に肛門を襲われたのだ。再び腸が激しく中身を下し始めたのである。

「っ――!」
 鈴音は静かに振り返ると、素早く靴を脱ぎ並べ、廊下に足を乗せた。
 はっとして、"通り道"から体を逸らす姉妹。鈴音の顔は真っ赤になっていた。
「ごめん、また……、もう一回、トイレ使わせて……」
「うん……」
 そしてうつむいたままそう尋ね、しかし答えを聞くより早く歩き出し、トイレの中へと体をまるめて飛び込んだ。

  バタン……ガチャッ、

 即座にドアが閉められる。激しくはないが、明らかに急いでいると分かる素早い施錠。
 慌しい衣擦れの音が聞こえ始める。姉妹は同じ表情でそれを見つめ、同じタイミングで唾を飲み込んだ。

  ブピッ! ブビチュビチュビチュビヂュブピッ!!
  ビリュリュブピピピ……プビビビビビッ!
 ……トイレの中から、恥ずかしい音が聞こえ始める。
 鈴音の肛門が奏でる下痢の爆音。優美は無言で香織の肩を叩き、階段を指差し、「上に行こうよ」とジェスチャーで伝えた。このまま聞いていてはいけない。すぐに香織も理解し、音を立てずに歩き始めた。

  ブリリピピッ……プビッ……ブビピピピブオッッ!!
「すずちゃん、わたしたち、二階にいるから、ゆっくりしてていいよ」
  ブウウゥゥゥゥ〜〜〜ッ!
 ノックをせずに、小さく早口で優美は伝えた。返事はなかった。同時に響いたゆるい屁があたかもそれのようだったのが、なんとも情けのないことであった。前後して「はあ、はあ、」と荒々しい呼吸が聞こえ、優美は胸を痛めた。

  ……プピッ……ブピピブチュビピピ……ブビビビビィィ……
 そして優美も、静かに二階へと向かった。


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 結局、鈴音が綾瀬家を出たのは、それから十分後のことだった。

「わたしたちも、気をつけようね」
「うん……」
「クーラー、あんまり強くしちゃダメだよ」
「分かってるよお」
 見送ったのちの玄関で、トイレからの悪臭を気にしながら、二人はそう会話した。
 以後何日かの間、香織はクーラーを強くするのをやめた。が、結局、気が付いたら元に戻ってしまっていた。

 翌日、鈴音は少し顔色を悪くしながらも、元気に塾へとやってきた。
 しかし、その帰り道で急にもよおし、公園の公衆便所で大便をする羽目にはなった。
 前日同様に暑く、近所のお店はまたアイスの大安売りをしていたが、もう鈴音は近づこうともしなかった。


 次に鈴音が遊びにきたのは、夏休みの最後の日だった。
 すでに宿題を終えていた三人は、久しぶりに仲良く楽しい時間を共に過ごした。
 夏休み最後とばかりに、夕方まで子供らしく遊び続け、鈴音は綾瀬家で夕食をごちそうになった。

 そして玄関を姉妹と共に出て、淡く涼しくなった藍色の空の下で。
 大きく手をふって別れ、鈴音は夏期講習で習った星座を天の輝きの中に探しながら、夜風と遊んで家に帰った。

 優美と鈴音は小学四年生、香織にとっては三年生の夏休み。
 いくつかのハプニングこそあったが、それも含めて思い出に残る日々であった。
 もう二度と戻らない日々を重ね、少女たちはゆっくりと成長してゆく。
 鈴音は星が好きになり、秋に望遠鏡を買ってもらった。


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