No.16「卒業式に散った桜の花」

<1> / Guest / Index

「6年生の皆さん、6時間目に卒業式の練習があるので、掃除が終わり次第体育館に集合してください」
 校内放送が休み中の学校に響き渡る。この学校は2日後に卒業式を控えている。
「また練習かよ、最近授業の代わりに練習多くない?」「うわーやだな、俺歌いたくねえ」
「私、卒業証書上手く貰えないから嫌だわ」「私もー」「僕は授業のほうがましだなー」
 6年生の教室からざわめきが漏れる。廊下に反響するのではないかというくらい。
「こら、そんな不謹慎な事言わない。下の学年は否応言わず練習してるんだから」
 案の定、廊下を歩いていた先生から注意された。
「はーい」
 28人から声が上がる。

 この学校は、全校生徒が156人と言う、田舎と比べれば多めの、都会と比べれば少な目の、中途半端な大きさの小学校である。1学年が、多くても31人、少なかったら17人と言えば、具体的に捕らえやすいだろう。

「はぁ、嫌だな……」「そんな事言わないで、私も嫌なんだから……」
 移動しながら、仲良し組の美央と沙菜が会話する。
「大体、何で歌わなきゃいけないの? 歌なんか無くても卒業式なんか出来るじゃん」「そうよ、そうよ。卒業式なんて、賞状貰ってハイ終了で良いじゃない」「でも、クラスが一つにまとまるんだったら、やってもいいかな……」「そうね。まあ、頑張りましょう!」
 体育館に着き、練習をする。今日はクラス全体でそれといった失敗はなく、歌も上手に歌えており、全員、賞状も上手くもらえていた。
  キーンコーンカーンコーン
 授業終了の鐘がなった。
「よーし、じゃ今日の練習はここまで。卒業式が近いからか、皆歌がとても上手になってたぞ。明後日の卒業式もこの調子で頑張れよ!」「ハイ!」
 クラスが一つにまとまった瞬間だった。それは、最初で最後のスクラムだった。

 卒業式の前日は、6年生だけは修了証書を貰ってすぐに帰りの会をやって下校する。つまり卒業式の練習が無いのだ。
「では皆さん、明日の卒業式は頑張ってください。さようなら」「さようなら」
 担任の先生の長い話が終わると、生徒には安堵の表情がもどった。
「いよいよ明日かぁ」「楽しみだなぁ」「在校生が“卒業生、起立!”の声で立ったりしてさぁ」「それは去年のお前だろ!」「そうだっけ?」「ハハハハハ」
「男子って気楽よね。あんなことで笑えるんだから。失敗した人にとっちゃ、恥ずかしい事この上ないのにねぇ」「そうよねぇ。私も明日歌の音はずすかもしれないし、卒業証書を左右間違った順番で手を出しちゃったり、考えたくないなぁ」「考えなけりゃいいのよ、気楽に行きましょ、気楽に」「そうよね」「アハハハハ」
 教室の隅から隅まで笑い声が響く。しかし、美央はまだ彼女に降りかかる恐怖を知る由も無かった。


「ただ今より、平成22年度、卒業式を始めます。卒業生入場」
 会場の体育館に拍手が割れんばかりに響き、派手に着飾った卒業生が入場する。美央と沙菜は、番号順は遠いが、美央の後ろに梨香が座るような順番になっているので、会話が出来るだけの近さがある。会話する隙があれば、少々話をするであろう。
「卒業生、着席」
 卒業生28人が座ると共に、在校生や保護者、教職員や来賓の方々からの拍手が鳴り止む。
「卒業証書、授与」
 校長先生が壇上に上がられ、とある教師が証書を校長先生に渡した。
「足川 博」「ハイ」
 卒業生の中で1番名簿順の早い足川が証書を受け取りに行く。男女で貰う順番は別れているので、ちょっとゆっくり出来ることが美央にとっては気休めになった。男子が半分終わったところで、美央に小さな悲劇が襲ってきた。
  クル……クピーー……
(なんだろう、お腹壊しちゃったかな……)
 すぐに収まるだろうと思い、美央は気に留めなかった。しかしすぐに
  グルルル……ゴロゴロゴロゴロ……
(どうしよう、お腹痛い、でも、卒業式の途中でトイレに行くなんて出来ない)
 美央の脳内で葛藤が始まった。
「渡良瀬 合歓」「ハイ」
 最後の男子が壇上に上がる。彼は、クラス1頭脳明晰で、周りの同級生とは違う、私立の中学校に行くことになるらしい。だが、そんなことは今の美央にとってはどうでも良い事だ。
「有宮 沙希」「ハイ」
 とうとう女子の番になった。しかし、相変わらず美央のお腹の調子は変わらない。
  コリョリョリョ…… ピルルルル……
(どうしよう、あと二人で自分の番じゃん!)
「江川 佳織」「ハイ」
 美央の前の生徒が壇上に上っていった。男子の方でも、渡良瀬が先生方へのお辞儀を終えて自分の席に戻っている。
「神川 美央」「ハイ」 「神川 美央」「ハ、ハイ」
 二度繰り返されたのは、多分声が小さかったからであろう。美央にしか分からないその理由は、当然先生の知る由も無い。
(やばい、顔が引きつってるかも……)
 美央が壇上に上がる。足が震えているのは緊張のせいなのか、体調のせいなのか、本人にも分からなくなってきた。
(えっと、証書を貰って左に……先生方にお辞儀をして席に戻るんだよね)
 お腹が悪いときにお辞儀をしたのが運のつきだった。
  プスー…………
(わっ、どうしよう、周りに聞こえちゃった? でも、とりあえず先生方には、ばれてないみたい)
 幸いばれてはいないようだ。先生方の前でおならをしただけで済み、自分の席につき、座る。後ろから沙菜が、
「ねえ、顔真っ赤だよ。風邪引いたんじゃない?」
 と心配そうに話しかけてきた。が、我慢をしていた美央にはその質問に答える余裕が無かった。
  ゴルルルル……グリュリュリュルルルルル……
(式の終わりまで、耐えれるよね? 漏らしたりとか無いよね?)
 自問自答の押し問答が続き、次に先生の声が美央の耳に入ったには、沙菜の前の晴美の時だった。
「土浦 晴海」「ハイ」
(えっ、次もう沙菜の番……)
「中川 沙菜」「ハイ」
 沙菜が壇上に上がる。その長い髪を揺らしながら歩く姿は、校内でも「可愛い」と評判だ。
(確か、沙菜の後は4人、この関所は突破したよね)
 考え込んでいると、後ろの席に沙菜が戻ってきた。
「ねえ、大丈夫なの?」
 どうやらさっきの質問らしい。
「え、その……アハハ、大丈夫大丈夫。だから……」
  ギュリュリュ!
「……」「……」
 二人の間に静寂が訪れる。が、それも
「卒業生による歌の合唱。卒業生、起立」
 と言う声で去っていった。

 事前に決めてある生徒によるピアノの演奏のため、生徒がピアノまで移動する。
  グルルルル……リュリュリョリョリョ……
(なんか、さっきよりもお腹が痛い……音外さないよね?)
 ピアノの前奏が入り、『旅立ちの日に』が演奏される。
「白い光の中に 山並みはもえて」「遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ」スッ
「限りなく青い 空に心震わせ」ヒック、スス「自由をかける鳥よ 振り返ることもせず」
 所々で涙をすする声やその涙で咽る声がする。こういうものは女子が泣くことが多く、この場合も例外ではない。もちろん美央もだ。
 不謹慎な一部の男子は、その姿を見て笑ってしまっている。
「この広い 大ーーー空に」
 長い曲が終わり、2曲目の『仰げば尊し』になる。ピアノの演奏者が変わる為に、この時にちょっとした時間が出来る。その時だけでも、結構な泣き声が聞こえる。
  グリュリュグググリュリュ……プピピ
(あっ!)
 気付いたときには、既に結構多量のガスが体の外に出ていた。
(沙菜……ごめんね)
 泣いてしまっている美央の頭の中では、そんなことを考えることが精一杯の罪滅ぼしだった。
『旅立ちの日に』の演奏をしていた生徒が自分の席に戻り、それを確認して『仰げば尊し』の演奏が始まる。
「仰げば尊し わが師の恩」スーーッ、スス、ズズ、「教えの庭にも 早幾年」
 曲の合間に鼻をすする音が聞こえる。大体の人は「卒業式」という式典であるが故だが、一人、違う理由で泣いている女児童が居た。
  グリュリュリュ……クリッ、ゴロロロリョリョ……
(も、もう本当に限界……祝辞か送辞の時が峠かも……)
「今こそ分かれ目 いざさらーば」
 合唱が終わり、ピアノを弾いていた生徒が自分の席に移動し、全員が揃ったところで卒業生が着席する。
(……ふぅ、何とかしのいだ)
「来賓祝辞、本日ご来賓なさった皆様より祝辞を頂きたいのですが、式典の進行上、代表の方のご挨拶のみとさせていただきます。PTA会長の小田原 健二様、壇上へどうぞ」
「えー。卒業生の皆さん、このたびはご卒業、誠におめでとうございます」
  グルルルル……クピュピュピュクピュ……
「ねえ、さっきから苦しそうだけど、大丈夫?」
 沙菜が親切に聞いてきた。
「ちょっと危ないかも……」
 さっきの赤い顔は何処へやら、今は青い顔をしている。しかし、まだ3月で暖房も付いていないと言うのに美央の顔には脂汗が流れている。
「あまり無理しない方がいいよ、先生に伝えてあげようか?」
「いや、いいよ、もうちょっとで終わるから、退場してすぐにトイレに行くよ」
 美央は力なく答えた。
「……最後に繰り返しになりますが、卒業生の皆様、本日は誠におめでとうございます」
「卒業生、在校生、礼」
 全校生徒の頭が下がった。皆結構下がっているが、美央だけはあまり頭が下がらない。体を「く」の字にしてしまうと、お腹の物が出てしまうからだ。
  グリュリュリュルルルルルルルル、ルルルルルル……ピチャ
(あ、あ、あ、ど、どうしよう、少し出ちゃった……)
 来賓祝辞のときには乾いていた涙が、今再び湿ってきた。が、ここで泣いてしまってはお漏らしがばれかねないと、パニックを起こしている頭で冷静に考え、堪えた。これ以上は時間の問題だ。
(予行の時は、送辞は10分ぐらいで終わったはず。今回も大丈夫)
 と考えたのは、先ほどの冷静な判断を出した頭と同じだったのであろうか。

「送辞、卒業生、在校生、起立」
 卒業生が、舞台の上に移動する。多分、後ろに控えている保護者の方々への配慮だろう。
 まず卒業生の思い出があり、在校生が卒業生に言葉を送り、卒業生が今後に向けて意を決する。
 美央は思い出の中でも1,2を争う長さの言葉と、決意の中で最も重要な言葉を言う事になっている。どちらも失敗は許されない。
「桜の咲く 3月」「新しく旅立とうと志す日」「光輝く 僕達の未来に向かって」「今日 私達は」「この学校を 卒業します」「卒業します」ます」「頭の中を駆け巡る」「小学校での楽しい思い出」……
  グルルルルルルルル……ピシャピシャ……
(どうしよう、どんどん出てきてる……我慢できない)
 足から伝った茶色の液体で、美央の足元には少しずつ、だが確実に水溜りが広がっていった。
「5年生」「始めて皆と泊まった」「林間学校」校」
(え、次私じゃん。こんな状況で私に来るなんて……)
「……ほかの学校と一緒に、ファイヤーの周りでや、やった、フォークダンス」「フォークダンス」
(何とか、一つ、大きな山は、越したけど、もう一つは、ちょっとキツイ……)
 自分の思考回路でさえ、上手く働かない。さっき一瞬間があったのは腹痛のせいだと感じた人は、美央を除いては後ろに立っている沙菜しかいないだろう。それに、美央本人は気付いていないかもしれないが、両脇の二人は、足元に広がる不純な水溜りを避けようと必死だ。既に美央から最初の位置より30cmは離れている。
  ガタンッ!
(だめ……も、もうむり……)
 周りが6年生の思い出を回想している中で、美央が足から崩れ落ちた。と、そのとき
  ブフヮ、プププブブブブブピシャシャシャシャシャブリュリュリュリュ!!!!
 大きな音を立てながら、美央は下痢を体外へ排泄し始めた。我慢できなかったのだ。
  ブリュルルルルル、ブシャーーーー!!
  ババババババ、ブリュリュリュ!!!
 後ろにいたはずの、親友の沙菜でさえ遠のいている。お尻に力を入れようと思っても、出る方にばかり力が入ってしまう。もう、制御はできない。
 前の方にいる下級生はともかく、後ろの方にいる下級生達にとっては、舞台の上で何が起こっているのかは分からなかった。だが、舞台の上から茶色い液体が滴り落ちてくると話は別だ。体育館内の喧騒が激しくなる一方、美央は一人、お尻から流れ出る音で、舞台上の空気全てをも巻き込む程に静かにさせる。
  ブリャリャリャリャリャ、ブシャシャシャーーー、ブピピピピブ、ブ……
 長い下痢お漏らしも終焉に向かい、会場全体が静寂に包まれかけていた。
 美央は、激しい腹痛からは開放されたが、人生で一度しかない卒業式を自分の手で汚してしまった。そんなことを感じて、
「……ウ、ウァーーーーーン、ヒック」
 自然と涙が出てくる。しかし、汚される前の卒業式は二度とやり直すことができないのだ。

 彼女らが卒業した日、校庭の桜は不自然なほどに茶色く散った。


- Back to Index -