No.06「情けない病」

進藤 さやか(しんどう さやか)
14歳 駒峰北中学校2年A組 / 身長:156.7cm 体重:48.8kg

生徒会役員を務める健やかな少女。耳をすっきりと出した、清潔感のあるショートカット。
部活は書道部。近所の空手道場に小学生の頃から通っており、現在初段。勉強や家事もよくできる。
他者への思いやりが強いまっすぐな性格だが、やや頑固でもあり、ストレスを溜め込んでしまうことも。


<1>

 彼女はまるで神話か英雄譚かのように、さやかたちにそれを語った。
 瞳をきらめかせながら教室の中を駆け巡るその姿を、今でもよく憶えている。

 それは、さやかが小学四年生のときのことだった。
 友達の名前は前田茜ちゃん。近所に公立の中学校がある。そこに通う彼女の姉が所属するバレーボール部が、県大会の決勝まで行ったらしい。このあたりはかなりの激戦区で、もしも優勝できれば歴史的な大事件だという話だった。ここまで辿り着いたのも、創部以来初の快挙らしい。
 家族で応援に行くので、みんなも来てほしいというのだ。週末に、自分たちの街からそう遠くない場所にある会場で試合が行われるのだという。さやかはすぐさま快諾し、その後も女子を中心に賛同者が相次いだ。


<2>

 決勝戦の会場は、さやかたちの最寄り駅から電車で五駅の所にある総合体育館だった。
 茜の両親に引率され、十人ほどで和気藹々と過ごす車内は、まるで遠足のように楽しかった。
 グループの中でさやかの一番仲が良いのは日上夏希ちゃんという子だったが、このときばかりは茜ともっとも多くを話した。茜の姉はレギュラー選手で、ひとり余所行きの衣服を着ている彼女の表情は、家族の一世一代の舞台を応援する熱意と期待に満ちていた。
 すぐに目的地の駅に着いた。
 空は青かったが梅雨の真っ只中で、早朝まで小雨だったせいか、ひどくじめじめとした午前だった。駅前から体育館へ続く道の街路樹が黒く湿っていたことを憶えている。それでいて気温もかなり高かった。背中まで伸ばしていた髪の内の首すじがむれ、明るくおしゃべりを続けながらも、それだけがさやかにとって不快だった。

 屋内に入れば少しはましになるかと期待していたが、むしろ空気は蒸していた。
 だが、それまでに経験したことのない、身の揺れるような喧騒がさやかに己の肉体を忘れさせた。
 小学校の体育館とは比べ物にならない、県規模の行事に用いられるという広大な空間。
 その二階にある観客席には、すでに何十人もの制服姿の中学生が男女をとわず集っていた。選手の家族や卒業生か、異なる年代の者も少なくない。会場が地元に近い幸運もあったのだろうが、想像以上の人気で、飲み込まれるような熱気に小さいさやかは圧倒された。
 垂れ幕を吊るしている者もおり、見ると、コートを挟んで向かい側にも同じような景色があった。娘の勇姿を永久に残すためか、ビデオカメラを手にしている大人の姿もある。幾人もいるそれらの中には、テレビ局じみた本格的なカメラを三脚に固定している者さえいた。
 コートの中央にはすでにネットが張られ、周りにはベンチとスタッフが用いるらしき机の類が置かれていた。体育館の奥三分の一を用い、こちらが味方、向こうが相手で試合をするらしい。入り口側でも同様の準備がなされて観客が満ちており、そちらでは男子の決勝戦が行われるとのことだった。

「茜ちゃんじゃん。お姉ちゃんの応援に来たんだ?」
 騒々しく混ざり合う声のなか着席すると、前の席の女子中学生が声をかけてきた。
「うん、パパとママも後ろにいるよー」
 茜が長いポニーテールを揺らしながらはにかんで答える。子供たちが一列に座れるよう、彼女の両親は後ろの席に移っていた。
「そっちの子たちは友達?」
「うん。同じクラスの」
 横に座るさやからを眺めながら中学生は続けた。目が合い、さやかは小さくおじぎをした。
「見て見て、アケミの妹。友達あつめて来たんだって」
「やるじゃん、いま何年生?」
 隣の生徒が会話に加わる。どちらも自分より幾回りも体が大きく世慣れた雰囲気で、さやかにとっては成年と変わらないほどに大人びて感じられた。

 しばらくの間、さやかたちは大いに歓待された。
 選手の家族らしき子供は他にもいたが、彼女らのようにまとまってはおらず、物珍しさからちやほやされた。中学生の多くは茜の姉と同じ三年生で、お菓子を分けてもらったり、色々なことを教えてくれる者もいた。
 相手の菊華学園は全国大会で優勝経験もある名門校で、県大会に負けたことはほぼないほどの強豪だという。しかし、こちらのバレー部も固い絆で結ばれたレギュラーが猛練習を重ねてきており、勝ち目は十分にあるとのことだった。若き熱血監督のもと、練習の量なら全国一といえるほどに青春を懸けてきたらしい。かなり注目度の高い一戦で、有名高校のスカウトも観戦に来ているそうである。
 試合のルールを教えてくれる者もいた。選手は六人。25点を取ると一セット奪取で、二セットを先に取った側の勝ち。ただし、試合が白熱して点数が24対24で並んだ場合は、25点獲得ではなく、二点差をつけないとセットを取れない。二点差がつくまでは終わらないため、両者の実力が均衡していると、26対24や27対25、あるいはそれ以上まで決着がもつれ込むこともあるのだという。

 ふいに観客席が静まりだすと、ほどなくして選手たちがいっせいに入場してきた。
 それと同時に爆発的な歓声。学校名を叫ぶ者、選手の名前を叫ぶ者、激励の言葉を叫ぶ者――。

「おねえちゃーーん! がんばってーー!!」
 茜が声を上げると、練習を始めた選手の一人がこちらを振り向き手を振った。
 短めの髪を後ろで結んだ、気合に満ちた表情の少女だ。姉のアケミさんに違いないだろう。まずは彼女を応援することにさやかは決めた。
 駒峰北中学校、通称北中というのがこちらの学校の名前である。
 さやかも三年後には進学することになるであろう場所だった。その選手たちは、白いユニフォームに真っ赤なショートパンツを穿いていた。菊華中は上下ともに黒を基調としたユニフォームで、鮮烈な対照をなしている。相手側の垂れ幕に見える「燃えろ闘魂」という文字は、こちらの色にこそふさわしく感じられた。

 活発に肉体を躍動させる選手たちは、やはり普通の中学生とは違っていた。
 長身が多く、その動きの鋭さや俊敏さは、ふだん周囲と同じセーラー服をまとっているとは思えない。
 競技の邪魔になるからだろうか、選手たちの頭髪は、年ごろの少女でありながら短く切りそろえられていた。下ろしても肩まで届かないであろうアケミさんで一番長いほどだった。そもそも結える長さの者が少ない。背の高さと相まり、遠目では男子の試合と見間違うほどであった。
 だが、大きい瞳と長いまつ毛、丸みをおびた輪郭、鋭角のない身体、なにより胸元のふくらみが、彼女たちがたしかに女性であることを示していた。
 実際には、高く響く発声がまったく異性の余地を掃っていた。ショートパンツからのぞく彼女たちのふとももはみっちりと太く、並ならぬトレーニングの量がうかがえた。

 五分ほどして練習が終わると、場の空気は急速に引き締まり始めた。
 無数に宙を舞っていたボールがまたたく間に片付けられ、それぞれのコートで選手が一列に並ぶ。
 いつしか席を埋めていた大会役員らに深々と礼をすると、ネット越しに相手のチームと握手を交わす。そして一箇所に集まり監督から激励が授けられると、円陣を組んで力強く声を張り上げる。六人だけがコートに入り、他の者は外に離れる。それぞれの持ち場を踏みしめると、選手たちは観客席まで溢れてくるほどに気迫をみなぎらせだした。
 いよいよ戦いの始まることが、初めて観るさやかにも朗然と感じられた。燃えるように赤いショートパンツを穿いて漆黒の名門校と対峙する六人の後姿は、教室で聞いた神話と相違なく、不屈たる英雄として見えた。
 相手校の一人がコートの後ろへと下がり、補助員からボールを受け取る。手触りを確かめるかのように胸元で幾度か回す。そのとき、笛が鳴った。同時に跳ね上がる歓声。勢いよく打ち出されたボールが弧を描いて自陣へと襲来し、すばやく落下点に回っていたアケミさんによって打ち上げられる。落ちゆくそれを仲間が鋭く跳ね上げたとたん、ボールは弾丸のようにして相手の陣地へと突き刺さっていた。
 爆ぜる歓声のなか笛が鳴る。そうして試合は始まった。


<3>

「やったーっ!! おねえちゃーーん!!」
 高らかに笛が鳴らされるなか、歓声の渦が轟きわたる。

 二十分ほどで第一セットは終了した。25対18で北中の勝利だった。
 北中は開幕の勢いに乗って一気に五点もの差をつけ、その後に菊華中からの猛追を受けたものの、終始試合をリードし続け、余裕を持ちながら25点目をもぎ取った。
 高らかに勝ち鬨を上げ、胸の前で両手を打ち重ねあう選手たち。喜びの歓声に鼓膜を揺らされながら、さやかは握りしめた手のひらが心地よく濡れているのを感じていた。茜の真似をして、すでに声援も幾度となく出していた。愚直な練習を何百回、何千回、あるいはそれ以上に繰り返してきたのだろう。選手らの動きはゆるぎなく正確で、そして何よりも力強かった。

 ベンチの前に集まり、真っ白な歯を嬉しそうにのぞかせながら輝く汗をぬぐう少女たち。
 激励する監督はまだ若く、教師ながら二十代のスポーツ選手のように見える。
 止まぬ喝采のなか立ち並ぶ戦士たちは夢のようにまぶしく、館内に充ちた青々しき高揚はこの上もなく貴い、人々の生涯における最も燦然たる一瞬であるかのごとく感じられた。

「この休憩ってどれぐらいあるの? トイレ行っとこうかな」
 さなか、同じ列の男子が野暮なことを言いだした。物語の世界のような視界の情景と対極ともいえる内容に、うっとりとしていたさやかはたまらずに閉口した。
「三分だから行くならはやくしたほうがいいよ」
「えっ!? そんなに短いのかよ? じゃあもう終わるまでトイレ無理じゃん!」
 茜の返事に男子が素っ頓狂な声を上げると、周囲にくすくすと笑いが起こる。さやかはただただ恥ずかしさを覚えて赤面した。

 休憩は思いのほか短く、三分どころか二分の間もなく終了した。
「これほんとに三分? 短くね?」
「三分と同時に試合再開だから、コートインするのはもっと早いの!」
 円陣を組んで活を入れ直した選手たちが、笛を合図にさきほどまでの相手コートへと入ってゆく。セットごとに位置を入れ替えるのがルールらしい。

 歩きながら、北中の選手の一人がへそのあたりに何気なく手を当てた。
 同時に小さくうつむき、数歩を経て姿勢を正す。それがふと目に入り、さやかは一瞬だけ意識を取られたが、選手の名前も知らず、再び引き締まる空気の中でほとんどすぐに忘れてしまった。


 第二セットは、強豪がその底力を見せつける展開となった。

 北中は前セットの勢いに乗り三点を先取したが、ミスで流れを失うと、一転して菊華側の攻勢となった。必死に立ち向かうもたちまち点差を逆転され、その後もじわじわと離されていった。そして――。

「あーー……っ」
 茜が嘆くように吐息を漏らす。
 相手選手の放った鋭いスパイクが自陣へと突き刺さり、同時に笛の音が響きわたる。20対25でセットを取られてしまった。

「やっぱり強いねー……」
「さすが全国常連……」
 落胆のため息があちこちから聞こえてくる。さやかも小さく息をついた。向こう側の観客席は大歓声で、先のセット後とは対照的な光景だった。

「まあ、これぐらいじゃないと盛り上がらないよな!」
「トータルでは互角以上だしいけるいける、がんばれよー!」
 もちろん、前向きな言葉を交わしている者も大勢いる。第三セットが始まれば、再び観客席は力強い声援に包まれることだろう。
 選手たちもすぐさま監督のもとに集まり、最後の決戦に向けた懸命な指導に耳を傾けていた。玉のような汗を力強くぬぐいながら監督を見据え続けるその姿からは、わずかな闘志のほころびも見受けられない。

「……ねえ、きよか、今日ちょっと調子悪くない?」
「え、そうかな? さっきのミス?」
「う〜ん……。なんだか、いつもより動きが重いっていうか……」
 さなか、前の席からささやき声が聞こえてきた。
 第二セットは味方がこちらを向いていたので、選手全員の顔をさやかはもう憶えていた。
 北中の主将を務めているのは、端正な顔立ちで飾り気のない、いかにもスポーツ一筋な見た目の選手だった。しかし大きく輝く瞳と、精悍でありながら丸みを帯びた頬は、疑いなく思春期の少女である。背はチームで中ほどだが、髪は一番短い。前髪こそかろうじて女子らしい長さだが、横と後ろはほとんど男子のように切りそろえられていた。留めも結びもせず、耳にいっさい毛がかかっていないのは彼女だけだった。
 その曲がりなき清潔感のせいだろうか、あるいは名前の響きが自分と似ていたからだろうか、いつしかさやかはアケミさんではなく彼女の姿を目で追うようになっていた。

 彼女は、確かに幾度かミスをしていた。
 開幕の三連続得点の流れが止まったのは彼女がサーブをネットに引っかけてしまったからであるし、25点目が入ったときも、彼女のブロックのタイミングが明らかに遅かった。
 だが、それ以上の不足はさやかには見て取れなかった。なにしろ初めて観る試合であり、めまぐるしく動き回る姿を追い続けるだけで精一杯だったのだ。
 彼女は足を肩幅に開き、両手を固く握りしめて監督の話を聞いていた。まっすぐな眉毛の下で澄みきった眼をはっきりと正面に据え、形の良い桜色の唇を凛々しく押し結んでいる。その横顔から感じ取れるのは、ただ鋼鉄のごとき勝利への意志であった。
 女性ながら屈強という表現さえ相応しい彼女は、しかしそれゆえに美しかった。近所の空手道場に通っているさやかは、彼女の所作に有段者と同種の錬磨を見いだした。みっちりと引き締まった彼女のふとももは流れやまぬ汗に洗われて彫像のようで、両膝の真白いサポーターは逞しき鎧であった。

 ふいに左右の選手から肩を叩かれると、彼女はコートへ足早に向かっていった。
 見ると、ネットの横に主審と副審が並んでおり、相手校の主将らしき選手もそこで腕組みをしていた。四人がそろうや、主審の男性が何かの説明を始める。
「あれは何をしているの?」
「コイントスだよ。三セット目までいったときは、どっちが最初にサーブするかとか、使うコートとかを決めなおすの。審判の人がコインを投げて、表か裏を当てたほうがえらべるの」
「へえ〜〜……ありがとう」
 さやかが尋ねてみると、茜は得意げに教えてくれた。
「あかねちゃんくわしいね〜」
「おねえちゃんの試合いっぱい見たから」
 前列の中学生にほめられ、茜がにっこりとはにかむ。
 その解説どおり、審判は小さく光る何かを取り出すと、両チームの代表へと厳かに示した。
 身長百八十センチメートルにも近い菊華の主将と対峙しながら、彼女の力強い後ろ姿は一歩も見劣りしてはいなかった。
 さきほどと異なり彼女の足は固く閉じられ、腿からふくらはぎへと磨きこまれた筋肉が強調されていた。その根元では、二つの張り詰めた丸みが内から布を押し上げるようにショートパンツに浮かんでいる。けわしく握りしめ続けられている両手からは、相手を見据え、圧しさえする気迫が感じられた。

「うう〜……どうしよ、トイレ行きたい……」
 さなか、数人を挟んだ先の夏希が切羽詰まった様子で声を出した。
 ボーイッシュな格好の女の子だが、春に短めだった髪が伸び続けてやや重くなっている。
「がまんできないなら行けばいいじゃん」
「そしたら始まっちゃうよー。どうせ今の休憩もすぐ終わるんでしょ? あんなに短いって知ってたらジュース飲まなかったのに……」
 冷静に言った隣の男子に、彼女は足踏みをしながら声をふるわせた。ただでさえ男子よりも時間がかかってしまうのだ。
「行ったほうがいいよ。始まってからがまんできなくなったら、もっと見れなくなっちゃうでしょ?」
「そっか。そうだよね。じゃあ、わたしちょっと行ってくるっ」
 さやかが腰を上げて諭すと、夏希は得心して席を立った。
「あ、じゃあわたしも行っとこっかな」
「わたしも。実はちょっとがまんしてたんだ」
 続けざまに二人の女子が立ち上がる。
「さやかちゃんたちは?」
「わたしはだいじょうぶ」
「わたしも」
 隣席の女子に問われると、さやかは笑顔で謝絶した。即答した茜については聞くまでもなかった。そうして三人は茜の母に付き添われてばたばたと観客席を出ていった。
 コートを見るともうコイントスは終わったようで、両主将がおじぎをし、それぞれの輪へと戻ってゆくところであった。戻った彼女が監督やチームメイトと二言三言会話を交わすと、もう円陣が組まれ始める。すべてが試合中と変わらないほどに迅速で、息をつく暇もない。

「がんばれ北中ー!!」
「負けるなーーっ!」
「がんばってーーっ!!」
 決戦に向けて気合を入れる選手たちに、それまでにない力のこもった声援が注がれる。
 抱き合うように互いの肩を絡ませあい、じっと身を寄せ固める少女たちの姿には、勝利への不動の決意と同時にどこか悲壮さも感じられた。
「ねえ! 校歌うたおうよ! 校歌!!」
 誰かが威勢よく叫んだ。それを聞いた中学生らは気恥ずかしげにざわめきあったが、すぐに賛同の声でまとまると、コートに向かって力強く歌い始めた。
 燃えさかる炎のごとき熱気の昂ぶりであった。次のセットで必ず決着がつく。ここに至って剥き出しになった仲間の勝利への願いが、数多に混ざり合い熱風となってうねっていた。青春を描いたような光景に、さやかは胸をのまれる心地がした。

 高らかに声を合わせて優勝を誓いあうと、選手たちはコートの内へと歩みだした。
 コイントスの結果、北中の位置は再びネットの向こう側であった。サーブ権を獲得したらしく、選手の一人が後ろに下がり、補助員からボールを送られる。
 サーブを打つのは、きよかさんだった。
 背をまっすぐに伸ばし、けわしいまでに真剣な表情で、ボールを両手で掴みしめる。
 たくましくも可憐な瞳でコートを見据え、淡い色の唇を真一文字に引き結んだその顔は、勇壮をきわめながらもどこか思いつめているようにも見えた。

 高窓から見える空は真夏のように晴れわたり、館内の温度はどんどんと上昇していた。
 観客席に充満したおびただしい熱量が、コートへと絶え間なく押し寄せている。
 さなか、笛の音が高らかに鳴り響いた。いなや美しい軌道を描いてボールが敵陣へと打ち込まれる。正確に受け止め、鋭いスパイクで返してくる菊華中。だが、北中はその上を行った。反撃を完璧に防御し、相手以上の速さで流れるように打ち返す。反応はされたが、間に合わなかった。北中の先制で、割れるような歓声と共に最後のセットは始まった。


<4>

 第三セットは、両校互角の激戦となった。

 不抜の実力で圧倒してくる菊華学園と、魂をふりしぼるような猛攻を続ける北中。
 両校が数点を得たところできよかさんはまたミスをしたが、仲間たちはわずかたりとも動揺せず、前のように流れを失いはしなかった。
 北中が三点をリードすると、菊華はタイムアウトを取って集まった。双方の監督が一セットに二回まで申請できる短い中断で、駆け足の采配ながら的確に動きを変えてくると、数点を経て北中もタイムを取って応変した。きよかさんが今度は二ゲーム続けざまにミスをしたが、それでもチームの勢いは止まらなかった。

 そうして、13対12で試合はコートチェンジへと至った。
 間際までさやかも知らなかったが、第三セットのみ、いずれかのチームが13点を取ったところでコートの入れ替えをするのだという。併せて短時間の休憩もあり、激戦を繰り広げてきた選手らはたくましくベンチへと駆けよって集合した。
 県大会の歴史に残る名試合といって良いのだろう。大声援はわずかも弱まることなく、コートを中心に熱気が渦を巻いていた。莫大な期待と希望を背に、流れやまぬ汗をぬぐい、力強く水分を補う戦士たち。闘志みなぎるその姿はこの世のいかなる存在よりもまぶしく、今この瞬間は、彼女たちが疑いなく世界の中心であるとさえに思われた。

 再開を促す笛が鳴り、身体を寄せあって最後の誓いを叫んだ選手たちがコートへと歩みだす。
 入れ替えの結果、北中はこちら側のコートへと帰ってきた。見つめるのは背中だが、声は遥かによく届く。

 さなか、さやかはふとその眼を大きくした。
 彼女が一途に追い続けている選手。きよかさんが、コートの前で立ち止まったのである。彼女はコートではなく外を、どうやら選手入場口の方を見つめているようであった。
 他の五人がコートに入ってもなお動かない。そうしながら、彼女は石のように握りしめた両手を左右の腰へとこすり付けていた。表情はよく見えない。動作はかすかなもので、周りは誰も気づいていない。
 菊華が全員コートにそろうと、彼女もすぐに中へ入り位置についた。彼女が立ち止まっていた時間は、ほんの十秒にも満たなかった。

「おねえちゃーーーーん!! がんばってーーっっ!!」
 耳に焼きつくほど繰り返されてきた歓声がコートへと送り込まれる。
 笛が響き、さやかが疑問を消化する間もないまま、無数の人々の想いをかけた譲れえぬ決戦が始まった。


 異変がにじみだしたのは、両校が15点を経たあたりからであった。
 全身全霊の気迫で躍動を続ける十二人の選手たち。その中で一人の動きが、少しずつ、しかし目に見えて悪くなりだしたのである。

「ねえ、きよかばててない?」
「うーん……確かにさっきから動き良くないよね……」
 双方が18点を数えるころには、そんな会話が前からも聞こえてくるようになった。
 きよかさんの、様子がおかしい。
 これまでにもミスこそ目立っていたが、プレイそのものは他の選手と変わりなかった。それが、今は一人だけ明らかにコートで見劣りするようになっていた。まるで体中におもりでも巻きつけられたかのように、ブロックは低く、レシーブは遅い。張り詰めたお尻を後ろに突き出して構える姿勢は誰よりもしっかりとしていながら、肝心の動作が伴わない。

「あれ、交代したほうが良くない?」
「えっ、知らないの? うちの控えは――」
「あっ……そっか……」
 頭で指す中学生の動きにつられ、さやかはコートの脇にある北中のベンチへと目をやった。
 そこでは、直立して試合の行方を見守っている監督と共に、マネージャーや控えらしきユニフォーム姿の少女たちが一生懸命に応援の声を上げていた。
 彼女らとコートの内で闘っている選手たちとは、一目で分かるほどの違いがあった。
 入部したての一年生ばかりなのだろうか、その背は低く、体は華奢であった。殊に、脚の筋肉には比べ物にならないほどの差があった。皮肉にも、ジャージを羽織っている二年生らしきマネージャーの方が、体格が良くて選手然としていた。
 いずれにせよ、控え選手というよりもマネージャーが並んでいると評したほうがふさわしい光景で、コートで繰り広げられている全国レベルの試合には、とてもではないが加われそうになかった。これでは、たとえ調子が悪くても、明らかな故障でもないかぎり選手の交代は自殺行為だ。
 今の三年生が入るまでは同好会のような状態だったと、最初に誰かが言っていた。凡庸な公立校である北中のバレーボール部は、様々な巡り合わせが奇跡的に共鳴した結果、ここまでの実力を獲得するに至ったのだろう。控え選手まで一級の風格があり、老獪な風采の監督に加えコーチまでそろっている菊華側のベンチとは、対照的な風景だった。

「あーーーー……っ」
 相手のスパイクが決まり、続けざまに点数を取られてしまった。
 きよかさんが懸命にブロックを試みていたが、タイミングが明らかに遅れ、高さも足りていなかった。
 これで18対20。大台へ先に登られてしまい、観客席のあちこちからため息が漏れる。

「きよか、いつもは一番スタミナあるのに、なんで今日にかぎって……」
 前列に耳を傾けつつ、さやかは唇を噛んで彼女の姿を見つめていた。
 菊華が16対14から一気に三連続で得点したとき、北中は喫緊の指揮のためにタイムアウトを使ってしまった。菊華が残り一回のタイムアウトを取らない限り、もう試合が終わるまで水さえ飲めない。
 位置につき、再び腰を沈めた姿勢を取ると、彼女は左右の手で汗まみれのふとももを数度さすった。
 数点前の合間に初めて見せた動作で、それは二回目であった。脚が痛みでもするのだろうか。

 まもなく、今度はまぶしい歓声が沸き起こった。北中が一点を取り返したのだ。
 打ち込まれたボールを後衛がきよかさんに向けて柔らかくレシーブし、彼女が最小の動作でしっかりとトスを上げると、それをアケミさんが絶妙なコントロールで相手陣の間隙へと叩き付けた。
 声のまとまりをなさない、歓喜と興奮の混ざりあった音が真横から聞こえてくる。
 一時間以上にわたり試合を見てきて、さやかには気づいたことがあった。個々の選手の能力は敵味方に大差はないが、チームのつながりは北中のほうが遥かに強い。六人でずっと支え合いながらやってきたのだろう。それは互いの力を実力以上に高め合い、今も不調の主将を周りの仲間が全員で支えている。なお点数を突き放されないのはそのためだ。

 そして、おそらくは根性も。
 再び北中がスパイクを決めると、観客席は揺れるように盛り上がった。
 ついに両校とも20点に達した。もう、どちらの学校も優勝旗に手が届きかかっている。

「おねえちゃんがんばれ!! がんばってーーっ!!」
「北中! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ!!」
 声援に鼓膜をゆさぶられながら、さやかは思った。とにかく自分ができることをやろう。観客が選手の心配をしても意味がない。今の自分にできることは、彼女たちに少しでも多くの力を送ることだけだ。
「北中ファイトーーっ!」
「がんばれーーーーっっ!!」
 何もかもが大きい中学生らに負けないように、さやかは体を前のめりにさせて精一杯に声を出した。これほどに力を込めて声を発するのは、生まれてから初めてのことだった。


<5>

 あれからどれほどの時間がたったのだろうか。
 館内の熱気は息もつけぬほどの最高潮に達していた。

 点数は、24対24。22対24まで追い詰められていた北中だったが、声援をそのまま力に変えたかのような執念のプレイで同点へと追いついていた。これで、25点ではなく26点を取るまで試合に決着は訪れない。

「がんばれ北中!! まけないでーーーーっ!!」
「おねぇちゃーー、ん!! がんばっってーーっ!」
 歓声は悲鳴のようになっていた。それが一瞬さえも途絶えることなく続いている。
 茜はもう喉を枯らしていたが、それでも必死に声を搾り出していた。首が痛むのか、叫ぶたびにその表情をゆがめている。
 真昼になって気温が高まり、観客席は息苦しいほどに蒸していた。座っているだけでも汗が止まらず、服が体にべったりと張り付いていた。長期戦のさなかにある選手たちにいたっては敵味方ともに汗だくで、肌という肌から大粒の雫をとどまることなく垂らしていた。

「やった!!」
 決着と勘違いでもしたのか、横に並ぶ男子の一人がそれまでにない大声を上げた。
 北中のスパイクが決まったのだ。これで25対24。あと一点取れば優勝である。
「よっしゃーー!!」
「あと一点! あと一点!!」
「北中!! 北中!! 北中!! 北中!!」
 これ以上は考えられないほどに盛り上がっていた観客席が、さらに爆発的に、油の流し込まれた炎のごとく燃え昂ぶる。

 まるで物語の主人公のように。
 これで勝負が決するかもしれない北中のサーブ。打つのは、主将のきよかであった。
 声援の豪雨の中、コートの後ろへと慎重な足取りで下がり、補助員からボールを受け取る。胸元へそれを抱く彼女の姿を、さやかは祈るように見つめていた。

 プレイ開始の笛が鳴る。
 立ちすくんでいた彼女は、一気にかまえると、教科書のようなフォームでボールをコートへと打ち出した。
 美しい軌跡を描き、敵地を目指して駆けてゆくボール。
 だが、わずかに威力が足りなかった。底がネットの頂に引っかかると、小さく揺れたのち、北中のコートへとそれは静かに落下した。

 たまらず観客席のあちこちから落胆の声が漏れる。
 これで25対25。優勝のためには27点を取ることが必要となった。
 情けないミスへの自責だろうか。両手のこぶしを震わせつつ握りしめ、腕を体に押し付けて腰をかがめながら自身の位置へ彼女は戻った。その様子を、監督が身をコートへと折り曲げ、不審げに覗き込んでいた。

 歓声はまたたく間に修復された。
 今度は菊華中のサーブである。鋭い目つきの選手から放たれたボールは、きよかの守備範囲のみを正確に狙っていた。しかし、球がネットを越えても彼女は動きだそうとしなかった。
 次の瞬間、アケミが雷光のごとく駆け出し、ボールがコートへ落ちる寸前に飛び込みながら打ち上げた。それを前衛が即座に拾い、完璧な呼吸でスパイクにつなげる。サーブが決まりかけたせいで油断していたのか、相手の選手はレシーブするも芯を外してボールをコートの外へと飛ばしてしまった。
 結果、26対25。再び北中に優勝のチャンスがやってきた。

 今度こそとばかりに大声援を張り上げる観客席。
 ローテーションの結果、サーブを打つのはアケミであった。
「おねえちゃん!!! 優勝、してーーーーっっ!!」
 両手で喉を掴みしめながら、茜が泣き叫ぶようにしてそれまでで最大の声量をコートへと響かせる。
 神経を研ぎすませるかのようにボールをバウンドさせていたアケミは、静かに動きを止めると、前を見つめたままゆっくりとうなずいた。

 笛が鳴るや、彼女は眼前の空気を押し裂くように身を前へと突き出しながら、全霊の力をひらめかせてサーブを放った。先のきよかとは比べ物にならない速さと精度で、敵陣の間隙めがけてボールが魂を宿したかのごとく打ち込まれる。
 しかし、菊華も名門校の意地を見せた。その球をほとんど完璧な動きで打ち上げると、流れるようにトスへとつなぎ、一転して殴りつけるようなスパイクにして返してきた。
 しかも、それはきよかしか届きえない位置を捉えていた。今度は反応した彼女だが、小刻みな足の運びで間に合わず、ボールはその指先をかすめてコートへ落ちた。
 ――26対26。北中はまたしてもチャンスを逃してしまった。これで優勝には28点が必要となる。

 すでに、第三セットが始まってから三十分以上がたっていた。
 肩で荒く息を重ねる選手たちの肉体は、雨に打たれたように濡れている。ここまで凄まじい戦いになることをいったい誰が予想できたことだろう。このまま30点をも超えて、永久に試合が続くのではないかとさえさやかは感じた。
 固唾をのみながらきよかを見つめる。
 彼女は空気椅子のような格好で尻を上下させながら、何度もふとももをこすっていた。指を肉へとめり込ませんばかりにして繰り返されるそれを、彼女はもう合間のたびにやっていた。汗だくなのは当然だが、彼女の量は異常だった。おびただしい大粒が四肢を埋め尽くし、全身が溶けているかのごとく垂れ止まない。新しい雫があとからあとから浮かんでくる。彼女の後姿は、まるで油でも浴びたかのように異様に照り、ぬめっていた。
 何かが変だとさやかは感じていた。単なる疲労とは違う気がする。だが、考えている暇などなかった。

 数え切れないほど続いてきた攻守交替。
 今度サーブを打つのは、菊華で最も背の高い選手だった。百八十センチを超えているとしか思えない長身で、手足の筋肉も並ではない。
 予期せぬ苦戦へのいらだちだろうか、北中をねめつけながら荒々しく球をバウンドさせていた彼女は、笛が鳴ると、一呼吸置いてから斧を振り下ろすようにしてサーブを放った。
 大砲のごとき威力で飛来したボールは、完全にきよかへと向かっていた。懸命に前へと踏み出して受け止めた彼女だったが、激しい球に腕をはじかれ、コートの端へと飛ばしてしまった。外に出るまぎわでアケミが駆け込みむりやりトスを上げたが、スパイクは崩れ、あっさりとブロックをされてしまった。

 ついに26対27となり、ここにきて北中は追い詰められるに至った。
 反対側の観客席は爆発的な大歓声に包まれ、こちら側は祈るような叫び声で満たされる。
 さなか、きよかがふいにその場へとしゃがみ込んだ。
 体を小さく丸め込み、一秒たっても二秒たっても動かない。今のレシーブで腕でも痛めたのだろうかとさやかは思った。監督がコートへと歩きだす。しかし、いなや立ち上がると何事もなかったかのように姿勢を戻した。股を大きく広げて腰を沈め、膝をつかみながらお尻を大きく後ろへと突き出す。健在をアピールするかのようなその姿に、監督も立ち止まった。

 攻撃側が得点したので、再び同じ者がサーブを打つ。
 後方へと下がった相手選手にボールが送られ、さきほどと同じようにバウンドが始められる。
 極まる声援の中、さやかは再びきよかへと目をやった。今までと変わりなく、教科書のような姿勢でこれから訪れる攻撃に向けてかまえている。
 笛が鳴った。

 そのときだった。
 突然、彼女の尻から茶色い流動物が一直線にほとばしって床を打った。
 ショートパンツの片裾から間欠泉のごとく噴き出したそれは、ほぼ液状だが、わずかに形のある泥のようなものだった。劇的な勢いで打ち付けられた物質はコートの上へ派手に飛び散り、彼女の白い靴下やシューズに無数の飛沫がはね返った。
 ぶううううううーーと体育館中に鳴り響かんほどの異様な轟音。
 彼女の手が膝から跳ね上がって尻の底に押し合わされる。間髪いれず、その両裾から大量の濁流が布のはち切れんばかりに溢れ出した。滝のように股からこぼれ落ちる泥と共に、汗にまみれた脚をまたたく間に茶色が舐めつくしてゆく。
「やだ……あのこ、ウンチ……」
 誰かがふるえる声でささやいた。ショートパンツの中から膨大の茶色が絶えることなく氾濫し、ふとももからサポーターを覆い、靴下に靴をも飲み込んでいった。さなかにある彼女の脚は、遠目からでも分かるほどに激しくがくついていた。両手の指がえぐるように出元を押さえ続けている。くぐもった下劣な音が鳴り連なり、泥で泥を洗うかのごとくとめどなくそれらは溢れ、彼女の足元を埋め尽くしていった。彼女の尻から下の何もかもがおぞましい茶色に飲み込まれていった。

 笛の音が悲鳴のように響きわたる。

 それはまばたきをするような一瞬でも、一つのセットに等しいような永遠でもあった。
 菊華の選手が、ボールを手にしたまま目を見開いて止まっている。あれほど漲っていた歓声が、周りの呼吸さえ聞こえるほどに凪いでいる。
 館内の全ての瞳は、ただ一点のみに集っていた。
 コートの上に突如として出現した、おびただしい泥の海。
 その中心には、中腰のまま立ちつくしている彼女の姿があった。まるで腰まで泥に浸かったかのように、その下半身はすべてが煮え崩れた茶色にまみれていた。泥はにぶく照り輝き、なだらかな形状が彼女の逞しかった脚に生々しく浮かんでいた。尻の形に変色した赤いショートパンツの底からは、なおぼたぼたとぬかるんだ中身がこぼれている。真っ白だった彼女のシューズは茶色い塊に変わり、足元の巨大な沼に埋もれていた。

 彼女の体に起こっていたこと、結果、彼女がしてしまったことを、さやかはもう理解していた。
 すべてが茶色く染まった光景の中心で、自らが排泄したものの海の中に、彼女は糸のちぎれたようにしゃがみくずれた。

「やだあーー!!」
「なにちょっとあれ、うっそ……」
「かわいそうに、お腹こわしてたんだ……」
「えええーー……信じらんない……」
 それと同時に、観客席は一挙にざわめきだした。コートでは、選手たちと監督が彼女のもとにあわただしく駆けよる姿が見えた。
「下痢だったのか……」
「きよか、下痢しちゃってたんだ……」
「なんだか具合悪そうだと思ってたけど……うええ……」
 下痢。それが彼女の不調の正体だった。苦しみに満ちた腹をかばい、猛烈な便意を堪えながら、彼女は今まで競技を続けていたのだ。輝かしい大会の場に以上なくそぐわぬ情けない病を、彼女は限界を迎える瞬間まで必死に隠し続けていたのだった。
「ずっとトイレ我慢してたんだね……かわいそう」
「試合中にゲリ漏らすとか、マジかよ……」
「お腹痛いならインターバルにトイレ行けば良かったのに……」
 下痢。げり、ゲリ、下痢。お腹を壊した、腹を下した、ゲリピー。下痢、下痢、下痢、下痢、下痢。
 その想念が館内の脳裏を一にしていた。態度や口に出る言葉こそ万別だが、認識はまったく共通していた。
 思わず左右へ目をやると、茜はまだ事態を受け入れられないのかぼんやりと唇を開けていた。反対では、女子らが痛ましげに顔をしかめ、ひそひそと口元を寄せている。男子の一人が身を前へ押し出し、目を剥いてコートの中を凝視していた。その姿に、さやかはえもいわれぬ嫌悪を覚えた。

「撮影してる人、止めてください! 男子は見るな!」
 己の肛門から溢れさせた下痢便の海の中で、うつむき、体を丸め込んで震えている少女の姿。
 最前列で中学生の女子が立ち上がると、切羽詰まった身振りで声を張った。
「顔伏せろっっ!!」
 反応の鈍い男子生徒を見渡すと、彼女は鬼気迫る形相で声を揺らしてそう叫んだ。
 一気に頭が下がってゆく。熱心に試合を撮っていた大人たちも、重い顔でカメラを下ろしていた。口元を覆いながら、もう片方の手で男の子の目を包んでいる母親もいる。相手側の観客席は女子生徒が主だったが、やはり男子の視線を遮ろうと試みている姿が見えた。

「ずっとウンチしたかったんだろうね……」
「うん。ものすごく我慢してたんだと思う……」
 隣の女子からささやかれ、さやかも小声で返事をした。
 いまだ非現実的な眼下の光景。彼女の肛門から吐き出された大量の下痢便は、まるで肥溜めであった。
 あんなものがお腹の中にあって、地獄の苦しみだったに違いない。相手との戦い以上に、己の腹との戦いだったことだろう。どれほどに狂おしい便意に悶えていたのか想像もつかない。それを尋常ならざる闘志で抑え込んでいた彼女は、まさに戦士だった。最後はもう我慢で精一杯だったが、それでも彼女は戦いをやめなかった。
 しゃがみ込んだあのとき、もう彼女のお尻は極限の状態だったのだろう。トイレに行きたくて行きたくてしょうがなかったんだろうな。そうさやかは思った。排便でしか解消されない無限の地獄。もう、意識の全てが便意だったことだろう。
 そして、ついに彼女は肛門の制御を喪失した。コートを、トイレにしてしまった。

 もしも自分が同じような状況になったとき、トイレに駆け込むことができるだろうか。
 さやかは考えた。彼女が限界を迎えるまでトイレに行けなかったのには理由がある。重大な責務とおびただしい期待を背にしながら、己の最も情けない欲求のために、全てをかなぐり捨てることなどできるのだろうか。
 向き合っていた女子の顔が急激にゆがみだしたのは、そのときのことだった。
 小さくうめきつつ鼻を押しつまむ彼女を目にしながら、さやかもたまらず同じ表情を形作る。観客席に強烈な異臭が漂いだしたのだ。腐った卵を思わせるひどい臭いが、暴力的に吸気へと充満してゆく。

「うっっ」
「うえっ……」
「ぐ……っ」
「……くっさ……」
 たちまち観客席は茶色い瘴気に飲み込まれた。
 ものすごい悪臭に、誰もが顔をしかめ、鼻をつまんだり口元を覆ったりの動きを見せる。
 鼻の曲がるようなそれが何の臭いかは考えるまでもなかった。鼻腔を晒したままで耐えながら、さやかは大量の排泄物を見つめた。そのために囲われた空間で、そのための器へと出されなければならないもの。
 食卓に並んだときは美しく鮮やかで、それを口にする彼女も健康で英気にみなぎっていたことだろう。その量からして、今日の為にたくさんの栄養を摂ろうとしたのだろう。母親が心を込めて作ってくれた料理だったのかもしれない。
 しかしそれは、彼女を苦しめるものに変わってしまった。そして今、全てを破壊したおぞましい災厄として、めまいのするような臭いを体育館中に広げていた。
 彼女のショートパンツの底、肛門がある場所には、下痢便にまみれた両手が深々とめり込んだままだった。

 すぐに、向かいの観客席でも次々と鼻を覆う姿が見られ始めた。
 息をするのも苦労する状態が一時さえ和らぐことなく続き、席を外す者も目立ちだした。
 中には、青ざめた顔で両手を口元に押し付けている女子もいた。ついさっきまでたった一人の腹の中に納まっていたものが、いまや百を超える人間の嗅覚を害していた。肌がべたつくほどの湿気と相まり、臭気が髪や体にまとわりつくようで、とてつもなく不快だった。
 コートでは、選手たちが彼女とその便を隠すようにタオルを広げだしていた。膝を折り、懸命に声をかけ続けている者もいる。そうした姿は、競技中とはうってかわって女性らしいものだった。
 居心地の悪そうに肩を撫でさせている菊華の選手も同じだった。下痢に苦しんでいた彼女を集中攻撃したことへの罪悪感だろうか。コートの外では、両校の監督と審判らが何か重々しく話し込んでいた。
 これだけ離れていても、むせ返るような臭いである。あの場にいる人々はさらに残酷な臭気を味わっているのだろうと思うと、さやかは胸が悶える思いがした。暖色の目立つ女性的なタオルの隙間からのぞく、全てを生んだ者の背中は波打ちだしていた。

 とうとう見ていられなくなり、さやかは所在なく茜の様子に目をやった。
 彼女は眉間に深く皺を寄せながら鼻をつまみ、これでもかというほどにその顔面をしかめていた。
 その形相はただの生理的不快ではなかった。大好きな姉の花舞台を台無しにされたことへの、やるせない憤りの念が見て取れた。彼女の小さな体に、圧倒されるほどの嫌悪と軽蔑が充満していた。

 うつむいて目をつぶると、ある光景が浮かんできた。
 第三セットなかばの小休憩。ミーティングの後、すぐさまコートに入らなかった彼女は、トイレに行くことを全霊で悩んでいたに違いなかった。監督に己の情けない病を告白し、最低でも数分間にわたってチームを著しく弱体化せしめることを。選手入場口を見つめていた彼女の意識はその先の女子トイレに、その個室の中の大便器にあったに違いなかった。
 彼女が立ちつくしていたコートの脇、そこが運命の岐路だった。
 もしもあのときに決断することができていれば。彼女はその行為が許される空間で、その為に備え付けられた白い陶器へとしゃがみ込み、便意に満ちた尻をむき出して。そして。あの猛烈に臭い大量の下痢便を、力の限りにぶちまけることができていたのかもしれない。
 結果、一時の恥とささやかな同情、あるいは多少の軽蔑で済んだことだろう。

 しかし、彼女は戦いを選んだ。
 彼女は誇り高き主将だった。
 そして、その誇りのすべてを排泄してしまった。


 やがて、観客席にざわめきが起こった。

 人の輪がほどけ、中央の人物がよろめきながら立ち上がる。
 その腰から下は、色や形の異なるタオルが幾重にも巻かれていた。しかし、靴下から足元は、下痢にまみれた憐れな姿を変わることなく晒している。二人の選手に左右を付き添われ、数人の一年生に続かれながら、彼女は内股で腰を低めてゆっくりと歩きだした。

 ふいに彼女の顔がはっきり見えた。
 それまで、最悪の惨事を目の当たりにしながらも、さやかの脳裏にある彼女の顔は、あの凛々しく引き締められたものだった。清潔さとたくましさを兼ね備えた、美しくてゆるぎのない顔だった。
 歪みきった号哭の形相がそこにあった。
 まるで乳児のように顔を真っ赤にふくらませ、皺だらけにして彼女は泣いていた。眉を無残なまでにかたむかせて、絶望に満ちた瞳からおびただしい涙を途切れることなく流していた。広がった鼻の穴からも汁がこぼれ、無様に空いた上唇を濡らしていた。肩を絶えず震わせ、激しくしゃくりあげ続けていた。
 手が排泄物にまみれている彼女は、醜い顔を隠すこともできなかったのだ。
 尊厳。その概念を、さやかはまだ知らなかった。だがこのとき、彼女はたしかにそれを見た。
 彼女の顔が見えたのは、ごく数秒ほどの間だった。しかし、さやかは、生涯消えぬほどに深く胸の底がえぐられたような心持ちがした。

 しばらくの間、息もできなかった。
 他の観客も少なからず見てしまったのだろう。凍てついたように周囲から言葉がなくなった。

 そこにはまず羞恥があった。
 下痢をしてしまったこと。恥ずべき欲求を我慢できずに漏らしてしまったこと。
 己の不浄の穴から産み出された、世界で自分以外見るはずがないものを数百の瞳に見られたこと。嗅いではならない臭いを数百の鼻腔に嗅がれたこと。聞いてはならない音を数百の耳介に聴かれたこと。その、少なくない割合が男性であること。
 思春期の少女にとって、それは死に勝る恥であるに違いなかった。

 だが、その心髄は自責であった。
 決戦の日になさけなく体調を崩したこと。最低の欲求を堪えきれず、何もかもを台無しにしたこと。
 大便の排泄。人のなしうる最も醜く汚らわしいその行為を、彼女は許されざる場所で、絶対に許されないときにしてしまった。仲間たちの努力に、監督の熱意に、バレーボール部の輝かしかった青春に、数多の応援してくれた人たちの想いに、今ここにいるすべての人たちの記憶に、彼女は肛門を向けて悪臭に満ちた永久に洗えない茶色をぶちまけてしまった。

 そして、下痢便だけが残された。
 清らかに輝く木目のコートの上で、その撒き散らされた物質は幾度見ても異様だった。
 天井の照明を浴びてなまなましく照り続けているそれを、残された三人が悲しげに見つめていた。


<6>

 三十分後に試合は再開されることとなった。
 畏まった声でその旨を伝える女性のアナウンスが館内に流され、十分ほどで大量の清掃用具を抱えたスタッフが到着した。
 その間、彼女の下痢便はそこに晒され続けていた。

 体育館の女性職員二人に運営陣からも若い女性が加わり、片付けを始めた。
 ピンク色のゴム手袋をつけ、下痢便の山をちりとりで慎重にすくってバケツの中へと落としてゆく。
 とまどいと不慣れが目に見えるその様子は、事態の異常さを改めて見る者に感じさせた。神聖なコートの上で腹を下した選手が脱糞に至るなど、この建物ができてからおそらくは初めてのできごとだろう。
 深さと引き換えに汚物が元よりも塗り広げられると、今度はトイレットペーパーの山を開封して拭き取りを始めた。手袋ごしとはいえ、他人の肛門から出た排泄物に万一も触れたくはないのだろう。ペーパーを何重にも巻き重ねて使うため、次々とその芯が放られた。
 無惨をきわめた作業を目の当たりにしながら、その蒸し暑さにもかかわらず、びっしょりと濡れた自分の身体がおそろしく冷えていることにさやかは気づいた。
 ペーパーの山がなくなり、バケツから紙が溢れるほどになると、何かの薬品がまかれ、布巾、続けてモップで徹底的に水拭きが行われた。その光景はまるで、起こってはならなかった事件の、存在そのものを否定するような営みにも思われた。

 清掃のさなか、ベンチに戻っていた両校の選手の一人が立ち上がった。
 菊華中の、最後にサーブを打った背の高い選手だった。男子並の短髪をした彼女は、眉を深くかたむけ、その顔を真っ青にしていた。下級生らしき部員に付き添われ、彼女は左手を胸元に這わせながら、足早に入場口へと向かっていった。


 予定通りの時刻に、試合は再開された。
 何事もなかったかのように美しい青春の輝きを取り戻したバレーボールコート。
 しかし、北中のコートに主将の姿はなかった。
 競技不能に陥った彼女の替わりに位置についたのは、目に見えて体の小さな一年生であった。
 頭一つ背が低く、手足も並の女子と大差なく華奢である。何より、そのおどおどとした物腰が、彼女が場違いであることを物語っていた。
 それでも、すらりとした体型や短い頭髪は控えの中でもっとも選手らしく、無名の公立校がここまで辿り着いたことがいかに奇跡的であったか、皮肉にも彼女の姿が物語っていた。

 一方で、菊華中も選手がひとり交代していた。
 さきほどとは異なる顔が、サーブを打つべく後退してゆく。
 長身を誇っていたあの女子は、ひどくやつれた顔で戻ってきて、そのままベンチでうなだれていた。
 ボールを手にした選手は、周りのレギュラーにわずかたりとも見劣りのしない、強靭な体躯を有していた。

 北中の背中からは、もう闘志が抜けていた。
 あの瞬間と変わることのない戦況でありながら、観客席は不気味なほどに静かだった。

 笛が鳴り、力強くサーブが放たれる。
 ボールは、案の定一年生を狙っていた。
 かろうじてそれに触れられた彼女だったが、威力に後ずさってしりもちをつき、ボールは審判の頭を越えて遠くへと飛んでいった。

 大きく長く笛が鳴った。

 選手たちはすぐさま一列に並んで審判らに礼をすると、ネット越しに相手のチームと握手を交わした。
 県大会優勝という喜ばしい瞬間でありながら、菊華中の選手たちは誰一人としてほほえまず、けわしく唇を押し合わせたり、せつなげに目を伏せたりしながら握手をしていた。

 さなか、茜が金切り声を上げて泣きだした。
 さやかも泣きだしそうになりながらなぐさめたが、まるで収まる気配はない。すぐに母が傍へ寄ったが、彼女はなお幼児のごとくうめき続けた。目を赤く腫らしたアケミさんが駆けつけるとようやく落ち着き、茜は力尽きたように嗚咽しながらどこかへと連れてゆかれた。

 途中、いちおうの拍手があり、選手たちは観客席の前で一列になって会釈をしていた。
 半分は号泣し、残りは寸前で感情の決壊を食い止めて震えていた。張り裂けるほどに無念そうだった。
 県大会準優勝。無名の公立中学校にとって、かつて経験したことのない誇るべき成果だったが、場に祝福の気配はおよそなかった。まるで通夜のように、大人や男子は無言でうつむき、女子の一部はさめざめと泣き、肩を寄せ合いながら出入口へと消えていった。


 その後のことは憶えていない。
 気がつくと、さやかは家の前にいた。

 母はその顔を見ると、形だけ結果を聞いて、それ以上は何もしゃべらなかった。
 自分のにおいがするベッドに身を投げると、さやかはもう動けなかった。
 やがて、初めて識ったときのあの人の凛々しい顔が浮かんできた。次の瞬間、それは最後に見たぐちゃぐちゃの顔に変わった。脳裏を茶色が埋め尽くし、その中で顔が止むことなく変貌を繰り返した。

 やがて大雨が降りだし、昼までの暑さが嘘のように気温が下がった。
 それが障ったのだろうか、夕暮れからさやかは高熱を出し、ひどい下痢を起こした。
 体育館で体を濡らしきった上でさらに大量の脂汗にまみれながら、彼女は水分という水分を尻から体外へ流し続けた。

 以後、茜とは疎遠になった。
 明らかに避けられているようだった。夏希に聞いても同じだった。
 そうして学年の終わりに、彼女は遠くへと転校してしまった。それ自体は、姉の中学校卒業に合わせる形で、以前から決まっていたらしい。

 あの人はどうなったのだろうか。
 彼女は仲間から赦されたのだろうか。自分を赦すことはできたのだろうか。
 元の生活には戻れたのだろうか。学校には通えているのだろうか。顔を上げることはできているのだろうか。同級生と話すことはできているのだろうか。あの凛々しさを取り戻せたのだろうか。
 ――あってはならない贖罪を、選んでしまったりはしていないだろうか。
 幾度、茜に聞こうと思ったかわからない。しかし、とてもではないがあの悪夢を思い出させる話などできそうになかった。さやか自身にも、知ってしまうことへの恐怖があった。

 それを茜から聞き出す機会は永久に失われた。
 北中に兄姉がいる他の誰かに尋ねることも憚られた。

 とあるスポーツの大会中に起きた痛ましい事故。
 触れてはならず、忘れなくてはならない禁断の悲劇。
 やがて、さやかもあの日の記憶を胸の底に封印することにした。


 下痢。

 情けない病に冒された美しき戦士。
 彼女は一歩も退かず、最後の瞬間まで戦い続けた。

 そして敗れた。



 数年前に完成していたものの、人道的な観点から秘していた作品です。
 管理者世代交代五周年を機に、作中の季節に合わせて公開することとしました。

 感想の類は求めません。良くも悪くも極めたと思いますので、解る方だけ解ってくだされば結構です。
 可哀想な結末となってしまいましたので、時間がかかるかもしれませんが、四年後が舞台の本編で救いを描きたいと思います。

 なお、作品の時期や地域は明示されていないため、競技やその周縁の描写にもしも違和感を抱かれた場合は、本作の舞台においてはこのようにして運営がなされているのだとお考えください。また、実際には行われているものの、描写が省略されている要素もあります。
 人物の掘り下げや読者が抱きうる疑問点の消化は、本編にて行いたいところです。

 今回はフォントを加工する必要がありませんでしたが、本編では再び行う予定です。
 次回作は、本編の前に少し読みやすい作品を挟みたいとも考えていますが、時期を含め未定です。
 AJさんによる「Lolisca Library」を、今後ともよろしくお願いします。


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