No.08「お腹を壊して」

大須賀 史織(おおすか しおり)
11歳 公立小学校5年1組 身長:145.8cm 体重:35.6kg

肩下でそろえられた黒髪がしとやかな、絵に描いたようにまじめな顔立ちをした女の子。
深く澄んだ力強い瞳で、見た目通りに品行方正。優しく穏やかな性格で、妹の面倒をよく見ている。
清潔好きで何事にも几帳面であり、読書感想文や自由研究、写生大会の作品が表彰を受けたこともある。


<1>

 おだやかな風に揺られ、散りそびれた桜の花びらが青空を舞っている。
 それは四月なかばの、暖かくも清冽な空気が肌を濯ぐ午前十時すぎのことであった。

 とある小学校の、五年一組の教室。
 三階にあって窓から校庭がよく見渡せるその教室では、児童が席を埋めて国語の授業を受けていた。
 やや神経質げに眼鏡をかけた中年の女性教師が教壇に立ち、高学年へ進んだばかりの子供たちが緊張感を見せながら机へと向かっている。季節の匂いともども新年度の気風に充ちた、折り目正しき小学校の風景だった。

 その中にひとり、様子のおかしい女子児童の姿があった。
 肩下でそろえられたての黒髪がしとやかな、絵に描いたようにまじめな顔立ちをした少女である。
 賢げに整った、中学年のあどけなさを残しつつも大人びだした相貌で、白い羊毛の衣服に紺のカーディガンを行儀良く羽織っている。教室の誰よりも清潔に見える彼女はしかし、真っ青な顔で眉を深くかたむけ、大粒の汗を垂らしながらその細い体をふるわせていた。

「く……ぅ……」
  ギュルル……ッ……キュゥゥゥゥゥゥ〜〜……
 彼女の机の下では、小さな左手がしきりにその下腹をさすっていた。
 人目を気にするようにゆっくりと、しかし切実で止むことのないそれは、何かを必死に和らげんとしているのが明らかだった。彼女の背中も、同じものをかばうかのごとく前傾していた。

「……っ……ぅぅっ」
  グウゥゥウウウウゥ〜〜〜〜ッッ……!
 彼女の腹部からは、くぐもった奇妙な音が繰り返し鳴っていた。
 椅子の下では、細くすべらかな膝がこすり合わされ、左右の踵が床を小刻みに踏んでいる。
 全身をこわばらせながら、彼女は祈るように黒板の横の時計ばかりを見つめていた。まるで、ある時刻にさえなればこの異変からあらいざらい解放されるかのように。

 ……もはや、以上なく憚られるその事実を否定することはできなかった。
 彼女は、激しい腹の痛みに冒され、それがもたらす猛烈な欲求の昂ぶりを堪えているのに違いなかった。
 おなかがいたい……ウンチがしたい……トイレに行きたい……。
 過酷な腹痛と狂おしい便意が、いたいけな少女の思考を埋め尽くしていた。その清らかな容姿とは、あまりにも似つかわしくない体調不良……下痢を、彼女はしてしまっていた。

 下痢による執拗な便意を解消する唯一の手段は原因を排泄すること、トイレに行くことしかない。
 しかし、生真面目げな彼女には、それがこの世の何よりも困難な問題であるようだった。
 静粛な教室。担任になりたてらしき厳格な先生。恥ずべき不調とその欲求。
 彼女のふるえる右手は鉛筆を握っていたが、ノートに連なる美しく整った文字は途中からひどくゆがみだし、暗号じみた書き殴りを経て、いまや真っ白に途絶えていた。
 同じ色をした陶器へと尻を向け、肛門をむき出すこと――トイレのことしか、もう考えることができなくなりながら、脳を茶色で塗りつぶすような我慢を彼女は続けているのであった。

  ゴロゴロゴウギュウウウウウウウウグピ〜〜〜〜ッ!
 ひときわ大きく鳴った腹を見つめながら熱い吐息を漏らすと、ついに彼女は先生の顔を直視した。
 四十五分間の授業のちょうど半分を指している時計と、硬い音を響かせて板書をしている先生の横顔を交互に睨む。書き終え、精密な手つきで印刷物のごとくまっすぐな赤線を添える先生の姿を、えぐるように凝視する。鉛筆を放り、ノートの上であいまいに指を開いてふるわせる。

「はい、今お話ししたのはつまりこういうことです。では次。十五ページ一段落目から田中君」
 しかし、何もできずにいるままに先生が早口を連ねて教科書に目を落とすと、指名された男子が緊張感のある返事と共に立ち上がり、大きな声で朗読を始めてしまった。

 彼女は再びうつむき、意識に入る余地のない教科書を力なく引き寄せた。
 左手で洋服ごと腹の肉をつかみながら、彼女は泣きそうな顔でいっそう重く息を吐いた。


  プリッ……! ピ……ッ……!

 絶えずふるえ続けるデニム生地のスカートから、湿り気に満ちた音色がこぼれ出す。
 休み時間まで、十分を切った。必死に下痢を堪え続けている彼女だったが、その表情はすでに限界の色を呈し始めていた。

「く……、うっ……ぅ……っ」
  グウッ!! ギュルルルルルルルルルル!
 彼女は眉根を寄せきって目を押し細めながら、汗だくになって歯を噛みしめていた。
 その身体はいっそう丸まり、机に近づいた蒼白の顔面からは、大粒の雫が次々と滴っている。
 えぐるように腹をなぐさめ続ける左手。べったりと照るほどに汗ばんだ両脚は肌の削げんばかりにねじり合わされ、右のつま先が床を、左のつま先が右足の甲を、上履きの赤いゴムがけずれるまでに擦っていた。

「んふ……っ……!」
  プゥゥッ……ッ!
 彼女はもう、小規模なガスの排泄……放屁を、止められなくなっていた。
 まるで、もう我慢できないと尻が悲鳴を上げているようだった。
 腹を激痛で満たしながら狂おしく蠕動を繰り返している大腸。その底にある小さな出口へ、どれほどの大波が押し寄せ続けているのか分からない。哀切に悶えながら椅子に押し付けられている彼女の尻は、その二層の布の奥で苦しみに喘いでいるすぼまりの蠢きが見えるかのようであった。

 すでに周囲の者も彼女の異常事態に気づいていた。
 横に座るまじめそうな男子はしきりに唾を飲みながらちらちらと彼女を覗き、後ろの女子は怯みと憐憫の入り混じった眼で便意の充満した尻を見つめている。
 それでも、彼女の席は窓際の後方にあり、いまだ学級のほとんどは一心に授業へと向かっていた。
 同じクラスの女の子が、お腹を壊してしまったこと。今、自身がいる平穏な教室の一角で、大噴火の瀬戸際にある肛門の死闘が続いていることを、多くの児童は可能性でさえ想像することができなかった。
 先生の厳しい指導によるものか、懸命に声を張って教科書を朗読する女子の声が、引き締まった教室の空気を今も高らかに弾いていた。

 休み時間まで、残り九分……八分……七分……六分――。

 ひくつきやまぬ肛門から灼熱の屁を溢れさせながら、彼女は薄氷の瞬間を重ね続けた。
 とめどなく脂汗を垂れ流し、ついに右手を尻の底へと挿し込み、かきむしるように左手で腹をさすりながら、彼女は数えきれないほどの回数時計を見つめた。
 しかし、その懇願するような瞳に映る針は、無慈悲なまでに遅かった。
 今の彼女には、一分が一時間にもまさる長さであるに違いなかった。一時間に一分さえ進まない時計は、彼女にとって無限に続く螺旋だった。便器の上で肛門を出す。ただそれだけで全てから解放されるのに、どうしてもその楽園へと向かえない。

  ググウーーギュルギュルギュルグウウウウ〜〜ッ!!
「うーーっっ」
 残り五分半ばを見るや、彼女は剣呑にうめくと全身の筋肉を激しく痙攣させ始めた。
 むき出した歯を軋み合わせながら、むごたらしいほどに形相をねじらせる。脂汗の滝が顔面を覆い、眼が醜く圧しつぶされる。内臓をつかみ出さんばかりに腹をえぐる左手。スカートに右手がめり込み、下痢便の充填されつくした尻の形が浮き上がる。
 もはや、腸と肛門が彼女の全てだった。我慢、限界、便器。自らの大腸による自らの肛門への拷問が、一人の穢れなき少女を冒しつくしていた。

 便意の塊となって悶絶に悶絶を重ねながら、ふいに彼女は全霊で祈りを捧げるように時計を見上げた。
 ……残り四分三十六秒。前に見た時刻から一分もたっていなかった。

  グオオオオオオオォゥウウウウウ〜〜〜〜〜〜ッッ!!
 下り窮まった腹が咆哮する。彼女は眉をかたむけきって源を見つめながら、体じゅうを波打たせて大量の息を吐き出した。

  ゴウウウウウウウウ!! グーーーー!!!
 わずかな間を経て、苦しみで埋め尽くされた腹が再び獰猛な音を轟かせる。

  ブピッッ!!! ブリブリブリブリブリブピピピピピブリ!!

 次に彼女から響いた音は、それまでとは色も出元も違っていた。音は突き出された尻から、たしかな質量をともなって溢れていた。彼女はもう、下痢を我慢することができなかった。地獄の腹痛と便意から楽になるため、排便を始めてしまったのだ。

「……っぁぁ、ぁぁぁ……は……!」
  ブリブリブリリリリリリリブウウウビイイッッ!!
  ビチビチビチビチビチブゥビビビビビビビビビビッ!!
  ブリュリュリュリュリュリュリュブウウウウウウウウッ!!
 脱糞の音色が劇的な勢いで連続する。スカートに浮かんだ二つの丸みの間がまたたく間に埋め尽くされても、噴出はわずかさえ収まらなかった。ゆがみきった顔で全身を打ち震わせて灼けた息を漏らしながら、彼女は全開になった肛門から下着の中へと、一時限近くにわたり己を苦しめてきたものを吐き出し続けた。

「ぉぅぅっ……、んぅぅぅぅぅ、ふーーーー」
  ゴブボオッッ!!! ブボボボボボブピピピッピピッ!!
  グプギュプグプグプギュブブブブブブブブブウッッ!!
  ビュチビチビチブリョリョリョリョリョリョリョリョッ!!
 尻の形が分からぬほどに膨れ上がってゆくスカートの底。下痢便に埋もれた肛門から、それを押しのけて泥が溢れ続けている光景が見えるかのようであった。彼女の排泄行為は、洋式便器へのそれと同じ姿勢だった。限界まで便意を我慢し、トイレに駆け込み個室の中で白い陶器に座り込んで肛門をむき出すのと、同じ行為。ただ、場所と、排泄物を受け止めるものが違っていた。
 授業中の教室で、席に着きながらの用便。取り返しのつかないことをしている。しかし、彼女はもう己の肛門を制御できなかった。どうしようもなくせつない眉でまぶたを固く閉ざし、膨大な脂汗を涙のごとく流しながら決壊を続ける彼女の顔は、破滅を受け入れているようにも見えた。

  ボピプピプピジュオオオォォォーーーーーーッ!!
  ヂユウウウウゥッ!! ブジュジュジュジューー!!
  ゴボボボボボボボオオッッ!! ビュウウウウーーッ!!
 スカートの裾から足元へ、ぼたぼたとぬかるみのような下痢便がこぼれだす。様々な食物が溶けあった黄土色のそれらは、たちまち椅子の下を肥溜めに変えた。同色の汁が紺のデニム生地にしみわたり、底一面を浸からせてゆく。膝が打ち合わされるほどに痙攣している両脚の裏を、ゆるみきった濁流が伝い、飲み込んでゆく。純白だった靴下と真新しい上履きが、二度と使えない色に濡れていった。

  グポゴポゴポゴポゴポ!! ゴポポポポッ!!
  グブッ! コポッポポポッ! ゴプウッ! ……プピッ……
 水の中での放屁を思わせるひどく間の抜けた音色が、下痢便を漏らしつくした肛門から鳴り響く。
 それを重ねる彼女の尻は、凌辱され果てたかのように力なくふるえていた。
 なさけなさをきわめた光景と共に、彼女の排泄は終息した。

「だれだよ今おならしたの」
「てか、なんだかくさくない?」
「……くさっ!!」
「え、うそ、なにこれ、くさい!!」
 教室が騒然としだしたのは、ほとんどすぐさまのことだった。
 腐った卵を蒸したかのような、鼻のねじ曲がりそうに強烈な異臭が、急激に教室の中へと広がってゆく。

「くせえーーーー!!」
「ウンコだろこのにおい!」
「誰かやったぞこれ……」
「うえっっ!! くっさっ!! 吐きそう!」
「マジくせえ誰だよ犯人!!」
「こんな殺人的に臭い糞ができる奴は絶対に男子だろ!」
 男子が鼻をつまみながら大さわぎする。同様に鼻をつまみつつ眉をひそめて沈黙する女子。先生は手で口元をかばいながら、驚いた顔で教室を見回し始めた。
 ”犯人”の周囲は、おぞましくぬめり照る悪臭の源にまみれた下半身を凝視しながら絶句していた。腰から足まで泥に浸かったかのようなその姿は、まるで黄土色の瘴気に覆われていた。

「……先生……大須賀さんが、おもらししました」
 窓際最後列の女子が蒼白い顔で挙手をしてそう告げたとたん、教室中の瞳が一点へと集中した。
 下痢便の海と化した席でうつむいている、犯人の姿。むせ返るような臭いの中、彼女は肌で炎を包んでいるかのごとく赤面し、ふるえていた。

「うわほんとだ大須賀がゲリベンもらしてる!」
「やだあーー!!」
「え、うそ大須賀さん!? くさすぎるんですけど」
「やめなよかわいそうじゃん!」
「うえー! まじでウンチしてるよ……」
「男子サイテー! 体調悪かった子のことバカにするなんて!」
 下痢おもらし。公然での脱糞。それも、クラスメイトの女子が、授業中の教室で。
 学校生活で起こりうる中でも最大級と言って良い大事件に、一瞬にして教室は爆発的な喧噪に包まれた。

「静かに!!」
 先生が低く険しい声で叫ぶと、子供たちは肩を跳ねさせて口をつぐんだ。
 教科書を卓に置くと、先生はつかつかと大惨事の現場へ歩みだした。

「大須賀さん、どうしてお手洗いに行かなかったの!?」
 うつむきふるえ続けている彼女の前で、先生は強く咎める語勢でそう言った。

「あーーあーーあーーーー……」
 腰をかがめ、黙りこくっている彼女の黄土色に塗りつくされた下半身と床を見つめながら、責めたてるように嘆息する。

「もう五年生なんだから、お腹の具合が悪いならお手洗いに行かないとだめでしょう?」
 一息置くと、先生は諭すような声色に変えて言葉を続けた。やはり返事はなく、地獄のごとき臭気の中で沈黙は異様に長く感じられた。

「何も恥ずかしいことじゃないんだから……」
 少女の顔がひどく崩れたのはそのときだった。
 顔じゅうの肉を揉み合わせると、彼女はふくらんだ唇を押し合わせ、背を波打たせて泣きだした。
 大声を上げずにうめくような嗚咽だけを連ねる、しかしあふれ落ちる涙の量は号泣にもまさる、静かで悲痛な泣き方だった。下痢便の臭いが充満しつくした教室で、一人のクラスメイトの疑いなく人生最低の姿を、誰もが言葉を失い見入っていた。

「……とにかく保健室に行きましょう」
 はてしない嗚咽のなか、先生は揺れやまぬ肩に手を添えて促した。
 幾度かしゃくり上げたのち、彼女は左手で顔を覆うと、不具のようにぎこちない動きで立ち上がった。

「うわっ!」
「やあっ!!」
 瞬間、彼女のスカートの中からなだれのごとく下痢便の塊が落下し、床へ派手に飛び散った。
 机ごと彼女から離れていた周囲の生徒が、悲鳴を上げて身をのけぞらせる。いくつもの上履きに茶色がはね、女子の一人がどうしようもなく顔をしかめてそれをにらんだ。
 いなや彼女は左手をスカートへ飛びつかせ、汁まみれの右手も広げ、中身を支えるように尻を包んだ。同時に足を広げて腰を落とし、がに股と呼ばれる姿勢になる。

「すぐに戻ります。絶対に騒ぐことなく自習しているように」
 先生に導かれると、彼女はあごが喉元に貼り付くほどに深くうつむきながら歩きだした。
 膝丈のスカートが左右に張り詰め、泥人形のようになった両脚がむき出しであった。
 不格好をきわめたその歩みは、見るに堪えぬほどにみじめだった。

 完璧な静寂が教室を支配していた。
 なおもスカートからぼたぼたと便をこぼし、床の上に黄土色で上履きの底の模様を連ねながら、彼女は廊下へと出ていった。
 教室の誰もが、クラスメイトの女子の下痢便にまみれた後ろ姿を見つめていた。

 その日、一人の少女の尊厳に、生涯消えることのないしみができた。


<2>

 初夏の、心地よい風の吹く朝であった。

 とある地方の住宅街の、ありふれた造りをした家。
 材木の香りがかすかに漂う食卓で、一人の子供が朝食をとっていた。
 パンやサラダなど平凡だがしっかりとした食事が並べられ、奥にある台所では母親が洗い物をしている。
 十歳すぎの子供はざっくりとした飾り気のない短髪で、気の強げな深く澄んだ瞳でその視界を見据えていた。くっきりとした眉毛に前髪の先がかかり、耳はすべて、首はほとんどを射しこむ陽光へ晒している。無骨な英字プリントの黒いTシャツの上に淡い緑色のパーカーを羽織り、紺のハーフパンツを穿いていた。
 素っ気ない目つきで黙々と食事を続けるその姿は、食パンに大口でかじりつくなど雑把なふるまいで、少年とみなすのが自然であるように思われた。

「ごちそうさま」
 だが、その唇から発せられた声は、高く澄んだ、道端の小さな花のように可憐なものであった。

「まなか。今夜はお母さん遅くなるから、史織といっしょに食べてね」
「はーい」
 食器を重ね台所に持って行ったところで母が口にしたのは、疑いなき女子の名前。
 ぶっきらぼうに答えた彼女――大須賀愛果は、小学五年生の女の子であった。


「いってきまーす!」
 まぶしい朝陽の中に、愛果は活発な身ぶりで歩みだした。
 少年じみた風貌の彼女だったが、真っ赤なランドセルを背負っていると、とたんに女の子らしく見えてくる。ぱっちりとした大きな瞳、清らかな桜色の小さな唇。そこからのぞく真っ白な前歯も、陽を浴びる健康的な色の肌も、まぶしいほどに澄んでいた。傷と汚れの目立つ男子物の運動靴を履き、丸みのない髪を無造作に揺らしていてもなお、彼女はたしかに少女だった。

「いってきます」
 門に手をかけたところで、再び後ろでドアが開いた。
 愛果が振り返ると、姉の史織が淑やかに整った所作で玄関から出てきた。
 大須賀史織。中学二年生で、愛果の三つ年上の姉である。
 肩下で揃えられ美しく手入れのされた黒髪が、朝風になびく。愛果とよく似た大きな瞳で、いっそうまつ毛が長く、洗練された顔立ちの彼女は美人といって差し支えなかった。静謐なまでに清潔感を湛えた相貌は、しかし人形のように表情が希薄だった。彼女は色の深い落ち着いたデザインのブレザーに身を包み、同色のスカートは膝が完全に隠れるほどに長く、胸元には彩度を抑えた臙脂色のネクタイを結んでいた。

「姉ちゃん、途中までいっしょに行こう!」
「そうだね」
 愛果が笑顔で手を振ると、史織は表情を変えることなく歩いてきた。

「今日はずいぶんゆっくりだね」
「教職員の特別会議があって、一・二時間目は任意出席の自習だから」
「そんなのがあるのか。じゃあ三時間目から出るの?」
「そう」
 史織の前髪はいくぶん厚く長かった。きめ細かなそれが陽に照らされ、黒い瑪瑙のようにつやが流れる。
 彼女は、二つ隣の県にある私立の女子中学校に通っていた。片道で二時間半かかるため、家族で一番早く家を出る。徒歩五分の公立小学校に通っている愛果と、朝に顔を合わせることは珍しかった。

「今日はお父さんもお母さんも帰り遅いから、二人で食べろってさ」
「わかってる。いつもの時間に行こうね」
 史織は会話こそ返すが、自分から話を振ってくることはほとんどない。
 彼女と並んで歩くと、愛果はいつも肺が洗われるほどに洗剤の匂いを強く感じる。清潔な服や下着を身に着けているのは愛果も同じはずだが、姉の香りは一点の曇りもないほどに澄みきっていた。
 理由を愛果は知っていた。史織は毎晩長い時間をかけて入浴し、潔癖なほどに髪と体を几帳面に洗っている。そのせいで家族の時間が圧迫され、いつしか愛果は男子並の雑な行水が習慣になってしまった。

「じゃあね」
「またね」
 ほどなくして叉路で二人は別れた。
 小学校の前を通った方が駅へと近いのだが、彼女は必ずここで道を逸れる。
 まるで最初から一人で歩き続けていたかのように、妹を顧みず小さくなってゆく後姿。
 しばらくぼんやりと眺めたのち、愛果は目先の距離に近づいた学校へと走りだした。男子に交じって始業前にサッカーで体を動かすのが、彼女の朝の日課であった。


 週末の夜、愛果は史織と並び、向かいに座る両親と食卓を囲っていた。
 父は平日帰りが遅く、家で夕食をとることはほとんどない。母も帰りが遅いことがある。だが、土日はできるだけ家族で食事をするというのが彼女の家の決まりだった。

「それがさ、なんか気に入らなかったみたいで、次の体育のドッジボールであたしばっか狙ってくんの」
 愛果の話に両親が笑う。食卓でよく話すのはいつも彼女であった。その横で史織は、愛果の半分ほどの少食を音を立てることなく口へと運び続けていた。
「史織は学校の調子はどうだ? 茶道部とか」
「いつもと同じだよ」
 愛果の話が一段落つき、少しの沈黙の後に父が尋ねると、史織はにべもなくそう答えた。
 彼女は私服でも襟付きのブラウスに身を包み、きまって長く落ち着いた色合いのスカートを穿いている。
「そうか。まあ、何事もないのが一番だな」
 父の言葉と共に、会話は途切れた。沈黙が食卓に沈み込む。しかし、家族はそれに慣れているようであった。愛果は頬を膨らませてご飯を咀嚼していた。

「ごちそうさま」
 やがて史織は静かに立ち上がると、綺麗に食べ終えた皿を重ね、台所へと持っていった。そして流しで手早く水をかけると、食器洗い機に入れ、ただちに二階へと上がっていった。
 愛果は、目を細め、小さく伏せながら、姉のいた空間をそっと見つめた。

 三年前に起きた事件から、姉は変わってしまった。
 元からおとなしめの性格ではあったが、あの日以降、家族にさえも壁を作るようになってしまった。
 かつての彼女は、細かいことによく気のつく、優しさとぬくもりに満ちた存在であった。毎日たくさんの話をしてくれて、色々なことを教えてくれる、幼い愛果にとって最高のお姉ちゃんだった。

 三年前、小学五年生に上がったばかりのある日、史織は大きい失敗をした。
 学校で下痢をして、授業の最中に大便を漏らしてしまったのだ。
 愛果は帰宅するや母に呼び止められて事実を伝えられた。その神妙な顔が今でも目に焼き付いている。
 ――史織が今日、学校でおもらしをした。おなかを壊してどうしても我慢ができなくなって、授業中に教室でウンチをしてしまった。保健室で汚れたおしりを拭いてもらい早退して、おふろで体を洗って、今は部屋で薬を飲んで休んでいる。
 重く、ささやくような母の声。耳に入ってくる情報が、なかなか脳にまで届かなかった。愛果が一年生の時でさえ、授業中におもらしをした子供などいなかった。幼稚園の時には見たことがあるが、それでも小便のみで、大便のおもらしなど非現実的なことだった。そんな幼稚で不潔な失敗を自慢の姉が犯すことなど、想像もつかなかった。
 二時間目後の休み時間に上の階が大騒ぎになっていて、上級生の誰かが下痢を漏らしたことは知っていた。
 しかし、物凄い量と臭いの下痢便が教室にぶちまけられているという噂話が耳に入り、想像するだけでも悪心をもよおす汚らわしさから、愚鈍で不細工な男子生徒によるやらかしだろうと思い込んでしまっていた。野次馬に行った男子らが過激さを競うように顔をしかめて鼻をつまんで駆け戻ってくる、その下品な風景からもおよそ同性の要素は欠けていた。

 母が冗談を言っている余地はなかった。
 ものすごく傷ついて何時間も泣き続けていたほどだから、絶対にからかったりしないように。
 そう丹念に言い含められ、愛果は茫然自失として階段を上った。史織の部屋をそっとノックしてみたが返事はなかった。トイレも空いており間違いなく中にいるはずだが、気配すらなかった。

 しばらくして尿意を覚えトイレに向かった愛果は、ドアの前で立ち止まった。
 本当にお腹の具合が悪いのだろう、水を満たしたバケツの上で水道の蛇口をひねった時のような音が、トイレの中から聞こえてきた。小刻みに続くそれを胸に沁み込ませながら、愛果はようやく母の話を現実のできごととして認識した。
 前日の夕食は、ご飯にコロッケ、サラダ、みそ汁といったありふれた内容だった。下痢をした詩織は、それらを全て教室で排泄してしまったことになる。彼女は夕食後に用を足す習慣だったので、その時点ではまだ消化のさなかだったであろう前日の朝食や給食までも、まるごと出してしまったのかもしれない。
 母が店屋で買ってきた大きいコロッケが気に入ったらしく、史織は箸がよく進んでいた。珍しく一人前以上を欲しがり、まだ体が小さく半分ほどで胃もたれしてしまった愛果が残りをあげると、彼女はそれも平らげた。
『お母さん、これびっくりするぐらいおいしい! 毎日でも食べたいぐらい!』
『史織がこんなに気に入るなんて珍しいわね。いいお店だったし、また買ってくるね』
 何が彼女の腸を狂わせたのか、愛果には知るすべがない。しかし、史織が油ものを口にしたのは、この記憶が最後となった。

 脅えるようなせつなく弱りきった音を聞いているうちに、愛果の心から軽蔑の念は消えていった。
 むしろ、腹を下しきった姉への憐憫に胸を締め付けられ、ただ慰めてあげたいと感じ始めた。
 今すぐにでも何か言葉をかけたい。音が途絶え、静寂が定着すると、愛果はそっとドアに手を伸ばした。
 巨大な放屁の音が廊下に響きわたったのと、彼女の手がドアを打ったのは同時だった。野太く水気に満ちた、どうしようもなく下品で不浄な音だった。気が動転した愛果は、足音を鳴らして自室へと駆け戻った。

 史織は二週間学校を休んだ。
 その間、愛果と顔を合わせることも、言葉を交わすことも、一度もなかった。
 両親が毎晩一階のリビングで、夜遅くまで重々しい気配の話し合いをしていた。荒げられた声が二階まで聞こえてくることもあった。担任の先生も幾度となく家を訪れ、都度母と何時間も話し込んでいた。
 そうして大人たちに諭されたのか元通りの生活に戻ったが、すぐに愛果は史織がもう事件前の姉とは別の人間になっていることに気がついた。
 以後、彼女が笑顔を見せることはなくなった。
 仮にあっても蝋のような作り物で、愛果が大好きだった優しくて温かいほほえみはもう二度と見られない。
 当時からがさつで男勝りだった愛果は、悪戯をなしたりテストが悪かったりするたび、お姉ちゃんを見習え、お姉ちゃんのようになれと叱られた。だが、その言葉が懐かしくなるほどに、あの日を境にしていっさい言われることがなくなった。
 それまで、愛果は史織とおそろいやおさがりの女の子らしい服を着させられることが多かった。動きづらくて嫌だったが、妹に生まれた者の宿命だと諦めていた。この習慣も終わりを告げ、望みを聞き入れてもらえるようになった。愛果が着るはずだった可愛らしい洋服の数々は、顔も知らない誰かへともらわれていった。

「ごちそうさま」
 再び学校の話で親を楽しませたのち、愛果は食事を終えると食器を片して二階に上がった。
 ちょうど自室から史織が出てきて愛果を顧みず静かに横切り、トイレに入った。無機質な施錠の後、水洗の音が廊下にこぼれる。今の彼女は、自身の生理的現象に関する音を誰に対しても徹底して聞かせない。愛果は気に留めず自室に戻った。
 すぐにドアの開閉と入念に手を洗う物音が部屋の中まで伝ってきた。小用はかくの如きだったが、もう片方に至ってはいつ済ませているのかさえ分からなかった。


<3>

 梅雨時の、雨ではないが、同じほどにじめじめとした朝だった。

「いってきまーす」
 薄水色のTシャツにショートパンツ姿の、早くも真夏のような格好で愛果はその日も元気に家を出た。

 しかし、道路に出て歩きだすと、すぐにその表情は不機嫌そうに曇りだした。
 空気がべたついて気持ちが悪いのだった。梅雨から夏はさすがの愛果も毎晩体じゅうをしっかりと洗い、身に着ける下着と衣服にもひときわ清潔を求めている。それでも、今の季節は肌がじっとりとして、家を出るや体のどこかが汚れだしているような気がしてしまう。サッカーで駆けまわって汗を流すと、不思議にかえって爽やかな心持ちになるので、この時期の通学路だけが愛果はいつも憂鬱だった。

 歩きながら、愛果はときどき髪の毛をつまんでは小さくいじった。
 春に短く切りそろえた髪が伸びてきて、首根が覆われ、耳にも毛先がかかっていた。不快なのはこのせいもあるのだろう。
 放課後も晴れていれば、今日にも散髪に行こうと愛果は思った。彼女の行きつけは小学生が半額になる近所の安い床屋で、同じ学校の男子が隣で五分やスポーツ刈りにされているのを眺めることも多かった。

「……くっそ」
 今すぐに思いっきりサッカーボールを蹴飛ばしたい。そんな思いから、愛果は学校へ向かう足を速めた。

「あ、まな、おはよう!」
「なぎ! おはよう、めずらしいじゃんこの時間」
 いなや、愛果は十字路でクラスメイトの女子と鉢合せになった。
 愛果以上に髪の短い、はつらつとした印象の少女だった。彼女の頭髪は、わずかな襟足に、前髪は額の中ほどまでの長さしかなかった。しかし、愛果にもまさるほどにぱっちりとしたおだやかな瞳で、顔立ちやふるまいも女子らしく、その性別を間違える余地はおよそなかった。純真さに満ちた健やかな面持ちからは、性格の良さがにじみ出ている。

「ちょっとねぼうしちゃって……」
「へー、なぎでもそんなことあるのか」
「うん。二度寝して時計見てびっくりしちゃった」
 彼女――敷島渚は、愛果の一年生のとき以来の親友であった。
 小さなスポーツ用品店の娘で、五年間ずっと同じクラスである。
 渚は体操着のような真白い生地で胸元に水色のブランド名が軽やかに描かれた半袖に、下は腿丈のレギンスを穿いていた。靴は白とピンクが半々のスポーツシューズで、そのランドセルも淡いピンク色であった。
 五月生まれの渚は八月の愛果よりも背が五センチほど高い。学級委員を務めている彼女は愛果よりもいっそう早く登校し、委員の仕事や日直の手伝いに励んでいるのが常だった。

「せっかくだからさ、なぎもひさびさにサッカーしようぜ!」
「そうだね、少しだけなら時間あるからいいよ」
「やった! やっぱりなぎとが一番息が合うんだよな!」
「男子はだめなの?」
「あいつらダメ。下手だしぜんぜん空気読めねー」
 渚は当然にスポーツが得意であった。だが、彼女は男女の様々なグループと等しく関わるように心がけているらしく、活発な男子が主体のサッカーにはときどき加わる程度であった。

「ところでさ、二巻持ってきたよ。忘れるかもしれないから、今わたしとくね」
「あ、うん。ありがと……」
 ふと渚は立ち止まると、ランドセルを下ろして中から少女漫画のコミックを取り出した。
 小学校が舞台の恋愛ものらしく、表紙には、教室を背景に男の子と女の子がそうした可能性を漂わせて描かれている。普段は少年向けのスポーツ漫画ばかりを読んでいる愛果だったが、渚に薦められて一巻を借りしぶしぶ読み始めると夢中になってしまい、恥じらいながらも続きを求めていたのであった。
「この子さ、山田くんに似てない?」
 渡しながら、渚は表紙のキャラクターを指さした。
「えーー!? ぜんぜん違うだろ。どこがこんなにかっこいいんだよ」
「性格とか雰囲気とかそれっぽくない?」
「同じなの足が速いぐらいだろ? あいつはただのバカじゃん」
 愛果はすばやくランドセルを開けると、教科書のわずかな隙間にコミックを強引に押し込んでしまった。


「史織さんは元気?」
 小学校の門を入ったところで、ふいに渚が口を開いた。

「元気だよ。勉強とか忙しいみたいであんま話してないけど」
「そっか」
 小さくつぶやくと、渚はうつむきがちに黙ってしまった。愛果もそれ以上は続けなかった。

「大須賀ーーっ! おせえぞーーっ!」
「今いくーーっ!」
 校庭の男子から声が飛び、愛果も大きな声で返事をする。

「実はさ、きのう史織さんと会ったんだ」
 昇降口に入ると、渚が思いつめたような顔でささやいた。
「え、マジ? なんか話したりとかした?」
 黒や青のランドセルが一角にまとまって放ってある。そこに向かいながら愛果は尋ねた。
「それがね……無視されちゃった」
 沈み込んだ声で渚が答える。
「気づかなかったとかじゃなくて?」
「目がはっきり合ったから、絶対に気づいたと思う。わたし、頭も下げたし」
「そっか……」
 渚の声が小さくふるえる。それを聞いた愛果は目を細めて嘆息した。

 彼女たちの小学校には、一年生の一学期に、四年生が世話をする決まりがあった。
 一人の一年生に同性の四年生が一名つき、教師の助言を受けつつ、学校生活の手伝いや様々なルールの伝授を行うのである。
 渚の担当になったのが史織だった。
 多くの四年生が面倒な義務として形だけの作業に終始するなか、史織はまるで実の妹に接するかのように心を込めて渚の世話に取り組んだ。放課後に時間が合う時は必ず渚を家まで見送り、それを二学期以降も欠かすことなく継続した。そのまめやかさは、愛果が嫉妬を覚えるほどだった。やがて渚が頻繁に家へ来て三人で遊ぶようになると、愛果の渚に対する感情は純粋な親しみへと変わっていった。
 三人の幸福な関係は永遠に続くかのようであったが、愛果らが二年生に上がってすぐ、唐突に終焉した。
 春の学校を茶色い噂で満たした、五年生の女子にはあまりにも相応しくない、最悪の事件。
 合わせる顔がなかったのだろう。以後、史織は渚のもとにいっさい近づかなくなった。愛果と渚の友情はその後も続いたが、渚が家に来ることはなくなった。

「まるでわたしがそこに存在してないみたいな感じだった。仕方ないって、わかってはいるんだけど……」
 瞳をわずかに潤ませながら、渚は一息に言葉を紡いだ。
「でも、無視はひどいよな。言っておこっか?」
「……いい。思い出させると思うから。聞いてくれてありがとう」
 手の甲で目もとをすばやくぬぐうと、渚は寒色のモザイクの端にランドセルを丁寧に置いた。その横に愛果も赤いランドセルをくっつける。

「ごめんね、行こう! ゴール狙おうね!」
「よっしゃあ!! 最強コンビだ!」
 渚が校庭に向かって一気に走りだすと、愛果も負けじと後を追った。


 週末の夜、愛果は変わらぬ風景を大きい瞳に映し込みながら夕食をとっていた。

「姉ちゃん、コショウ使う?」
「私はいらない」
 愛果の問いに、史織は顔を向けず答える。
 家族はそろっていたが、食卓は普段より静かだった。愛果の口数がいやに少ないうえ、父が珍しく野球中継に見入っていたからだ。

「わーー! すげえ!!」
 片方の主砲らしき選手が盛大にホームランを飛ばすと、愛果は少年じみた歓声を上げた。

「愛果は学校で友達と野球はしないのか?」
「うーん、うちはサッカーばっかかな。野球もやってみたくはあるんだけど」
「そうか」
 他愛もない会話をつなげる。音を立てず無表情で食事を続ける史織は、テレビを一瞥さえしない。

 次のバッターが三振して回が終わると、画面が変わりコマーシャルが始まった。
 ありふれたインスタント食品が宣伝され、次のCMに切り替わる。

「ううううう、お腹が痛い!!」
 突然食卓に溢れ出たセリフに、愛果は目を丸くして視界をテレビに走らせた。
 見ると、OLに扮した女性のお笑い芸人が、電車内で大仰に顔をゆがめつつ派手に腹部をさすっていた。汚らしさの強調されたコミカルな腹鳴りが響きわたる。
「突然の下痢! 駅までまだ五分! もう我慢できない!」
 食卓は凍りついていた。史織の頭もテレビ画面を向いている。激しい切迫に囚われながらも、愛果は金縛りにあったように身動きができなかった。
「そんなときはストッ」
 突然画面が変わった。見ると、父が真顔でリモコンを掴みテレビへと向けていた。

 歴史ある寺院を紹介する教養番組が流れだす。
 おだやかなアナウンスが続くなか、家族の誰も口を開けず、手も動かせなかった。

「……さま」
 さなか、史織が消え入るような声で立ち上がった。
 深くうつむき、表情は見えない。だが、その顔は死人のごとく血の気が引いていた。
 彼女は半分ほど残っている食事を片付けることもなく、すぐさま居間を出て階段を上りだした。力なく、しかしきわめて速い足音が、またたく間に二階へと消えていった。

「どうして普段みたいにNHKにしなかったの!?」
「すまん、新しい部長が熱心な野球ファンで……」
「また来なくなったらどうするの!?」
 両親が小声でいさかいを始める。愛果は目をつぶって大きくため息をつくと、ようやく箸を再開した。
 かつて、週末の夕食は描いたような家族団欒の場であった。しかし、下痢を漏らして以降、史織は家族とさえ顔を合わせることを嫌がるようになった。自室で食事を済ませることが習慣となり、それから二年間近く愛果には家族そろって食卓を囲んだ記憶が存在しない。
 状況が変わりだしたのは、彼女の進学がきっかけだった。史織の中学受験合格を祝い、数年ぶりに家族で外食をした。それ以降、時々ではあるが、家でも共に夕食をとるようになった。現在の風景が定着したのは、今年に入ってからのことであった。

「愛果。これ、持っていってあげてくれる?」
 愛果が食事を終えると、母からお盆に載せられた史織の食べ残しをわたされた。
「たぶんもう食べないよ」
「いいから。お願いね」
「わかったよ」
 お盆を手に階段を上りながら、愛果はその中身を観察した。
 普通の食べかけは雑然としているものだが、史織のそれは皿の端から整然と減っており、几帳面な性格が表れていた。

「姉ちゃん、お母さんがちゃんと全部食べろってさ」
 お盆をドアの前に置いてノックをすると、案の定返事はなかった。
「ドアの前に置いとくから。ちゃんと食べなよ」
 姉の部屋からはわずかな物音さえ聞こえなかった。まるであの日のようだと愛果は感じた。

 一時間ほどしてトイレに行くと、やはり食事は手をつけられていなかった。
 まるで空き部屋のごとく、そこにはいっさいの気配が存在しなかった。

 やがて夜が更け、パジャマに着替えて寝る準備をすませると、最後に愛果はもう一度廊下を見た。
 お盆の位置は、わずかさえも動いてはいなかった。打ち捨てられたままに忘れ去られた遺物のように、それはむなしく放られていた。
 愛果は静かにドアを閉め、かすかに軋ませながらベッドに上ると、頭いっぱいに布団をかぶった。
 暗闇の中、しかし彼女の瞳は大きく開かれ、ためこんだ光を抱いて煌々としていた。


『今の、誰か知ってる?』
『今の二年生?』
『あれ、スカトロの妹だぜ』
『へー。妹なんていたんだ』

 事件が起きてから間もないころ、学校の廊下で五年生の男子の前を通ったとき、それは聞こえてきた。
 ふいに耳へと飛び込んできた、かつて一度も耳にしたことのない、得体の知れない単語。
 しかし、その趣意はだいたい分かった。おそらくは姉の失敗を揶揄している。なぜ名字に「トロ」を付けるとそういう意味に……下痢や大便や排泄やおもらしの意味になるのかは図りかねたが、それが穢れた存在に対する不名誉なあだ名であるのは直感できた。

 ほどなくして、五年生から教えられたのか、妹である愛果にまでその言葉を投げてくる同級生が現れた。
 にやにやとしながら、「スカトロ」「スカトロ」と呪文のように言ってくる。だが、そもそも意味が分からなかったし、彼らもおそらくは同じであった。だから、相手にせず放っておいたらすぐに止んだ。

 やがて、事件も遠くなった冬ごろ、愛果は急に史織へ伝えねばならない要件ができた。
 五年生の教室へ行ってみたが、姉の姿は見当たらなかった。二時間目後の少し長い休み時間で、トイレかとも思ったが、何分か待っても姿を見せない。そこで、教室の後ろ、廊下側の席で、数人集まって気軽そうに談笑をしている男女へと姉の行方を聞いてみた。

『スカトロ? さあ〜〜? トイレじゃね?』
 面倒くさげな表情で男子が答える。

『大須賀さんなら、たぶん係の仕事で音楽室だよ』
 いなや、それを遮るようにして女子がはっきりと教えてくれた。

 すぐさま愛果は教室を出たが、数歩進んで立ち止まった。
 男子の態度がえもいわれず不快で場所が分かるや離れてしまったが、教えてくれた女子にはお礼を言うべきであった。幾秒か逡巡したのち、彼女は踵を返した。

『バカ!! 今のスカトロの妹!』
『え? いるのは妹だろ?』
『だからあ、今のが妹なの!』

 壁越しに声が聞こえてきたのはそのときだった。
 愛果は立ち止まった。そして再び体を返すと、力のかぎり走りだした。

 クラスメイトの間で完全に定着したらしき、奇妙なあだ名。
 担任の先生が厳格に目を光らせ、表立ったいじめの類はいっさいなかったと聞いている。
 しかし、姉の社会的地位が最低まで落ち、二度と修復できなかったことは察するに余りあった。

 突然、史織が遠方の私立中学に行きたいと言いだしたのは、年が明けて間もないころのことだった。
 二つ隣の県にある、名門のお嬢様学校。百年以上の歴史を持ち、品性を重視した厳格な校風で、進学校としても著名らしい。
 しかし両親は反対した。私立の中でもひときわ学費が高く、遠距離通学の交通費まで加えると、とても平凡な階層である彼女の家には払えない。
 自分で取り寄せたパンフレットを見せながら史織は言った。毎年、入学試験の成績上位三名が特待生となり、学費が全額免除される。電話で問い合わせたところ、特待生なら交通費もかなりの割合を学校が補助してくれるという。それなら迷惑はかからない。
 両親はやはり反対した。その場で調べた結果、特待合格に必要な偏差値は通常よりも十以上高かった。最高峰の中高一貫女子校にもまさる数値である。今からやって間に合うはずがない。たしかに史織は学年で一番勉強ができるが、通常合格ならともかく、特待はその程度で太刀打ちできるレベルではない。学校一の才女が小学校の前半から受験勉強を始めて、ようやく可能性が出てくる世界である。
 それでも史織は言った。とにかく挑戦させてほしい。塾にも頼らず、一年間自分だけで勉強する。落ちるか、受かっても通常合格だったら、あきらめて近所の公立中学校に行く。もしも特待生になれたら、そのときだけはここに進学させてほしい。
 両親はついに認めた。

 翌日から、史織は狂ったように勉強を始めた。
 毎日学校から帰るや、ほぼ間断なく夜中まで机に向かっていた。休日はすべて朝から晩までの勉強。貯金していたお年玉を崩して分厚い参考書や問題集を何冊も買い、それらをみなぼろぼろにするまで使っていた。夏休みには家族の帰省も取りやめられ、普段の休日をさらに超える量の勉強を一日も休まずに継続した。友達はいないのかいなくなったのか、誰かと遊ぶ気配もいっさいない。彼女は学力の亡者と化していた。

 姉の姿を見ながら、愛果は思った。
 彼女が猛勉強しているのは、未来のためではない。自分の茶色い過去が存在しない世界へと行くためだ。
 あの日、ぐちゃぐちゃに汚れた史織のお尻。どれだけ丁寧に拭いても、洗っても。何十何百の石鹸を費やし、幾千幾万回と完璧な綺麗さにみがき続けても。彼女が授業中に下痢を漏らした忌まわしき記憶が溶けている地にいるかぎり、そのお尻が穢れから解き放たれる日は永遠に来ない。――お姉ちゃんは、過去の自分を殺すために勉強をしている。

 一年間、史織は超人的な量の勉強をやりとげた。
 そして一校のみを受験し、三番の成績で合格した。
 特待を伝達する証書には、金色の文字で探花と記されていた。


 いつしか、愛果は寝入っていた。
 真夜中の三時なかば、彼女は尿意をもよおし目を覚ました。

 母が片付けたのだろう、廊下のお盆は消えていた。
 ぼやけた頭で用をすませ、トイレを出て自分の部屋へと歩きだした。

「もおがまんできないよおおぉぉおおぉ〜〜〜〜」
 姉の部屋から、のたうつ声が聞こえてきたのはそのときだった。
 普段の彼女からは想像もできない、獣じみた低い声。寝言であった。

 愛果は薄れていた瞳を一瞬で十倍に広げながら、逃げるように歩みを速めて自室へ戻った。
 ベッドに飛び込み、布団をかぶる。漆黒の空間を、激しい鼓動が這いずり回る。
 自分の身体を痛むほどに抱きしめながら思った。夕食のあと、姉はずっとあの日のことを思い出しながらすごしたのだろう。そして今、彼女はあの日のさなかにいるのだろう。

 名門校に特待生で合格し、美しく成長し、清潔を極め、別人のように変わった姉。

 だが、愛果にはわかっていた。
 あの事件を誰よりも強く記憶にとどめて執着しているのは、他の誰でもない、本人だ。
 だから。結局、彼女のお尻がきれいになることは、もう一生ないのだ。


 翌朝は小雨だった。

 愛果が目を覚ましたとき、もう史織は家にいなかった。
 いつも通りの朝だった。



 昨年に完成していましたが、続きに時間を要しているため、そろそろ公開することにしました。
 漏らしてからがむしろ本編で、これまでになかった要素を探求してみました。
 後編は、愛果ちゃんが学校でピーピー状態になってしまう話です。


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