<1>
広場と呼ぶには息苦しい中央通路を、数多の利用者が隙間なく行き来している。
歩みはみな忙しなく、色も形も無機質な空間を埋める人々はなかば機械のようである。
誰もが整然と、立ち止まり顧みることなくその足を進めている。
この新滝場駅は、東京都の中央からやや離れた場所にある、中規模のターミナル駅である。
三本の路線がけして大きくはない駅に乗り入れており、毎日通勤や通学の時間になると、その混雑の度合いは並大抵ではない。都心近くにありながら駅の造りは古く、前世紀の時分とほとんど変わらぬ姿を見せていた。
中央通路の一角に、公衆トイレがあった。
男女それぞれ人型のマークの横に内への狭い通路が続いている。多目的用はなく、駅の端にあるもう一箇所のトイレに設置されている旨の掲示がある。
ラッシュ時とあって絶え間なく人が行きかうトイレだが、女子の方では行列が通路を埋めて外にまであふれていた。内から続く人数は二十に近い。並ぶ女性たちはその状況を気にもせず、慣れた様子でめいめいに時間を潰している。
駅の構造上、三つある路線の乗り換え客が、すべてこのトイレに集中するためであった。もう一つのトイレは駅を出入りする者にのみ有用な場所にあり、彼女らはわざわざ何分もかけてそこまでは向かわない。
二人がすれ違うのがやっとの狭い通路の奥にある女子トイレは、案の定、古いままの状態であった。
男性用と同じ無骨な灰色のタイルの上に飾り気のない洗面所があり、その奥の右側に和式が二つ、左側に洋式が三つの個室がある。行列の先頭に立っていた高校生らしき少女は、個室が開いても和式だと分かるや、後ろの中年女性に順番をゆずるジェスチャーをした。一分ほど待ちようやく洋式が空くと、今世紀の文明人なら当然と言わんばかりの涼しい顔でその中へと入っていった。
このトイレには、ある”いわく”があった。
長く利用を続けていると、必ず人の失敗を目にすることになるというのだ。
失敗とはすなわち、大便なり小便なりの失禁である。制御不能にまで肥大した排泄欲求が理性の限度を超えたとき、不適切な場所や格好で開始される排泄行為。ある程度にまで発育した人間においてはきわめて珍しいものであり、ここを利用する者の多くを占める成人女性においては殊にそうであった。
たしかに、このトイレは五つしか個室がない。短時間に多くの女性が用を足しに訪れることを考えると、この状況は心許ない。長い行列の中、進退窮まる者が現れる事態は当然に起こりうることだろう。
しかし、このようなトイレは他にも少なからず存在するはずである。なぜここだけが奇妙な風説をともなうに至ったのだろうか。
淡々と行列の消化が続いてゆくトイレの風景。
もっとも、駅の混雑が頂点のため列の長さは伸びてゆくばかりである。
そうした中、鼓膜をゆする騒音と共に車輪の軋む音が生々しく聞こえてきた。ちょうど真上にあるホームに、列車が停まった音である。
鬼気迫った形相の少女がトイレへと突っ込んできたのは、まだ残響のたなびいている最中のことだった。
赤いリボンを結んだブレザーに素朴な丸い髪で健康的な顔立ちの、おそらくは中学生。
その様はほとんど獣だった。むき出した歯を割れんばかりに食いしばり、顔じゅう汗と皺まみれにして彼女はなりふりかまわず暴走してきた。背を鋭角に折って両手を尻にめり込ませ、常なら朗らかだろう顔面は真っ青である。切羽詰まったどころの騒ぎではない彼女が通路を貫いてくるや、ちょうど個室のドアが開いた。白い和式便器が中からのぞく。彼女はそこへと一直線に突進した。
「すみませんもれるからいれてください!!!」
個室へ歩みかけていたOLの前に割り込みながら少女は理性の飛んだ目で声を荒げた。
ブウウウウウウウウ!!
同時に尻から溢れだす危機的な音色。どうぞ、という返事を聞くよりも早く出てきた女性を押しのけるようにして個室へ飛び込む。
ブウッウウッウウウウッウッッ!!
「はあぁあぁぁああぁぁぁっっ!!」
ドアを叩き閉めて鍵を打ち付け、紺色のスカートを跳ね上げながら便器をまたぐ。両脚を激しく痙攣させつつ薄桃色の下着をつかみ下ろし獰猛なまでの勢いでしゃがみ込む。張り詰めきった汗だくの尻が白い陶器へと突き出される。
ブバビチビチビチビチビチビチビチビチビチブボオッッ!!!
ブチャベチャボチャボチャブゥビビビビーーーーッッ!!!
瞬間、彼女の尻は大爆発を起こした。盛大に茶色が散り、充血しきった肛門が脱さんばかりに隆起して激烈に土石流を噴出する。彼女はひどく腹を下していた。どうやら相当に長い時間、限界寸前の狂おしい腹痛と便意を堪え続けてきたようであった。
「っおっっ、ふうっんんううううう!」
ブリブリブリブリブリブオッオオオオオオオオオッッ!!
ドブボボボボボボボボボボボビイイイイイイイィッ!!
ブウヒッ!! ブパピボピビチビチビチビチビチチチチ!!
爆ぜた泥と脂汗の滝でべたべたになった双丘から大噴火が連続する。轟音と共におびただしい飛沫が炸裂し、便器のふちや周りのタイル、白い靴下やローファーに黄土色の汁が塗りつけられる。一瞬で便器に溢れかえった下痢便へさらなる奔流がぶちこまれ、粥のようにくずれきった未消化物がかき回される。
壮絶な下痢。ゆがみきった形相で歯をこすり合わせ、爪を膝にえぐり込ませて全身を打ち震わせながら、彼女は無我夢中で己を苦しめてきたものを肛門から吐き出し続けた。
「くおっ!!」
ブーーーーーーーーーーーーッッ!!!
肛門の弾け飛びそうなほどの猛烈な放屁が突然割り込む。跳ね揺れた尻から霧吹きのように汁が飛び、一部は後方の白いしきい壁にまで到達した。
「ふっっ! んむっ……っ!」
ブウウウゥゥゥゥゥ!! プーーーーゥゥウウウッ!!
いつしか血流に満ちた頬をはち切れんばかりに赤熱させ、唇を野卑に揉み合わせながら、少女は便器に向けて屁を連発した。下品そのものに開かれた股の底でなされる、下りきった腹の中に溜まりこんだ気体の抑制できぬ放出。その音も姿も、たとえ個室の中であっても、思春期の少女が晒せるようなものではけしてなかった。
「くううぅううう!」
ブウウウウウウウゥゥウウウーーーーーーーーーーッッ!!!
ようやく水洗レバーをつかみ倒しながら、彼女はひときわ激しく放屁した。放出音が豪快すぎ、せっかくなされた懸命の音消しはほとんど意味をなさなかった。
ブピプピボピビュジューーーーーーーーーーッ!!
ジュチョボボボボボボボボボボボボボオッッ!!
めくれ返った肛門が戻る間もなく今度は激流がほとばしる。白く洗われた便器の底に黄土色の水便が広がり、黒ずんだニラや赤いニンジンのかけらが撒き散らされる。
ブオオオオオォォオオオオォオオッッ!!!
再び水洗と放屁。いっそう深く便器へとねじり出された肛門から暴力的な音色が鳴り響く。腹の中身を出しつくせる楽園に向かって猛り狂いやまない尻。彼女が我慢に我慢を重ねてきたであろう欲求のすべてを排泄しきるには、しかるべき時間を要するようであった。
「……ふぅーー……ふぅーー……っはあーーーー……」
どれほどの苦悶を経たのか、ようやく少女は己の腹から解放されつつあった。
皺と充血で猿のようだった顔がほぐれ、汗に濡れ乱れながらも、元来のみずみずしい相貌が快気されていた。人目を引く存在ではないが、意志に充ちた瞳が印象的な、教科書のごとく健全な容姿の女生徒である。頭を丸く包んで短く整えられた髪に、芯の通った顔のつくりと澄みきった肌は清潔感にあふれている。胸元から上方のみならば、青春に彩られたスポーツで輝かしく汗を流したあとにも見える。
しかし、個室の中にはなさけない下痢の臭いが充満していた。生娘じみて引き締まった両脚の間には、陰毛の茂ったむき出しの女性器と、直下の器に大粒の雫を垂らし続けている無様な尻がふるえている。
彼女の尻の底は、爆ぜ続けた下痢便で失禁にもまさらんほどに汚れていた。その健康的な頬のようにみっちりと張り詰めた二つの丸い肉は、油を塗られたごとくに照っている。肛門は疲弊しきり、赤く乱れたまま息も絶え絶えにひくついていた。繰り返された水洗で便器の底は直上の器官が淡く映るほどに清かったが、流れの届かぬ内壁は塗り重ねられた飛沫で黄土色にまみれていた。便器のふちや周りのタイル、真っ白だった靴下にも大量の汁が散り乱れ、痛ましい光景を晒していた。
「ふーーっ……んふーー……っふ……っ……、っっ……」
下劣をきわめた下半身と対照に、少女の眼には貞潔な理性の輝きがみなぎりだしていた。
同時に頬の灼熱は最高潮にいたり、唇が色の白むほどに押し合わされる。さらに肉を固く内へと揉みこむと、彼女はまぶたを圧しつぶりうつむいてしまった。
脳を埋め尽くしていた苦しみを出しきって取り戻された人格に去来する、大恥の自覚。
下痢を我慢できず、列に割り込んで個室へ飛び込み、最低の排泄音をトイレ中に鳴り響かせてしまった。
誰もが軽蔑の眼差しで使用中のドアを見つめていたに違いない。漏らさずにすんだことはもはや慰めにならなかった。彼女は身を震わせ、血がにじむほどに爪を膝へめり込ませながら、己への羞恥に悶絶していた。
通勤特別急行列車。
それに乗ってしまったことが、彼女が尊厳に直面する危機を迎えた原因であった。
平日の毎朝に数本、とある路線で運用されている急行の中の急行列車。始発駅を出てからこの駅に着くまで、それは実に三十分間止まることがないのである。車内にトイレはなく、発車に際し具合の悪い者は乗車を控えるよう警告さえなされる代物だった。
だが、人の体調は突然崩れるものである。少女がトイレに転がり込んできたのは、まさに当該列車が刻限通りに本駅へ停車した直後であった。彼女は特急の車内で腹を壊し、数十分間にわたって白い陶器で脳を満たし続けてきたに違いなかった。トイレへの猛特急と化した腹を必死になだめ、狂おしく便器を求める肛門を懸命に引き締め、生き地獄のごとき下痢の我慢を続けてきたに違いなかった。
この時間帯の電車はすべて満員で、数の少ない通勤特急はなおさらである。排便の絶対に許されざる空間で、彼女の大腸はそれを懇願しどれほどの回数蠕動を繰り返したか分からない。
その果てが獣じみたトイレへの突進であった。最悪の事態こそまぬがれたが、珠のような思春期の娘の尊厳は砕けずとも泥にまみれ、それは丁寧に洗われ、ぬぐわれ、そしてみがき直されることを要していた。
やがて目を開くと、少女は中腰で立ち上がり、肩に提げたままだったスクールバッグをドアにかけた。
そして便器と周囲の状況を確認してあえぐようにため息をつくと、いっそう股を広げてしゃがみ込み、腰から下を全裸にする勢いでスカートをたくし上げてトイレットペーパーを巻き取り始めた。
久方ぶりに水を流す音が聞こえると、ドアががたつき、かわいた音を立てて使用中の赤標が下がった。
開いたドアから姿を現した少女は瞳が見えないほどに深くうつむき、唇を押し固めていた。頬は紅潮しきっている。行列の先頭にいた女性は、その顔を冷たく見下げながら入れ替わりに個室へと入っていった。
足早に洗面所へ向かい手に水だけかけると、洗わず拭かず、髪も整えず彼女はすぐさま歩きだした。トイレを出て一息に通路を突っ切ると、彼女は飛び込むようにして雑踏へと身を投げた。数歩進むとようやく顔を上げ、周囲に埋もれきって赤い人型から離れていった。
折り目正しい紺色のブレザーに身を包み、模範的な頭髪をした女生徒の後姿。
彼女が下痢をしていると分かる者は誰もいない。
彼女がつい十分ほど前に暴発寸前の肛門を抱えてトイレに駆け込んだことなど、思いもつかない。
彼女が厚いスカートの奥にある尻をむき出して下痢便を大噴火させていたことなど、想像の余地もない。
ただ不思議な点は、彼女が靴下を履いていないことだった。
それでも、まっすぐな背すじからは後ろめたい理由など案じられない。
清潔そのものの後姿は、そうしてほとんど気を留められず別の路線への階段に消えていった。
この日起こったできごとは、必ずしも二度と見られぬ珍事ではなかった。
日々、幾本も到着する通勤特急列車。それに運ばれる無数の乗客の中には、途中で体調を崩す者がどうしても現れる。下痢はその典型である。どれほどに美しい女性や可憐な少女であっても、人間である以上、その可能性からは逃れられない。
不運にも車内で下痢をしてしまったとき、彼女たちの見せる様は誰もがほとんど同じである。
顔面蒼白で腹を鳴らしながら脂汗を垂らし、一秒でも早い駅への到着を祈り続ける。
密やかな煩悶に留まったにせよ、人生のかかった極限状態に至ったにせよ、ドアが開くまで堪えぬいたとき、彼女たちは例外なく同じ場所を目指して足を速める。ある者は己の恥を隠しつつ抑制し、ある者は思考の壊れた猛獣と化して階段を駆け下る。
向かう先は赤い人型。脳を埋め尽くす白い陶器。
しかし、楽園は厚い壁に囲まれている。
誰もが恥をかなぐり捨てられるわけでもない。
なにより、壁は突き抜けられても、終着点までの距離だけは縮められない。
このトイレにまつわる”いわく”は、おそらくはそうした状況が堆積して形作られていったものである。
<2>
私立女子名門進学校一年生・行列での悲劇
行列と特急の二要素が織りなす定点観察ものです。
この類の小説は私が昔に書いた『駆け込み寺』が初期の例であったかと記憶していますが、AJさんが多彩な作品で続いてくださり、大いに発展したように思います。サイトを応援するべく、今回、ささやかながら新しいアイデアを形にしてみました。
原則として章ごとに完結するため、今後、気の向いたときに一章ずつ公開してゆければと思います。現時点で五人ほど構想があり、試みとして次章の内容を予告してみました。