No.11「穢された朝(前編)」

 凛堂 朝香 (りんどう あさか)
 11歳 私立礼徒女子学院初等部6年A組
 身長:149.4cm 体重:39.7kg 3サイズ:69-53-74
 純白のリボンで結ばれた漆黒のポニーテールが美しい、凛とした女の子。

 ヒロインの物語開始直前一週間の日別排便回数(←過去 最近→)
 0/1/0/0/1/0/0 平均:0.3(=2/7)回 状態:健康

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  ガトン……ゴトン……ゴトン……

 残暑の続く街に秋の風が穏やかに流れ込んでゆく、九月の中旬。
 そのある朝の、午前七時半すぎ。とある東京郊外を走る列車の中は、ほど好い具合に混み合っていた。
 がたん、ごとん、という聞きなれた音に、学生たちの他愛ない雑談の声がまざる。
 互いが互いを気にすることなくめいめいの移動時間を楽しむ、平和で穏やかな朝の風景があった。

 が、ある車両の一範囲だけは、それとは少しだけ様相が異なっていた。
 頬を染め幸福そうに悶える、どうにも落ち着きのない乗客の姿が見られるのだ。
 それは、そこに朝風をまとう天使がいたからだった。

「……あの娘さ、かわいくない?」
 ある中学生の少年が、隣で漫画雑誌を読んでいる同じ制服に声をかけた。
「ああ――」
 隣の少年は、友人の視線を追いかけながら、今さら、といった感じに応えた。とっくに気付いていたからだ。
「――でも、あれ小学生だぜ? ランドセル見えないの?」
「いや、それは分かってるんだけど……」
 少年たちの視線の先に立っているその少女は、黒いランドセルを背負い、可愛らしい制服に身を包んでいた。おそらくどこかの私立学校の小学生だろう。
「小学生だろうがなんだろうが、かわいいものはかわいいな、と思ったんだけど」
「まあ、気持ちは分からないでもないが」

 その女の子は確かに、――と言うよりも、奇跡のように魅力的だった。
 彼らの眼に映る横顔はまさに美少女のそれで、窓の外を物憂げに眺める表情には貴族的な気品が満ちていた。
 殊に美しく印象的なのは、切れ長の大きな瞳。肌は透けるように白く、粉雪のような繊細な質感を遠くからでも感じ取ることができた。純白のリボンで結ばれた艶のある黒髪が天空からの朝陽を受けてきらきらと輝き、その光の質感もまた早朝の雪の輝きと似ていた。身長はさすがにまだ低かったが、すらりとしたその体躯は下手な成女のそれよりもずっと美しく洗練されて見えた。朝の香りの妖精。年など関係なく、人を魅了させるきらめきに溢れている。

「多分、て言うか間違いなく、どこかのお嬢様だな」
「まあそうだろうな」
 襟に紅いリボンが通された白いブラウス、美しく整った紺色のスカート。シンプルで清潔感あるデザインの制服が、永久に隙のない魅力をたたえる少女の身体を、さらに高い次元へと昇華させていた。
 どこかの私立の、いわゆるお嬢様学校の生徒だろう、と少年は感じずにはいられなかった。
 実際、十中八九そうだろう。庶民とは明らかに次元が違っていて、そもそも電車で通学していること自体が不思議だと感じられるほどであった。

「……それにしてもかわいいなあ。あの制服時々見るけど、どこの学校だろう?」
 うっとりしながら、少年は再び隣席の友人に尋ねた。
「なんだおまえ、知らかったのか?」
「え?」
「有名だぜ? お嬢様学校で」
「あ、やっぱり?」
「礼徒女子学院って言って――」
 少女の学校を知っていた友人の表情は、どことなく嬉しそうになった。
 冷静を装い興味の無いふりをしているが、やはり彼も少女のことが気になって仕方がないのだ。
 だから自分が友達よりも彼女について多くを知っていることに、優越感にも等しい幸福を感じているのである。

「親の学歴職業収入、家庭環境、本人の成績、噂では容姿も――全てが揃ってないと入れない」
「うわー……」
 呪文を唱えるかのような解説を聞くやいなや、少年は目を丸くして感嘆の声を上げた。
「すごいなあ……まさにお嬢様学校だ」
「実際、親は医者とか弁護士とか、そんな感じのばかりらしい」
 説明を聞きながら、少年は改めて遠くにいる少女を見つめた。
 背景知識が確立したことで、その姿はさっきまでよりもいっそう気高く見えた。ちょうど少女はため息をついていて、彼はそれを吸い込んでみたい衝動にかられた。

「……ああ、あと、教育の厳しさでも有名」
「どういうふうに?」
 めいめいに少女を見つめながら、少年たちは会話を続ける。
「たとえば――今どき、宿題を忘れると授業が終わるまで廊下に立たせられるらしい」
「へえー……それはきついなあ……」
「あと、これは中等部とかの話らしいから、あの子とはあんまり関係ないと思うけど、男女交際が発覚すると停学処分」
「うわ」
「他にも色々とあるらしいけど、とりあえず知ってるのはこんなところかな」
「すごいなあ……」
 少女を見つめたまま、話を聞いた少年は小さく肩を落とした。
 これでは仲良くなりたいという夢さえ持てそうにない。自分が座っている席と少女の立っている車両の隅との間のわずかに十メートルほどの距離が、あまりにも長く感じられた。……とても近づけそうになかった。いっそ詳しく知らない方が良かったのかもしれない。

「あの物憂げな表情が、いかにもお嬢様といった感じだなあ」
 少女が再びため息をつくのを見つめながら、少年は絶望的に憧れきった声でそう言った。
「何を考えてるんだろう」
「きっと、俺たちには想像もつかないようなことだろう」
「だよなあ……」

 ……それを最後に、少年たちの会話は途絶えた。
 ふいに、何を話せば良いのか分からなくなった。より正確には、この聖域に雑談は相応しくないと察知した。
 別の世界からふわりと舞い降りてきた天使。いま、奇跡と遭遇しているのだと気付いた。あんな美しい女の子には、きっともう二度と出逢えない。だから今は、ただ彼女の姿を見つめ、その輝きを少しでも鮮やかに脳裏に焼き付けておきたいと思ったのだ。

 そうして、いつしか彼女のいる車両は静寂に包まれていた。
 電車の揺れる、がたん、ごとん、という音だけが車内に響き続ける。
 彼女のいるこの世界においては、そのつまらない音でさえも美しい旋律に感じられた。
 車両全体が、甘く心地良い、しかし凛とさやける何かに満たされていた。空気さえ支配するほどの魅力。そこに立つ一人の少女は、あまりにも美しく、そして純潔で高貴な存在であった。


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 ――だが、それは事実の一側面にすぎなかった。

  ガトン……ゴトン……ゴトン……
「はぁ……」
 薄い桜色をした少女の唇から、再び小さなため息が漏れ出る。
 そのかすかな声は電車の揺れる音に飲み込まれ、自身にしか聞こえない。
 そしてまた、そのため息の理由も、自身にしか分からない。
 憧憬の視線を浴びながら戸の傍にたたずみ、どこか悩ましげな表情を見せている少女――凛堂朝香の実態は、周囲の想いからはかけ離れたものであった。

  ギュググゥ〜〜……
「ふぅ……っ……」
 ……実は、おなかの具合がおかしいのだ。
 少し前、この電車に乗った頃から、どうにも下腹部がしくしくと痛む。
 加えて胸やけにも似た不快感が胃を満たし、変な味のげっぷまで上ってくる。
 こういった症状につきものの強烈な欲求こそないが、明らかに朝香は腹の調子を崩していた。下痢にも似た胃腸の不調。このせいで彼女は物憂げな表情を見せ、時折ため息を漏らしていたのだ。

(わたしが……おなかを、壊すなんて……)
 少年たちは彼女の表情の理由を想像できそうにないと考えていたが、確かに想像もつかないことであった。
 大便など排泄しそうにない美少女。肛門があるのかどうかさえ疑わしい。この曇り顔の理由がこんなものだと知られたら、それこそ幻滅ではすまされないだろう。

  キュルゥゥ……
「っぁ……」
 だが、現実はこれだ。やはり彼女も人並みに大便をするし、時には腹を壊して下痢だってするのだ。
 たとえ外見が人形のように完成されて美しいとしても、その体内には胃や腸といった生々しい消化器官があり、その中には汚らわしく消化された食事のかすが溜められているのである。
 器官がある以上、時にそれが何らかの理由で乱れることも避けられない。
 腹痛、下痢、吐き気、嘔吐……。まさに今、朝香はその消化器官の不調に苦しめられているのだった。

(やっぱり、あの卵……よくなかったんだ……)
 そして、朝香はこの腹痛の原因に思い当たることがあった。
(……あの変なにおい……、やっぱり、傷んでたんだわ……)
 実は、朝食べた卵が少しおかしかったのだ。
 昨夜から父親が出張、母親が親戚の葬儀に出るために家を空けていて、留守番を任されていた朝香は自分で朝食の準備をすることになったが、運悪くいつもの食パンが切れていた。それで朝香は、冷蔵庫の棚の隅にあった卵を使って目玉焼きを作ることにした。ちょうど前日学校で卵料理の調理実習があったので、復習になるとも思った。
 が、その見た目からして色がくすみ古そうに見えた二つの卵は、割って中身を出すなり変な臭いを放った。硫黄のそれにも似た不快な臭い。見た目は特に問題なかったが、ちょっと普通ではなかった。
 ――それを、朝香は食べてしまったのだ。
 顔をしかめて捨てるべきか迷ったが、成長期の空腹に堪えられず、結局そのまま調理を始めてしまった。丁寧に火を通したら大丈夫そうだと勝手に思い込んでいた。
 そしてできた目玉焼きは、味はおそらく普通だった。
 そのため朝香は勝手に安心し、自分がちゃんと作れたことを喜びながら、一気に平らげてしまったのである。

  グピィ〜……ギュルルル〜……
「っふぅ……」
 ……その結果がこの有様だ。
 やはり駄目だったのだ。いつもの習慣で多めに塩をかけたせいで、味の異常に気が付かなかったのかもしれない。
 育ちの良さゆえの無知。朝香は自分の愚かさを強く後悔していたが、手遅れなのはもはや明らかだった。

(このままじゃ、本当に、おなかを下してしまいそう……)
 不気味な腹痛。間違いなく、朝香の腹は食あたりを起こしていた。
 いつ訪れるかも分からない激しい便意に脅えている状態だ。
 すでに腹痛の質は腹を壊している時のそれに酷似している。考えたくもないことだが、猛烈な便意が――下痢の症状が現れるのは、およそ時間の問題であるようにさえ思えた。

(いや……下痢なんて……。外であんな汚いことをするのはいや……。考えるのもいや……)
 潔癖症である朝香にとって、それはまさに最悪の事態だった。
 この調子でもよおしてしまったら、もう駅か学校のトイレで行為に及ぶしかなくなってしまうだろうが、それが胸詰まるほどに嫌だった。彼女は、自分の肛門に少しでも大便が付着していることに堪えられないからだ。時間をかけて丁寧に拭けば十分なはずだが、それでも我慢ができない。石鹸で徹底的に水洗いしないと落ち着かないのである。普段の彼女は自宅で夕食後に大便を排泄し、そのまま浴室へと直行しているのだ。
「はぁ……っ……」
 半泣き顔でため息をつく。
 下痢は彼女の願いを許してくれないだろう。しかも下った大便は派手に飛び散り、普段よりもひどく肛門が汚れる。それを水洗いせずに放っておくなどというのは苦行にも等しかった。想像するだけで股が気持ち悪くなる。

(もしこれで、学校でなんてことになったら……そんなことになったら……)
 スカートの中の細股を密かに擦り合わせて脅え震える。
 嫌悪には、一思春期少女としての心の問題もあった。下痢で汚れるのは体だけではない。

「……っ、」
 下痢をするという恥辱を思い描き、唇の内側をきゅっと噛み締める。
 公衆ないし共用のトイレで、周りに他人がいる中で大便を、それも激しい悪臭と恥ずかしい音を放つ下痢便を排泄する。それ自体が、十二歳の少女にとっては考えたくもない悪夢なのだ。
 殊に場所が学校なら、周りにいる者はみな自分のことを知っている同級生だ。もしそんな羽目になったら、もう恥ずかしくて死んでしまいたくなるだろう。それは純潔な自身の喪失にも等しかった。

(もし……。もし、またあんなことになったら。わたし……!)
 そして実際に彼女は似たことを経験したことがあった。心に傷痕があるがゆえに、ここまで脅えているのである。
 朝香はかつて、他ならぬ学校で人生最低の下痢をしてしまったことがあるのだ。


 二年前、小学四年生だった時のことである。

 ある日の四時間目の授業中に下痢に襲われた朝香は、家まで我慢しようと必死の思いで肛門を締め続けたものの、昼休みの最中についに我慢ができなくなり、教室の側のトイレに駆け込んで脱糞してしまったのだ。
 下した原因はいまだに分からないが、かなり酷い下痢で、朝香の大便は未消化物の混ざったドロドロの粥状へと変化していた。当然音と臭いも酷く、赤く膨らんだ肛門から吐き出されたビチビチの下痢便は、獰猛な破裂音と共に飛び散り、強烈な消化不良の臭いをトイレ中に撒き散らした。
 ……耐え難い恥辱だった。
 ただでさえ学校で大便をするというのが初めてな上に、爆発的な下痢。個室に入る前にトイレが無人であることを確認し、行為の最中もしばしば肛門を締めて耳を立て、周囲に人がいないことを確認していた朝香だったが、それでも惨めで惨めで涙が出そうだった。
 他ならぬ自分がこんなことをしているという事実に、幼くも敏感な精神を嬲り続けられた。所々に黄色いシミが付いてしまった靴下を裏返しに履き直し、さらに和式便器の縁や周りの床に飛び散った下痢便の飛沫を拭き取っている時などは、本当にあと少しで嗚咽の声を漏らしてしまうところだった。

 が、本当に朝香の心に傷がえぐり付けられることになったのは、そのあとに起こった事件だった。
 事を終え、やつれた表情でおなかをさすりながら個室から出た――まさにその瞬間、朝香はトイレに入ってきた同級生と遭遇してしまったのだ。一年生の時からクラスがいっしょで、朝香とは特に親しい間柄にある少女だった。屈辱的なことに、彼女は顔をしかめて鼻をつまんでいた。
 あまりにも不幸な偶然。目が合うと同時に、朝香の胸は明確に凍りついた。

 ……そして、そのあとのことはあまりよく覚えていない。自分が入った時はすでに臭っていたとごまかしたような気もするが、状況からして自身が犯人なのは、あまりにも明らかなことだった。文字通り、ごまかしようがなかったのである。訳の分からないことを口走って逃げ出したというのが本当のところだった。

 その後、朝香と彼女との交友は完全に途絶えることとなった。
 朝香は恥ずかしさで、友達は気まずさで、互いに全く会話ができなくなってしまったのである。
 そのまま時が流れ、今ではもう名前を知らない存在にさえ等しかった。


(いや……、考えるだけで死んじゃいたい……。ああいうのだけはもう、絶対にいやなの……!)
 思い出すだけで焦燥感が心に満ち、視界を黒く染め着けてゆく。
 朝香は目を潤ませて唇を噛み締めながら、股の上で重ね合わせている手の平をぐっと擦り合わせた。
 胸がずきずきと痛む。まさにトラウマだった。あの凍傷にも似た心の痛みだけは、もう二度と味わいたくない。

「……はぁ……」
 朝香は瞳を柔らかく閉じ、そっとため息をついた。
 歯磨き粉の甘い匂いをまとった吐息が、眼前の空間にふわりと広がる。
 可愛らしい唇の隙間から覗く前歯はどれも透き通るように白く、そして美しく整っていた。虫歯を作ってしまったことなどは一度もない。

  ……グゥッ!
「っ……、」
 腹痛にも関わらず背筋を垂直に保ち、決しておなかをさすろうとはしない朝香。
 美しく気高い少女。その心身の中を渦巻いている茶色い葛藤を、わずかたりとも外に見せようとはしない。
 何も知らない周囲は、相変わらず彼女の物憂げな表情の虜になっていた。
 その表情の裏に隠された真実を、いったい誰が想像することができるだろうか。

  ゴロゴロコポポポ……
(おなかが痛い……おなかが、気持ち悪い……)
 それにしても恐ろしいのは、腐った卵の威力だ。
 たった二個の卵、それもきっちりと火を通したにも関わらず、このおなかの痛み。
(わたし、馬鹿だった。傷んでいるのは分かりきっていたのに……!)
 目の前の恐怖から逃れようとするかのように、朝香は自身の愚かさをまた後悔し唇をきゅっと噛んだ。
 殻を割るなり鼻をついた、あの嫌な臭いが頭の中に蘇る。
 危険を感じながらもそれを食べ、結果として食あたりに苦しんでいる自分が、情けなくてたまらなかった。自らの稚拙な過ちで、他ならぬ己を窮地に追い込んでしまったという事実。朝香は自分自身に怒りさえ覚えていた。

 そして、感情にまかせて手を下腹に押し付けた時であった。
「……っ…………」
 急に朝香は目を細めて表情を切なく揺れさせた。
 同時にそれまで白く青ざめていた頬が、ほのかに赤く染まってゆく。
(だめ……駅まで我慢しなくちゃ……)
 なんということはない。おならがしたくなったのだ。
 熱い空気の塊が直腸へと流れ込み、便意にも似た不快な圧迫感を肛門に与える。
 これも不調のせいなのか、それとも単なる偶然なのかは分からない。が、いずれにせよここでしてしまうわけにはいかない。降りる乗換駅まではまだ十分ほどあるが、なんとか我慢できるだろう。――我慢しなくてはならない。
 朝香は絶対的に平静を装いながら、ただひたすら情けない思いで肛門を締め付け始めた。

 その些細なトラブルが、意に反して彼女に光明を与えることとなった。

(……っ、)
 それからすぐ、朝香はある感覚を思い出し、そして唐突にひらめいた。
 学校に行く前に便意を開放できうると気付いたのだ。

(こうなったらもう、駅のトイレで…………してしまうしかないわ……)
 実は、食あたりとは全く別に便意があった。
 とは言っても、放屁欲求に肛門が刺激されて初めて思い出したほどに弱々しいものである。絹糸のように細く透明で、これまでは無にも等しく知覚されなかった。
(本当におなかが下ってしまうよりも、先に、)
 その便意の元は、ある意味では当然だが、朝香の腸内に詰め込まれている大量の大便であった。
 実は朝香は、三日前の夜を最後に一度も大便をしていないのだ。便秘というわけではなく習慣で。彼女は三日に一度しか大便をしないのだ。
 そのために、今の大便を溜めきった朝香は、いわば二十四時間つねに便意を感じる状態になっていた。衣服のように自然体で下半身に便意をまとっていて、それゆえこれまで自身にさえも認識されなかったのだ。
 これが本格的に下り始める前に出しきってしまおう、と思いついたのである。

(……そうすれば、おなかが下ってしまっても……したくは、ならないはず)
 夜出す習慣が体に染み付いているせいで、今の便意はまったくもってか細いものだが、それでもおしりを出して便器にまたがって力いっぱいふんばれば、なんとか出せないことはなさそうだった。
 便意や腹痛といった下痢の苦しみの大元が腸内を荒れ狂う下痢便であることは、朝香も経験から知っている。そこから彼女は、下痢の元を断つという発想に至ったのだった。

(うん……。そうすれば……そうすれば、きっと学校でだけは……)
 朝香はささやかな安堵を覚えた。終始物憂げであったその表情に、初めてわずかな微笑みが浮かぶ。
 それと同時に、朝香に見惚れていた少年達もつられて甘ったるい表情を作った。
 朝香の魅力は、相変わらず場の空気を魅了し続けていた。
 ひとたび微笑めば、それで彼女は天使の翼を帯びる。天使の頬を一筋の脂汗が流れ落ちた。


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 電車はゆっくりと目的地へ進んでゆく。

「っ……ふぅ……」
 朝香はおなかの痛みに堪えかねて、また小さなため息をついた。
 それはやはり痛ましい行動であったが、今度の表情には少しだけの余裕も見受けられた。
 駅の公衆便所で大便をすること自体も本来なら耐え難い苦痛であるはずなのだが、もはやそんな想いは朝香の心から溶け落ちていた。……とにかく、学校のトイレで下痢をする羽目にさえならなければそれでいい。
 まさに、背に腹はかえられない状態であった。

「はぁ……」
 目をつぶり、もう一度ため息をつく。
 まさか自分の情けない習慣に救われるとは思わなかった。
 三日に一度しか大便を排泄しない習慣。それは朝香にとって、心から情けなく感じられる習慣だった。
 便秘というわけではないし、好きでやっているわけでも、元々の体質でもない。理由があって強引に便意を抑え込んでいる内に、それが定着してしまったのである。その理由を、朝香は情けないと感じているのだ。


 そもそも全てのきっかけは、四年生の時のあの事件であった。
 もともと朝香の肛門の洗い方は、石鹸をわずかに塗った指の腹で軽く表面を二三回ほど撫でるだけだった。が、事件をきっかけに今の激しい洗い方に変化してしまったのである。

 あの日、昼休みにトイレで下痢をしてそれを友達に知られてしまった朝香は、家に帰るなり浴室へ直行し、気が狂ったような勢いで肛門を洗い始めた。石鹸を厚く塗りたくった指の腹で何度も何度も荒く肛門をこすり、さらに指先を穴の中に挿入し、粘膜が痛むのも関わらずかき乱したのである。――それを十分以上も続けた。全てが初めてのことだった。
 なぜそんなことをしたのか。
 排泄から何時間もの間ひたすら我慢していた純潔欲求が爆発したというのも大きな理由である。が、それ以上に、友達に下痢を知られたという事実から逃避したかったのだ。汚物と共に記憶も体から洗い流そうとしたのである。

 ……だが結局、体は綺麗になれても心は綺麗になれなかった。
 当たり前のことである。が、朝香はどうしても綺麗になりたかった。それで以後は毎日のように、その激しい洗い方を続けるようになった。――それがそのまま習慣として定着してしまった。

 一週間も経つ頃には心の傷もだいぶ癒えてきたが、朝香はもう、元の洗い方に戻ることはできなかった。
 前の洗い方では汚れが取れきっていないと感じられ始めたのである。……汚い気がする。潔癖症がエスカレートしてしまったのだ。そうして、朝香は痛ましい日々を積み重ねていった。


 新しい洗い方に無理があることに気付くまでには、そう時間はかからなかった。
 ある日を境に肛門が痛み始めたのだ。その程度は日を追うごとに着実に重くなっていった。
 だが、それで朝香も迷いが生じ始めたが、やはり前の洗い方には戻れなかった。その間にも、痛みはどんどんと激しくなってゆく。やがて大便を出すのが苦痛になり、涙までも瞳に浮かぶようになったが、それでも朝香は止められなかった。

 そしてついに朝香は、触ることすらできないほどに酷く肛門を傷めてしまった。
 高貴な彼女にとってそれは頭の中に思い描くのさえ恥ずかしい言葉であるが、すなわち痔になってしまったのだ。

 痛みに耐えられなくなり、やむをえず洗い方を戻した朝香だったが、時はすでに遅く、その後一週間以上にわたって凄絶な肛門の痛みと闘わなければならないことになった。
 特に大便を排泄する時は地獄で、荒れた粘膜が硬質便に擦られて生じる激痛に大粒の涙を流しながら、それでも必死にうめき声を抑えつつふんばるという、十歳の女児にはあまりに過酷すぎる苦痛を味わうことになった。……しかも、痛くておしりを拭けないのだ。肛門の炎症は大便を排泄する時に微量の出血が生じるまでに酷いものとなっていたが、それをペーパーに吸い込ませるので精一杯であった。とてもではないが粘膜に付着した大便を拭い取ることなどできない。その意味でも、潔癖症の朝香にとってこの痔はまさに痔獄であった。

 それは当然、肛門の炎症をさらに悪化させる結果となった。発症四日目からは肛門がかゆくてたまらなくなり、やがて下着に膿が付着するようになった。大便の排泄の方は三回目でこり、以後はむりやり便意を我慢する状態が続いていたが、全くもって手遅れだった。
 六日目からは肛門の激しいかゆみのせいで一睡もできなくなり、八日目にとうとう朝香は凄まじい頭痛を伴う発熱で倒れ、学校を欠席することになってしまった。限界を超えて蓄積されたストレスと疲労に、体が音を上げてしまったのだ。


 母の手によって手厚く看病された朝香であったが、発熱と頭痛の症状は酷くなる一方で、その日の夕方には熱が四十度を超え、さらに昼に食べたものを全て戻してしまった。繊細な女児の肉体は、もはや酷すぎるストレスに耐えられなくなっていたのだ。朝香も狂いそうになる意識の中で、それを自覚していた。
 娘の様子が明らかに普通でないことに気付いた母はとうとう救急車を呼ぶことを決意したが、その時になってついに朝香は、泣きながら自身の病の真相を告白した。嗚咽を漏らしながらズボンとショーツを下ろし、汗で濡れきっている小さなおしりをむき出し、そして乱れた肛門を母の眼前に晒したのだ。
 朝香がパジャマ姿のまま車に乗せられ肛門科に連れて行かれたのは、それからすぐのことであった。

 病院に着いた朝香は、男性の医師に肛門を入念に検診されることになった。
 母と看護婦の見守る中、指示されるままにベッドの上に四つんばいになって傷んだ肛門を突き出し、ライトを当てられ、また拡げられ、さらには粘膜を触られた。……惨めでたまらなかった。単純に肛門を見られるだけでも死に等しい羞恥であるのに、今は痔になっているのである。家のベッドで枯れるほど涙を流したというのに、少しでも気を緩めたら、再び頬に滝ができそうであった。

 そうして一通りの検診が終わると、朝香は下半身裸のままでベッドに座るよう指示をされ、今度はこれまでの経緯を根掘り葉掘り訊かれ、そして厳重な注意を受けることになった。その最中に、朝香は顔を覆って大声で泣きだしてしまった。たえられなかった。自分のしてしまった過ちが恥ずかしくて、痔に悩んでいる自分が恥ずかしくて、そして今の自分を包んでいる状況の全てが恥ずかしかった。情けなくて情けなくてたまらなかった。医師の言葉の一つ一つが胸に突き刺さり、痛くて痛くて胸が張り裂けそうだった。

 やがて落ち着いた朝香は改めておしりを突き出して肛門を消毒してもらい、薬を塗ってガーゼを当ててもらい、その薬をそのまま処方してもらって帰宅することになった。
 以後、四日間連続して学校を欠席し医院に通う日々が続いたが、さすがに専門家の治療と薬だけあって症状はどんどんと快方に向かい、一週間でほぼ完全に朝香の肛門は健康を取り戻すことができた。


 ただ診療はそれで完結したわけではなく、それから朝香は、最後に浣腸をされることになった。
 痔のせいで大便ができなくなってしまった朝香。実に十日以上も便意を抑制し続けていた彼女は、ようやく排便可能な状態となったものの、今度はひどく便秘をしてしまっていたのだ。
 お浣腸。――生まれて初めてのそれに、幼い朝香は強い羞恥と恐怖を覚えた。その使用を示唆されるなり母に抱きついて拒絶を見せ、自身に排便能力がないことを自覚してしぶしぶ了承したのちも、直前まで子供らしく嫌がり続けた。
 ……だが。意外にもそれは予想よりずっと楽なものであった。予め穏やかな下剤を飲まされ、さらに肛門付近で固まっていた岩質便を丁寧に摘除しておいてもらったおかげで、朝香は全く抵抗なく十日分の大便をゆるゆると出すことができたのだった。薬液が腸に回るまで便意を抑えるのはさすがにつらかったが、それも聞かされていたほどではなかった。

 むしろそれは、膨大な開放感を伴う、信じられないほどに気持ちの良いものであった。
 腸内に溜まった老廃物が外に出てゆくのが本能的に気持ち良く、肛門が痛くないのが気持ち良く、何よりも、ブリブリと音を放ちながら肛門を滑り出してゆくなめらかな感触が鮮烈に気持ち良かった。
 おしりから波動が出て全身が浮かび上がり空に飛んでゆくかのような、極めて本能的な快感。排泄が始まるなり朝香は頭と視界が真っ白になり、恥ずかしいという気持ちすら溶けてしまった。何も考えずにおしっこまで出してしまったほどだった。視界が再び焦点を結んだ時、たてすじをタオルで押さえられているのに気付いたが、一瞬、それがなぜだかも分からなかった。まるで夢を見ていたようだった。便臭さえ気にならない。その後はウェットティッシュで肛門を拭いてもらったが、そのくすぐったい感覚もまた、すごく気持ちが良かった。
 やがて看護婦に体を支えられながらふらりと立ち上がった時に、自分が産み出した軟便の量があまりにも多すぎて肛門にあてがわれていた洗面器から溢れ出し、施術台の上に広がって、さらにその下の床にまでも垂れ落ちていることに気が付き、それで朝香はようやく数分ぶりに羞恥を覚えた。が、その程度は小学四年生の女の子にしては弱いものだった。すでに真っ赤に染まっていた頬。彼女の瞳はまるで幼稚園児だった。実際、それ並にまで意識が鈍化していた。全身に響き続ける開放感に酔っていた。絶対的な快感の前には、潔癖症さえなくなる。神秘的な体験であった。

 そうして、朝香の恥ずかしい二週間は終わりを告げることになった。
 おしりもおなかも健康に戻り、ようやく元の美しく完全な自分に戻れる時が来たのである。
 お世話になった医師に頬を染めながらお礼を言い、もう二度と肛門を傷めないことを約束し、そして朝香は軽やかな翼でも得たかのような幸せそうな表情で、夕暮れの街を家へと帰っていった。

 それで全ては終わったかのようだった。
 ……だが。あの日焼き付けられた彼女の心の痛みは、これでもなお消えてはくれなかった。


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 喉もと過ぎれば熱さを忘れる。

 一月も経たない内に、朝香はまたもや肛門を激しく洗いたい衝動に駆られ始めた。
 軽く撫でるだけでは、やはりどうしても満足できないのだ。完全に綺麗にできたような気がしない。まだ大便の微粒子がこびりついているような気がする。もっとぐいぐい洗いたい。肛門の奥にも石鹸を塗り付けたい。欲求不満が膨らんでゆく。
 それで結局、しばらくの間は我慢できていたが、さらに一月も経たない内に、朝香は再び洗い方を戻してしまった。
 ……彼女は肛門科だけでなく、精神科にも行くべきだったのだ。

 しかし、もちろんあんな地獄はもう二度と味わいたくない。
 そのため、洗い方を戻してからからすぐに、朝香は激しい葛藤状態へと陥ることになった。
 肛門を激しく洗えば純潔欲求は満たされるが、再び痔の苦しみを味わう羽目になる。肛門を薄く洗えば痔になることはないが、自身が穢れているという汚感に一日中付きまとわれる。――二項対立。朝香の心を苛む病的潔癖症は、再び過酷な想いの衝突を彼女の中に作り出したのである。

 ――だがそれでも結局、朝香は行為を止めることができなかった。
 大便を出し終えて脱衣所に行き、裸になって浴室に入ると、体が勝手に肛門を激しく洗い始めるのだ。下着を脱ぎながら今日は止めようと誓っても、気が付いたら肛門に手を伸ばしてしまう。粘膜が痛いにも関わらず、指先でしつこく石鹸を擦り付けてしまう。どうしてもやめられない。
 そんな自分が情けなくて情けなくて仕方がなかった。狂おしい焦燥感と自身の不甲斐なさへの怒りに悶え苦しみながら、浴室での朝香はひたすら愚かな行為に耽っていた。

 おしりの穴が再び痛みを発し始めるまでに、そう時間はかからなかった。
 そして、それこそ情けない話だが、そこにきてようやく朝香は強い後悔の念に指を縛られることになった。
 このままでは、再び治療を要する痔になってしまう。朝香は赤面して悶えた。それは医師との約束を破ることだったからだ。もう肛門を傷めないと約束したにも関わらず、今の自分は再び過ちを繰り返そうとしている。彼女は生まれてから一度も誓いを破ったことがなかった。破りかけたことさえ初めてだった。
 朝香は壮絶な自己嫌悪に陥り、決意を新め潔癖に抗い始めた。

 だが、本当に彼女が苦しむことになったのは、むしろそれからだった。
 激しいストレスに悶えながらも欲求を堪え続け、朝香はなんとか自力で肛門を回復させた。が、今度は溜まりきった欲求に飲み込まれ、かつてなくめちゃくちゃに肛門をいじくりまわしてしまったのである。それを愚かにも連日続け、またもや粘膜を痛めてしまった。それからは再び痛烈な自己嫌悪、そして我慢の再開。だが、肛門が治るとまた……。
 ――そんな情けない連鎖を、朝香は続けてゆくことになったのである。
 ただ約束だけは守りながら。……結局、あの通院は序章にすぎなかったのだ。


 つらくて惨めで情けなくて、しかしあの昼休みを思い出すたびに身体が震えて衝動が沸き起こって。
 そうして朝香は肛為に喘ぐ恥ずかしい日々を重ねてゆくことになった。

 自分の情けなさに時には涙さえ流しながら、しかし指を止められず、濡れた浴室にくぐもった音を響かせる朝香。
 大便座りで股を大きく開き、穴をひくつかせながら、その皺から粘膜までをぐちゅぐちゅと指先で擦りまわす。……誰にも言えない行為。自分が恥ずかしくてたまらなかった。一度は理解してくれた親にさえ、もう絶対に言えなかった。

 現状に嫌気がさし、永続的に抑制を続けようと試みたことも何度もあった。
 手を壁に叩き付けたり、肛門を思いきりつねって痔の痛みを思い出したりして、必死に指の暴走を止めようとした。しかし結局最後はいじっていた。最長で一ヶ月我慢し続けたこともあるが、最後の日には気が付いたら一時間以上も肛門をいじくり続けていて、その夜、朝香は一晩を布団の中で泣き明かした。

 最悪にも肛門が痛い状態で腹を下し、壮絶なストレスで熱を出して倒れてしまったこともあった。
 おまけに下痢は数日続き、しかしそうやって汚れに汚れてゆく自身の肛門を洗うことができず、膨れ上がった欲求に胃を乱され、ついに嘔吐までしてしまう始末だった。少しでも気を紛らわせようと朝から晩まで汗まみれの手で尻肉をいじり続け、つるつるの白肌に血の滲む炎症さえ作った。

 痛ましい闘い。幼少期にできた傷痕が昼休みの悪夢に切りなぞられ、そして化膿を起こした結果だった。
 化膿を起こした傷は痛いだけでなく気持ちが悪い。朝香の苦しみは、まさにそれであった。
 朝風のように繊麗に輝く相貌で、常に人々から憧憬を浴びる朝香。しかし彼女の下半身――そのおしりの穴は、かくも無様な状態に陥っていたのである。最低の秘密。最悪の二項対立。朝香は可憐な神経を日々すり減らしていった。

 そしていつしか、朝香は三日に一度しか大便をしないようになっていた。
 いつ頃からそうしだしたのかも、意識的に始めたのかどうかも、全く記憶していない。とにかく、便意を抑制するようになっていた。おそらく、肉体が本能的にそうさせたのだろう。毎日繰り返すと肛門を傷めてしまう洗い方でも、三日に一度ならたいした刺激にならない。これなら、大便のたびに激しく穴を洗っても、痔になることを恐れないですむのだ。
 そうして、欲求と痛みとの葛藤は収束に向かった。

 だが、もちろん朝香はそれで満足などできるはずもなかった。
 根本的な解決になっていない上、明らかに肉体に無理をかけているからだ。浅はかな手段なのである。朝香は、はっきりとそれを自覚していた。目前の苦しみからこそ解放されたが、結局、彼女はむしろいっそう自分のことを情けないと感じるようになってしまったのだ。


  ガトン……ゴトン……ゴトン……

 ――そして、今に至る。
 この習慣が始まってからだいぶ時間が流れたが、いまだ朝香は本当の解放と出会えてはいない。

(学校でせずにすめば、それでいいのだから……もうどうなっても……)
 靴の中の爪先を小さく擦り合わせながら、切ない想いで窓の外の景色を見つめる朝香。
 もう何ヶ月も続けている、情けなくて情けなくてたまらない習慣。
 こんなものが反転して光明となったのは、全くもって皮肉な話であった。

  グウゥゥゥ〜〜〜……
「……すぅ、……はぁ……」
 おなかの痛みは、ますます重くなりつつあった。
 がたん、ごとんという電車の揺れ、そしてその振動の音までもが下腹部に重苦しく響きわたる。
 物憂げな朝香の表情には、時折苦しげな色が浮かぶようになってきていた。

(早く……)
 もう一刻も早く腸の中身を出してしまいたい――。
 膨らみゆく腹痛に押され、茶色い想いがどんどんと切実な域に膨らんでゆく。
 朝の風を帯びた列車は、ただいつも通りに、ゆっくりと目的地に向かって走っていった……。


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「中里ー、なかざとー、東央線ご利用のお客様はお乗換えです」
 あれから十分後、朝香を乗せた列車は予定通りに乗換駅へと到着していた。
 ドアが開くや乗客の過半数が車両からホームに降り立ち、慌しく階段の方へと移動を始める。
 しかしそんな中、朝香だけは、流れから外れてホームの端へと向かっていった。

「く……ふ、……うぅ……っ」
 険しい表情で、両手をぎゅっと握り、全身を強張らせながら早歩きで震え急ぐ。
 情けないことに、おならが漏れそうなのだ。
 便意は依然として穏やかだが、放屁欲求の方はこの十分の間に累乗的に増大してしまったのである。あと少しで、車内でやってしまうところだったのだ。

「――っ!」
  ブウッ! プウウゥ〜〜〜ッ! ブブブッッ!
 無人の最端へ辿り着くやもう我慢できなくなり、勝手に肛門が緩んで次々と放屁してしまった。
 音域の高い、下品と言うよりは可愛らしい響きのおならであった。切なげな表情で腰を固めて屁を連発する朝香の姿には、どこか普段とは異なる素朴な趣きがあった。

「はあ、はぁ、はぁ……」
 今朝の卵にも似た、強烈な硫黄の臭いが漂い始める。
 あくまで平静を装いながらも、朝香は息を乱し、頬を真っ赤に染めて打ち震えた。
 誰にも見咎められていないとはいえ、このような公の場所でおならを出してしまった。家でする時でさえ恥ずかしくてたまらなくて、自室の隅に逃げてこっそりとするのに。

「……く……っ」
  ブビゥゥゥーーーー……ッ
 だがそれでも本能には逆らえず、朝香はさらにもよおし、情けない放屁を重ねてしまった。
 燃えるような赤が耳まで走る。長い我慢の間に、かなりの量のガスが直腸まで下ってきていたらしい。自身のはしたなさに唇を噛みながら、朝香は肛門から不快感を搾り出していった。

「ぁ……、」
 休む間もなく、ぴくりと背筋を震わせる。
 今ので屁意は収まったが、今度は便意が急に膨らみだしたのだ。
 ただし、下痢の感覚ではない。眠っていた硬質の便意が、おならの音で目覚めたのである。

(急に……したくなってきた……)
 内からの太く逞しい圧迫感に、朝香は肛門をすぼませて頬を染め重ねた。
 糸のようにはかなかった便意が、ロープのように猛々しいものへと変貌を始めた。
 どっさりと出せそうな感覚。おしりの穴がもわもわしてきた。人肌のガスを排泄したことで、排泄器官たる肛門が刺激を受け活性化したのだ。ふだん家で大便をする時の便意だ。

 周囲に誰もいないのを改めて確認しながら、恥ずかしくなった頬と呼吸を整える。
 ホーム中央の階段をきっと睨むと、朝香は下にあるトイレを目指して足早に歩きだした。


(やだ……。こんなに混んでるの……?)
 ラッシュ時の乗換駅だけあって、女子トイレの中はだいぶ混雑していた。
 個室の全てに行列ができていて、いずれも五人以上から成っている。
 しかし別のトイレなど思い浮かばないので、朝香はしぶしぶ最寄の列に並んだ。
 こんな場所で大便をするのはとんでもなく恥ずかしいことだと改めて感じたが、覚悟をきめるしかなかった。

「ふぅ……」
 誰にも聞こえないように、小さくため息をつく。
 腹痛もだいぶ重くなってきていた。内臓がきゅうっ、と縮まる感覚がし、嫌な味の唾が口の中に広がる。
  ゴロゴロゴロロロ……
(おなかが痛い……)
 もう、いつ本格的に下ってきてもおかしくないといった質感の痛み。
 それでも朝香は絶対におなかをさすらず、健気に背の垂直も維持し続けた。

 それからすぐに、上のホームからガタガタと大きな振動音が聞こえてきた。
 同時に電車到着のアナウンスがトイレまで響く。早くも次の電車が来たようであった。
(もっと、おトイレを増やせばいいのに……)
 今の時間帯は数分おきに電車が来て大量の乗客を吐き出すのだから、長い行列ができるのも必然である。
 朝香はぼんやりと心の中で不満を漏らした。

 ――その直後であった。

  ドタドタドタドタドタッ! ドタンッッ!!
(――え!?)
 突然、物凄い勢いの足音が後ろ――トイレの入り口の方から轟いてきた。それは直後に、朝香の真後ろでひときわ大きな音と共に停止した。
 そして何事かと思って後ろを振り向いた朝香は、その音の主を見て驚き固まることになった。

(う、うそ……?)
 そこに仁王立ちしていたのは、朝香と同じ制服に身を包んだ少女。――同級生の栗原楓であった。
 初等部バスケットボールクラブ部長兼エースの、クラスで一二を争うスポーツ少女である。やや栗色がかった髪を礼徒に於いては珍しく少年のように短く切り揃えているのが彼女のトレードマークだった。それに加えて胸以外の肉付きが良く、また肌が健康的な小麦色であることもあって、その外見はいかにも体育会系といった感じであった。
 朝香は彼女のことをよく知っていた。朝香の特に親しい友達の中の一人で、彼女が甘い好意を寄せている相手でもあったからだ。健康を絵に描いたような力強い少女。

 ――だが、その様子は明らかに普段とは違っていて異常だった。
 まず表情がいつになく険しく、加えて青ざめて大量に汗をかいていた。白いブラウスに汗が染み込んでいるのさえ、はっきりと分かる有様である。苦しげに歪められた顔からは何か切羽詰っている事情があろうことが克明に見て取れる。彼女がこれほどに険しく顔を歪めているのを、朝香はかつて見たことがなかった。
 全力疾走してきたこともおかしかった。ボーイッシュで活発な彼女といえど、礼徒の子女としての礼節はわきまえている。試合中なら話は別だが、日常生活に於いて、しかも多くの人がいる公の場所に於いてあんなはしたない走り方をするなど、百歩譲っても考えられないことであった。
 何より、そもそもいま彼女がここにいること自体が変だった。楓は飼育委員を務めているため、毎朝六時半に登校しているのである。すでに八時近くの今は、普段の彼女なら学校で好きな詩集でも読んでいるはずなのだ。朝香は以前、彼女と二人きりになりたくて早朝登校に挑戦してみたものの、名前の割に朝に弱くて一週間で挫折したことがある。

「……あ!」
 停止している朝香。楓は彼女と目が合ってその存在に気付くなり、瞳を丸くして蒼白の頬を真っ赤に染めあげた。
 と同時に、両手をスカートの前で重ね合わす。そうしながら彼女は素早く朝香の隣の列に並んできた。

「り、凛堂さん、おはよう……」
「お、おはようございます」
 困惑している朝香がどうすべきか悩み始めるよりも早く、楓は小さな声で挨拶をしてきた。つられて朝香も挨拶を返したが、なぜか他人行儀になった。紅く染まった楓の表情は切なそうに震え、恥ずかしさでいっぱいという感じであった。
「変なとこ見せちゃって、ごめん……」
「え? ううん、……そんなこと、」
 さらに楓は無理矢理に笑顔を作りながら、言葉を続けた。
 朝香も戸惑いながら、曖昧に返事をする。楓の頬が汗で濡れているのがはっきりと見えた。

 ……そこで早くも会話が途絶えた。
 楓はつらそうに顔を伏せ、朝香もつい目を逸らしてしまう。

(……どうしよう……)
 朝香は困惑しきった表情で手をもじもじと擦り合わせた。
 このままでは大便ができないという危機感がまず第一に生じたが、それ以上に楓の様子が気になる。明らかにただ事ではない。どうすればいいのだろう。……分からない。腹を苛む便意。こんな時に突如現れた憧れの人。その様子は異常。朝香の心は完全に消化不良を起こしてしまっていた。
(…………)
 悩みながら、どこか疲弊した色さえ感じられる楓の顔をこっそりと横目で見つめる。
 まるで近づく者全てを拒んでいるかのような重苦しい雰囲気。両手でスカートの裾をぎゅっと握り、体をわずかに前に傾けて小さく震わせ、そして遠く前方を睨みつけている。彼女の様子は、その表情が険しいこともあって、まるで何かに怒っているかのようであった。そう感じるやいなや、今度は唇が噛み締められる。朝香は両手を胸に押し付けて縮み震えた。自分より五センチは背が高い楓。その激しい様相に、小さな朝香は脅えてしまっていた。

「栗原さん、汗をいっぱいかいているけど……、もしかして、具合でも悪いの……?」
 しかしそれでも、このまま沈黙を続けることなどできそうにない。
 朝香は喉をごくりと鳴らすと、今度は自分から口を開いた。
「……うん……」
 数秒遅れて、色がくすみ始めていた頬を再び燃やし染めながら、楓は小さくそう答えた。
 本当に調子が悪いらしい。その答えを補うかのように、彼女の頬を大粒の汗が流れ落ちた。
 ――その時であった。

  グググウウゥゥゥ〜……
「っう……っ!」
 突然二人の間に重苦しい音が鳴りわたり、楓が両手でおなかを抱え込んだのである。
 一瞬、朝香は自分から発せられた音かと思ったが、楓の姿を見てすぐに彼女の腹が鳴ったのだと気が付いた。
 そしてそれを認識した瞬間、二重の意味ではっとした。
(……やだ……。まさか……)
 気付いてしまったのだ。ある、本来明白だったはずの事実に。
 楓の様子は何もかもが異常だったが、今の新しい異常によって、それら全てが一点に集約された。
 よくよく考えてみれば、顔が青ざめるほどに体調を崩している人間が全速力でトイレに駆け込む理由など、二つしか考えられない。うち一つの場合はこれどころではすまされないだろうから、そうするともう答えは一つしかないのである。思考回路が下痢をしてしまっていたために、こんなことにさえ朝香は思い至れずにいたのだ。

「……実はちょっと……ゲリ気味なんだ……」
(っ……、)
 そして数秒の苦悶の後に楓の口からそっと出た言葉は、まさに朝香がいま思い当たったことであった。
 ――下痢の告白。その恥ずかしい言葉通り、楓は腹を下してしまっていたのだ。それで彼女は電車がホームに着くなり、あれほど慌ててトイレに突撃してきたのである。
 相当切羽詰っていたのだろうし、今もそうなのだろう。おなかを抱えたままの楓。険しい顔で全身を強張らせているその姿からは、便意と腹痛がだいぶ激しい域であろうことが手に取るように分かる。今になって告白してきたのは、もう隠せそうにないと悟ったからであろう。一定以上に激しい便意を我慢するためには、どうしても自身の行動を露骨にせざるをえない。
(……おなか、下してるんだ……)
 あの逞しく美しい栗原さんが、惨めに腹を壊している。朝香は色々な意味でショックを受けたが、何よりも大好きな人が酷く体調を崩しているその姿に心を痛めた。こうなるともう、今は自分の食あたりどころではない。

「そうなの……さっき顔色真っ青だったけど、大丈夫……?」
「だいじょばない……もうピーピーだよ……」
 さらに朝香が尋ねると、楓は吐き捨てるように小さくそう言い放った。
 かなり具合が悪いらしい。朝香は胸がずきりと痛むのを感じた。
「……ごめんなさい……」
 わずかに遅れてようやく言葉を絞り出す。
 心から同情を感じ始めた朝香だったが、その想いをどうやって彼女に伝えればいいのか分からなかった。そもそも伝えるべきかどうなのかも分からない。
 ――そうして二人の会話は再び止まってしまった。

  ピーー……ゴロゴロキュルルゥゥゥ……
「っ……ぅ……!」
 すぐにまた、楓はゴロゴロと鳴るおなかを苦しげにさすり始めた。
 内股中腰でそんなことを繰り返しながら個室のドアをただひたすら凝視している彼女の姿は、もはや下痢以外の何物でもなかった。
(……、っ)
 あまりに痛ましい姿を見ていられなくなり、朝香もつい彼女の視線の先を追ってしまう。
 本当に、こんな彼女を見たくなかった。自身のそれだけでなく他人の排泄行為まで強く忌避している彼女にとって、憧れの相手が惨めにも下痢をしているなどというのは本来考えたくもない悪夢なのだ。
 大好きな人が情けなく腹を下し、そしてこれから、その綺麗な体からあの臭く汚い下痢便をブバブバと排泄する。
 ……そんなのは、泣きたいほどに嫌なことだった。本当ならおしっこさえしてほしくない。親愛の情のおかげで嫌悪こそ感じずにいられるが、行為が始まってしまったら幻滅を覚えてしまいそうで怖かった。朝香は切ない表情で頬を染め、きゅっと唇を噛んだ。ちらりと楓に視線を戻すと、突き出された尻が震えていることに気付いた。……あれが、これから暴れ狂うのだ。朝香は即座に目をつぶった。

  グリュリュルルルゥゥ……グリュ、ゴポコポッ……
「…………ふぅ……」
 そのまま朝香が脅えていると、ふと楓の表情がわずかではあるが穏やかなものに変わった。
 どうやら便意の波がひとまず去ったらしい。楓は大きく曲がっていた背筋を少しだけ元に戻した。
「今日ね、朝からなんだかおなかが変で……家出る前も、ずっとおトイレにいたんだ……」
「え……」
 そして沈んだ表情で、再び楓は自身の下痢について告白を始めた。
 内容が平然と具体的なのは、彼女が素直で何でもはっきりと話す性格であるというのもあるだろうが、おそらくそれだけではないだろう。彼女も自身の苦しみを朝香に受け止めてほしかったのかもしれない。
「昨日の夜、お姉ちゃんといっしょに外で食べたケーキが変な味だったんだけど、やっぱりそれにあたっちゃったみたいで……お姉ちゃんも朝からすごいおなか壊してて、二人でうちの一階と二階のおトイレ……占領しちゃった……」
「……そう、なの……」
 そして朝香は信じられないほどに恥ずかしい事実を伝えられて再び固まってしまった。
 楓もまた食あたりらしいという話には同情の念がますます強まったが、それ以上に、すでに彼女が下痢を出してきたという事実が胸に突き刺さった。もう楓は汚れてしまっていたのだ。憧れが茶色く染まってゆく。鼓動を知られるのが怖くなった。

「……あ、だからこんな時間に……?」
 ほとんどわけも分からず、朝香は会話を続ける。
「そう……一時間ぐらいずっと……おトイレから離れられなかったから……」
「そんなにひどいの……?」
「だからピーピーだって言ったの」
「ごめんなさい……」
 しかしどうにも会話が噛み合わない。
 互いに気まずい状態で話しているのだから当たり前であるが、そんなことも分からず朝香の心はどんどんと傷付いていった。彼女が下痢をしているという事実の残酷さに、自分もまた下痢をしかけていること――そして自分がこれから大便をするつもりだということだけは絶対に知られたくないという切実な想いまで混ざり、朝香の清潔すぎる思考回路をめちゃくちゃに乱してゆく。――そうして朝香は再びうつむいてしまった。

「ごめん……なんだか汚い話しちゃって」
「……ううん、そんなこと……傷んだもの食べちゃったら、しかたないよね……」
 しおらしくなってしまった朝香を見て申し訳なく思ったのか、慌てて楓は謝った。
 目を合わせることができず、うつむいたまま朝香は答える。その最中に、楓の靴下に黄土色の斑点が付いていることに彼女は気付いてしまった。家のトイレは洋式のはずだから、どうやらここに来るまでに少なくとも一度は途中下車してトイレに駆け込んだようである。朝香はぞっとして震えた。小さなシミとはいえ楓の汚物を見てしまったこと、そして彼女の下痢の酷さに。楓は明らかに無理をして家を出てきていた。

「……そう言えば、お姉様は大丈夫なの?」
 朝香は突きつけられた事実から逃れようとするかのように、話題を楓自身から離した。
 楓の姉は三つ上の礼徒中等部三年で、そちらの方のバスケ部のキャプテンを努めていた。
 外見はまさに三年後の楓の予想図といった感じで、朝香も今までに何度か挨拶をして胸を高鳴らせたことがあった。もちろん、さすがに世界が違うので親愛になりたいという気にはなれない。
「ううん、わたしよりずっと酷くて、いま家で寝てる……。わたしはケーキ一つしか食べなかったんだけど、お姉ちゃんは二つ食べたから、そのせいだと思う。……お姉ちゃんはゲリだけじゃなかったし……」
「だけじゃないって……?」
「……吐いちゃったんだ、ケーキとか昨日食べたもの全部」
「っ……! ごめんなさい……変なこと聞いちゃって……お大事に……」
 気になって子細を尋ねてしまった朝香は、その意想外に重く激しい内容の答えに体をびくりと震わせた。
 洗面所かどこかでぐちゃぐちゃになったケーキをゲーゲーと吐き戻している、苦しげに歪んだ表情の楓姉の姿が急に頭に浮かび、慌ててそれを追い払う。
「まあ、ある意味では自業自得なんだけどさ」
 すぐに楓が救ってくれたが、それでも朝香は恐縮しきり、もう言葉を出せなかった。

「――でもありがとう、……こんなことで心配させちゃってホントにごめんね」
 少しの間ののち、楓はそう言いながら、またもや無理に笑顔を作って朝香の瞳を見つめた。
「そんな……」
 同時に朝香の頬が赤く染まる。今の彼女はいつもよりもずっと美しくない存在のはずなのに、その目で見つめられるとどうしても赤面してしまう。惨めに下痢をしていても、やはり朝香にとって楓は楓であった。
「軽蔑されたらどうしようって思ってた……」
 さらに楓は想いを紡ぐ。朝香はそれには答えられなかった。

  グウーーギュルルギュルグウゥーーーッ……!
「ぐうっ……!」
 その時、再び楓のおなかから大きな音が響いた。
 すぐにまた背筋が曲がり、両腕が下腹部をさまよい始める。便意の波が戻ってきたのだ。
 今度のそれはかつてなく激しいようで、直後にはついに右手が肛門へと伸ばされ、さらに楓は険しい顔でとんとんと足踏みまで始めた。
(……栗原さんが、おしりの穴を押さえるなんて……)
 想い人のあまりに恥ずかしい振る舞いに、朝香は事情を解っていながらも大きくショックを受けた。
「早くおトイレ空くといいね……」
 たまらずそれを打ち消そうとして同情の言葉を漏らしたが、今度は楓が応えられなかった。
 ただひたすら押し黙って震えていて、まるで朝香の言葉など耳に入らなかったかのようである。
 どうやら今の波で、いよいよ楓の便意は本格的に切迫の域へと達してしまったらしかった。肛門から溢れ出そうとする下痢便を抑え込むのに必死で、もはや声を出す余裕さえ失ってしまったのだろう。そのなりふり構わない振る舞いからはもう、普段の健康的な美しさを見て取ることはできなかった。

  ギュリュルルルルルゥッッ!!
「ふぅぅう……」
 汗まみれの眉間にしわを浮かべながら、さらにうめき声を上げる楓。
 その苦しげな様子はまさに食あたりにふさわしく病的で、彼女は周囲の視線までも集め始めてしまっていた。
 瞳がぎゅっとつぶられるたびに、その目尻からは汗とも涙とも分からない液体が流れ落ちる。
 すでに楓の前には二人しか並んでいないので間に合いはするだろうが、それでも下痢に苦しむその姿は本当に見ていられないほどに痛々しかった。まさに限界といった様相である。一瞬だけ十日前の事件の映像が脳裏に浮かび、朝香は慌ててそれを打ち払った。……そんなことは絶対にあってはいけない。
  ブッ……プスプスッ……プビビッ!
(やだ……っ……)
 そうしながらついに楓は微量のガスを漏らしてしまった。
 汚物のそれに近しい濃密な硫黄臭が、たちまち辺りに漂い始める。
 憧れの相手のおしりからこんなにも臭いおならが出てきたことに、朝香はまたもや大きなショックを受けた。一方、楓は羞恥で再び顔を真っ赤にしてしまった。
「……ご、ごめん……!」
「ううん……、気にしてなんて……!」
 わずかに遅れて楓の口からかすれた謝罪の声が搾り出されると、大いに気にしながらも朝香はそう答えた。
 できることなら呼吸を切ってこの現実から逃避したかったが、目の前で鼻を覆いでもしたら楓を傷付けてしまう。鼻腔にまとわりついてくる彼女のガスを、朝香は今にも泣きだしたい思いで嗅ぎ続けた。

  ジャアアアアァァァーーー……
 ――それと前後して楓が並んでいる個室から女性が出てきて、ついに彼女の前はあと一人となった。
 朝香の前はあと二人である。どうやら楓の方が先に入ることになりそうだった。
「はぁ……はぁ……」
  グウウギュルルウウゥゥゥーーッ……!
「ぁ、ぅ……!」
 おなかを抱え込んだ姿勢でドアを睨みあげる楓だったが、すぐにまた苦しそうに首を垂れてしまう。
 いつしか彼女の呼吸は荒くなっていて、膝や靴同士を擦り合わせ始めてさえいた。その表情はいっそう険しく、今にも泣きだしそうである。惨めでつらそうな親友の姿に、朝香はもう何を考えれば良いのかも分からなかった。

「ごめん、わたし……えっと…………おトイレ……終わったあと、家に帰るかもしれないから……もし朝の会の時にいなかったら、先生に腹痛で欠席だって言っておいて」
 それから楓は息を吸い込んで苦しみを抑え込むと、早口で一気にそう伝えてきた。
 もうだいぶ前から言おうとしていたことのようであった。いよいよ個室に入る――朝香から心身ともに離れた所に行く時が近づいているのを感じ、今の内に話しておこうと思ったのだろう。
 楓の下痢は、すでに日常生活を送れないほどに酷くなっていたのだ。
 地獄のような我慢を通して本人もそのことを自覚したのであろう。騙し騙しここまで辿り着いたが、もうこの状態で学校に行くことは無謀だと気付いたのだ。腹が下りきった今の状態で登校しても、授業時間のほとんどをトイレで過ごす羽目になるだけである。トイレで授業は受けられない。時間と体力と精神の無駄遣いにしかならない。……食あたり。全てを肛門から出しきるまでは楽になれないのだ。こういう時は、本当にもう、家に帰って安静にしているよりほかなかった。

「あ、うん……ちゃんと先生に伝えておくから――」
 思いを察した朝香が慌ててそう答えると、楓はまた無理矢理に笑顔を作り、お礼を言おうと口を開いた。
 だがその時、彼女の身体に異変が起こった。

  グゥウウウゥウウゥゥゥッッ!!
「っぐぅぅぅう……っ!」
「栗原さんっ!?」
 かつてなく凶暴なうなりを腹から轟かせながら、いきなり楓はその場にしゃがみ込んだ。
 あまりにも突然の、ひどく危険な臭いのする行動。脱力して崩れ込んだかのようなその体の動きは、明らかに自発的なものではなかった。しかも同時に発せられたうめき声が尋常ではない。朝香は慌てふためいて楓の名を叫んだ。

「……あ、あれ……」
 しゃがみ込むやいなや、まるで自分が何をしているのかも分からないような表情で、楓は困惑の音を漏らした。
 目を見開いて唇をわなわなと震わせて、朝香の方などは一瞬たりとも振り向こうとはしない。
 腹が凄まじい急降下を起こしたとしか見えなかったが、この瞬間の楓は変に静かだった。
「栗原さん、大丈夫っ!?」
 もう一度朝香が尋ねる。
「大丈夫、だいじょうぶ……」
 楓はまた朝香の方は一切振り向かず、急に生気のなくなった声で、呪文を唱えるようにしてそう答えた。

  グリュグリュグリュ……ゴロゴロゴボボポゴロロッ!!
 その直後に再び楓のおなかが激しく鳴った。
 楓は体を大きくぶるりと震わせながら、ぐっと腹部をへこませて大きな呼気の塊を「はぁっ」と吐き出した。
 と同時に、おしりに当てられていた右手の指をずぶりと尻肉の谷間にめり込ませた。
 さらにそれまでおなかをさすっていた左手までも、肛門の上にばっと押し当てた。
 その瞬間、いきなりだった。

  ブリュビチビチビジュビヂビヂビヂブウゥゥッ!!

 スカートに包まれた楓の肉感的なおしりから、物凄い爆発音が響きわたった。
 湿り気のあるくぐもった音。そのビチビチとした生々しい質感は、明らかに今までの乾いたおならのそれとは違う。まさに、今度は水に近い状態の有機物が肛門から排出されたのだ。
 ……楓は、やってしまったのである。とうとう大便を漏らしてしまったのだ。
 下痢を我慢できなくなり、肛門を開いてしまった。凄まじい腹の急降下によって膨らみあがった排泄欲求の前に、――限界を超えた猛烈な便意の前に、彼女の括約筋は屈服してしまったのだ。

「あ、……や、ぁぁぁ……っ……!」
  ブリリリリリリッ!! ブチブチビチビチビチ……ブボッッ!!
  ビチビチ……ビチチ……ビヂチビチチチビチ!
 さらに汚らしい流動音が連続し、加えて強烈な悪臭が辺りに漂い始める。
 重ね合わせた両手をぐいぐいと押し上げて必死に抵抗する楓だったが、すでに限界を迎えた彼女の肉体――その肛門は、物凄い勢いで溢れ出す泥のように軟らかい汚物を押し留めることはできなかった。噴出の勢いをわずかに弱めるだけで精一杯のようである。
「ぐぅっ……!」
  ブリブリブリブリブリッ!! ……ブリリ、ブリブリブビッ!
 静寂を穢し続ける音。しゃがみ込むなり漏らし始めた楓の姿に、トイレ中の目が釘付けとなった。
 泣き声にも近い荒い呼吸と共に、ビチビチと漏れ聞こえてくる軟らかい排泄の音。本来なら個室の中から聞こえてこないとおかしいはずのものだ。が、どうしてそれが列の中から聞こえてくるのかを誰もが理解してしまっていた。その音源である穴がどこにあるのかを知っている。――着衣脱糞。女の子が下痢を漏らしている。
「……っぁ、っぁあぁぁ……ぁ」
  ジュビチチュチチュチチ……ッ……ブポッ!!
  ブビュチッ! ……ブリビュチビチブチュブビビィ……ブリリッ!
 汗まみれの顔、濡れた短髪、ぶるぶると震える身体、丸まりきった背筋、大きく突き出されたおしり。
 つらそうに我慢を続けていた小学生の子が、ついに力尽きて下した大便を漏らしてしまった。可哀想に、あと少しなのに間に合えず、個室の外でウンチを始めてしまった。哀れにも、パンツさえ下ろせず。
 そうせざるを得なかった原因である彼女の大便のゆるさは、そのスカートの中――パンツの中から聞こえてくる水っぽい破裂音によって、はっきりと見て取ることができる。
 ごくありふれた駅の公衆便所が、少女の悲劇の舞台に変貌していた。

「ふぅぐぅぅぅぅ……っ……!」
  ヂビヂヂチ、ビヂ……ブリュッ!! ……ビジュビチビチビチ……ッ!
(や、だぁ……、うそ。こんなの……こんなの、うそ……)
 そして朝香。もちろん、すぐ傍にいる彼女も、楓の肛門が爆発していることに気付いていた。
 が、頭では理解できても、心では絶対にこの現実を受け入れることはできなかった。
 無理もない。少女として甘い好意を寄せている相手が、目の前で情けなく糞を漏らしているのだ。千年の恋が冷めるどころではない。潔癖症の朝香にとってこんなことは悪夢よりも酷い。もし心でまでこれを事実だと認めてしまったら、痛みで心臓が潰れてまさにその心は血にまみれ、そして絶望の中で命が果ててしまうだろう。
「っぅぅ、ぅう……っ!」
  ブリュボボボポッ! ブウッッ!! ブチュリュリュブビィッッ!
 ――そうやって逃げようとする朝香の傍で、重苦しくうめきながら次々と泥を漏らし続ける楓。
 まるで儚い彼女の想いに現実を叩きつけようとするかのようでさえあった。未消化状態の下痢便が放つそれ特有の強烈な悪臭がむわりと広がり、鼻腔から流れ込んで朝香の脳裏に楓の下痢を焼き付けてゆく。この物凄い悪臭は、本当に、疑えようもなく楓の肛門から産み出された汚物――彼女の腸の内容物の臭いなのだ。
  グビ! ブジュ! ブリ! ブジュブビビブピブポッ!
 次々と響きわたる汚らしい破裂音。これもまた、疑えようもなく楓の肛門から撃ち放たれているものだ。
 朝香は胸が締め付けられて息ができなくなった。心が泣きながら拒絶しても、どうしても頭が理解してしまう悪夢のような事実。純白の想いがドロドロに穢されてゆく。彼女の無垢すぎる精神は、他ならぬ愛友の汚物によって、容赦なく無惨な強姦を繰り返されていた。

  ゴボジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ……
  ガチャッ
 ――その時、楓の並んでいる個室から水洗の音が響き、鍵が開いた。
 ドアの赤い表示が青へと変わり、すぐにドアが開いて中からOLらしき女性が姿を現す。
 個室から出るなり女性は前方にしゃがみ込んでいる楓を見て足を止め、驚愕の表情を見せた。
 その一瞬の間に、楓はいきなり立ち上がって前に並んでいる高校生の腕を掴み、
「すみませんさきにいれてもらえませんか!!? ゲリでガマンできないんです!!」
 ほとんど泣き声に等しい震えきった声で、一気にそう叫んだ。
 誰がどう見ても完全に手遅れだったが、これでもまだ必死に肛門を締めていたらしい。露骨にも関わらず下痢を理由として伝える辺り、もう思考が止まって本能だけで動いているのだろう。
「は、早く入りなよっ!」
 すでに楓を見て固まっていたその女子高生は、慌ててそう言って体を横へと逸らした。
  ビュリリリュリュリリリリッリリッ!!
「――っ!!」
  ドタドタンドタドタドッタンッ!!
 返事を聞くやいなや、楓は右手で肛門を押さえたまま下痢便を漏らしつつガニ股で個室へと突撃した。
 その恐ろしく下品で野蛮な姿には、礼徒の誇りなどかけらも見受けられなかった。

  バタンッ!! ガチャ!!
 そして振り返り、空いている左手でドアを叩き閉め鍵を掛ける。
 偶然にもその瞬間に朝香は楓と目が合ったが、楓は全くそのことに反応を見せなかった。その瞳は濁り、理性の輝きが消えていた。彼女は完全に獣になっていた。朝香はそれを見てびくっとした。

  ベチャベチベチベチベチベチベチッッ!!! ブビッッ!!
 直後に、泥の塊か何かが叩きつけられたかのような、凄まじく派手な落下音が個室の中から響いた。
 まさに、限り無く泥に近い形状の物体――楓のパンツの中の大量の下痢便が、床のタイルへとぶちまけられたのだ。
 と同時に、黄土色の流動物がドアと床の隙間から飛び出して外の床にまでべちゃべちゃと貼り付く。あまりにも激しい勢いで汚物が撒き散らされたために、こんなところにまで飛沫が飛んできたのだ。とうとう楓の排泄物まで目の当たりにしてしまった朝香は、めまいのするような感覚を覚えた。

「ぅぅく……っふぅう……!」
  ボタッ!! ブリュベタベタッ!! ブリリボタボタボタボタ!!
  ブリリビチビチビチビチチビチビチビチブリュッ!!
 さらに壮絶な落下音が連続する。
 途中から少しだけ音の勢いが弱まったのは、ようやく便器の上へとしゃがみ込めたからであろうか。
 いずれにせよ、個室の床はパンツを下ろすと同時に落下した下痢便と、その上にさらに叩き注がれた下痢便とで肥溜めと化してしまっていることだろう。もう何もかもがめちゃくちゃだった。
  ブバビチチチジャアアアアビヂビヂビチビチブボッッ!!
 直後、突然水の流れる音が響いた。
 排泄の音を隠すためにレバーを倒したようである。
 どうやら便器の上にしゃがみ込めたことで、楓は自身の放つ音を恥ずかしむだけの理性を取り戻したようであった。
 しかし哀れにも、肛門が爆発する音が激しすぎて音消しの水洗音はほとんど意味をなしていなかった。

「ぐううぅっ……ぅぅ、ぅうう……っくぅぅっ!」
  ジャアアブボッブボボブビビイィィィーーッ!!
  プビィィッ! ブリリジャアアアブリァァチビチブリッ!ッッ……
「っはぁ……ぐうぅっ!」
  ジャアアアアァァァーーーブウーーッ! ブピブピブビピピッ!!

 どうやらある程度便意を抑制できるようになったらしく、それからは水を流しながらの排泄が続いた。
 水流の上で暴れ狂う肛門。濁った水洗の音と共におなら混じりの獰猛な排泄音がブバブバと物凄い勢いで鳴り響き、タンクに水が溜まる間は代わりに物凄いうめき声が聞こえてくる。
 下痢の音を隠したい。恥ずかしい音を聞かれたくない――。
 個室の中で続く痛ましい音の連鎖からは、そんな楓の想いが聞こえてくるかのようであった。

(あ……、あぁ……)
 ――そして朝香は、魂の抜けたような顔でそれを見ていた。
 その疲れきった人形のように生気の無い表情は、まるで陵辱のあとのようにさえ見えた。
 実際、頭の中は白くなっていた。
 とにかく胸がちぎれそうなほどに痛くて、もう何も考えられない。……考えたくない。
  ジャアアアアァァァーーーー……
 なのにその傷付いた朝香の鼓膜を、激しい水の音はなおも残酷に叩きつけるのだ。
 皮肉にも、下痢の音を隠すと言う女の子らしい行為は、かえってそれをしているのが他でもない楓であるという現実を、朝香の意識に塗り付けることになってしまった。
 大好きな――本当に大好きな楓が、今、考えられないほどに惨めで汚らわしいことをしている。
 あの美しく力強かった楓が目の前で無様に大便を漏らし、大量に溢れた排泄物で自身の体と個室の床とを茶色く汚し、さらに便器の中へ悪臭放つ汚物を叩き付けている。

「んぐぐぐぅぅぅ!」
  ジャアアアアァァァーーーーチチビチビチビヂチチッ!
「っうぅぅぅぅ……っ……!」
  ビチブリリ、ブボッ!! ビチビチポチャ!
  ブチュブチュブジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ……

 楓は排泄なんてしないと甘く夢見ていたのはいつの日のことだったろう。
 あの光の輝きを身に受けてコートを飛んでいた逞しい身体が、今はトイレの個室の中にちぢこまって惨めな下痢を続けている。その下半身は汚物にまみれ、吐き気さえもよおさせる強烈な悪臭をトイレ中に撒き散らしている。あの無限の力を持っているかのように見えた肉体が、朝香の目の前で明確に力尽きたのだ。
 ――食あたり。
 生命力に満ち満ちていた肉体が、傷んだ食物の毒に冒され凄まじい下痢を起こし、その体力を泥水に変えて便口から滝のように吐き出している。

 ふと朝香の白い視界に、ほんの十分ほど前に楓と出会った時の光景が思い起こされた。
 電車がホームに着くなり大慌てでトイレへと駆け込んできた楓。全力疾走していた。よくよく考えれば、あの時すでにほとんど限界を迎えていたのだろう。そんなふうに感じなかったのは、彼女が必死に便意を押し黙らせていたからであろう。……おそらく、そもそも行列ができていた時点で彼女にとっては計算外だったのだ。

『……実はちょっと……ゲリ気味なんだ……』
 楓の恥ずかしい告白が、朝香の脳裏にこだまする。
 "ゲリ気味"なんてものではなかった。彼女はほとんど嘘をついていた。強がりを言っていたのだ。
 便意というものに対して限界を迎えている自分を恥ずかしいと思ったからか、それとも朝香を心配させたくなかったからかは、もう今となっては分からない。

 ただ、現実がそこにあるだけだった。

 いつもコートで美しく力強い活躍を見せてくれる楓。体育の授業の時も、何をやっても抜きん出ている楓。苦手な算数を教えてあげたら、嬉しそうに微笑みかけてくれた楓。今年の運動会では足を怪我していたにも関わらず徒競争で一位を取ってしまった楓。感動して抱きついたら、甘く優しい匂いがした。その夜は鼓動がうるさくて眠れなかった。
 ――それなのに。
 どうして、こんなことになってしまったの――。
 輝きだけを追いかけたかったのに。
 ふと朝香の頬を一筋の涙が伝わった。いつのまにか泣いていた。

「前、空いてるんだけど……?」
 その時、後ろから肩を叩かれた。
 ふと前を見ると、いつのまにか人はいなくて、そして個室のドアが開いていた。
 楓の姿だけを追っている間に、朝香の列も消化されていたのだ。

「んぎぃぃ……っ!」
  ブピピピジャアアアアァァァーーーーーーーッッチュブチュ、ブチュッ
「……かはっ、……ぐ、はぁ、はぁ……!」
  ジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ……

 だが、こんな個室に入れるわけがない。
 壁を一枚隔てた横の個室で、下痢を漏らした楓がうめき苦しんでいる。
 仮に彼女が悲劇を起こさなかったとしても、壁の向こうで憧れの人が下痢を排泄しているというだけで、それは十分に決意を要する行為になっていたはずなのだ。
 だから、今のこんな状況で大便など排泄できるはずがない。
 何よりもう近づけない。……近づいてはいけない。
「っ――!」
 朝香は唇を噛み締めなおすと、音を立てずそこから駆け出した。

「……凛堂さん……紙、ないかな……?」
 憔悴しきった楓の声が個室の中から聞こえたのは、それからすぐのことであった……。


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「はぁっ……はあっ……はぁ……っ……!」
 目を潤ませながら、わけもわからず力いっぱいに走り続ける。
 気が付くと、朝香はホームに駆け上っていた。
 毎朝次の電車に乗る、なじみのホームであった。

「あ……」
 ふっと足を止めた朝香は、周囲の視線が自分へと注がれているのに気付いてびくっとした。
 愛らしい小学生の女の子がとつぜん涙目で走ってきたのだから、当たり前のことだ。
(やだ……)
 はっとしたような表情で辺りを眺め、そして睫毛を濡らしていた涙をそっと指で拭う。
 同時に自分がはしたないことをしてしまったと気付き、朝香は反射的にスカートの形を整え、両手をその上で重ね合わせた。そして頬を染め、恥ずかしそうにうつむく。
(……わたし)
 ありふれた日常を送る人々の、ごく普通に理性をたたえた視線。
 朝香は自分が穏やかな世界に戻ってきたことを認識した。
 爽やかな初秋の風が朝香の身体を心地よく撫でる。平和でいつも通りのホームの光景。
 同じ駅構内のトイレは悲劇の舞台のままなのに。ここにいると、もう、一夜の悪夢だったとしか思えなかった。思いたかった。きっと、楓もそれを望む。

  グキュゥゥ〜……ッ
「……っぁ……」
 儚い表情でたそがれかけた朝香の腹部に、大人の手で押されるかのような痛みがぐうっと走った。
 体をぴくりと震わせ、かすかに背を内側に曲げる。
(っっ……、おなかが痛い……)
 ほかでもない、自分自身の体に生じている腹痛に気付く。
 もちろん今になって急に再発したというわけではなく、ずっと続いていたものだ。が、朝香にとっては、ほとんどいま甦ったに等しかった。まるで意識の外に追い出されていた。
 目の前で下痢に苦しむ想い人、傷だらけだった疎通、そして起こった茶色い悪夢――。
 トイレでの出来事は何もかもが急で、そして鮮烈すぎた。この胸の痛みに飲み込まれ、肉の苦しみさえ透明な空気細工となってしまっていたのだ。

  ……ゴロゴロゴロォォ〜〜……
「く……」
 腹痛の再自覚は、便意の再自覚でもある。
 そうなると、今は楓のことよりも考えなければならないことがあった。
(早く、おトイレに行かなければ……)
 トイレ。トイレに行って大便をしなければ。
 今のところは比較にならない症状とはいえ、朝香もまた食あたりなのだ。
 いつ体があのような緊急事態を迎えないとも分からない。改めて早く便意を解放しておきたいと感じ、朝香はどこで行為をするか悩み始めた。もちろん、あそこを選択肢から除いて。


(……隣の駅……しかないのかしら)
 残った選択肢は多くなかった。
 この駅には他にもう公衆便所などないはずなので、そうなると一番近いのは次の駅のトイレしかない。
 使ったことがないのではっきりとは記憶していないが、確かホームに入り口があったと思う。できるだけ早く便意を解放したい朝香にとっては、この点でも都合が良かった。

(そうね。ほかには、ないわ)
 もはや迷わず、朝香はそこで大便をすることに決めた。
 焦りを感じ始めていた。
 何かが膨れあがるかのような不気味な圧迫感が、急に下腹に広がりだした。
 なんだか、ものすごくおなかが痛くなってきた。今までよりも、ずっと。

「ふぅ……」
 幸いにも、ちょうど電車到着間近のアナウンスが始まった。
 今度こそあと少しの辛抱だ。
 雑音響くホームの中。朝香はそっと目を閉じ、その神経を柔らかく眠りに近づけようとした。

 だが、まさにその瞬間――最も恐れていた苦しみが、ついに彼女の肉体を襲った。

  グウウゥゥゥゥッ!!
「っっ!?」
 朝香は目を見開いてびくりと震えた。
 いきなり腸のねじれるような激痛が下腹をひねり、同時に大砲のような圧力がずん、と肛門に押し寄せてきた。
 腸が蠢く感覚。あまりの腹痛の酷さに、たまらずおなかを抱え込んで中腰になる。
  ゴロゴログキュゥゥゥ〜〜〜ッ!
「あ……ぁ……ぁ……」
 朝香は一気に顔面蒼白になり、苦悶の表情で震え始めた。
 ぶわっ、と額に脂汗が噴き出す。口の中に変な味の唾が広がる。腹の潰れるような物凄い痛みを伴い、苦しみが大腸をしごいて駆け下ってきた。軟らかい灼熱――マグマのような煮えたぎる圧力が肛門にのし掛かる。狂おしい不快感、腰の砕ける脱力感が下半身を包み込む。
 ……きた。
 今までの生ぬるいものとはまるで違う。完全に下痢の便意が。猛烈な腹痛と共に、彼女の尻を襲ったのだ。

  ……グググウウゥゥ……ギュルルルルル……
(や、やだ……おトイレ……)
 一瞬で、大便をしたくてしたくてたまらなくなった。
 腹の中で雷鳴が轟く。獣のうなり声のような低く重い不気味な音が、白いブラウスに包まれたおなかから鳴り響く。
(……だめっ! お、おトイレ。我慢できない……っ、おトイレに……っ!)
 全身に伝わる下痢の感覚。まさにおなかの急降下だ。
 狂おしい排泄欲求で脳が満たされてゆく。大便を出すこと以外、何も考えられなってゆく。
 おしりが目の色を変えて便器を求め始めた。腹が凄まじい勢いでその中身を全部吐き出そうとしている。
 トイレに、便器のあるところにいかなければならない。
(もう次の駅までなんて無理っ!)
 朝香はぐっと肛門を締め付けて姿勢を正し、足早に歩き出そうとした。――が、
  グウッ!! グリュリュリュリュリュッ!!
「っぅっ! ……ぅ……ぁ、ぁぁ、ぁふっ」
 いなや追い討ちのごとく激烈な腹痛が響きわたり、直立するどころか、その場にがくがくとしゃがみ込んでしまった。
 尻を床に向けるや激しい内圧で肛門が開きそうになり、慌てて括約筋を締め付ける。
  ブスブスブスススッ!!
「あ、ぁぁぁ……」
 耐え切れず、朝香はおならをしてしまった。
 股の間から恥ずかしい音が鳴り響く。耳まで真っ赤になり、とっさに左手で顔を覆った。
 人前で屁を放つなど物心がついてから初めてだ。自分が情けなくてたまらなくなり、惨めな羞恥に打ち震えた。

(……や、やだ……わたし……)
 すぐに強烈な悪臭が漂い始める。朝香は残した右手で腹の肉をぎっと掴んだ。
 荒く息を継ぎながら、下りきったおなかを刺激しないようにそっと慎重に立ち上がる。
(やだ……見ないで……)
 驚きと軽蔑の視線が自身を貫いているのが分かった。
 恥ずかしくて周囲を見られない。朝香は立ち上がるなりうつむいた。
 ガスをたくさん出したおかげか、わずかに腹痛が楽になる。さっと腹から手を離し、慌てて姿勢を整えた。

 もう、トイレに逃げ込むことしか考えられない。
 肩を震わせながら後ろを向き、朝香はなかば無意識に公衆便所へ向かってふらふらと足を踏み出した。

 だが、そこで足が止まってしまった。
 あのトイレには行けないと気付いたのだ。
 しかし楓の存在は理由ではない。
 より遥かに致命的な事実があった。

 今から並んだら、間に合わない――。

 トイレには行列があることを思い出したのだ。
 これからトイレに行くと言うことは、それに並び直さなければならないと言うことである。
 しかし、そんなことをしていたら、たぶん間に合わない。もはやそれほどに切迫していた。あと五分我慢できるかどうかさえ分からない。今からあんな列に並んだら、それこそ楓と同じ運命を辿りかねない。――ここのトイレは使えない。
 眼前を覆い包んだ絶望の壁。腹痛に震えながら、朝香はこの現実に脅えて涙を浮かべた。

 そして残酷にも、状況は彼女にそれからの思慮を許さなかった。
 朝香が足を止めたのとほとんど同時に、ガタガタという大きな音と共に電車が来てしまった。

「……あ……」
 はっとして振り返った時には、もう、ドアが開いて人々が車内に吸い込まれていた。
 何かアナウンスらしきものが右から左へと耳を通り抜けてゆく。
 思考回路が壊れたまま、何かを考えようとしながらも形を成せず、電車のドアをただ睨み続ける朝香。
 だがもちろん、そんな彼女を時間は待ってくれなかった。

  プルルルルルル……

 すぐに発車のベルが鳴る。
 その刹那、はっとして背筋を伸ばした朝香の脳を、閃光が走った。

 やっぱり、次の駅しかない――。

 ならばもう、それしかなかった。
 今からここの公衆便所に戻った場合、五分以上列に並ばなければならないのは確実だ。
 だが、次の駅なら二分足らずで着く。ホームにあって降車と同時に駆け込めるから、まさに二分で到達できる。急行の止まらない小さな駅だ。ふだん窓越しに見ている限り利用者も少ないようだから、おそらくトイレも空いているだろう。
 ……というより、もう空いていると願い込むしかなかった。
 もう、他にトイレを知らない。便意を解放できる手段を思いつけなかった。

「――ドアが閉まります」
 最後通牒が叩きつけられる。
 アナウンスを聞いた瞬間、朝香はドアに向かって駆け出した。
 走りながら、次の駅で大便をするんだと、ようやく明確な形で決心する。
 彼女が満員の車内へと飛び込むと同時に、静かにドアが閉ざされた。

  ガトン……ゴトン……ゴトン……
 ゆっくりと、――ゆっくりと、電車が動き始める。

「はぁ、はぁ……」
 間に合った――。
 ため息をつき、ドアにぶつかっていたランドセルを遠ざける。

「……っ」
 しかしすぐに一瞬の安堵を消して喉をごくりと鳴らす。
 これから二分か三分間かが勝負だ。
(だいじょうぶ。それぐらいなら、我慢できる。しなくちゃ――)
 改めて決意し、朝香は側にある手すりを両手でぎゅっと掴んだ。

 その時、無機質な機械音楽が流れ、それから変わり映えのしないアナウンスが始まった。
「この電車は――発急行――行きです。――次は上里に停まります」
「……ぇ?」
 朝香はその最後の言葉を聞いて凍りついた。
 次に停まる駅としてアナウンスされたのは、四つ先にあるはずの駅の名前。
 「急行」という言葉が直前に耳を通り抜けていたことに気付き、彼女が真っ青になったのは、次に電車ががたりと揺れた時のことだった。


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