No.01「或るお嬢様の失敗(前編)」

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 澄みわたった風の香りが秋の深まりを感じさせる十月の午後。
 東京西部、見晴らしの良い丘に広がる閑静な緑の住宅街。
 その中央にある私立礼徒女子学院初等部では、ちょうど生徒たちの下校が始まったところであった。

 淑やかな賑わいのなか、紺色の制服に身を包んだ少女たちが次々と門を出て下校してゆく。
 彼女たちの多くは歩いて駅へと向かっていった。
 戦前から続く由緒あるお嬢様学校ではあるが、その生徒たちはけして絵に描いた貴族のような生活をしているわけではない。確かにみな裕福な家庭の子女ではあるが、家の収入が一般より少し多かったところで、その生活様式が大きく変わることはない。ごく普通に歩いて駅に行き、電車に乗り、そして帰宅するのだ。

 先生に挨拶をしながら、仲の良いもの同士で連れ合っておしゃべりをしながら歩いてゆく少女たち。
 日本中の学校でありふれた、ごく自然な下校の風景がそこにあった。

 だが、そんな中、門の前の道路には黒塗りの高級車が何台か停車している。
 さすがに名門だけあり、本物の貴族もそこには存在していた。

 数人の少女たちが談笑しながら校舎から出てくる。
 その中に、すらりと背の高い、一人だけ明らかにオーラの違う少女がいた。よく見ると、他の少女は取り巻きで、明らかに立場に差があるようだった。腰まで伸ばした黒髪をなびかせながらゆっくりと歩くその少女は、動作の一つ一つが小学生とは思えぬほどに洗練され、気品に溢れていた。

 彼女――西園栄華こそは、戦前から続く財閥の娘で、華族の血を継ぐ本物のお嬢様であった。

 迷いなく伸ばされた絹のような黒髪は、その高貴を象徴しているかのようだった。
 それは風が吹くたびにきらめいて滑らかに舞い、周囲の眼を引いていた。
 肌は透けるように白く、切れ長の大きな瞳は誇りと自信に満ちていた。切り揃えられた前髪が、その上で柔らかく風に踊っている。彼女はときおり舞うような素振りで口元に手をあて、まぶしく太陽のように微笑んだ。

「本当に素敵でした……。私も、家にピアノが欲しいです」
「それでしたら、ぜひこんど私のお家に遊びにいらして。いっしょに伴奏しましょう」
「え……そんな。よろしいんですかっ?」
「ええ、遠慮なさらないで。大崎さんは、もしかしたら私よりも才能に恵まれていらっしゃるかも」
「そ、そんなっ、そんなことありませんっ」

 少しの気取りもなく、華のような言葉を使いこなす。
 けして自己主張の強い性格ではないが、その高く澄んだ声と利発に富んだ話し方、相手の全てを見通すような瞳の深さでもって、彼女は常に他者に強烈な印象を与えていた。

 学校の試験は当然のように全て満点で、児童ピアノコンクールでは全国優勝も果たしている。
 まだあどけなさが残り、匂うような艶めきこそ放ってはいなかったが、すでに彼女は貴婦人の風格を身にまとい始めていた。将来ひとの上に立つことが全てにおいて約束されていた。

「ありがとう」

 黒塗りの車の前に立つと、彼女は傍の少女から鞄を受け取った。
 その背の低い地味な少女は彼女に強い憧れを抱いており、どうしてもと言って鞄を持つ役を自ら申し出てきたのだ。最初は困惑していた彼女も、今ではそれが日常になっていた。もともと、人を使うのには慣れている。

 若く背の高い、スーツに身を包んだ運転士が、静かに会釈をしてドアを開ける。
 彼女は流れるような動きで車の座席に身を預けた。

「それではごきげんよう――」
 運転士が今度はクラスメートたちに会釈をし、音を立てずにドアを閉める。

「出してちょうだい」
 窓越しに友人たちに手を振ると、彼女はいつものようにそう言った。
 高雅なエンジンの音と共に、車がゆっくりと進み始める。

 下校中の少女たちの視線が自身に集中するが、彼女は何も無い様子で、ただ前だけを見ていた。
 ただ、同級生が自分に手を振っているのに気付くと、微笑んで手を振り返した。

 彼女といっしょにいた少女たちは、立ち止まったまま、走ってゆく車の後姿を見つめていた。
 甘い、それでいて胸の洗われるように爽やかな石鹸とリンスの香りが、淡く辺りに残っていた。
 たぶん、市販品とは桁が一つか二つ違うのだろう。

 気が付くと、彼女はもう遥か遠くに行ってしまっていた。
 一生をかけても近づくことのできぬ絶対的な距離。
 しかし、それがなぜか心地良いのだった。


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 それから一週間ほどが経ち、秋が極まり、風が冬の衣をまとい始めた午後の放課後。
 今日も黒塗りの車は栄華を乗せて走っていた。

 だが、その動きは、どこか普段と違っていた。
 やたらとスピードが速く、焦っているような走り方だった。いつもの優雅さが見受けられない。
 派手にエンジンを噴かし、送迎車らしからぬ勢いで道路を突き進んでゆく。

「お嬢様、もうすぐ着きます」
 運転士の声。

 しかし栄華は体を小さくちぢこませ俯いたまま答えず、動こうともしない。
 その顔は真っ青だった。目は眉間に皺ができるほどに固くつむられ、唇からは断続的に熱いため息が流れ出す。

  ……ギュルゥゥッ……ゴロゴロゴロゴロゴロ……
 下腹の上に両手が重ねられ、その奥からは、彼女にはあまりにも不似合いな音が轟いていた。
 閉ざされた膝が小刻みに震えている。
 玉のような汗が額に溢れ、いつもは揃っている前髪が束になっていた。

  グゥゥゥグオオオォォォ〜〜〜ッ
 再び重苦しい音が車内に響く。
 栄華はぶるぶると震え、その体をいっそう前に押し倒した。
 色の引いた唇がわななき、それまでになく大きなため息が放たれる。

 ……彼女は、下痢をしてしまったのである。
 車はいま、彼女の急迫の要請を受けて、公衆便所のある公園へと急行している最中であった。


 今日は、朝からおなかの調子がおかしかった。

 起きた時から腹の奥深くに何ともいえない不気味な感覚があり、鈍重な腹痛に栄華は意識を蝕まれた。
 腸が苦しげに蠢いている感覚が絶え間なく続き、まるで授業に集中できなかった。
 おぞましい欲求こそ無いものの気分は最悪で、彼女はしばしば友人に表情の重さを指摘された。

 原因は検討がついていた。
 昨日の夕食を、栄華はMOFが来日して一月前にオープンしたというフランス料理店で両親と共に摂った。

 五万円のコースを頼んだところ、脂のたっぷりと乗った大きなフォアグラのテリーヌが出てきた。
 食べてみると、見た目どおりの脂っこさで、一口だけでも胃に来るものがあった。だがその味は素晴らしく、たいていの美味は通過してきた栄華にとっても新鮮なもので、彼女は母が止めるのも聞かず全て平らげてしまった。

 どっさりとした質量が胃の中に沈殿する。
 彼女は太りづらい体質で、もとより出された料理はできるだけ全部食べるようにしていた。
 しかしこれほどにボリュームのあるものを食べたのは初めてだった。

 水を飲んでいると、今度は霜のたっぷりと入ったサーロインステーキが出てきた。
 子供用に小さめに切られているが、それでもかなりのサイズである。
 なんとか一口食べてみると、やはり脂っぽく、しかし前のフォアグラ以上に深く豊潤な味付けだった。

 母は今度こそ、「おやめなさい」と強く制してきた。
 それがなんだかひどく不愉快に感じられ、これほどの料理に手をつけないのは失礼だとの思いもあり、結局、栄華はそのステーキも全て押し込んでしまった。

 怒る母を尻目に、挨拶に来たシェフにフランス語で称賛を伝え、場を微笑ませる。
 発音の美しさを褒められ、麗しくお辞儀をする。

 そのおなかは張り詰め、パンパンに膨らんでいた。
 さすがにもう何も入らなかった。
 デザートを食べることなく、栄華はレストランを後にした。

 家に帰ると、母と少し口論があった。
 あれこれと同じようなことを言う母の前で、栄華は「ぜんぜん平気ですわ」と胸を張って見せた。
 実際、おなかは確かに苦しかったが、母の心配するような症状はなかった。
 ささいなことで母親と口論することが、最近になって増えていた。

 その結果が今朝からの腹部の異常だった。

 やはり、完全に食べ過ぎであった。
 限度を超えた摂取、大量の油脂分の流入に、栄華の胃腸は悲鳴を上げてしまったのだ。

 苦しみはじょじょにその輪郭を濃くしていった。
 給食を食べ終えた頃から便意に似た強い圧迫感が下腹に生じ、腹痛も鋭さを増していった。
 平静を装うのがつらかった。

 そして放課後。いつも通り優雅な様で周りと談笑しながら校舎を出て、車に乗った。……その直後、栄華は猛烈な便意に震え始めた。

 しわ一つ無いセーラー服に包まれたおなかの中で、雷鳴が轟く。
 額に脂汗が噴き出し、激しい腹痛と共に熱く軟らかいものが滝のように肛門に押し寄せてくる。
 狂おしい排泄欲求。……すさまじい下痢。
 車は日本舞踊の先生の家へと向かっていた。いつもだいたい四十分ほどかかる。
 恥ずかしくて言い出すことなどできず、かといってどうすれば良いか分からず、栄華はうつむき我慢を続けた。

 だが、二十分も経ったころ、栄華はもはやたえられなくなった。
 苦しみと恥に身を震わせながら、運転士の名前を呼ぶ。
「……どこか、お手洗いのある所で、止めてちょうだい……」
 すでに彼女の顔色の悪さに気がついていた運転士は、それで全てを察したようだった。「では、十分ほどの所に公園がございますので、そちらに向かいます」それだけ答えると、運転士は車の速度を上げた。


「まだかしら? 早く……」
 震える栄華の声。あれから二十分近く経っていた。
 不運にも途中で大きな道路工事があり、遠回りを余儀なくされてしまったのだ。

「次の信号を越えた所です。お嬢様、もう左手前方に見え始めています」
  ゴオォォギョロロロロォォォ〜〜〜ッ
 運転士が答えると同時に巨大な音が栄華の腹から響き、彼女は悲痛な吐息を漏らした。

 車は一気にスピードを上げて直線を突っ切り、公園の側で急ブレーキで停車した。
 即座に栄華が立ちあがる。
「お嬢様、これを!」
 その前に、運転士がポケットティッシュを差し出してきた。ひっぱり取ると、栄華は自らドアを開けて飛び降りた。

 爆発寸前のおなかをかばいながら、公園奥の公衆便所に向かって、内股で小走りに疾走する。
 はしたないが、もう我慢ができない――!

 トイレはよりにもよって男女共同のもので、中は汚く、ゴミが散乱していた。
 しかし栄華は何の迷いもなく、ついに尻を押さえながら個室の中に飛び込んだ。
 便器。今はそれさえあればよかった。

 素早く鍵をかけ、慌てながらも美しい仕草でスカートをたくし上げる。
 便器をまたぎ、崩れるようにしゃがみ込む。
 シルク製の純白の下着が一気に下ろされ、真っ白な陶器のような御尻が露になる。

  ブバビチビチビチビチビチビチビチビチブボッッ!!!
  ブリブリブビビビビビビビビビーーーーーッ!!!

 瞬間、そのすぼまりから物凄い勢いで土石流が噴出した。
 美しいお尻とはあまりにも異質なものが、爆音を放ちながら便器の中に叩きつけられる。

  ブリブリブリブリブリブリブチャ!!
  ブチャベチャビチビチビチビチビチビチ!!
  ブビッッ!! ブポビチビチブブブブブブーーー!!
 苦しげにぶるぶると震えるお尻の下に、次々と黄土色の滝が生み出される。
 激しく隆起した肛門から、栄華の胃腸が消化を放棄したドロドロの汚物が激烈な勢いで吐き出されてゆく。
 栄華は腹に肘をめりこませ、膝に爪を立てて歯を食いしばり、目を固くつぶって悶絶していた。
 その足の間から強烈な悪臭が立ち上り始める。他人には手を触れることさえ憚られる高貴な肉体も、激しく下ったその腹から排泄される下痢便はやはり汚物そのものであった。

  ブウーーーーーッ!!
  ブウウウゥゥゥゥーーーーーッッ!!
 栄華のお尻は続けて猛烈に放屁し、下品な音をトイレ中に響きわたらせた。
 下痢をしてしまったお嬢様。
 もし彼女の鞄を持つ少女がこの音を聞いたら、ショックで気を失ってしまうかもしれない。

「……ふう……ふぅ……ふぅっ……」
 腹痛の元を大量に出したことで狂おしい差込みが和らぎ、栄華はおなかをさすりながら目を開けた。
 股を開き自身がぶちまけた汚物を見たが、すぐさま左手で口を抑えて目を背けた。
 右手がティッシュの袋を握り潰していたことに気付く。包装が破れ、中身が飛び出していた。

 左手で口元を覆い、鼻の曲がりそうな自身の凶悪な便臭に顔をしかめながら、栄華はそれまで脳が認識していなかった個室の中を見渡した。

 ……ひどいものだった。
 清掃などろくにされていないようで、タバコの吸殻や虫の死骸、塗装の剥げた空き缶などが散乱していた。
 便器の前には表紙の破かれた漫画雑誌が落ちていた。よく見るとそれは卑猥な雑誌で、勃起した男性器を女性が舌を出して舐めている絵がページいっぱいに描かれていた。栄華はそのことに気付くなり真っ赤になって目をつぶり顔を背けた。

 周りの壁にも、あちこちに「SEX」だの「マンコ」だのといった卑猥な単語が落書きされていた。
 腹痛とは違うおぞましさに、栄華は身をぶるぶると震わせた。

 このような場末のトイレで排泄をしたのは、生まれて初めてのことだった。
 ふだん天上にいる籠の鳥にとって、この下界の陰部はあまりにも刺激の強いものだった。
 不快に満ちた表情で眉間に皺を浮かべ、早く出なければと唇を噛み締める。

 しかし……。

  ギュルッ!! ギュルルルルルッ!

 その身体がびくりと震える。
 腸のねじ切れるような激痛が、再び栄華の意識を食い破る。
 膨大な異物を詰め込まれて下りきった彼女の腹の中には、まだ大量の未消化物が渦巻いているのだ。
 それを全て体外に追放するまで、この苦しみは治まりそうになかった。

 哀れな栄華は、声にならぬうめきを上げながら、押し付けられるようにその体を縮こまらせた。
 震えるお尻が便器の中に向かって突き出され、充血した肛門がひくひくと喘ぐ。

  ビチビチビチビチビチビチビチビチビチビチ!!
 下痢便で溢れかえった便器の中に、新たな汚物が注ぎ込まれる。

「ふっ……んんん……く、ふぅぅんんん……!」
  ビジャーーーーッッ!!
  ブリュリュリュブポブポブポブポブポッ!!
  ビヂヂヂビヂブジューーーーーーッ!!
 苦しげな息み声を上げながら必死にふんばり、すぼまりの底からくりかえし泥の滝を打ち付ける。
 汗にまみれた右手が擦るほどに強くおなかをさすり、固い衣擦れの音がする。
 自分のお尻が放っている音のはしたなさに悶絶しながらも、肛門をコントロールすることができない。
 こんな時でも品の感じられる栄華の声は、下品極まりない破裂音が響く中で、ひどく痛ましく聞こえられた。

  ブリブリブリブリブリブボッッ!!
  ビチブブブブブーーーッ!! ブヒッ!

 便所じゅうに広がる悪臭の源と化した、使用中の個室。
 その中から漏れ聞こえる、激しい下痢に苦しむお嬢様の、荒れ狂うおなかの中身が排泄される物音。
 まずいと思いつつも様子を見に来た運転士は、すぐさま目を伏せ戻っていった。

「ふぅぅぅん……っ!」
  ブウウゥゥゥゥゥーーーーーッ!
 栄華の内臓の嘆きは、まるで治まりそうになかった……。


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「……はあー、はあー……はあぁーー……」

 あれから十分ほどが経過していた。

  ブッ……プピ……ピ……
 薄い飴色の粘液が、真っ赤に腫れ上がった肛門から力なくこぼれ落ちている。
 腹を刃物でえぐられ続けたような苦しみのすえ、ようやく栄華は全てを出し切ろうとしていた。

 ガクガクと痙攣を繰り返す細い脚。
 その間にある便器の中は、下痢便の海と化していた。

 黄土色の、お粥のような形状の未消化物が所狭しと飛び散っている。食べた量が量だけに、出てきた量も凄い。
 五万円のフルコースは、変わり果てた姿になって薄汚い便器の中に撒き散らされていた。

 便器の中からは凄まじい悪臭が立ち上り続けている。
 ほんの十数分前には、これが全て栄華の中に在ったのだ。

  ぷううぅぅぅぅぅ〜〜〜〜……
 全てをぶちまけたお尻から、情けない響きの屁が放たれる。
 その白桃にも似た高貴なおしりは、今は恥ずかしく惨めそうに震えていた。
 こんなものを出してしまって……。

 まぶしさと輝きに満ちたお嬢様の――不浄の穴から生み出された肥溜め。
 完璧な肉体も、腹下しにだけは抗えなかった。
 どんなに身分が高く、能力に優れ誇りに満ちていても、下痢をしたらやってしまうことはおんなじだ。

 汚物の渦の中に、栄華の体の前後からぽたぽたと汗の雫が落ち続けていた。
 前者は荒々しい呼吸と共に揺れ続ける顎の先から。後者は、ときおり腸液と混ざり合いながらお尻から。
 それは、涙かもしれなかった。

 今のガスの放出でついに便意は止んだ。

 栄華は握力と手の汗でぐしゃぐしゃになっていたポケットティッシュの袋を広げた。
 個室にはペーパーホルダーがあるが、肝心の中身は補充されておらず、床には空になったティッシュの袋がいくつか捨ててあった。どうやらそういうものらしい。

 栄華は弱々しく震える手でティッシュを取り出し、汚れきった肛門を清め始めた。


 ――最後の一枚で、ぬるぬるになっていた尻肉から脂汗を拭い取る。
 袋の中身を全て使い、なんとか栄華は壮絶な排泄の後始末をすることができた。

 便器の中とおなじ色になっていた噴火口とその周辺が、元の淡い肌色に戻っている。噴出の激しさのあまり便器の縁やその周りのタイルに飛び散っていた下痢便も、彼女は全て拭き取っていた。このような場所でそれをするのは無意味に等しかったが、彼女の厳しい躾が自身のせいで公共の施設の汚されることを許さなかった。

 空になった袋をそっとポケットの中にしまう。

 大きくため息をつくと、側にある雑誌を見ないように目を薄めながら、栄華は水洗レバーを倒した。
 だが……。

 ……?

 もう一度、倒す。
 胸の潰れるような動揺が栄華を襲った。

 倒す。倒す。倒す。倒す。倒す。
 横に引っ張る。上に引き上げる。立ち上がって前に進み、両手で全体重を押しかける。

 水が、流れない――!

「いやぁ……っ!」
 栄華は悲痛な叫び声を上げた。
 股の間には、自身のぶちまけた鼻の曲がりそうなほどに臭い排泄物が。
 肛門に擦り付けられ、その形に生々しく黄土色の付着したティッシュペーパーが、全てそのまま残っている。

 目に涙を浮かべ、倒す、倒す、倒す、倒す、倒す、倒す、倒す……!
 ぐいぐいという錆びた音が、静かな公衆便所の中に、何十回、何百回と止むことなく聞こえ続けた……。


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 栄華が車を駆け出してから、実に三十分近くが経過していた。
 困惑した運転士がもう一度様子を見に行こうか悩み始めていたころ、ようやく彼女はトイレから出てきた。
 両手を前に合わせてしずしずと歩いてくる。

「申し訳ありません……たいへん、お待たせをさせてしまいました……」
 憔悴しきった表情でうつむき加減に、蚊の鳴くように小さな声で栄華は言った。

 運転士は、「いえ……」とだけ答えると、そっとドアを開けた。
 足をよろめかせながら栄華は車の座席に崩れこんだ。

「先生には、所用で遅れる旨お伝えしておきました」
「ありがとう……」
 まだ痛んでいるらしいおなかの上に、切なく両手がそえられる。
 その頬はげっそりとし、目が少し赤くなっていた。

「お嬢様……お体の具合は大丈夫ですか? お辛いようでしたら、改めて休みの連絡を致しますが」
「いいえ、大丈夫です……ありがとう……どうか心配なさらないで」
 原因こそ汚らしいものとはいえ、その痛ましく衰弱した姿は、おとぎ話に出てくる儚い姫君を思わせた。
 こうして本来あるべき場所に戻り淑やかにしていると、さっきまで爆音を放ちながら下痢をぶちまけていた事実が嘘のようである。その隙のない高貴さは、まるで排泄行為そのものをしないようでさえあった。

 ドアが閉ざされると、栄華は瞳を閉ざし、重くため息をついた。
 本当は、もう家に帰って休みたかった。

 荒れきった消化器官が、今もじくじくと痛み続けている。
 長時間に渡って便器をまたぎ続けた両足が、なお小刻みに震え続けている。
 煮えたぎる腹の中身といっしょに、体中の力も全て肛門から便器の中に流してしまった。
 満身創痍。舞などできる状態ではない。
 それでも……一度遅刻の連絡を入れた上でやっぱり休むなどという無礼事は、彼女にはとうていできなかった。

「それからお嬢様。近くに薬局がありましたので、この様なものを買ってまいりました。宜しければ……」
 車に乗ると、そう言って運転士はポカリスエットのボトルと、下痢止めと書かれた紙箱を取り出した。
「ありがとう、いただくわ……ごめんなさい」
「いえ……では、テーブルをお出しします」
 助手席の背に備え付けられたテーブルが、自動で栄華の前に開いてゆく。
「コップがなくて申し訳ないのですが……」
「十分ですわ」
 テーブルの上に、運転士は丁寧に物を置いた。

「いただきます――」
 そっと蓋を開けると、栄華は口元を手で隠しながら、ボトルに口をつけゆっくりと飲み始めた。
 その細く繊細な美しい手は、しかし内側は真っ赤に腫れて豆だらけで、指には黒いものがこびりついて惨めだった。栄華はそれを運転士に見えないように隠していた。

 よほど喉が渇いていたのだろう。途中で薬を服用しながら、彼女は全て飲み干してしまった。
 そして車は、普段の優雅な走りで公園を後にした。


 ……むせ返るような悪臭の漂う公衆便所。
 その臭いは、いつまで経ってもまるで抜ける気配がない。

 入り口そばの、今は無人の個室。

 その便器の中は、大量の落ち葉のようなものによって覆い隠されていた。
 厚く幾層にも重ねられ、徹底的に隅から隅までが覆われて、下に何があるのかは全く見えない。

 それは、一枚一枚やぶり取られた成人雑誌のページであった……。


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