No.02「或るお嬢様の失敗(後編)」

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 習い事の結果は最悪だった。

 様々な手習いの一つとして週一で通っている日本舞踊の道場。
 栄華の師事している先生は、国内はもとより世界的にも有名な家元で、よほどのことがない限り弟子は取らない。

 ただえさえ厳格な先生は、大きく遅刻したせいで機嫌が悪かった。
 厳しい叱咤を浴びせらながら、栄華は腹の中の病苦を隠し、努めて普段どおりに体を動かした。

 そんな無理がたたったのか。

 舞のさなか、彼女は再び猛烈な欲求に襲われた。
 必死に堪えながら続けるも、終了まで十分を残して我慢できなくなり、ついに下痢を告白して先生宅のトイレへと駆け込んだ。

 激しい音を鳴り響かせながら、古風な汲み取り便所の底に大量の水便を注ぎ込む。
 地獄の腹痛に唸りながらの壮絶な下痢――。もはや彼女の腹は崩壊していた。
 あれだけ反省していたはずのお尻は、今度は壊れた水鉄砲と化していた。たえがたい苦しみと恥辱に涙を浮かべ震えながら、栄華は汗だくの丸みから高圧の水流を放ち続けた。

 彼女は実に二十分近くもトイレに篭り続けた。
 やがて白い顔でうつむき、よろめきながら外に出ると、ひどく心配した様子の先生に迎えられた。

 うって変わって、先生はかつて見たことがないほどに優しかった。
 知らずに無理をさせたことを詫び、極めて貴重だという特製の漢方薬を出してくれた。
 本場中国の皇帝が使っていたもので、下痢や腹痛に効果覿面らしい。栄華は恐縮して頭を下げ、先生の淹れてくれたお茶でそれを飲んだ。情けなさで胸が張り裂けそうな中、先生の親身が沁みて幾度となく喉が跳ねた。

 少し横になっていってはどうかと言われたが、そこまではできず丁寧に断った。
 栄華は何度も礼を申し詫びながら、ふらつきながらも淑やかな歩みで先生宅から外に出た。
 しかし車に乗る寸前で膝が折れ、中に倒れこんでしまった。
 激烈な下痢に苛まれ、大量の体液を流し、もう彼女の身体はぼろぼろだった。

 かすれた声で次に行く予定だった英語塾に休みの連絡を入れる。
 あくまでも美しい姿勢で座るお嬢様を乗せ、黒塗りの車はゆっくりとその邸宅に向かって走り出した。


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「……少し、速めていただけるかしら……」

 先生宅から栄華の家まではだいたい一時間ほどの距離がある。
 半分を過ぎたころ、急に栄華が口を開いた。

「お嬢様……近くに公園がございますが……」
「いいえ、そうではなく……ただ、早く横になりたい……」
「……、たいへん失礼致しました……では、お急ぎ致します」

 そう訴える栄華の顔はひどく険しく青ざめていた。……酔ったのだ。
 普段は意識にない車の揺れが、熾烈な不快となって彼女の脳をかき乱していた。
 鈍重な頭痛と共に、おぞましい欲求が意識の中を這いずり回っている。
 バスや飛行機でならあるが、車で酔うのなど生まれて初めてのことだった。

「ちょっと、どこかで止めて……」
 それから五分ほどして、栄華はまた急に口を開いた。
 淡いふくらみのある胸の上を、震える右手が力なくさまよっている。
 運転士はすぐさま道路の脇に車を停めた。

「ごめんなさい……少しだけ、横にならせてちょうだい……」
 そう言うと、栄華はクッションを枕代わりに、座席に崩れるように横たわった。
 脂汗のべっとりと浮いた額に手のひらを押し付けて、うつろな目で苦しそうにため息を繰り返す。
 見るに堪えられぬ姿。彼女の体調はもはや限界だった。
 運転士は痛ましい思いでそれを見つめながら、無言で静かにカーテンを閉めた。

 横になっても、苦しみは少しも楽になってはくれなかった。
 それどころか吐き気がどんどんと膨らみあがってくる。
 濃密な本革のにおいが昨日の料理の脂っこい口当たりを思い起こさせ、揺れる胃の中に響いてくる。
 栄華は救いを求めるように窓を開けたが、強烈な排気ガスの臭いが漏れこんできてすぐに閉ざした。それがいっそう嘔吐感を増大させた。視界がぐるぐると回ってゆく。

「やっぱり……公園に向けて」
 ほどなくして体を起こすと、真っ青な顔で栄華は言った。
 車は再び速度を上げた。


「おえっ、げぷっ、」

 二分か三分ほど走ったころ、とつぜん奇妙な声が聞こえた。
 後ろを振り返った運転士はぎょっとした。
 栄華はひょっとこのような口をして必死に鞄の中をまさぐっていた。

 慌てて路肩に停車する。

「お嬢様、この中に!」
 とっさに地図入れから薬局の袋を出すと、運転士はそれを広げて栄華の前に差し出した。

「ぐぉうっ」
 桜色の唇が袋の中に向かって突き出される。

「げええええぇぇーーーーーっ!!」
 瞬間、栄華は猛烈に嘔吐した。
 黄土色の吐瀉物が物凄い勢いでビニール袋の底に打ち付けられる。

「げぼっ!! ごぼおおおぉぉぉぉ!!」
  ドボッッ!! ボチャボチャボチャボチャボチャ!!
 醜く空気を震わせて、顔中を皺だらけにして胃の内容物を吐き戻してゆく。
 誰よりも美しく洗練されたお嬢様の、あられもない最低の姿。
 運転士はすぐさま顔を伏せた。見てはならぬ。

「ぐぶぅぅえええぇっ!!」
  ビヂャビヂャビヂャビヂャーーーッ!!
 凄まじい吐き声と共に滝のような水圧が底を打ち、袋がバサバサと振動する。
 その重みを感じる運転士の目には、えぐるほどに強くふとももを掴む、白く美しい手が見えていた。
 全身が激しく痙攣していた。

「げっ! ごほっ、ぐぇぇぇっ! おえっげえええっっ!!」
 さらに壮絶なえずきが続いたが、もう袋が揺れることはなかった。どうやら全て出し終えたらしい。

「ぐぅええっ、ぶぷっ、ぅぺっ」
 だが、ちらりと様子を見た運転士は絶句した。
 そこには鬼の形相で唇を固めて肛門のように突き出し、とろとろと粘液を搾り出している栄華の姿があった。目から涙が溢れ出し、鼻からも液体が滴っていた。
 運転士は再び目を伏せた。

 それからはただ荒々しい呼吸だけが続いた。

 もういちど様子を見る。
 栄華は、口を無様に大開けし、袋の中を睨みつけて息を吸い吐きしていた。
 その口の中では、白い上下の歯の間に黄土色の粘液が糸を引いている。

 目が合った。

 栄華は、静かに泣き始めた。


「ふっ……! うぅ……っ……、うう……っ!」
 両手で顔を覆い、なんとも悔しそうに唇を歪め、美しさを取り戻した声を悲しげに震わせる。
 その頬から次々と大粒の涙がこぼれ落ち、紺色のスカートの中にしみこんでゆく。

 運転士は、その姿をただ痛ましい思いで見つめていた。
 もしいま泣いているのが妹か娘だったら、迷わず手を触れて慰め、背中をさすってあげたことだろう。
 ……しかし、絶対にそれをすることは許されない。

「お嬢様……もう、よろしいですね」
 どっさりと重くなった袋を、そっと栄華の顔から引き離す。

 その中は、食べ物をミキサーにかけたような形状の、薄い黄土色の流動物で埋まっていた。
 未消化の野菜の塊や、こげ茶色の揚げ物のようなものが見える。ほとんど今日の給食だろう。赤いものが混じっていてぎょっとしたが、よく見るとジャム状になった苺であった。

 生臭い、強烈な悪臭が袋の中から立ち上っていた。
 むせ返るような臭気が車内を覆っている。運転士は無言で窓を開けた。

「申しわけ、ありませ、たいへん見苦しい様を、お見せ、して、」
 嗚咽を必死に抑えながら、いじらしく栄華が言葉を紡ぐ。
 言いながら彼女は早くも顔から手を離し、唇を噛み締め、元の表情を取りつくろうとしていた。

「お嬢様。仕方の無いことです。どうかお気になさらないでください」
 運転士は目を伏せたまま、そっと袋の口を閉ざした。

「汚物を捨ててまいります。……お嬢様、お休みになられていてください」
 それから中身をこぼさないよう慎重に袋を縛ると、そう言って車から降りた。


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 十五分ほどして、ようやく運転士は戻ってきた。

 くたびれた表情だった。

 モノがモノだけに、なかなか良い処分の方法が見つからなかった。
 辺りは閑静な住宅街で、ゴミ箱らしいものは見つからず、かといってそこら辺に捨ててしまうわけにもいかない。
 行く予定だった公園まで歩き中身をトイレに流そうかとも思ったが、まだ車でも十分以上の距離があった。
 奥まったところに小さな公園でもないかと探したが、そう簡単には見つからない。

 結局、地元住民用のゴミ捨て場を見つけ、生ゴミの日であることを確認すると、ネットの奥にそっと袋を差し入れて去ってきた。不気味な黄土色の中身が透けて見える半透明のビニール袋。無礼極まりない行為であるが、やむをえないところであった。あとはそのまま何事もなく回収されることを祈るのみだ。

 自販機で水を買って車に向かう。
 カーテン越しにちらりと見ると、どうやら栄華はおとなしく待っているようだった。
 しばらくそっとしておくべきだったので、これぐらいの間はむしろちょうど良かったのかもしれない。
 そっと車の後ろを通り、静かに運転席のドアを開ける。

「申し訳ありませんお嬢様、お待たせ致しました」
 言いながら座った運転士はしかし、すぐさま違和感を覚えた。
 ミラーに映ったのは、重くうつむいた栄華の顔。熱く激しい吐息が聞こえる。

「……お嬢様?」
 振り向いた運転士は、はっとした。
 唇をきゅっと固めて震えながら、必死に腹を慰めている栄華の姿がそこにあった。

「お嬢様! お腹がお痛みになるのですか!?」
 慌てて尋ねると、小さく顔が上がった。切羽詰った瞳。額にびっしりと浮かんだ脂汗。……運転士は全てを解した。

  ギュルギュルギュルッ……グウウゥゥゥゥ……!
「ごめんなさい……お手洗いに……はやく……!」
 鳴り響く音。すぐに再びうつむくと、揺れる声で栄華は言った。
 座りがひどく浅く、突き出されたお尻がほとんど座席から浮いている。
 車内に硫黄のような臭いが漂っていることに運転士は気付いた。……うかつだった。なんということだろう。

「たいへん申し訳ありませんでした、すぐに出発致します」
 運転士は即座にエンジンをかけ、車を発進させた。


 制限速度ぎりぎりで、全力で車は公園へと向かった。

 もはや栄華は無様な姿勢を直そうとせず、ただひたすら激しい便意を堪えていた。
 よほど腹痛が酷いのだろう。歯を食いしばって唸りながら、えぐるように下腹をさすっている。
 ぐずつく泣き声のようにして不気味な音が繰り返し響き、ときおり栄華は千切れたうめき声を上げた。

 運転士は焦り、ナビを見て近道があることに気付くや、脇の小道に車を入れた。
 だがそれは失敗だった。車一台が精一杯の広さで、まるで速度を出せない。横広の高級車は場違いで、角も満足に曲がれない。

 不運にも途中で前方の民家から車が出てきて、さらに足止めをくらった。
 その最中、ついに栄華はプスプスとガスの放出を始めた。
 両手がおしりを包み込むが止まらない。
 ゆっくりと走る前の車を追いかけるようにして再び大道に出た頃には、音は水気に包まれていた。


 それからさらに五分。


 運転士は一秒でも早く車を前に進め、栄華は一秒一秒を我慢し続けた。
 湿り気に満ちた破裂音と激しい歯ぎしり、両足が絡み合う物音と、ねじれるうなり声が交差する。
 地獄の苦しみの中、誇りだけが栄華の体――肛門を支えているようだった。並の精神力の少女なら、とうに欲求に負けて全てを出してしまっていることだろう。

 必死だった。
 車内にはいっさい言葉はなかった。
 すべてが張り詰めきっていた。

 あと一分足らずの場所まで来たとき、異変は起こった。
 最悪にも、踏み切りに捕まってしまったのである。栄華の車の眼前で、無残にも遮断機は下りた。
 停止する速度。悪魔の笑うような音が聞こえ渡る中、運転士は線路の向こうを睨みつけた。

  ブーーーーーッッ!!!

 さなか、凄まじい音が後ろから響いた。
 運転士が振り返ると、栄華は座席から跳ね降りて、車の床にしゃがみこんでいた。

「お嬢様、なりません!!」
「もうがまんできないのおっっ!!!」
 とっさに運転士が叫ぶと、栄華は窮まった表情で叫び返した。その目からは半分以上理性が飛んでいた。

「あと少しですから辛抱なさってください!!」
 再び運転士は叫んだが、もはや栄華は言葉の通じる状態ではなくなっていた。
 視界の定まらぬ瞳で嘆くように熱い息を吐き、尻を抱えたままぶるぶると体を縮こまらせる。

「お嬢様!!!」

 そのとき、電車が通過した。
 轟音が車内を貫く。

 ――それが終わった時、栄華は両手を肛門にめり込ませ、目をつぶし歯をくいしばって震えていた。
 地獄の表情。耐えたのだ。

 遮断機が上がる。
 上がりきるよりも早く、ぶつからんばかりの勢いで運転士は車を発進させた。

 最後の一分。
 栄華は顔じゅう皺だらけのまま目を開けることなく、ただ大口を開け灼熱の息を吐き続けた。
 臨界に達した肛門を、最後の力を振り絞って抑えている。
 その荒れ乱れた激しい呼吸は、空気が歪まんほど凄絶な苦しみに満ちていた。
 車はついに制限速度を超えていた。

 そして一気に急ブレーキをかけた。
 激しい摩擦音の中、車が止まりきるより早く、栄華はドアを押し開けて飛び出した。
 閉めることなく、両手で肛門を押さえ弾丸のような勢いでトイレへと突撃してゆく。
 幸いにして、今度の公衆便所は道路のすぐ近くにあった。
 あっという間に栄華の姿は女子トイレの入り口に消えた。

 運転士はその様を祈るような目で見ていた。

  ブブブブブブブブブブブーーーーーーーーッッ!!!
 女子トイレの中に入った瞬間、栄華の肛門は全開になった。
 灼熱の激流が物凄い力で下着の中へと噴出する。

  ブピーーーーーーーーッ!!
 決壊した尻を抱えながら、這うようにして個室の中へすべりこむ。
  ビュルルルルルッ!! ブブウッ!!
 ドアを叩き閉め、激しく崩れこみながら鍵をかける。
 痙攣する足を濁流が飲み込み、靴下を染め足元のタイルへと溢れてゆく。
  グボボボボボボボボボボ!!
 がに股で便器をまたぎ、猛々しくスカートをまくりあげる。
 びっちゃりと濡れたシルクの下着。一気に両手でひっぱり下ろす。

  ビジャーーーーーーーーーッ!!
 露出した黄土色の尻から、便器後方のタイルへ水便が一直線にほとばしる。
  ブウウウウゥゥゥゥゥーーーーーッ!!
 さらに、尻が振動するほど猛烈な放屁。
 肛門粘膜がめくれんばかりに鳴り震え、付着した便がスプレーのように噴射される。
  ボチャボチャボチャボチャボチャボチャ!!
 膝を折り、肛門から便器の中へ垂直に滝を叩きつけながら、ようやく栄華はしゃがみこんだ。

  ブボオオォォォォッ!!
  ブビビビブブブブブブブブブ!!
  ブウウウウウウウゥゥゥーーーーーーッッ!!!
 続いたのは、尻の破裂するような放屁の渦。
 張り裂けんばかりに膨れあがった肛門から激烈な圧力でガスの塊が噴出する。
 すぼまりを中心に四方八方に火の粉が飛び、周り一面に黄土色の飛沫が撒き散らされる。

  ……ぶぴっ……

 だが、そこまでだった。
 やっと排泄体勢を整えたお尻からそれをすることなく、栄華の暴発は終息を迎えた。

「はあっはあっはあっ、はっぁぁあ、はあっっ……!!」
 便器の中に、ぽちゃぽちゃと脂汗の雫がこぼれ落ちる。
 栄華は物凄い形相で、目を回して肩を跳ね上げさせていた。
 その瞳は大きく見開かれているが、まったく焦点が定まっていない。
 両手がパンツを掴んだまま固まっていた。

 下痢まみれになった個室の中。
 高級住宅街が近いせいか丁寧に手入れがなされており、便器は白くピカピカで、床の淡いピンク色のタイルの上にはゴミ一つ落ちていない。
 その後ろ半分の至る所に水便がぶちまけられ、震える両足から流れ広がり、飛沫は壁にまで飛んでいた。

 ……我慢できなかった。最後の最後で負けてしまった。
 やってしまった高貴なお尻は、ただぶるぶると力なく震え、ときおり茶色い涎を垂らしていた。

「はあ……はぁ……っ……はあぁっっ……あ、あぁぁぁ、ぁ……」
 全てが終わったトイレの中は、どこまでも静かだった。


 あれから二十分が経った。

 それまでじっと目をつぶり黙していた運転士は、ついに車を降りてトイレに向かった。
 限界極まった状態で公衆便所へと飛び込んだお嬢様。
 本来ならすぐにでもその後を追い、無事を確かめたかった。しかし、トイレ中に響きわたっているであろう爆音のことを考えると、そうするわけにはいかなかった。……もういいだろう。

 綺麗に磨かれた壁が清潔な印象を感じさせる、品良く整った公衆便所。
 いつしか空は暗くなり、真っ赤な夕日がその白い壁を血のように染めていた。
 静かに足を進め、そっと女子トイレの中を覗きこむ。

 あっ、と出そうになった声を抑え込み、運転士は壁を掴んで目を伏せた。
 ……最悪の結末。

 眼前の床に、痛ましく撥ね広がった黄土色。
 それがぼたぼたと連続して個室の前へと続いている。
 個室の中からも、下の隙間から黄土色の液体が大量に溢れ出している。
 腐った卵のような臭いがトイレ中に満ち、扉の奥からは押し殺した嘆き声が聞こえていた。

 ああ。間に合わなかったのだ……。
 薄明かりの下、赤い斜光に照らされ鈍く輝いている排泄物を見つめながら、運転士は思った。

  ……ぷううぅぅぅぅ〜〜……ぴぷぷぅぅぅぅぅぅーー……
 嗚咽にまぎれ、どうしようもなく情けのない響きが個室の中から漏れ聞こえてくる。
 緩み果てた肛門からの垂れ流し状態の放屁。
 普段は鉄よりも厚いベールに覆われている御尻が、今は扉の向こうでむき出しになり汚物にまみれて震えている。
 その解放は楽園の扉となるはずだった。

 もしあと十秒でも早く着けていれば、この悲劇は起こらなかったかもしれない。
 栄華が撒き散らしたものを見、その悪臭を嗅ぎ、なお美しい声を聞きながら、運転士はたえがたく後悔した。
 だが、もはや全てが手遅れだった。


 しばらく立ち尽くしたのち、運転士は足早に立ち去った。


 車に戻るや邸宅に連絡して家政婦を呼び出し、お嬢様が酷い下痢をしたこと、そしてトイレに間に合わず粗相してしまったことを伝え、替えの下着と制服一式、ウェットティッシュやトイレットペーパーなど後始末用の紙類を至急持ってくるように依頼した。家政婦の驚きは、一分以上返事が来ないほどであった。

 やがて両手に大きな紙袋を携えた家政婦が到着し、彼女が個室のドアをノックして数分の後に開けさせた直後、外で見張りをしていた運転士は張り裂けんばかりの激しい泣き声を聞いた。

 栄華はいつまでも泣きやむことがなく、帰りの車の中でもしゃくりあげ続けていた。
 一度も顔を上げず、一言も言葉を発することなく、彼女は車を降りた。
 そして家政婦に慰められながら、おぼつかない足取りで屋敷へと入っていった。

 便臭を隠すために家政婦が持ってきて使った香水のにおいが、車内に強烈に立ち込めていた。


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 清新な空気が街に満ちる月曜日の朝。
 その美しい少女は、肩先で切り揃えられた髪を淡く跳ねさせながら、足早に礼徒の門をくぐった。
 一目で育ちの良さが分かる、洗練された気配である。つりあがり気味の瞳が、プライドの高さを感じさせた。
 手早く靴を履きかえると、彼女は期待と不安が入り混じったようなせつない表情で、教室へと向かった。

 教室に入った彼女は、それを見つけるや、安堵と喜びに満ちて胸をぎゅっと押さえた。
 数人の同級生に囲まれながら、自席で優雅に談笑している栄華の姿。
 教室中の誰よりも美しく輝く薔薇の華。
 もう我慢できない様子で、その御許へと駆けよる。

「栄華さま、おはようございます」
「おはようございます」
 にっこりと微笑む栄華。少女はそれだけで感無量になった。

「……栄華さま……先日は、どうなされたんですか?」
「ごめんなさい、風邪をこじらせてしまったの。でも、もう大丈夫。心配してくださったのね。ありがとう。嬉しいわ」
「そんな……!」
 じっと自分をみつめてまばゆく微笑む栄華。輝きが胸に満ち溢れてゆく。

「でも、よかっ、た」
 ついに少女は極まって泣きだした。
 すると、栄華のあたたかい手がそっと肩に乗せられた。
 もう、感情を抑えられなかった。クラス中が見ている中、少女は身を震わせ栄華の名前を呼び続けた。

 金曜日に栄華が休んだとき、先生は体調不良とだけ説明し、それ以上はいくら聞いても教えてくれなかった。
 栄華のことが気になって胸が灼けるように痛み、まるで授業に集中できなかった。
 うつろな表情で横たわっている栄華の姿が脳裏に浮かび、それはやがて苦しげな吐息を繰り返している姿、体をねじり涙を浮かべてうなっている姿、果てはお粥を嘔吐している姿へと、どんどんと色濃く悪化していった。
 帰宅後よほど電話をして容態を尋ねようかと思ったが、どうしても勇気を出せなかった。

 そして悪夢を見た。
 渦巻く恐怖から逃げるように眠りについた彼女は、パジャマ姿で真っ青な顔で下痢をしている栄華の姿を見た。
 それはひどく生々しく、激しく鳴り響く破裂音、強烈な異臭までもが鮮明に知覚された。
 びっしょりと体を濡らして目を覚ましたとき、罪悪感で気がどうにかなりそうだった。それだけは絶対に思い浮かべないようにしていた姿。朝食が喉を通らなかった。
 何もする気が起きず、ぼんやりとベッドにしなだれて、土日の連休をまるで病人のようにして過ごした。

 ……芳しいリンスと石鹸の匂いが少女を包んでいた。
 いつもの栄華さまの匂いだった。このような方が、あんな行為をするはずがない……。
 彼女は聖母に抱かれるように安心し、幸福に揺られていた。

 やがて少女が落ち着くと、ちょうどホームルームの時間となった。
 一人になった栄華は、先生が話しているさなか、そっとおなかに手を当てた。


 風の舞う放課後。

 麗しく門を出た一行の前には、いつものように黒塗りの車が待っていた。
 若く背の高い、スーツに身を包んだ運転士が、静かに会釈をしてドアを開ける。

「みなさま、今日は色々とありがとうございました」
 車の前で向き直り深々と礼をすると、栄華はゆっくりとした動きで車の座席に身を預けた。
 まだ閉めぬよう手で運転士を制し、もう一度お辞儀をする。

「それではごきげんよう」
 運転士がクラスメートたちに会釈をし、音を立てずにドアを閉める。
 冷たく澄んだ風が吹くなか、硝子ごしの栄華は、いつもよりも大きく手を振っていた。

 そして車は、甘い香りを残して走り去った。


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