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「あの、すみません、お手洗い使ってもいいですか?」
「どうぞ。あちらの角にあります」
どことなく急いだふうな様子の少女に尋ねられ、レジの右奥を指差す。
足早にトイレに入っていった少女は、一分ほどの後、すっきりした顔でおじぎをして店から出て行った。
学生時代、コンビニでバイトをしていたことがあった。
時間は夜が中心だったが、午後の三時頃から出ている日もあった。
近くに中学校があるからか(とは言っても歩いて十分以上の距離があるが)、午後の数時間は制服やジャージ姿の来客が多かった。制服姿の少女が好きな人にとっては理想の職場かもしれない。女の子が大勢でやってきたときなどは、まるで女子校のような雰囲気だった。
日々さまざまな少女たちが訪れるなか、一人だけ、顔を覚えた女の子がいた。
丸みをおびたショートの、痩せ気味で背の低い女の子。
けして目立つ存在ではない。それどころか、彼女はひどく地味だった。
いわゆる美人というタイプからは程遠く、目が小さめで唇も薄く、可愛い系としても中途半端だった。
制服の校章によると中学二年生らしいのだが、身長は百五十センチにも満たず、胸も辛うじてふくらみが認識できる程度で、下手をしたら小学生と間違えてしまいそうだった。クラスに一人はいる、おとなしく存在感の薄い少女といった感じだった。
そんな彼女のどこが印象に残ったのか分からない。
ただ、彼女が来ると僕は不思議と幸せな気持ちになった。
彼女はいつも一人でやってきた。きまって前で両手を合わせ、飾り気のない鞄を大切そうに提げていた。
小動物のように小さく歩み、棚から可愛らしい菓子パンをひとつだけ持ってくる。夕食の前に食べるのだろう。小さな体でも、やはり成長期だけあっておなかが空くのだろうか。ルーズリーフなどの文房具を買っていくこともあり、なんとなくだが、ロマンチックな詩か小説などを描いていそうな感じがした。
彼女はいつもそっと丁寧にテーブルの上にそれらを置いた。
袋を渡すと、必ずぺこりとおじぎをする。
すると、そのおかっぱにも似た細く柔らかそうな髪は、天井の灯りに照らされ淡く栗色に輝いた。
ときおり目が合った。
向こうも顔を覚えてくれているらしく、僕が微笑むと、彼女も恥ずかしげにはにかんだ。
そんなとき、僕はなんともいえない甘酸っぱい気持ちになるのだった。
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その日、彼女は顔面蒼白で店に駆け込んできた。
正確にはものすごい早歩きだが、駆け込んできたと表現した方が適切だろう。
いちじるしく体を屈め、右手をおなかに、左手を鞄ごとおしりに押し付けていた。
レジの前を通る彼女はひどく険しい表情で、額に脂汗がびっしりと浮いていた。
僕には目もくれなかった。彼女は一直線に店内を進み、そのままの勢いでトイレの中に入っていった。
……僕はしばらく唖然として彼女が飛び込んだトイレのドアを見ていた。
ただ、事情を把握するのは容易だった。
かわいそうに。おなかの調子が悪かったんだろう。
それでもあの彼女が無断でトイレに入ったのは驚きだった。
よほどの緊急事態だったらしい。
案の定、かなり具合が悪いらしく、彼女は十分たっても二十分たってもトイレから出てこなかった。
三十分が過ぎた頃さすがに僕は不安になり、女性に対して失礼だとは思いつつも、トイレに様子を見に行った。
個室までにドアは二つあり、最初のものは厚く重い作りで、外との空気を遮断している。
その中には狭い洗面所があり、清掃用具のロッカーが備え付けられている。そこからはもう床と壁がタイル張りで、いかにもトイレといった作りだ。そして次のドアの向こうには和式の便器がある。
ドアを開けると、予想通り、むっとした下痢の臭いが立ち込めていた。
個室の中に気配が感じられる。彼女がしゃがんでいるのだ。
しかし物音はしなかった。改めて躊躇したのち、僕はそっと個室のドアを叩いた。
「すみません、大丈夫ですか?」
すぐに返事はなかった。
腐った卵のような悪臭の漂うなか、僕の中で鋭い罪悪感が膨らんだ。
三十秒ほどして、ようやく、
「だいじょうぶです……」
小さく彼女の声が聞こえた。か細く、怖がりな感じの声。それは初めて聞く彼女の声だった。
僕はレジに戻った。外に出る前に何か言ったと思うが、よく覚えていない。
それから二十分ほどして、彼女はうつむいてトイレから出てきた。
前髪で顔が隠れるほどうつむいていて、表情は見えなかった。
彼女はわざと遠回りをしてレジの前を通らず、足早に店から外に出て行った。
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夜になると、店長が出てきた。
四十過ぎの男性で、教養のあるタイプではないが、事務処理が巧く、人柄も悪くない。
僕がレジを続ける横で、店長は伝票のチェックを始めた。
ほどなくして中年の女性が入ってきて、店長に許可を求めたのち、トイレへと入っていった。
だが彼女はすぐに出てきて、ひどく不愉快そうな表情でレジから店長を呼び出した。
慌てて女性のもとへ行った店長はちょっと会話するや、小走りにトイレへと向かった。
女性はそのまま店から出ていってしまった。
わずかなのち苦い顔で出てくると、店長はいきなり僕を睨みつけた。
「おい、ちょっと来い」
「え?」
「いいから来い」
何か言える状況ではなかった。ちょうど客もいなかったので、僕は急いで店長のもとへと行った。
「ちょっと中を見てみろ」
言われるままに中に入る。
違和感を覚えた。
あれから数時間たったのに、まるで臭いが抜けていなかった。訝しみながらドアを開ける。
「……うっ……」
それを見るや手が口元を覆った。
物凄いことになっていた。
うめきが出るのを抑えられなかった。
個室の中は、下痢便の海と化していた。
なんということだろう……。
高い段差のある和式便所。その下の床に、ドロドロの下痢便が足の踏み場もないほどに撒き散らされていた。
慌てるあまりちゃんと便器をまたげなかったのか。激烈に打ち付けられたであろう下痢はタイルの上で派手に飛び散り、段差はもとより周囲の壁にまで茶色い飛沫を塗りつけていた。
狭い空間に凶悪な臭気が充満していた。
外とはまるで威力が違う。あまりの臭さに、僕は胃にむかつきさえ覚えた。
おぞましい悪臭を放ち続ける汚物の渦。これでもかとばかりにぶちまけられた大量の下痢便は、彼女の顔とまるで一致しなかった。
目をそむけると、何かを詰まらせたらしく、便器の中も悲惨な状態になっていた。
茶色く濁った水が満ち、崩れた紙が大量に浸っている。
その後ろの縁もまた、茶色いスプレーが吹き付けられていた。
僕はたまらず個室から出た。おそらく酷く顔をしかめていたことだろう。
「なんだ、あれは」
店長に訊ねられるも、言葉の出てくる状態ではなかった。
「今日、誰かトイレを使ったので様子が変なのはいたか」
「女性の方で、店に来るなり急いでトイレに入った人がいました」
「くそ、どんなゴリラ女だよ」
しどろもどろに答えると、店長は大きく舌打ちをした。
「器物損壊のレベルだぞ、あれは」
吐き捨てるように言う。
「どんな女だった……? 豚みたいな顔をしたクソババアか? それともあの量からして力士級の百貫デブか?」
「いえ……普通の女の子でした。下里中の……」
「えーーーー、信じられないな……」
犯人が女子中学生だと聞いて、店長はかなり驚いたようだった。無理もなかった。
「顔が真っ青で、かなりおなかの調子が悪かったみたいで……その、カメラで顔をチェックしたりするのは、勘弁してあげてください」
とっさに僕が言うと、店長は重い表情で腕組みをし、小さくうなった。――沈黙。
人の顔に青筋が浮いているのを僕は生まれて初めて視覚した。
「たしかに下痢のときは仕方のないこともあるかもしれないが、」
わずかに同情した様子で口を開く。
「人様のものを汚してしまったら綺麗にするのがマナーだろうが……」
言いながら、店長はドアを足で蹴った。
大きな音が響いた。
全く返す言葉はなかった。
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案の定、僕が後始末をすることになった。
さすがに悪いと思ったのか、五時間分の給料をボーナスでもらえることになった。
責任者は僕だったし、店長は仕事が山積みなので、いずれにせよ僕がやらねばならないのだが。
ようやく落ち着いた様子の店長は清掃用のゴム手袋に加え、売り物のマスクを僕にくれた。
清掃中の札をかけ、中に入る。
ドアを開けると再び下痢便の海が僕の視界を茶色く染め、凄まじい悪臭が鼻腔に溢れこんできた。
空気ごと汚染されているようで、マスクはまるで意味がなかった。
わずかな隙間につま先を乗せ、素早く段の上にあがる。
閉ざされていた窓を、僕は力いっぱい引き開けた。
冷たい風が勢い良く流れ込んでくる。
その日は十一月下旬であったが、朝からひどく冷え込んでいて、まるで雪でも降りそうな気配だった。
そのうえ風がひどく強く、外を歩いていると身震いするほど体が凍えた。
大きくため息をついて振り返る。
そして間近から便器の中を見下ろした僕は、ようやくそのことに気が付いた。
強い困惑が胸に広がる。
澱んだ水に浸かっているぐしゃぐしゃの紙。それらはトイレットペーパーではなかった。濡れていない部分をつまみ、そっと一枚をひっぱり上げる。
――それは、彼女が大切そうに買っていった、あのルーズリーフだった。
行の半分にも満たない小さな字で、英語の作文らしきものが書かれていた。大量に下痢便が塗り付けられ、残りも水に崩れ、かろうじて一部だけ解読できる状態だった。別の紙には数学の式が見て取れる。よく見ると、他も全て授業のノートだった。
はっとして前を見た。
トイレットペーパーが切れていた。
替えは外のロッカーの中だ。毎朝定時にチェックすることになっているはずだが、前のバイトが怠ったらしい。
もう一度、便器の中を見る。
ノートはみな、ぬかるみに押し付けたように茶色く染まっていた。
どれも下が見えないほどべっちゃりと付着し、未消化のニンジンまで貼り付いているものもあった。水に浸っている部分から下痢が溶け出し、水面を茶色く濁らせていた。
しばらくその光景を凝視したのち、僕は取り付かれたように汚物入れを開けた。
中にあったものをそっと持ち上げ、慎重に広げる。
それは下痢便まみれになったパンツだった。
ドロドロの中身から濃密な悪臭が立ち上ってくる。
いかにもあの娘らしい、小さなフリルの他には何の主張もない無地の下着。その底をくまなく塗りつぶしている茶色が、噴出の凄まじさを物語っていた。漏らしながら大慌てで脱いだらしく、裾まで途切れることなく下痢便が噴き付けられていた。
わずかに手が震えると、中身がぼたりとこぼれ落ちた。
タイルの上に軟らかく広がり、四方に茶色くしぶきが飛んだ。
ああ。
彼女のいた地獄が見えた気がした。
あの三十分間、きっと彼女は途方にくれていたのだ。
様子を見に行った時のことを思い出した。
三十秒の沈黙。あのとき、ここにしゃがんでいた彼女は、下痢まみれの尻でいったい何を考えていたのだろうか。
そして彼女は「だいじょうぶです」と言った。
その声が脳裏に響いた。胸がたまらなく痛んだ。
もしあのとき、彼女が本当に必要なものを言ってくれていたら、悪夢はそこで覚めただろう。
しかし結果的に、彼女は僕に助けを求めてはくれなかった。
再び下痢便の海を見る。
まぎれもなくあの娘が作り出したものだ。
まるで肥溜めをひっくり返したかのような、凄まじい悪臭を放つ汚物の洪水。彼女はどんな思いでこれを残して店を去っていったのだろうか。
僕はいったん個室から出て、ゴミ袋と替えのペーパーを持って戻った。
まず、彼女の下着をトイレットペーパーで何重にもくるみ、そっと袋の中に入れた。
それから、便器の中の紙を次々と拾い上げてその上に重ねていった。
ノートはどれも可愛らしい字で、大切なことが素朴に丁寧に書き込まれていた。
見ていると、あのレジではにかむときの彼女の顔が浮かんできた。
今や何の役にも立たない汚物と化したそれらは、まるで泣いているように見えた。
下痢便といっしょに陰毛がこびりついているものもあって、僕はどうしようもなく情けない気分になった。
やがて水が流れるようになると、僕は床の掃除に移った。
紙を大量に手に取り、すっかり冷たくなった下痢をすくい取っては、便器の中に投げていった。
泥のような質感の中にゴマや赤いニンジン、黒ずんだ野菜のかけらといった未消化物が混ざっていて、それが否応無く僕に、いま自分の処理しているものがあの娘の肛門から排泄された大便なのだということを感じさせた。
彼女の腹の中身を全て片付け、床をモップで綺麗に水拭きし終えたころには、もう夜ふけになっていた。
店長のねぎらいなどどうでも良く、僕は疲れ果てて帰途についた。
それから彼女はもう二度と来ることはなかった。
いつも来ていた頃になると僕はしばしば外の道路を見つめたが、そこを通ることさえなかった。
ほどなくして僕もバイトをやめた。