No.04「食中り」

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「ごちそうさまでした」
 そう言うと千鶴さんは小さくおじぎをして、食器を重ねて台所へと持っていった。

「ほら、早くしないと遅刻しちゃうわよ」
 すぐに戻ってきて、僕の肩をつつく。
「わかってるってば」
 もぐもぐと答えながら、僕は残りの半切れを一気に口の中へと突っ込んだ。
 紅茶を流し込み、立ち上がる。

「お母さん、行ってきます」
 千鶴さんはすでに歩きだしていて、僕が立ったのを確認すると、台所を振り返って言った。
「は〜い、気をつけてね」
 おばさんが食器を洗いながらいつものように答える。
 僕もいってきますと言おうとしたが、口の中がパンだらけでうまく言葉にならなかった。

 玄関に行くと、もう千鶴さんは靴を履き終えていた。
 最近買ったばかりのぴかぴかの革靴だ。
 千鶴さんはピシッとスーツをきめていた。リクルートスーツというらしい。目指す企業の来るセミナーとかいうのが大学であるらしく、彼女は気合が入っているようだった。そんな格好をしていると、まるでものすごく大人な、遠い世界の女性のように感じられた。

「ほら、なにしてるの。早くしなくちゃ」
 ぼんやりとしていると怒られた。もうその手はドアを半分開けている。
 慌てて靴を履き、澄んだ洗剤の匂いを感じながら、自分より少し大きな後姿を追って外に出る。

「あっつぅ〜〜……っ!」
 外に出るや、鋭い陽光に僕は瞼を射抜かれた。
 七月上旬の朝八時。空は雲ひとつない快晴で、激しい日光が路上に降り注ぎ、気温は早くも三十度を超えていた。うだるような千鶴さんの声が耳の奥で揺れる。

「でも、いい天気ね」
 目の上に手をかざしながら、千鶴さんは眩しい瞳で空を見ていた。
 背の中頃まで伸ばされ、今日は特に綺麗に整えられている黒髪が、きらきらと眩しく水面のように輝く。

「こう君、今日の夕ご飯は何がいい? 豪華に焼肉とかにしようか?」
 自転車を出しながら、千鶴さんは僕の目を見つめて甘く優しく微笑んだ。
「え、いや、いいよ、普通で」
 とっさに断ってしまう。僕は彼女の淡い口紅を見ていた。
「でも、今日でちょうどあなたが来てから三ヶ月だから。何かお祝いしなくちゃ」
「二ヶ月の時もやってもらったし、もういいってば」
 伯父さん夫妻は共働きで、おばさんが帰って来るのは七時すぎになる。そのため、夕食の買出しはいつも千鶴さんが大学の帰りにスーパーによってしているのだった。

「こう君、何か食べたいものとかはないの? 遠慮はしなくていいのよ」
「千鶴さんの好きなものでいいよ」
「そう? うん、わかった」
 大きな瞳で見つめられながら、急に僕は幼稚園のときに好きだった先生のことを思い出して赤面した。

「じゃあ、今夜は私のいちばん得意な料理を作ってあげるわね」
 そう言うと、千鶴さんはもう門の外に出てしまった。結局、そういうことにされてしまった。

「もうすぐ練習試合があるんでしょ? 頑張ってね!」
 千鶴さんはもう一度微笑んで真っ白な歯を見せると、手を振って風のように行ってしまった。
 千鶴さんもセミナーとかいうの頑張ってね。――そう言いたかったが、彼女はもう遥か彼方だった。
 きらめく朝陽の中で揺れる黒髪を、僕は汗を拭いながら見ていた。


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 小学校の卒業と同時に、急に父が南米に転勤することになった。
 期間は一年。母もついてゆくことになった。
 色々と迷い、話し合った末、僕は日本に残ることになった。
 隣町に伯父が住んでいたので、そこに居候して、二十分の距離を歩いて地元の中学校に通うことになった。

 伯父夫婦には千鶴さんという一人娘がいた。八歳年上の、僕のただ一人の従姉弟だ。
 物心ついたときから彼女はいつも優しいお姉さんで、むしろ母親に近い存在だった。
 僕のことをよく可愛がり、世話をしてくれたことを覚えている。彼女は僕にとって清楚な女性の象徴だった。八歳という数では済まされないほどの大きな差が、僕と彼女の間にはあるようだった。

 折に触れて会っていたが、千鶴さんが大学生になった頃から彼女は急に綺麗になりだして、僕はなんだか気恥ずかしくてうまくしゃべることができなくなっていた。いつしか目を合わせるだけで緊張するようになっていた。

 だから、突然始まった一つ屋根の下での生活は、僕にとっては強すぎる刺激の連続だった。
 彼女は全く気にしていないようだったが、たまったものではなかった。
 特に、今朝は……。

 蝉の音が聞こえる。

 灼けるような熱気の下をよろめきつつ帰ってきた僕は、台所で冷えたジュースを飲んでいた。
 真昼の薄暗い家の中は、どこまでも静かだった。
 いつもは部活でもっと遅くに帰るのだが、顧問の先生に急用ができ、今日は休みになった。

 ジュースを飲み終えると、僕はどさりとソファーに腰掛けた。
 おじさんおばさんはいつも通りだし、千鶴さんも今日はセミナーがあるから七時頃まで帰ってこない。
 全てがよそよそしかった三ヶ月前と比べると、この家にもだいぶ慣れたと感じた。伯父さん夫妻も、まるで実の両親のように思えてきた。

 いまだに距離を感じてしまうのは千鶴さんだけだ。
 彼女の方は僕にすごく親しみを持ってくれていて、あれこれと面倒を見てくれる。
 それに応えられない自分がもどかしかった。

 千鶴さんは有名大学の法学部に通っていて、英語がかなりできて、資格も勉強して色々と取っているらしい。
 かなり良い会社に入れそうだと伯父さんが自慢していた。もしそうなったら、僕はどうするのだろう。

 たまには早い時間に宿題でも済ませよう。
 そう思い立ち、静かに腰を上げた。――そのときだった。

  ガシャアァーーンッッ!!!

 突然、外から物凄い音が聞こえた。
 交通事故が起きたかと思った。僕は驚き、目をみはった。

 それからすぐに、ガチャガチャと激しい物音が玄関から聞こえてきた。
 何者かが鍵をこじ開けているように見え、強い恐怖を覚え、身がすくんだ。

 いなや大きくドアが開く音がし、激しい女性の呼吸と共にカツカツと猛烈に焦った様子のヒールの音、そしてダンダンダンダンと板張りの廊下を蹴る慌しい足音が続いた。
 直後に遠くでドアの叩き閉められる音が響き、それで物音は止んだ。

 わずかな後、おそるおそる玄関に出てみると、絨毯の上に千鶴さんの靴が転がっていた。
 逆さまにひっくり返っていて、もう片方はおばさんの靴を巻き込んでドアの側まで蹴り飛ばされていた。

 尋常ではなかった。スーツと合わせて買ったピカピカのハンドバッグが石畳の上に投げ出され、中身が散っている。いままで、どんなに急いでいる時でも千鶴さんのこんな行為をみたことはなかった。驚きのあまり、急に帰ってきたことへの疑問さえ浮かばなかった。

 僕は千鶴さんの足音が行った先に向かった。と言ってもそっちにあるのはトイレと浴室だけだ。

「はあーー……はあー……ふうぅーー……!」

 トイレの前に立つと、まるで牙を剥いた肉食動物のような、ひどく野蛮で荒れた吐息が聞こえてきた。
 ドアは固く閉ざされているが、鍵はかかっていない。
 千鶴さん、もしかして、腹を壊したのか……?
 ためらいながらもそっとドアに手を伸ばす。

  ドボドボドオオオオォォォォーーーーーーッッ!!!

 瞬間、凄まじい音が響きわたった。
 水の上で蛇口を全開にしたかのような、打ちつける滝を思わせる轟音。ドアに触れかけたこぶしがびくんと止まる。

  ドボボボボボボボボボーーーーーッ!!!
  ドボチャボチャボチャボチャボチャボチャ!!!
  ドポドポドポドポドポブゥビイイィィィィーーーーッ!!
 間髪入れず、暴力的な大音響が連続した。
 喉がごくりと唾を飲んだ。ただごとじゃないと思った。胸が締め付けられるように痛み、どくどくと鳴った。
  ブウーーーーーーッッ!!!
 さらに続いて、かつて聞いたことのないような大きいおならの音が鳴り響いた。
 ひどくマンガチックで、状況によっては大笑いしてしまうような音だった。

「ぐううぅー、ふうーー、うーーー、」
 まるで男性のように低いうなり声が、再び個室の中から聞こえてくる。
 必死におなかをさすっているらしく、えぐるような激しい衣擦れの音がした。
 卵の腐ったような酷い臭いがドアの奥から溢れてくる。
 下痢。――その言葉だけが僕の頭の中でぐるぐると回っていた。

「ぐふううぅぅ〜〜」
 普段の優しくて落ち着いた千鶴さんからは想像もつかない、獣じみた苦悶の声。
 ぶぴぶぴと湿った破裂音が小さく下のほうから聞こえた。
 わずかな静寂の後、

  ドボドボドボドボドボオオーーーーッッ!!!

 再び大量に注ぎ込まれる音がし、

  ブウウウゥゥゥゥーーーーーッ!!

 猛烈なガスの放出がそれに続いた。

 その後はまた地獄のうなり声と、震える衣擦れの音だった。
 口から心臓が飛び出しそうだった。
 鼓動を聞かれるのが怖くなり、僕はトイレの前から逃げ出した。
 爪先で歩く僕の背中を千鶴さんの這うようなうなり声が追いかけてきて、途中でそれが止むと、再び激しい破裂音が響きわたった。

 玄関で脱ぎ散らかされた靴を見ながら、僕の中で冷たい罪悪感が膨らんだ。
 彼女は僕がもう帰ってきていることに気付いていない。

 しばらく惨状を見つめたのち、僕はすみで地味に並んでいる自身の靴を持ち上げると、下駄箱の中に隠した。
 なんでそんな中途半端なことをしたのか自分でも分からなかった。

 それから二階の自室に入り、冷房も明かりもつけず息を潜めた。
 窓の外を見ると、門の前で横倒しになっている千鶴さんの自転車が見えた。
 胸がたまらなくそわそわした。
 さなか、彼女が大便をしているのを今までに一度も見たことがなかったことに気が付いた。


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 ニ十分ほどすると彼女のことがひどく心配になってきて、僕はそろそろと一階に下りていった。
 階段を降りるや悪臭が鼻をついた。熱気と溶け合い、廊下じゅうに広がっていた。
 玄関の痕跡はそのままだったが、鍵だけはかけられていた。

 その一方で、トイレのドアは大きく開け放たれていた。
 空間に人の気配はない。静かだった。訝しみながらゆっくりと廊下を進んだ。

 トイレの中を目の当たりにした僕は、繰り返し唾を飲み込むことを止められなくなった。
 下痢便まみれになった便器がそこにあった。
 どうやら、千鶴さんは、あのとき間に合わなかったらしい。薄いピンクの便座カバーにドロドロの下痢がぶちまけられ、蓋の内側や便器の土台にも茶色いしぶきが派手に飛び散り、垂れ落ちていた。

 そして足元には、ミートソースのような下痢便でいっぱいになった下着がスカートごと脱ぎ捨てられていた。
 まとめて足を引き抜いた様子のなんとも稚拙な脱ぎ方で、むきだしの股布にべっちゃりと塗りつけられた下痢便が赤裸々に露出していた。肛門の当たっていた箇所はひときわ量が激しく、周りのふちには溢れ出した跡があった。いくつも混ざっている黒いかけらを見て、昨夜彼女が作ったワカメの味噌汁を思い出した。

 ……千鶴さんのウンチ。
 見ることなどないと思っていたそれを、まさかこんな形で目の当たりにすることになるとは思わなかった。

 千鶴さんのおなかの中で荒れ狂っていたもの。
 あの千鶴さんが自らを制御できなくなり、着衣のまま溢れさせてしまった地獄の苦しみ。

 頭の中がぐるぐるして、何を考えればいいのか分からなかった。
 眼前の発生源から猛烈な悪臭が顔面にまとわりついてくる。
 めまいがして、息をするのが苦しかった。

 そのとき、後ろから水の跳ねる音が聞こえた。
 はっとして振り向くと、浴室のドアが半開きになり、明かりがつけられていることに気が付いた。

 引き寄せられるように脱衣所へ入ると、カゴの中にリクルートスーツが丁寧にたたんで入れられていた。その上には無造作にブラジャーがのせられている。曇りガラスの向こうに肌色のシルエットが見え、シャワーの音と共に小さな声が聞こえてきた。

「……ひっ……うっ……ええぇぇぇっ……」
 千鶴さんは、泣いていた。

 泣きながら下痢便で汚れたお尻を洗い清めていた。
 パンツの中があの様子だと、お尻は相当酷い状態になっていることだろう。
 肌色のシルエットはがに股の姿勢で震えながら、その中央をごしごしと洗っていた。

 それを見た瞬間、直感した。……これは見てはいけないものだ。

 僕はすぐさま廊下に出た。
 物凄い罪悪感が胸を激しく締め付けた。
 開け放されたトイレの中身もそうだった。僕は、ここにいてはならない。

 二階に上がり鍵を取り出すと、学校の鞄を引っつかんで降り、すぐに家の外に出た。
 制服のままでいたのは幸いだった。静かに鍵をかけると、悲しげに横たわったままの自転車を尻目に、開け放されたままの門を閉めず僕は外の道路に走り出した。


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 空が暗くなりだしたころ家に戻ると、門はきっちりと閉ざされ、自転車はいつもの場所にしまわれていた。
 玄関に入ると、千鶴さんの靴は綺麗に揃えられ、他の靴の場所も整えられていた。
 トイレに行ってみると、便器はピカピカで、薄いグリーンの便座カバーがかけられていた。

 一階は暗く、人の気配はなかった。
 二階に上がると、千鶴さんの部屋のドアから明かりが漏れ出していた。
 そっとノックしてみると、「おかえりなさい」と声がした。
 中に入ると、千鶴さんはベッドに横になっていた。

「今日もおつかれさま」
 優しく微笑みながら、ゆっくりと体を起こす。
 千鶴さんはパジャマに着替えていた。
 その顔は青白く、憔悴した様子で、一目でただごとでないことが分かる状態だった。

「……どうしたの?」
 何も知らないふうに、何気なく尋ねる。目を合わせるのに勇気がいった。

「ちょっとね……下痢をしちゃったの……」
 そう言うと、千鶴さんは小さくおなかをさすって見せた。あの悪夢を生み出したおなかだ。
「お弁当の味がおかしかったの。……中っちゃったみたい」
 切なげな表情で小さくうつむく。髪が乱れ、その額にはべったりと脂が貼り付いていた。

「今年は猛暑だから、こう君も気をつけて……」
 何をしゃべればいいか分からないでいると、僕のことを心配そうに見つめてそう言った。
 胸の底がむずむずした。

「……だから、ごめんなさい、今夜は」
 続く言葉のさなか、突然千鶴さんの体がぴくんと震えた。
 穏やかだった顔が急に険しくなり、両手がおなかに添えられる。
 眉間に皺を刻み、荒くため息を吐きながら、静かに布団を横にのける。

「ごめんなさい、お手洗い……!」
 素早くベッドから降りると、体をまるめておなかを抱えながら、千鶴さんは足早に廊下へと出ていった。

 直後、水洗音が響いた。
 二階のトイレは僕の部屋の向かいだ。
 このまま千鶴さんの部屋で待つことにした。


 その後も何度も水を流す音が聞こえ、十分ほどして千鶴さんは戻ってきた。

「待っててくれたの……」
 げっそりとした表情で口元に皺を浮かべながら、かすれた声で千鶴さんはつぶやいた。
 大きく背中が曲げられ、足元はよろよろとおぼつかない。
 支えようか迷っていると、崩れるようにベッドの上に座り込んだ。

「大丈夫……?」
「ごめんね、心配させちゃって……」
 優しさと申し訳なさの混じった瞳で、千鶴さんは僕の目を見た。
 だが、直後にその目の色が激しく変わった。
 歯を噛み締め、おなかを抱えてぶるぶると震える。

「ごめんなさいっ……!」
 再び立ち上がると、千鶴さんは右手を腰に押し付けてトイレへと走っていった。
 荒く施錠の音がして、再び水洗音が響きわたった。


 ほどなくしておばさんが帰ってくると、ベッドの側について世話をし始めた。
 相当酷いようで、千鶴さんは部屋とトイレを往復し続けた。
 おかゆを食べたが、それもすぐに出してしまったらしい。
 様子を見にゆくと見せてくれる笑顔が、ひどく痛ましく感じられた。

 千鶴さんは一晩中ピーピーで、水洗の音が夜を徹して何度も何度も聞こえてきた。
 さすがに音消しはやめたようで、よなか廊下に顔を出してみると、水面に水鉄砲を打ち込むような音と、湿ったガスの激しく放たれる音とが、繰り返し聞こえてきた。

 翌朝になると、おむつをつけて病院に行った。
 案の定、食中毒だった。かなり強力なやつに中ってしまったそうだった。

 千鶴さんは、その後五日間ほど寝込んだ。
 体重も五キログラム減ったらしい。

 家中の空気が緊張している中、僕はどうすれば良いかわからなくて、ただあたふたとして水の音を聞いていた。


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「いってきまーす」
「いってきます」
 輝く光を浴びながら、真夏の空の下に歩み出す。

「今日もいい天気ね」
 入道雲の広がった青空を見上げ、千鶴さんは目を細めた。

「こんな日は、どこか遠くに行きたくなるわね」
 澄んだ声で蝉の音を遮り、太陽のようにまぶしく微笑みながら、軽やかに門を開ける。

 あれから十日が経っていた。
 目の前で力強く背を伸ばしている彼女は、もう、いつもの千鶴さんだった。
 肌がつやつやと瑞々しく張り、失った体重も戻っている。
 あの壮絶な下痢は、まるで本当に悪夢にすぎなかったかのようだった。

 僕たちは並んで外に出た。
 どうしてだか、千鶴さんはあれから一度も自転車に乗っていない。
 それで毎朝途中までいっしょに歩いているのだが、ひどく気恥ずかしくて、僕はうまく会話ができなかった。

「こう君、今夜は何か食べたいものはある?」
 甘い石鹸とリンスの匂いを漂わせながら、千鶴さんが尋ねる。
「千鶴さんの作るものなら何でもいいよ」
 並んで話すと、僕は彼女を見上げる形になる。
 朝の陽に照らされ、揺れる黒髪が虹のようにきらめいていた。
 僕はつい、なんだかしゃれた感じのことを言ってしまった。

「本当? じゃあ、またハンバーグにしようか?」
 千鶴さんは急にすごく嬉しそうな顔になって、声を躍らせた。
 三日前にサッカー部の練習試合があったとき、千鶴さんは病み上がりなのに来てくれて、大声で声援を振りまく彼女は勝利の女神となり、僕はみんなから羨ましがられた。
 その夜に戦勝を祝って作ってくれたのが、彼女お得意のハンバーガーだった。僕は「うん」とだけ答えた。

「こう君、女の子の喜ばせ方が分かってきたじゃない」
 大きな瞳でいたずら気に微笑む。僕は赤面してうつむいた。


「それじゃ、楽しみにしててね」

 そしていつもの所で僕たちは分かれた。
 千鶴さんが手を振り、僕も大きく振り返す。

 そのまま動かず、僕は遠ざかってゆく千鶴さんの後姿をぼんやりと見つめ続けた。
 淡いベージュのスカートに覆われたお尻が、淑やかに動いていた。

 僕の視線に気付いたのか、途中で千鶴さんはふりむき、笑顔でもう一度手を振ってくれた。
 顔がひどく熱くなった。
 ひとすじの飛行機雲が、青空を駆けていた。


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