No.08「班下校の思いで」

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 その日、朝岡さんは最初から様子がおかしかった。

 数ヶ月に一回ある地域班での集団下校。
 僕たちのブロックの班長は朝岡正美さんという六年生の女の子だった。
 彼女は地元でも有名な優等生で、勉強ができるのはもとより、色々なコンクールで賞を取ったり、様々な長を務めたりして、いつもリーダーシップを発揮していた。何かの行事で生徒代表が言葉を述べるとき、それはきまって彼女だった。
 短い髪と大きな瞳、いつも着ている真っ白なブラウス。体育館の後ろまで通る声で文章を読む彼女の姿を、今でもよく覚えている。どんなことでもゆるぎ無くこなす才女――それが彼女の印象だった。

 その日、彼女は教室に入ってきたときから顔色が悪かった。
 普段は誰よりも早く班の集まる教室にいるのだが、その日はギリギリにやってきて、それからずっとうつむいていた。
 五年の副班長が話しかけると笑顔を見せたが、ひとことふたこと言葉を交わしたのち離れると、再び重い表情に戻った。

 先生が来て点呼を取ると、彼女がプリントを配り、それから注意事項やルートなどの説明が始まった。
 老年の監督教師は朝岡さんにまかせっきりで、机に座ってのんびりと窓を見ていた。

 彼女は説明をする姿も精細に欠けていた。
 いつもは大きく抑揚のある声でプリントを読むのに、やけに力のない読み方だった。
 早口気味でリズムが悪く、彼女は何回か文章を読み間違えた。途中、一瞬だけ彼女は左手をおなかに当てた。

 説明が終わると、校庭での集合まで十分ほどの空き時間となった。
 生徒達が気ままにしゃべる中、彼女はひとり、重い表情で何度もちらちらと廊下を見ていた。
 しかし結局、班長らしく机から離れず、じっと椅子に座り続けていた。

 時間になり、教室を出て、彼女を先頭に廊下に並ぶ。
 背筋を伸ばして先頭をゆく朝岡さんの後姿を、僕はじっと見つめていた。
 たまたま廊下側の一番後ろの席に座っていた僕は、彼女が教室に来る直前、足早に女子トイレから出てきたところを見てしまっていた。


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 校庭では、班ごとに整列して、二十分近く校長先生の話を聞かされた。
 十二月中旬のその日はひどく寒く、曇り空のした凍える風が次々と吹いてきてつらかった。

 多くの生徒はコートやジャンパーを着ていたが、それでもなお体を震わせていた。
 朝岡さんはそれらを着ていなかったが、上に厚手のセーターを着て、珍しくジーンズをはいていた。
 先頭に立つ彼女は「休め」の手をぎゅっと固め、全く姿勢を崩すことなく、直立不動で先生の話を聞いていた。


「前から大きなトラックが来ます。気をつけて」
 振り向いて言いながら、車道にはみ出している一年生をそっと歩道に促す。

 校長先生の話が終わると、すぐに班下校が始まった。
 朝岡さんは低学年の生徒に気を配りながら、いつものように僕たちを先導した。

 一人ひとりの生徒を丁寧に家まで送り届け、先生が道を間違えそうになると訂正する。
 途中、家の前にいた母親に話しかけられると、彼女は聡明な瞳で言葉を交わし、深くおじぎをして別れた。
 そうして前を歩いてゆく朝岡さんは、いつも通りの頼もしさに満ちていた。


 一人減り、二人減り、やがて生徒の数は数人になった。
 先生がついてくるのは途中までで、副班長も帰宅し、上級生は朝岡さんと僕だけになっていた。

 そこまで人数が減ると列を作る必要もなくなり、歩く位置は自由となった。
 そうして歩いているうちに、たまたま僕は朝岡さんのすぐ後ろになった。

 その時になってようやく気づいた。
 彼女は両手を固く握り締め、体を小刻みに震わせていた。

 そして大粒の汗が次々と頬を伝わって落ちている。
 他の生徒たちは幼く気付いていないようだった。

「ほら、もう信号変わっちゃうから、待たなきゃ、だめだよ」
 走り回る一年生たちに途絶えることなく目を配り、時に優しく声をかける。
 そうする彼女の体はいつしか中腰の姿勢になっていた。顔が真っ青になっていた。
 ときおり彼女が一瞬だけ腹を押さえてひどく醜い表情を見せるのを、僕はもう見逃さなかった。


 さらに一人減り二人減り、ついに僕たちは二人きりになった。
 僕の家だけ少し離れたところにある。それでいつも最後は彼女と二人きりになり、僕はその時間が楽しみだった。
 彼女は二つ下の僕を弟のようにかわいがってくれ、いつも色々と楽しい話を聞かせてくれるのだった。
 だが、その日の彼女は何もしゃべらず、唇を固めて前だけをじっと見ていた。

 やがて、僕は前を歩いていた彼女の姿が視界から消えて久しいことに気がついた。
 そっと肩越しに後ろを見ると、彼女は泣きそうな表情でおなかを激しくさすっていた。
 僕はすぐさま目を戻し、再び歩き続けた。

 さらに何分か歩いたとき、もう一度後ろを見ると、そこに彼女の姿はいなかった。
 驚き振り返ると、だいぶ後ろで彼女は歯を食いしばってうずくまっていた。

 小走りに駆け寄ると、彼女はジーンズの底で重ねていた両手を靴の上にすべらせた。

「ごめんね、靴ひもがほどけちゃって」
 近づくや彼女はそう言って顔を上げた。
「もう大丈夫。行こう」
 すっと立ち上がり、再び僕の前を歩き始める。

「ねえ、君の家、きょう、家の人いる?」
 直後、とつぜん彼女は振り返って言った。その瞳はひどく緊迫に満ちていた。
「え、いるけど?」
「そう……」
 それきり彼女は何も言わなかった。

 それから数分のことは、あまりよく覚えていない。
 気が付くと、僕たちは家についていた。彼女は僕の真横に立っていた。

「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
 ドアを開けると、ちょうど母が玄関の掃除をしていた。
 僕は挨拶を返しながら、後ろを向いて朝岡さんにさよならと言おうとした。
 そのときだった。

「すみません!! トイレかしてください!!」
 朝岡さんがものすごい勢いで中に走りこんできて叫んだ。
「どうぞ」
 母が目を丸くして答えるよりも早く、がばりとしゃがみこんで靴を脱ぎ始める。
  ブリッッ!!
 さなかそのおしりから大きな音が鳴り響いた。同時に靴を蹴って玄関へと跳ね上がる。

「そこのドア――」
 母が指差した先に、朝岡さんはジーンズのボタンを外しながら飛び込んでいった。
 激しい音を立ててドアが閉まる。次の瞬間には物凄い衣擦れの音。それが終わるか終わらないかの内に、

  ブボオッッ!!! ドボボボボボボオーーーッッ!!!

 壮絶な音が玄関中に響きわたった。

  ドボドボドボドボドボブウウウウゥーーーッ!!
  ボチャボチャボチャドボボボボボボボボボッ!!
  ドブボブボビイイィィィィィィーーーーッ!!

 間髪入れず、ドアが震えんばかりに凄まじい音が連続する。
 僕は自分の靴を脱ぎかけたまま固まっていた。母も掃除用具を持ったまま固まっていた。

  ブウウウウウウゥゥゥーーーーーーーーッ!!
「ちょっと……」
 母が素早く寄ってきた。促されて靴を脱ぐ。

  ジュボボボボボボボボボボボボッ!!
  ボピピピピブオオオオォォォッ!! ブボッッ!!
「二人で二階に行ってますから!」
 遅れて混ざった水洗が歯も立たず爆音が鳴り響く中、母は僕の肩を掴み、足早に二階へと連れて行った。

「かわいそうに……おなかの調子が悪かったのね」
 僕の部屋に入り扉を固く閉めると、母は重い表情でそう言った。
 僕は何を言えばいいか全く分からず黙っていた。
 そのまま沈黙が続いた。ときおり外から聞こえる子供の声や車の音が、ひどく大きく感じられた。

「様子を見てくるわ。あなたは部屋から出てこないで」
 やがて、そう言って、母はそっとドアを開け廊下へと出ていった。
 わずかに遅れて、心臓の破裂するような動悸が僕の中で膨れ上がった。


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 十分ほどして廊下に出てみると、一階はすでに静かだった。

 慎重に階段を降りると、トイレの前に母が立っていた。
 僕を見て少しだけ険しい表情を見せたが、何も言ってはこなかった。

 トイレのドアは固く閉ざされ、中から小さな物音が聞こえていた。
 がらがらと物が回る音。それが停止して何かがびりりと千切られる音。続けてがさがさとかすれた音。
 何の音かはすぐに分かった。腐った卵のようなひどい臭いがトイレの前に満ちていた。

 下校中、しゃがみ込んだ朝岡さんに寄った時もわずかに同じ臭いが漂っていたことを思い出す。
 後から思えば、あのとき彼女はおそらく大量に放屁していたのだろう。

 拭く音は、何分にもわたって続いた。
 神妙な顔をしてドアを見つめる母の傍で、僕は、女の子だから丁寧に拭いているのだろうと思っていた。


 やがて大きな水洗の音がして、かちゃりと鍵が鳴って扉が開いた。
 難しい顔でおなかに手をあて、頬を真っ赤に染めている朝岡さんの姿がそこにあった。
 すぐさまドアが閉められ、後ろの便器が見えなくなる。

「大丈夫?」
「すみません……ご迷惑をおかけしました……」
 ひときわ濃密な便臭がむわりと広がる中、朝岡さんは傍に寄った母に細い瞳で頭を下げた。

「いえいえ、とんでもない。お腹の具合は大丈夫? 何か温かいものでも出しましょうか?」
「大丈夫です。すみません……失礼します……」
 膨らんだ唇を震わせながら、朝岡さんは足早に玄関へと向かった。
 今は丁寧に揃えられた靴を履き、母を振り返って頭を下げる。

「すみませんでした。お見苦しいところをお見せしました」
「いいのよ。お大事にね」
「本当に申し訳ありませんでした……失礼します」
 朝岡さんの眼にはわずかに涙が浮かんでいた。それでも彼女は凛々しかった。
 僕はじっと彼女の顔を見ていたが、彼女は一度も僕の顔を見なかった。
 そして彼女は静かに戸を閉めて帰っていった。

「ほら、あなたはさっさと二階に行って宿題でもしなさい」
 残り香を吸ってぼんやりとドアを見ていると、母に背中をつつかれた。
 何となく後ろ髪の引かれる思いを感じながら、僕は二階へと戻った。

 しばらくして一階のトイレに入ると、便座のカバーが変わっていた。
 母にどうしてか尋ねても教えてはくれなかった。


 結局、それが彼女との最後の班下校だった。
 以後、朝岡さんとは一度も話す機会はなかった。
 遠目に見ることは何度もあったが、避けられていたのかもしれない。
 一度だけ廊下で目が合うと、たちまち彼女は顔を真っ赤にしてうつむき早足で去ってしまった。

 翌年の三月、彼女は卒業生代表で答辞を読み、有名な私立中学へと進学していった。
 スーツに身を包み、背筋を伸ばして大きな声で話す彼女の姿は、まるで映画の一場面のように美しかった。

 もしかすると、あの出来事は、彼女の六年間で唯一の汚点だったのかもしれない。
 たまたまいくつかの不運が重なって。限界を迎えて。どうしても、我慢できずに。

 物凄い勢いで突き出されるおしり。爆音を立てて注ぎ込まれる地獄。
 あの時、疑いようもなく朝岡さんのもので埋め尽くされていたわが家の便器。
 一階のトイレに入り、狭い個室の中でそれを見つめるたびに、僕はあの日のことを思い出すのだった。


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