No.11「禁忌」

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 その時のことを、有紗はどうしても忘れることができない。

 七月の、空の良く晴れわたった暑い日のことだった。
 小学四年生だった有紗は、その日はいっしょに帰る友達もおらず、一人で狭い一本道を歩いていた。

 車一台がぎりぎり通れる幅の道路で、左右の家々が陽をさえぎって薄暗く、帰り道にはちょうど良かった。
 それでもうっすらと汗をかきながら、有紗はぼんやりとランドセルを揺らしながら歩いていた。

 しばらくすると、妙な光景に出会った。
 家と家の間にある小さな空き地の奥で、女学生が草むらの中にしゃがみこんでいるのである。
 古風な三つ編みをした真面目そうな少女。しかしその表情は鬼のように険しく、額からは滝のように汗を流していた。
 体をぶるぶると震わせながら唇を噛み締め、ただ一点を睨んでしゃがみ続けている。

 ただならぬ気配を感じ、有紗は空き地の前で立ち止まった。
 同時に少女も気付き、この世の終わりのような顔で有紗を凝視してきた。

「……あの、大丈夫ですか……?」
 熱線を浴びたような沈黙の後、有紗は小さく口を開いた。
 日射病にでもなって休んでいるのかと思った。空き地の奥はだいぶ暗く、少女の腰から下は草に覆われて見えない。
 まさか"そんなこと"の最中だとは、思いもしなかった。

「だいじょうぶだから、あっち行って……!」
 一瞬遅れて、かろうじて聞こえる、押し殺した声で少女はそう言って首を払った。

「え? でも、なんだかずいぶん具合悪そうですよ?」
 有紗は子供を追い払うかのような少女のしぐさにむっとした。
 まじめに心配しているのに。前より大きな声で言いながら、空き地の中に足を踏み込む。

「ちょ、ちょっと、だいじょうぶだから……!」
 少女の瞳が一気に切迫と恐怖に塗りつぶされた。
 肩を激しく跳ねさせ、有紗の方を向き、喉の焼けたような声で押し叫ぶ。

「でも、具合悪そうですし」
「だいじょうぶ、だいじょぶだから、来ないで……!」
 まだ幼い有紗には、少女の表情の意味が分からなかった。
 青々と生えた雑草を踏み散らし、ずんずんと間の距離を縮めてゆく。

「こないでえっっ!!!」
 少女が叫ぶのと、有紗が気付くのとは、同時だった。

 有紗は目を丸くして立ちつくした。

 少女の腰の下は肌色だった。薄れた草の向こうに、むき出しにされた丸い形がはっきりと見えた。
 あるものの、ある状態に特有の、強烈な異臭が鼻をつく。ものすごい臭いが、少女を中心に充満していた。

 凍りつきながら、右手がゆっくりと動いて鼻をつまむ。
 少女の顔がぐしゃりと歪み、瞳に大粒の涙と共に、ありとあらゆる負の感情の湧きあがるのが見えた。

「ふうーーーっっ」
 次の瞬間、少女は獣のような声を上げて足元の草をちぎり、投げてきた。
 緑や小花、土の絡まった根をないまぜにしたものが有紗のスカートにかかり、ぱらぱらと落ちる。

 有紗はぐるりと振り返り、走りだした。
 一度も振り返ることなく、そのまま家まで走り続けた。


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 その年も、七月は暑かった。

 雨の無い日が続き、空は一面に青く、白い入道雲を貫いて果てなく光が降り注いでくる。
 午後の路上は熱気に包まれ、絶えず聞こえる蝉の声が、渦巻く灼熱を揺らせていた。

 静まった住宅街の一角に、小さな神社があった。
 細い通りにそってささやかな敷地があり、小屋ほどの社が建っている。
 高い緑に覆われた中は薄暗く、外にもましてひっそりとしていた。

  ブイーーーーーッ
  ブイイイイイィーーーーーッ

 境内に異様な音が鳴り響く。
 澄んだ空気を醜く震わせるそれは、まるで豚の鳴き声のようだった。
 だが、このような場所に家畜などの穢れがいるはずもない。

「……ふぅー……ふぅー……ふぅー……」
 猛烈な悪臭が社の後ろに充満していた。

 数多の蝉時雨が覆う中。
 下痢便の海と化した石畳にしゃがみ込み、同じ色で埋め尽くされた尻を拭い続けている少女の姿があった。
 唇を固くえぐり、焦燥に満ちた瞳で息を乱しながら、手にしたノートを次々やぶり千切って泥まみれの双球に擦りつけてゆく。ひくひくと喘ぐ肛門。震える膝の間には、爆発を思わせる様で便の溢れかえったショーツが垂れ下がっていた。

「っふぅ、ふうっっ……」
 滝のように汗を流し、今にも泣きだしそうに眉をしかめ、ひたすら下痢便にまみれた尻を拭いてゆく。
 少女は近くの中学の制服を着ていた。整った顔立ちだが、今は見る影もない。
 めちゃくちゃに乱れたセミロングの黒髪。真っ白なブラウスの、後ろの裾がいちめん黄色く染まっている。飛沫の一部は腰より上にまで及んでいた。
 肥溜めを思わせる肛門の真下に、次々と無残な姿になったノートが重ねられてゆく。

  グウウウゥゥッ!!
 その動きがびくりと止まる。歯を噛み締めて股を強張らせて悶絶する。

「ぅふ……っ!」
  ブーーーーーーーッ!!
 必死に肛門を締めようとするも、大きな音を立てて放屁してしまう。
 少女は嘆くような眼で自身の腹を見つめた。

  ギュルルルルルゥッ!!
 その身体がさらに激しく強張る。
 彼女の腹具合は最悪だった。これだけのものを出してなお、狂おしい内臓のうめきが治まらないのだ。

「うっ、うふぅぅっ……!」
  ブジュビジュビジュジュジュジュジュ!!
  ブビリビヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂュ!!
 下痢まみれの尻から同じ色が溢れ出し、積もっていたノートを埋めてゆく。
 一度我慢を放棄した肛門はもう、まるで神経が通っていないかのようだった。

  ブウウウウウウウゥゥーーーーーーッッ!!
 静謐な静けさに包まれた境内に、再び異様な破裂音が空気を揺らして鳴り響いた。


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(大丈夫……家までは、我慢できる……)
 放課後の賑やかな校門で、有紗は一人、重い表情でおなかに手を当てていた。

「宮代さん、またねー」
「あ、田中さん、さようなら」
 数人で帰るうちの一人から声をかけられ、慌てて手を離し、華の咲くような笑顔で挨拶する。
 見送ると、有紗は再び腹をさすることはなく、手で太ももを固く掴んだ。

(うん……。頑張って帰ろう……)
 きゅっと股を締め、足早に歩き始める。

 六時間目の最中から始まった下痢。有紗は猛烈な便意に襲われていた。
 昨日の夜、友達の家族に連れられて食べに行った脂の多い焼肉が合わなかったらしい。

 できることなら、今すぐにトイレに駆け込んでぶちまけたかった。
 しかし、恵まれた容姿、学年一位の才女というプライドが、それを許してはくれなかった。
 次期生徒会長の彼女にとって、爆音を放ちながら下痢便をしていたなどという噂が立ったら、それもまた悪夢だ。

  グウウウゥゥッ……
 十歩ほど進んで、振り返る。
 もう一度おなかに手を当てて、じっと見つめる。
 家までは十五分ほどの距離だった。十五秒ほど立ち止まり、逡巡する。
 だが、やはり有紗は戻ることなく歩きだした。

 十分でおならが止まらなくなり、それから数分で肛門の制御ができなくなるなどとは、考えもしなかった。
 腸の破裂するような腹痛。頭の中にあるのは、どこか身を隠せる場所のことだけ。
 しかし、この神社に辿り着いたときには、すでに彼女の括約筋は限界を迎えていた。
 転がり込むように社の裏へ駆け込み、気が付いたときにあったのは、破滅的な開放感と胸を埋め尽くす悪臭、そして絶望と恐怖だった。


「ぅふううぅぅぅ……!」
  ビーーッ!! ブビビビビビビーーーッ!!
  ブチュブチュブチュブチュブチュブボッッ!!

 有紗は、あのときの女学生のことを思い出さずにはいられなかった。
 一刻も早くここを離れたいのにそれができない。彼女の唇からはいつしか血が滲んでいた。

  ビジャーーーーッ!! ビヂヂヂヂヂヂヂヂ!!
  ブピッ!! ボピピピピピピッ!! ブゥビッッ!!
 泥の噴出を繰り返す黄土色の尻。全身が激しく震えていた。凄まじい便意と腹痛に、それを出す以外できそうにない。
 有紗はどうやら昨日の食事に中ってしまったらしいことに気付き始めていた。
 吐き気さえもよおしそうな悪臭の中、下痢便まみれの石畳に次から次へと新しい下痢便が追加されてゆく。

(神様……神様……)
 誰も来ませんように……。どうか、誰も来ませんように……。
 社の裏に糞をぶちまけながら、ただひたすらに祈る。
 自身の愚かさを省みる余裕すらない。今の彼女にできることは、それと排泄だけだった。

  ゴウウウウウゥゥ!!
「んむぅぅっ!」
  ブウーーーーーーーッ!!
 激しい腸のうねりに、ひときわ大きく放屁する。

 そっと口元を覆う左右の手。光景の現実を確認するかのように眼鏡を直す怜悧な指先。
 有紗が飛び込んだのとは反対側から、息を殺して社の裏を覗いている二人の少女の姿があった。

「……ねえ……これで撮影して……キョウハクすれば……」
 片方が携帯電話を取り出し、すぐ傍の知的な顔に囁きかける。
 二人は有紗と同じ制服に身を包んでいた。学年も同じ二年生である。
 今にもしゃがみ込みそうな異様な姿勢でさまよう有紗を見つけ、ここに入ったのをつけてきたのだった。

「冗談じゃない。そんなの、フェアじゃないわ」
 眼鏡をかけた短い髪の少女は、学年二位の優等生だった。もう一人の次期生徒会長候補であるが、分が悪かった。
「もう行きましょう」
 肩を掴み、外へと導く。

  ブヒッブヒビヒッビヒヒィッッ!!
 見るに耐えぬ形相でふんばる有紗の尻から、大量の飛沫が吹き飛ぶのが見えた。
 色の無い瞳でそれを一瞥すると、少女は自身も歩きだした。

「いい? いま見たことは、絶対に誰にも言わないこと。約束できる?」
 境内から出ると、ようやく声を大きくして、少女はもう一人の顔をじっと見つめた。

「うん……わたしはいいけど……」
「そう、なら約束ね。もし破ったら縁を切るわよ」
「そんな怖いこと言わないでよぉ……」
「守ってくれさえすればいいの。あれは知ってはいけないものだわ」

「絶対に誰にも言わない。約束するから、そんなに怖い顔しないで」
「そう、いい娘ね……」
 背の低い少女は頭を撫でられると、少しだけ頬を赤めた。

  ブビィーーーーーーーーッッ!!!
 誰もいなくなった境内の奥に、再びおぞましい音が鳴り響く。

 有紗が神社から出てきたのは、それから十分ほどが経ってのことだった。
 自身の腹の中に渦巻いていた汚物の全てと、彼女の秘部を包んでいた布、そして紙の山を残して。
 憔悴しきった表情でよろめきながら、それでも必死に足を速めて家に向かって歩いていった。

 両親が共働きで、家には誰もいない。
 鍵を開けて玄関に入ると、有紗は崩れるように倒れ込んでそのまましばらく動けなかった。


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