No.13「尊厳の跡」

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 彼女はまっすぐに背を伸ばして、ただ静かに正面だけを見据えてその場所に立っていた。
 全校生徒の目が一点に集中する朝礼の壇上。そして彼女は呼ばれる名と共に揺るぎなく歩きだすと、学校長から大きな賞状を手渡され深く背を折り礼をした。

 小学生のとき、同じ学年に、高城早百合さんという誰もが憧れる存在の女の子がいた。

 彼女は、はてしなく清潔で完璧だった。
 勉強は学年トップどころか全国模試でも上位で、スポーツも万能だった。音楽では美しくピアノを弾き、図工では写真のような絵画を描く。読書感想文や書道でも数多くの賞を取り、全校集会や学級会などで何度も表彰を受けていた。
 大きく凛とした瞳で、常にまっすぐに背を伸ばしたその姿は、誰もが一度見たら忘れなかった。
 一点の曇りもない白い肌に整った鼻すじ、淡い桜色の唇で美しく黒髪を伸ばし、彼女は居るだけで周りの空気までも洗い清めるかのようだった。町で一番の裕福で由緒のある家に住んでおり、それでいて飾ることがないので、彼女の周りにはいつも多くの生徒が集まった。習い事で忙しいにもかかわらず学級委員などの役も断らずこなし、彼女は常に皆の中心にいた。

 もって生まれたものが違うとしか言いようのない高みの華。
 それに対して、史佳は全てにおいて平凡な存在の女の子だった。
 勉強、運動、容姿、いずれも悪くもないが、優れもしない。ありふれた毎日を淡々と送る、その他大勢の一人だった。

 小学六年生の三学期、最初の席替えで、史佳は高城さんの後ろになった。
 嬉しかった。胸がどきどきした。史佳もまた、彼女に憧れを抱く生徒たちの一人だったからだ。
 それまでに会話をしたことは多くなかった。彼女は誰にでも笑顔で分け隔てなく接するので、史佳も、ちょっとした折に何度か話しかけられたことはある。そのときのことは、いずれもよく覚えている。しかし彼女はどうか分からない。

 それで史佳は高揚し、席替えの当日には親にさえ自慢した。
 小学校生活の最後に、何か素晴らしい日々が待っているような気がした。

 だが、その期待は裏切られた。
 休み時間をはじめどんな時でも高城さんのまわりにはクラスメートが集まり、史佳には話しかける間もなかった。
 すぐ近くにいるのに、あまりにも遠くに感じられた。

 わかってはいたことだった。
 結局、史佳はそうなのだ。

 輪の中で微笑み続ける高城さんの後ろで、ただぼんやりと座っているだけの存在。
 史佳には、彼女の存在はあまりにもまぶしすぎた。
 光り輝く太陽の裏で、史佳は星にすらなれなかった。


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 前夜にいくらかの雪が舞った、ひどく風の冷たい日であった。

 一月の下旬になり、翌月の中学受験を控え、張り詰めた雰囲気の生徒が増え始めた。
 高城さんも最難関の私立中学を受けるらしいのだが、彼女には少しの緊張も見られなかった。

 暖房の効いた教室から一歩でも出ると体の芯まで凍えそうで、昼休みも多くの生徒が教室に残っていた。
 その中で高城さんも教室に残り、いつものように周囲と談笑を交わしたり、勉強している者に頼まれて問題を解いてあげたりしていた。彼女はどんな問題もすぐに解いた。

 昼休みが終わるころには、彼女の周りには数多くの受験生が集まっていた。
 あまりの多さに時間が足りず、五時間目のあとの休み時間も、高城さんは求める生徒たちに囲まれた。
 その一人ひとりに、彼女は丁寧に解き方を教えていた。
 一問教えてもらった生徒がもう一問と行列に並びなおす有様で、史佳は珍しく高城さんが一瞬だけ困った感じの表情を見せたのを目にした。彼女を覆うクラスメートは全く減ることがなく、続きは六時間目の後ということになった。


「先生」

 六時間目の授業が始まってから、三十分ほどが過ぎたときのことだった。
 先生のわずかな話の休みを縫って、澄んだ声が教室に響きわたった。

 見ると、高城さんがまっすぐに手を挙げていた。
 教室の中央に座る彼女に、クラス中の視線が集められる。
 彼女は左目をてのひらで覆っていた。

「すみません、コンタクトレンズが外れてしまって。洗って付け直してきてもいいでしょうか?」
 背筋をまっすぐに伸ばし、よく通る声でよどみなく言葉を紡ぐ。

「どうぞ、いってらっしゃい」
「ありがとうございます」
 すぐに先生が答えると、高城さんは丁寧に会釈をし、すっと立ち上がって歩きだした。
 その時点で、すでに生徒たちは視線を元に戻していた。
 ゆっくりと静かにドアが閉められるなか、何事もなく授業は続けられた。

 二分ほどして彼女は戻ってきて、そっと席に座ると静かにノートを再開した。


 授業は滞りなく進んでいった。
 壁の時計で残り五分を見たとき、史佳はもう、さっきあったことを忘れていた。

 それからノートをめくろうとして、彼女はあやまって消しゴムを落としてしまった。
 音もなく転がったそれは、幸い彼女のつま先で止まった。史佳は体を屈め、手を伸ばしてそれを取った。

 さなか、史佳は一瞬だけ動きを止めた。
 消しゴムを机に戻すと、彼女はひどく無表情で、しばらくの間ノートを眺めた。
 それから、彼女は静かに背を伸ばした。

 高城さんの真っ白な靴下に、小さな黄色いしみが一つ付いていた。
 何のしみかは分からない。ただ、誰よりも清潔である彼女に、それは珍しかった。
 しみが付いているのは左の靴下のふちだった。よく見ると、右の上履きのかかとにも、しみが付いていた。

 じっと見ると、しみはわずかに茶色かった。


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 六時間目が終わって帰りの会までの間、教室はいつものように騒がしかった。

 高城さんは再び生徒たちに囲まれて問題を教えていた。
 ときおり別の友達から話しかけられると、それにも笑顔で応対する。
 史佳はしばらくの間その様子を眺めていたが、ふいに無言で席を立つと、誰知られず教室を出ていった。

 喧騒のなか廊下を歩き、その端にある女子トイレへと入ってゆく。
 何人かが洗面所で雑談を交わし、個室もほとんどが閉まっていたが、ちょうどそこは空いていた。

 入り口から最も近くにある和式のトイレ。
 その中に、史佳は空気のように入っていった。

 正面に横たわる和式の便器は、綺麗な白色をたたえていた。周りには清潔なピンク色のタイルが広がっている。
 それを一通り見つめると、史佳は便器をまたがず、そっとその場にしゃがみこんだ。

 ……史佳は、静かに立ち上がった。

 便器の白い縁の内側には、おびただしい量の黄土色が吹き付けられていた。
 水流の届かぬ高さのほぼ一面に、まだぬめりを残したものが幾色のかけらを伴い散っていた。
 相当激しい勢いで噴出がなされたらしく、後ろ半分のいたるところに飛沫が及んでいた。


 教室に戻ると、帰りの会が近づき、生徒たちは席に戻りつつあった。
 高城さんを囲んでいた者たちもいったん戻り、いま彼女は近くの席の数人と談笑していた。

 史佳は席に戻り、彼女を見つめた。
 憧れのまなざしに包まれ、彼女はまぶしい笑顔で話をしていた。
 真っ直ぐに澄んだ瞳で、艶満ちた黒髪に冬の陽を踊らせながら。
 ときおり、形の良い唇から真っ白に輝く前歯がのぞく。
 美しかった。誰からも好かれ、尊敬され、彼女はどこまでも完璧だった。

 その、腰から下へと、やがて史佳は視線を移した。
 気高く形の整った、深い藍色のロングスカート。品のある桃のような形が、うっすらと浮かんでいる。

 いつしか、史佳の顔は、はじけんばかりに沸騰していた。
 ふるえながら眼を下ろすと、帰りの会じゅう彼女は真っ赤になってうつむいていた。


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 あの日と同じような、ひどく寒い日であった。
 午前中に降った雪で薄く化粧をした線路を眺めながら、史佳は夕暮れのホームに立っていた。
 制服の上に紺色のコートをまとい、ときおりその唇から白く揺れる息を吐く。

 隣町の繁華街にある駅だった。参考書を買うために立ち寄ったのだ。
 ホームには他にも制服姿が多く、あちこちから寒さを払うように話し声が聞こえていた。

 やがてアナウンスが流れ、向かいのホームに電車が入ってきた。
 ゆっくりと速度を落としながら止まり、開いたドアからばらばらと人が降りてくる。
 さなか、史佳の目は、にわかに大きくなった。

 まっすぐに背を伸ばした少女が、ホームへと降り立っていた。
 名門で知られる進学校の制服に身を包み、洗練された歩みで、ゆっくりと階段に向かってゆく。
 その整った顔立ちは気品と聡明に満ち、冬の夕陽を眩しく返す黒髪は雪のような怜悧さを湛えていた。

 目の覚めるような美しさに、年の近い周りの者達が惑うようにして視線を送る。
 彼女が誰だか、史佳には考えるまでもなかった。
 まるでそこだけ違う世界のような、あの頃にも増して完璧になった、今ではあまりにも遠い存在。
 そして彼女は階段へと消えていった。史佳の横で同じ年頃の男子が、吸い込まれるようにそのあとを見つめ続けていた。

 気がつくと、史佳の前にも電車が来ていた。


 帰り道、史佳はあの日のことを思い出さずにはいられなかった。
 あの靴下のしみは、今でも目に焼きついている。それはまさに彼女の完璧な人生に於けるただ一つの汚点だった。

 あの日、高城さんが下痢をしていたことは、史佳だけが知っている。
 誰にも知られてはならなかったはずの不都合な事実を、史佳だけが知ってしまった。

 あの日、史佳が罪を犯したこともまた、彼女だけが知っている。
 何度も何度も記憶から消し去ろうとした。けれど、できなかった。


 家に帰ると、史佳は卒業アルバムを取り出し開いた。
 三年前の自分には目もくれず、幾度もそうしてきたように、ただ一人の姿に目を這わせる。
 彼女は、美しかった。その行為など、想像すらできない様だった。ずっしりと重いアルバムの、どのページに載っている誰よりも、彼女は大便という行為から離れていた。

 まだ冷たいままの部屋で、史佳はしばらくのあいだ卒業アルバムを見つめ続けていた。
 薄暗い窓の外では、再び雪が舞い始めていた。


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