No.14「人生の疵」

<1> / 1 2 3 4 5 / Novel / Index

 残暑のひどく激しい夕方のことだった。

「はぁーー……はぁーー……はぁー……」
 熱気のまとわりつく中を、少女は真っ青な顔で歩いていた。
 その体は著しく内側に曲げられ、膝が少しも離れず合わさり、額からは膨大な量の脂汗が垂れ続けている。
 全身がたえまなく震え、その不格好な姿勢での歩みはどうしようもなく遅かった。

「うっっ!!」
  ブウーーーーーーッ!!
 さなか、突き出された尻からとつじょ猛烈な音が鳴り響く。
 少女は立ち止まり、右手で尻を包んで悶絶した。
 唇を噛み締め、細くなった瞳でへこんだ腹をじっと見つめる。そのまま一秒、二秒――、

  グウルギュルギュルギュルギュルギュル!!
 続いたのは、すさまじい下腹のうなりだった。体がびくんと痙攣する。
  キュウゥゥグウウウゥゥゥ〜〜ッ!
 直後、少女はかすれたうめきと共にうずくまった。
 はずみで股が開き、和式で大便をするような格好になる。
  プリプリプリプリブリッ!!
 いなやスカートの中から音が響き、それが質量を帯びた瞬間、少女は右手をすぼまりに突き刺していた。

  ゴロゴロゴログウ〜〜ウウウウ〜〜ッ!
 すぐさま左手も重ね、歯を食いしばって押し上げる。
  ビピッ! ビッ! ビピピピピッ! プピッ!!
  ゴギュウウゥゥゥゥ〜〜〜ッ!!
 鼻腔から息の塊が出たり入ったりする。
 アスファルトの上にぼたぼたと泥のように落ちる脂汗。少女の股はゆっくりと閉じたり開いたりした。

  ゴポッゴポッゴポッ……
「ぅふっ……ぅふっ……ふっ……!」
 一分間ほどそうしたのち、少女は倒れていた鞄を持って立ち上がった。
 右手は指を固めてずぶりとスカートの中央に突き刺したまま。
 眉を大きく八の字にかたむけ、泣きそうな表情だった。左手は激しく震え、今にも鞄を落としそうだった。

  ぷううううぅぅ〜〜〜〜〜っ
 指先を痙攣させながら、少女は再び歩きだした。

 ほどなくして、雑草の生い茂った空き地の中に彼女はよろよろと入っていった。
 「私有地」「立入禁止」の看板は無意味だった。折れるほどに背を曲げて奥へと進んでゆく。
 ひときわ高い茂みに飛び込むと同時に、彼女の姿は外から見えなくなった。

  ブリッッ!! ブリブリブリブリブリブリブリッ!!
  ビチビチビチビチビチビチビチビチビチッ!!

 音が聞こえ始めたのは、それからすぐのことだった。

  ビチブウウウウーーーーウウウウ!!
  ボトボトボトブビビビビビビビッ!! ブボッッ!!
  ブヂュブヂュビヂュボボボボボボボボッ!!

 人には誰でも他者に言えないことというものがある。
 彼女の場合は、これだった。

  ブピボピボピボピボピブピッ!!
  ブウウウウウウウゥゥーーーーーーーーーッッ!!

 風のない空間に、まとわりつくような残暑の熱気が沈殿していた。
 赤く射す西日。降り注ぐ蝉の声。
 その最低の行為は、数分間にわたって続いた。


<2> / 1 2 3 4 5 / Novel / Index

 硝子窓から淡く夕焼けの射し始めた音楽室を、美しい音色が満たしていた。
 いくつもの旋律が柔らかく溶け合い、一つの楽曲となってこだまする。

 可憐な瞳できらめく楽器に口をつける少女たち。
 その中学校の最上階にある音楽室では、吹奏楽部が合奏の練習をしている最中だった。

 伝統的に品のある女生徒たちの集う部であったが、その中でもひときわ優美な少女の姿があった。
 切れ長の眼でフルートを吹く、端正な顔立ちの少女。長く伸ばされた黒髪が夕日を浴びてきらきらと輝いている。
 その音色は合奏の中でも分かるほどに洗練され、姿と共に、他から離れて宝石のようにまばゆかった。

「それじゃあ、今日はここまでにしましょう」
 やがて終わると、少女は立ち上がり、生徒たちを見回して言った。
 楽器のように美しい声に導かれ、次々と心地良い返事が返ってくる。
 彼女は部長だった。流れるように後片付けが始まった。


「あれ? どうしたの?」
 部員たちと談笑しながら周りを手伝っていた少女だったが、やがて音楽室が無人になると、一人の一年生と一緒になった。
 共に部屋から出て施錠する二人を見て、廊下に出たばかりの副部長が声をかける。

「今日はね、彼女と一緒に帰るの」
 きらきらした瞳で見上げる一年生に微笑みながら、そっと答える。
 その一年生は家が新築したばかりで、つい先日、同じ学区内で引越しをしていたのだった。
 昼休みにその話題が出て、少女は請われてそれを一緒に見に行くことになっていた。

「いいなあ、私の家なんか築四十年だよ。今度は私にも見せてね」
 話を聞き終えると、副部長はそう言ってトイレに入っていった。

「じゃあ、いきましょう」
「は、はいっ!」
 合鍵を鞄にしまうと、二人はゆっくりと歩き出した。
 廊下を染める赤い夕日が、白いブラウスを淡く橙色に映えさせる。一年生の方は頬も少し染まっていた。

 夏休み最後の週の、午後六時をすぎた夕方であった。
 やがて、二つの影が美しい足取りで校舎の外へ出ていった。


<3> / 1 2 3 4 5 / Novel / Index

 夕焼けに照らされた住宅街を、二人はまぶしく言葉を交わしながら歩いていった。
 共に長めのスカートの前で鞄を提げ、少女は自然に、一年生は背伸びして貞淑に靴を進めながら。

 会話といっても、一年生は緊張してろくに話せず、ほとんど少女が尋ねている状態だった。
 幸福と胸の痛みが隠されることなく入り混じった瞳を受けながら、少女は優しく言葉を紡いだ。
 勢いで自分を誘ったであろう一年生が穏やかに話せるように導きながら、絶えず笑顔でそれを包む。

「そういえば、野咲さんは、どうして吹奏楽部に入ったの?」
「そ、それは……あの、先輩に、あこがれて」
「ふふっ。ありがとう」
「先輩のフルートが、私その、大好きで」

 部活のこと、好きな音楽のこと、宿題の話、秋の文化祭やコンクールのこと――。
 思いつくままに色々なことを話しながら、二人はゆっくりと道を歩いた。
 残暑が強かったが少女は少しも汗を流さず、ただ揺れる髪から甘い香りだけを漂わせていた。
 傍にいる完璧な存在を一年生は夢のように見つめ、目が合うたび赤面した。


 十分ほど歩いても、まだ家までは距離があった。
 どうやら実際は学区から外れているらしく、越境通学に近い状態になっているらしい。

「……あの、すみません、なんだか遠くて……」
「大丈夫よ。野咲さんのお家、とても楽しみだから」
「ありがとうございます! もうすぐですから!」
 大きく下げられる頭にお辞儀を返し、微笑を作ったまま辺りを眺める。

 その時、少女はふいに目を止めた。
 脇の小道の向こうに小さく見える、蔦に覆われ朽ちた家。それをじっと見つめる。

「先輩、どうしましたか?」
「……あ、いえ。何でもないわ」
 再び向き合って歩きだす。

「それにしても毎朝大変でしょう?」
「はい。でも、部活が楽しみだから気にならないです」
 少女は顔に手をあててクスクスと笑った。
「あ、ちなみに陸上部はいつもけっこう近くまで来るんですよ」
「すごいわね。私たちも頑張らなくちゃ」
「がんばります!」
 すっかり緊張の解けた一年生の明るい声が、夕の道路にこだまする。

 さなか少女はまた目を止めた。
 今度は、左に開けた横道の向こうに見える、一つ隣の道路沿いに設置された郵便ポストをじっと見つめる。
 それから急に真剣な目で周り一面をぐるりと見渡す。
 見慣れた体操着姿の少女たちが、ばらばらと連なって二人を追い抜いていった。

「あの……先輩……?」
 見たことのない表情で爪を噛む姿に、一年生が困惑を見せる。
「ご、ごめんなさい……気のせいみたい……」
 少女は、はっとして唇から指を離した。

「このあたり、来たことあるんですか?」
「ううん、気のせいみたいだから」
 そして元通りの顔で微笑む。二人は再び歩きだした。


「あそこの角を曲がったら、もうあとちょっとです!」
 さらに数分して、ついに一年生はそう言った。もう、周りの風景は全く馴染みのないものになっていた。

「うふふっ。楽しみね。どんなお家なのかしら」
 ひときわまばゆい笑顔と共に、狭い十字路の角を曲がる。

 ――うんちがしたい。

 曲がると同時に、少女は立ち止まった。
 何の変哲もない、ありふれた住宅街の風景。
 しかし少女の瞳孔は大きくなった。唇をぎゅっと固め、小刻みに震わせ始める。

 ぐうううううーーーーっ、ぐううううううううーーーーーっ。
 ああああああああうんちがしたい。どうしよう、うんちがしたいうんちがしたいうんちがしたい。

 もう、がまん、でき、ない――。

「先輩……?」
 傍の声にも反応せず、凍てついた顔で眼前を凝視し続ける。
 少女は、ここに来たことがあった。


 ちょうど、一年前の今ごろのことだった。

 いつものように部活を終えると、その日は、今の副部長と一緒に、彼女の家に向かった。
 クラシックのCDを借りるためだった。家は一番遠い地域で、十分以上かかった。

 その最中、少女は猛烈な腹痛に襲われた。
 同時に物凄い便意。腸が千切れるほどに蠢き、熱く軟らかいものが次から次へと肛門に駆け下ってくる。
 下痢だった。それも、普通ではない。……昼に食べたお弁当の味が、変だった。

 言えるはずはなかった。青ざめた顔色を訊ねられるもごまかしながら、必死に尻をすぼめて談笑を続ける。
 家に着いたときにはもう、肛門がひくひくと痙攣を始めていた。
 そして狂おしい葛藤。彼女の家には便器がある。トイレを借りたら全て出せて楽になれる。だが。

 やはり言い出せなかった。CDを取りに行く彼女を笑顔で送る。
 五分ほど待たされた。その間にも便意は膨れあがってゆく。放屁を繰り返しながら、身と心を悶え震わせる。
 ありがとう。結局、誇りに背けなかった。狂おしい欲求を内に秘め、美しい姿勢と顔をつくり礼を言う。

 一分ほどの雑談。ドアが閉まって三秒後に、猛烈に放屁した。
 歯を噛み締めて振り向き、腹を抱えて歩きだす。

 家までは絶対に我慢できない。家の近くの公園までも、もちそうにない。
 住宅街なのだから。近くに公園が、公衆便所の一つぐらいはきっとあるはず。
 限界近い便意を必死に堪え、楽園を求めて歩き始める。

 しかし、ゆけどもゆけどもそれらしき建物は見つからなかった。
 五分。十分。歩きの無為に比して便意は際限なく膨らみあがってゆく。

 それどころか、完全に道に迷ってしまった。延々と続く見知らぬ風景。
 最初はまだあったわずかな土地勘さえ、もう働いてくれない。
 肛門の感覚が溶けてゆく。眉が八の字にかたむき、浮かぶ涙と溢れ続ける汗が視界をぼやけさせる。
 どうして。トイレ。うんちがしたい。うんちがしたいのに。どこかトイレ。トイレトイレトイレトイレトイレ。

 途中でポストの側に地図を見つけ、見ると、全くわけの分からない場所にいた。
 周囲に公園はない。少し離れた所なら確実にあったのだろうが、もうそんなものを探す理性はなかった。

 もういっそ、そのあたりの家に飛び込んでトイレを借りてしまおうか。
 滝のように脂汗を垂らし、勝手に盛り上がろうとする肛門を歯を食いしばって抑えながら、そんなことを考える。
 だが実際にはできるはずもなかった。放屁を連発しながら、静かな住宅街をよろめきさまよう。

 そして目の前の光景。
 このときにはもう、周りを舐めるように見つめだしていたので、はっきりと覚えている。
 わずかに残った理性でその行為を必死に否定しながら、しかし、それしか考えられなかった。
 下りきった腹。暴発寸前の肛門。視界にある全てがゴールになりえた。そして、ついに……。


「ごめんなさい、もうすぐなんだよね? 行きましょう」
 幾秒かの後、少女はようやく元の表情に戻り、一年生を向いて微笑んだ。
 ふるえていた瞳が、ぱっと明るく光り輝く。その完璧を信頼しきった瞳だった。

 すっと背筋を伸ばし、整った顔立ちで、黒髪を風にそよがせながら、少女は美しく歩いた。
 ちょうど一年前、彼女はここで無様に腹を抱え、顔を皺だらけにして、尻からガスを垂れ流していた。

 道路の左に小さな駐車場が見えた。
 真剣に"検討"を行った場所なので、よく覚えていた。
 よろよろと近づきながら、土壇場で勇気を出せなかった。

「実は駐車場のタイルがまだ少し残ってて、今はあそこを使ってるんですよ」
 それを一年生が指差して言う。
「どれがあなたのお家の?」
「あれです。あのいちばん奥の車」
「そう、素敵な車ね」
「ありがとうございますっ」

 麗しく談笑しながら、少女は膨れ上がる胸の鼓動を必死に抑え込んでいた。
 そろそろ間近だった。これから五十メートルほどの間に、一年前の自分は限界を迎えたのだ。
 場所を通り過ぎるときに溢れ出すであろう感情を、内に秘めて殺さなければならない。

「そういえば先輩、おなかは空かれてないですか?」
「そうね、もうこんな時間だし。……どうしたの?」
「え、いえ、えへへ……」

 もう、どうしようもなかった。他になかった。どうしても、そこでおしりを出すしかなかった。
 漏らすよりは。漏らすよりはまし。その想いだけで側の空き地に入り込み、

「着きました。ここが私の家です!」

 茂みに身を隠して大便をした。野糞に及んだのだ。
 壊れた楽器のような音を立てて、物凄い臭いの下痢便を山のように……。

 少女は、顔の破裂せんばかりに赤面していた。
 真っ白な壁がまぶしく輝く、美しく真新しい邸宅がそこにあった。
 一目見て、もう二度と見られなかった。

「とっても、すてきなおうちね」
 全身を震わせ、目を泳がせ溺れさせながら、言葉を紡ぐ。

「あの、先輩。よろしければ、私の家で一緒に夕ご飯いかがですか?」
「ご、ごめんなさい、ちょっと用事があって……」
「そうですか……」
 いちおう笑顔のはずだった。しかしもう維持ができない。

「ごめんなさい! 次はお邪魔させてね、さようなら、また明日ね」
「え、あ、せ、先輩!?」
 次の瞬間、少女は身をひるがえして走りだした。
 両手で口元を押さえて、眉を大きくかたむけて涙を浮かべながら。
 もう、爆発する羞恥を抑えることができなかった。

「さようならーーっ」
 後ろから、戸惑いと寂しさの混ざった声が小さく聞こえた。


<4> / 1 2 3 4 5 / Novel / Index

 何百メートルか走り、息が上がると、少女は脇の小道にふらふらと入った。
 ハンカチを出して目と額を拭いながら、力なく歩いてゆく。
 が、視界に鮮明を取り戻すや、再び走りだした。ほどなくして足を止める。

「う、そ……」
 唇を大きく赤く膨らませ、それをぎりりと噛み締める。

 小さな公園が、そこにあった。
 奥に、トイレらしきものが見える。

 植木の緑が歩道に突き出し、遠くからでもその存在は、はっきりと分かるものだった。
 一年前を思い出す。
 すでにトイレを諦めて身を隠せる場所ばかり探していた為、脇道の向こうにある存在に気がつかなかったのだ。

 少女は、吸い寄せられるように奥へと向かった。
 小さな板に隠され、個室と男性用便器が並んだ、簡易な公衆便所であった。

 個室の前に立ち、薄暗い中で輝く白い陶器をじっと見つめる。
 ただの便器なのに、それはどうしようもなく彼女の視界の中で大きく、かけがえなく見えた。
 今は無意味だが、あのとき、世界の何よりも彼女にとって必要だったもの。
 もし、この楽園を見つけられて、ちゃんとここですることができていれば。

 あのときの光景が脳裏に浮かぶ。
 蝉の鳴り響く夕空の下、汗にまみれて露出している尻と秘所。
 がくがくと痙攣する足の間に山となって広がる、ドロドロに溶けた下痢便の海。
 ものすごい悪臭が立ち上り、強烈な熱気と相まって脳を揺らす。

 少女は尻を拭いている最中に気持ち悪くなって昼食を全て戻した。
 地獄の苦しみと共に、ぐちゃぐちゃになったお弁当が撒き散らされる。
 その様がさらに吐き気を増大させ、目を回して胃液を垂らし続けた。

 少女は胸を掻きむしっていた。
 陶器がぼやけ、ゆらぎ始める。

 熱いものがこみ上げ、胸が縮む。
 ここなら多少声を出しても大丈夫そうだった。
 少し泣こう。

 そう思ったときだった。

 少女は気配を感じて振り向いた。
 公園の入り口に、体操着姿の女生徒がいた。
 一目で異常に気付いた。
 しゃがみこまんばかりに腰を落とし、右手を尻、左手を腹にめりこませて、物凄い形相でこっちを見ていた。

 次の瞬間、女生徒は歯を食いしばって弾丸のように突撃してきた。
 脅える間もなく、大きな体が眼前を満たす。

「ちょっとすみません!!」
 いなや凄まじい力で押しのけられ、女生徒は個室の中に飛び込んだ。
 雑に短い髪の毛を汗でぐしゃぐしゃにした、女を捨てているような少女だった。

  ブウーーーーッッ!!!
 飛び込むや下着ごとハーフパンツが殴り下ろされ、汗だくの尻、ぼうぼうの陰毛が露になる。
 壊れんばかりにドアが叩き閉められ、金具ごと揺らして鍵がかかる。

  ボチャボチャボチャボチャボチャボチャブボッッ!!!

 同時に中から壮絶な音が鳴り響いた。立ったまま始めたらしく、外に飛沫が溢れ出た。

  ブボボボボボボボボオオオオオーーーーッ!!
  ブビヂヂビヂビヂビヂビヂビヂビヂビヂビヂ!!
  ブブブオブリブリブリブリブボボボボオオオオッ!!
 間髪入れずめちゃくちゃな爆音が連続する。
 トイレの揺れるような激烈な排泄だった。下痢なのは言うまでもないが、それでも尋常ではない。
 まるで中で機関銃が暴発しているような排便だった。どれだけ我慢していたのか。

  ドブボブビブビブビブビブビブビブビッ!!
  ブチャブチャブチャブチャブチャ!! ボピッ!!
 放たれ続ける脱糞の音と共に、猛烈な悪臭が漂い始める。
 腐った卵を思わせる、本気で腹を壊しているときの臭いだった。
 誰しもが鼻をつまんでもおかしくない酷さだが、外で、少女はわずかも表情を変えずドアを見ていた。

  プウウウゥゥゥゥゥーーーーーーッ!!
  ブーーーーッ!! ブウウウゥゥーーーーーッ!!
  ブブブウウウウゥゥゥゥーーーーーーーッ!!
 わずかな沈黙の後、大砲のような放屁が聞こえだした。下劣を極めた音が響き渡る。
 四発目と同時に水が流されたが、巨大すぎる音の前に何ら役には立たず、かえって無様だった。
 その様はどうしようもなく下品で、美しく、切ない顔で夜風に髪をなびかせている少女とは対照的であった。

 今、少女が個室の中で奮闘する女生徒に侮蔑の言葉をかけても、誰も文句は言わないだろう。
 しかし、少女は逆に、うつむき、惨めに肩を震わせ始めた。
 彼女は今、トイレでしている。

  ブウウゥゥゥウウウウウゥゥーーーーーーッッ!!!
 数秒後、再び水音がして肛門の脱けるような放屁がそれを吹き飛ばすと、少女は逃げるように走りだした。


<5> / 1 2 3 4 5 / Novel / Index

「おかえりなさい、遅かったわね」
 いつものように淑やかな歩みで玄関をくぐると、待っていた母に咎められた。

「ごめんなさい。部員の家に少し寄っていました」
 一年前と同じようなことを言う。

「それならいいのだけれど……もう少し、気をつけなさいね」
「はい……お母様、ごめんなさい」
 姿勢を正し、少女は深く頭を下げた。

「もう夕ご飯ができてるから、早く着替えてらっしゃい」
「ごめんなさい、ちょっと食欲がない……」
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
「……ごめんなさい……」
 うつむき、駆け足で二階に上がる。

 真っ暗な部屋に入ると、少女は明かりをつけることもなく、ベッドの上に崩れこんだ。
 同時に、物凄い勢いで爪を噛み始める。

 それは少女の癖だった。
 どうしようもなく嫌なことがあると、それをせずにはいられなくなるのだ。
 特に心が乱れたときは、血が出始めても止められない。
 一年前、野糞をしたときは両手が絆創膏だらけになり、下痢も酷いので数日間部活を休んだ。

 かりかり、かりかりと、乾いた音が暗い部屋にこだまする。

「どうしたの、夕美? 部活動で何か嫌なことでもあったの?」
 静かに寄ってきていた母が、ドアの向こうでそう訊ねる。
「なんでもない……」
「本当に?」
「なんでもないのおっ……!」
 布団をぎゅっと握り締め、少女は叫んだ。
 母はもう何も言うことなく、今度は足音を立てて一階へと戻っていった。

 何も見えない夜の部屋に、爪を噛む音だけが聞こえ続けた。


- Back to Index -