No.15「殺到する器官」

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 記録的な猛暑が毎日のように続いていた。
 その日も朝から、真夏を絵に描いたように暑かった。

 うだるような蒸し暑さに、少し体を動かすだけでも、うっすらと汗が浮かぶ。
 年代ものの建物に冷房はなく、窓を全開にして風通しを良くするのが精一杯だった。

「あっついなあー……」
 夏美は大きな二重の目をうすく細め、真っ白に溢れ輝く太陽をうらめしげに見つめた。
 小さな食堂に沈み込んだ熱気はまるで動きそうにない。一時も止まぬ蝉の音が暑苦しさを倍増させていた。
 短く切り揃えた髪に緩みの無い顔立ち、小麦色に良く日焼けした肌の夏美は、絵に描いたようなスポーツ少女だ。

「こらナツミさぼるな! また先輩に怒られるよ!」
「ごめんごめん!」
 同じ一年生の若葉に背中を叩かれると、夏美は跳ね上がって仕事を再開した。
 見ると、夏美と同じように短い髪を、彼女も汗で束にして濡らしていた。

「こんなんでバテてたら、たぶん死ぬよ、今日」
「バテてなんかないってば」
 夏美に引けを取らぬ男勝りな顔立ちで、遠慮なく顔を近づけて吐息をかけてくる。
 若葉とは出会ってまだ数ヶ月だが、今ではすっかり親友だった。隣の中学出身の、はっきりとしたつり目でとにかく努力家の女の子。少し粗野なところがあるが、夏美も人のことを言えるほど女性的ではない。よく見せる笑顔がむしろ好きで、今も互いをにらみ合いながら、その内には少しも悪意がなかった。

「おい、朝食の準備終わったか?」
「あ、はい、いま終わりました!」
 それからすぐに、二人の二年生が様子を見に来た。
 ちょうど最後のコップを並べ終え、若葉は大きな声でそれに答えた。

「ごくろうさま。先に座ってていいよ」
「はい、ありがとうございます!」
 もう一人から労われ、近くにいた夏美も慌てて頭を下げた。

 彼女たちが去ってゆくと、他の数人の一年生と共に夏美は大きくため息をついた。
 まっすぐで濃い、凛々しい眉毛が柔らかく肩を下げる。
 無骨な体操着の上で揺れる花柄のエプロンが、どうにも滑稽に感じられた。


「いただきまーす!」
 勢いの良いかけ声と共に、三十名あまりの少女たちはいっせいに朝の食事を始めた。
 暑さをものともせず、皿の上の大きなおにぎりを次々と減らしてゆく。

 少女たちはみな日によく焼け、その磨かれた肉体は瑞々しい生気に満ちていた。
 多くが髪を短くそろえ、精悍な瞳で談笑を交わす者の中には、胸がなければ男子と見間違えてしまう者さえいる。
 とある県立の女子高校。その敷地の端にある宿泊所で、ハンドボール部は昨日から合宿を行っていた。

「先輩たちみんな、めっちゃ食べるの速いよね」
 隣の若葉が、そっとささやく。

「うん。追いつこうとしたら詰まりそう」
 ご飯の塊を飲み込みながら、夏美は息をついで答えた。
 それぞれの皿の上には、普通より一回りは大きいタラコ入りのおにぎりが並んでいた。
 昨日の夜にみんなで手作りしたものだ。それを一年生は平らげるだけでも必死に、二年生以上はみるみる内に胃の中へと送ってゆく。

 夏美たちの所属するハンドボール部は、県内屈指の強豪として知られていた。
 全国大会出場常連校で、厳しい体育会系の気風である。
 他の部活動が弱いこともあり、この高校では真剣にスポーツに打ち込みたい者はハンドボール部に入るのが定番となっていた。中学時代はバレーボール部のエースだった夏美や、短距離走で大会入賞経験のある若葉もその一人だった。

「なんだ大滝、食べるの遅いな」
 左隣に座っていた天沢先輩が声を上げた。見ると、彼女はもう食べ終わっていた。

「すみませんっ」
「無理して早食いしなくてもいいけどさ。ある分は全部食べろよ」
「は、はい」
「これぐらいのエネルギーは入れておかないと、今日の練習はきついからな」
 天沢先輩は、入部したときから夏美のことを気にかけ、可愛がってくれていた。
 夏美も彼女のことが好きだった。まるで少年のように澄んだ、人懐こい大きな瞳。それが練習に打ち込んでいるときは、驚くほど真剣な眼差しになってコートを射る。睫毛が長く、その横顔は美しかった。ひときわ良く焼けた褐色の肌に、身長172センチの磨き抜かれた長身。男子顔負けに鍛えられたその四肢もまた憧れだった。

「毎年一年の何人かは途中で出しちゃうんだけどね」
「マキ、こんなときに言わなくてもいいじゃないか」
 その向かいにいた別の先輩が言うと、ふいに天沢先輩は顔を赤くした。夏美と若葉は顔を見合わせた。

「出しちゃうって……?」
「とにかく、それぐらいハードだったこと。覚悟しとけよ」
 不安げに尋ねた若葉に、先輩は腕組みをしてそう答えた。
 一年生は、あわてて食べる速度を速めた。


「今日からは本格的にやっていく。午前は基礎練を徹底的にやって、午後は日が暮れるまで実戦だ」
 ようやく一年生たちが食べ終えると、すぐに部長の話が始まった。

「いよいよ県大会まで一月を切った。この合宿の出来で決まると言っても過言じゃない」
 歴戦の勇士といった風情のある三年生の中でも、高峰部長は特別だった。
 誰よりも精悍なまっすぐの瞳に、風を切る鋭利な黒髪。美しくとおった鼻筋に固く引き締められた口元は、揺ぎない意志と自信に満ちている。身長175センチの身体は先輩たちの中でもひときわ逞しく、いかなる困難にも不動の強靭さが見て取れた。褐色に焼けたその肉体は、まるで美しく磨かれた彫像のようだった。

「三年はもちろん、二年一年も、本番を意識して妥協しないこと」
 胸が高鳴る。天沢先輩も、真剣な表情で部長の話を聞いていた。

「県大会絶対優勝! がんばろう!!」
「オーーッ!!」
 部長が音頭を取ると、部員たちもいっせいに手を挙げて声を出した。
 若々しい力に満ちたその音で、古びた宿舎はにわかに揺れたようにさえ感じられた。

 そして部員たちは各々食器を持って立ち上がり、台所へと向かった。
 軽やかな水音が聞こえだし、またたく間に列ができる。

 壮観だった。普通より一回りも二回りも大きな、鍛え抜かれた身体の少女たち。
 夏美は身長166センチ、若葉は164センチだったが、見劣りしないのが精一杯だった。
 恵まれた体格のバレー部長として下級生から憧れの視線を集めていたのは、もう遠い昔だ。

「大滝、けっこう余裕そうだな。もっと食べるか?」
 前に並ぶ天沢先輩が真っ白な歯を見せて笑う。
「すみません。もう入らないです……」
「なんだかもう、産まれそう……」
 後ろの若葉と苦笑しあいながら、夏美は膨らんだおなかを軽く撫でた。
「なさけないなあ。わたしが一年だったときは友達のおにぎり二つもらったのに」
 そう言って先輩は前を向いた。夏前から伸ばしっぱなしで襟足の跳ねた髪から、シャンプーの甘い匂いが漂った。

『ハンド部は女捨ててるからやめたほうがいいよ』
 新勧のとき、どこかの部でそう言われたことがある。
 今、夏美はそうは思わなかった。ここにいる者はみな、一点の混ざりけもなく少女だ。
 列のあちこちから聞こえてくる笑い声は、どこまでもまぶしくて健康だった。

「今日は本気でしごくからな、逃げるなよ」
「はいっ!!」
 食器を洗い終えた先輩に胸を叩かれると、夏美は床を踏みしめて力いっぱい声を出した。


 そのときには、こんなことになるなんて、思いもしていなかった。

 誰もが熱い想いを胸に秘め、体力、気力ともに最高の状態で臨んだ合宿二日目。
 燃え尽きるまで体を動かして、未来への糧に、いつまでも続く輝きになるはずだった、かけがえのない青春。

  ブリブリッブリッブリブリブリブリッブリブリブリブリッ!!
  ビチビチビチ!! ブリリリッ!! ブオッ!! ブピッ!!
  ビュルルルブビビビビ!! ビチビチビチビチビチッ!!

 あれからわずか三時間後、合宿所のトイレは地獄絵図と化していた。

「まだー? 早くしてよお〜〜」
「おねがい早くしてっ! もう我慢できない!!」
「漏れそう……っ! はやく替わって……っ!」
  ボピッ!! ブリュリュリュリュリュリュリュリュッ!!
  ビビビビイーーーッ!! ブビピビピピピビリリリリッ!!

 建物の隅にある薄暗い女子便所。その五つある個室は、全て使用中になっていた。
 赤い印と共に固く閉ざされたドアの前に、真っ青な顔をした少女たちが列をなしている。
 いつもの屈強さは見る影もなく、みな腹を抱えて股を締め、弱々しく体を縮めて震えていた。
 先頭の数人は尻を押さえてドアを必死に叩いている。止むことの無い音が、全ての個室から無慈悲に響き続けていた。

  ブブブブブリブリブリブリブリ!! ブボッッ!!
  ボピブピブピブピッ!! ブボボボボボボボボボッ!!
  ビチビチビチビチビチッビチビチビチッビチビチビチビチ!!

 薄い木壁をへだてて、五つのみっちりと引き締まった尻からドロドロの下痢便が噴き出し続ける。
 同じ形になった肛門がめいめいにめくれ上がって物凄い音を鳴らし立てる。
 大量に排泄された下痢便はどれも同じ臭いで、熱気と相まりおぞましい臭気となってトイレ中を覆っていた。

「おえーーーーーーっ!!」
  ボチャボチャボチャボチャボチャーーーーッ!!
 むせ返るような悪臭のなか、個室の一つが嘔吐する。
 並んでいる少女たちも、次々とその震える尻から悪臭そのものを放っていた。
 それぞれの腹からくりかえし聞こえる音同様、それらは暴力的なノックと壮絶な脱糞の音に隠れて聞こえない。

「もおーー、早く替わってよ〜〜っ!」
「おねがいもれる!! はやく、はやく、はやくっっ!!」
  ブポッ!! ブチュチュチュチュチュチュチュチュ!!
  ブボボボブピッ!! ビィッッ!! ブビビビビビビッ!!

 茶色い空気に満ちたトイレで、二十人近い少女たちは皆、ただ一つの目的のために並び続けていた。
 猛烈な腹痛と便意。便器の上で肛門を出すこと。彼女たちは全員下痢であった。その苦しみと列に学年の別はない。
 ハンドボール部は、集団食中毒を起こしていた。

「ううぅぅう、もう、ダメっ!!」
 いちばん左の列でドアを叩き続けていた少女が、膝を痙攣させながらしゃがみ込む。

  ブオッッ!!!
 はち切れんばかりに尻肉の形が浮かんだハーフパンツから、大きな音を立てて放屁する。

「ぁーーーっ……!」
  ブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!!!
  ブチュビチュビチュジュジュジュジューーーッ!!
 次の瞬間、彼女は下痢を漏らし始めた。
 パンツの底が一気に山のように盛り上がり、水色の生地が黄土色に染まってゆく。

「ふうっ……ぁぁっぁぁあぁ……っ」
  ビュルルルビチビチビチビチビチビチビチッ!!
  グゴポゴポゴポゴポゴポッ!! グボボボボボッ!!
 ぶるぶると体を震わせながら、少女は煮えたぎった内容物を肛門から下着の中へと放出していった。
 ハーフパンツを埋め尽くした下痢便が上下の裾から溢れ出し、ぼたぼたと足元に落下してゆく。

「うええええええぇぇーーーーっっ!!」
  ボチャボチャボチャボチャボチャボチャボチャ!!
 泣き声が聞こえだす中、夏美は再び大量に嘔吐した。
 大股を開いた太ももをえぐり掴みながら、粥状になった米を便器の中に撒き散らす。
 その間にも汗だくの尻から噴き出す下痢便の滝は途絶えず、瞬く間に米の渦が茶色く染まる。

  ギュルギュルギュルギュルギュルグウ〜〜〜ッ!!
「ぐふ〜〜ううぅぅぅう〜〜っ」
  ベチャビチビチビチビチビチビチビチッ!!
  ドブボブボボボボボボボボボボボボボボボボボッ!!
 洪水のように汗を流し、尻の破裂しそうな勢いで暴れ狂う腹の中身を便器へとぶちまけ続ける。
 下半身を火に炙られているような下腹の激痛。もげんばかりに蠕動する大腸は一瞬たりとも休むことがない。
 ぼたぼたと落ちる汗と涎と鼻水。おそらく人生で一番醜い顔をしていた。便意が無限に肛門を燃やす。とにかく出すことしか考えられない。

「げぼおおおおおおおっ!!」
  ボヂャヂャヂャヂャヂャブウーウウウウーーーーッ!!
 今の夏美には、どうしてこんなことになったのか、考える余裕さえなかった。


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 異変が起こったのは、練習が始まってからもうすぐ三時間になる時のことだった。

 力強くシュート練習を続けていた部員たちの動きが鈍り、戸惑いの声が聞こえ始める。
 三分休憩中にひとりトイレに行った部長が、練習再開から五分経っても戻ってこないのだ。

「早織のやつ、何やってるんだ」
 後ろで短めに髪を結んだ副部長が、いらついた表情で腕を組む。

「おなかの調子でも悪いとか?」
「まさか」
 流れる汗を拭いながら、二年生が小さくささやく。

 ハンドボール部は生徒の自主性を重んじる気風で、教員の干渉は多くなかった。
 この日も顧問の体育教師は午後から来る予定で、高峰部長が実質の監督者だった。

「おい、大滝!」
「はっ、はいっ!」
 たまたま副部長の近くにいた夏美は、突然名前を呼ばれ、あわてて身を正した。

「ちょっと様子を見てきてくれる?」
「あ、はいっ、わかりました!」
 夏美は宿舎に向かって走りだした。


 合宿所の正面に専用のコートがあり、彼女たちはそこで練習していた。
 本校舎までは歩いて五分以上の距離があり、合宿所のトイレが練習中の用足しも兼ねていた。

 そのためか、建物の隅にあるトイレは土足で入れるようになっている。
 勝手口へと入った夏美は、薄暗い土間の奥に見える古びたドアに目をやった。
 男性の利用は想定しておらず、入り口は一つしかない。上には便所と書かれた看板が貼ってあるのみだ。
 夏美はゆっくりと土間を進み、黒ずんでひびだらけになったドアをそっと押し開けた。

  ブーーーーーーッッ!!!

 その耳に飛び込んできたのは、水気に満ちた破裂音だった。

 夏美は目を見開いた。正面に五つ並んだ個室。そのいちばん左の扉が固く閉ざされていた。
 真っ赤に光る使用中の印。鼻腔に流れ込む、卵の腐ったような消化不良のそれの臭い。

  ブゥピッ!! ビチビチビチビチビチビチッ!!
  ブチャブチャブチャブチャブチャッ!! ブボッッ!!

 飲みかけた唾を慌てて留めるや、さらに音色が響き渡った。
 頬に熱が集まり、胸の鼓動が跳ね上がる。ある二文字の汚らしい言葉が、頭の中でぐるぐると回る。

  ブピボピボピボピボピボピボピブピッ!!
  ビイイイイイイィィィィィッッ!!

 高峰部長は、お腹を壊していた。

「おええええええええーーーーっ!!」
  ボチャボチャボチャボチャボチャーーーッッ!!
 次の瞬間、いっそうおぞましい音が個室から溢れ出した。
 焦点の飛んだ瞳で静かにドアを閉めると、夏美は足早にその場を後にした。


 努めて表情を抑えながら外に戻ると、グラウンドでは新たな騒ぎが起こっていた。
 三年生の一人が苦しげに背を丸め、真っ青な顔で腹を抱え込んで震えていた。その周りを部員たちが囲んでいる。

「ちょっと大丈夫?」
「急に、お腹の調子が……、っっう……っ!」
 大粒の汗を垂らしながら、顔をなさけなく歪め、下腹の肉をぎゅっと掴む。

「ごめん、ちょっと、トイレに行ってくる……!」
 言うが早いか、彼女は宿舎に向かって走りだした。

「あの、すみません、わたしもトイレに行ってきていいですか……」
 その姿が勝手口に消えるなか、別の二年生が、ふるえる声で手を挙げた。
 やはり青ざめて腰を曲げ、その左手は体の後ろへと回されている。

「行ってこい」
 副部長が許すや、彼女は両手で腹を抱え、唇を噛み締めながら宿舎へと走っていった。

「なんだまったく。情けない奴らだな……」
 瞬く間に宿舎へと消える後姿を眺めながら、副部長は唇をとがらせた。

 夏美は、大きな瞳でその光景をじっと見つめていた。
 二人が下痢に襲われたのは間違いなかった。部長を含めて三人も……。強い違和感が脳裏をよぎる。

 そのとき、夏美は腹にずきりとした鋭い痛みを覚えた。
 たまらず右手を当て、怪訝な顔でその場所をじっと見つめる。

「ああ大滝、どうだった?」
 戻ってきたことに気付いて副部長が声をかける。
 夏美は、急に青ざめて震え始めた。

「部長は見つかった?」
 副部長が傍まで歩いてきたとき、夏美は真っ青な顔で熱い吐息を漏らしていた。

「おい、顔色が悪いぞ、大丈夫か?」
 全身の筋肉を引きつらせ、背をくの字に曲げて固く握り締めた両手を左右の尻肉にこすり付ける。
 それは、異様な苦しみだった。
 体のねじれるような下腹の激痛。腸がポンプのように蠢き、尻の中で熱く軟らかいものが爆発的に膨らんでゆく。

「おい大滝!?」
 副部長が顔をのぞき込む。吐息がかかり、そのわずかな唾液のにおいがいっそう腸の動きを刺激する。
 夏美は猛烈な便意に見舞われていた。下痢。それも尋常な下り方ではない。今すぐトイレに行く必要があった。もう、便器にまたがってこのおぞましい欲求をぶちまけることしか考えられない。

「すみません、もういちど、トイレをみてきます」
 声を絞り出すと、夏美は弾けるように宿舎へ向かって走りだした。
 後ろから大声がしたが、振り返る余裕など全くなかった。


 唇を噛み締め、尻を押さえながら夏美は宿舎の勝手口へと飛び込んだ。
 看板に刻された便所という二文字が、さっきとはまるで違う鮮やかさで脳を焼く。
 一気に腹圧が上がった。土間を駆け抜け、体ごとぶつかって古びたドアを押し開ける。

  ブビビビビビビビビビィィーーーーーッ!!
  ビチビチビチビチビチビチビチビチビチビチッ!!

 トイレの中では、新たに閉ざされた個室からものすごい排泄の音が聞こえていた。
 三つ並ぶ使用中の赤。強烈な便臭が壁越しに混ざり合い広がっていた。

  ギュルルルルルルルルルッッ!!
「ぐーーーっ!」
 明らかに異常事態だったが、夏美はもう、それどころではなかった。
 全身から力が抜け、窮まった腹痛が括約筋を弛ませる。爆発寸前の尻はあと十秒さえもちそうにない。
 左から四番目の個室に、夏美は這うようにして転がり込んだ。

  ブリッ! ブゥピッ! ブピピピピ!!
 ドアを叩き閉め、足踏みをしながら鍵をかける。
 校舎のものよりずいぶんと狭い、古くて暗いタイル張りの個室。前で散った飛沫がこちらまで及んでいる。
 普段なら嫌悪の対象だが、今は便器があればそれで良かった。

  ブリリリリリリリ!! ブウウウゥゥゥゥ!!
 鳴り響く音のなか便器をまたぎ、下着ごとハーフパンツを掴んで一気に膝までずり下ろす。
 大きく真っ白な尻と、やや濃く覆われた陰部が露わになる。夏美は崩れるようにしゃがみ込んだ。
 便意の充填されつくした肛門が真っ赤に膨れあがりながら直下を捉える。

  ブチャブチャブチャブチャブチャブチャブボオッッ!!!

 巨大な滝が尻肉を割り開いて便器を貫く。
 夏美の意識は一瞬爆ぜた。轟音と共に溢れかえる膨大の茶色。かつて経験したことのない大噴火だった。

  ブウウビイイイィィィィィーーーーーーッ!!
  ブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!!
  ビチビチビチビチビチビチビチビチビチビチッ!!
 全開になった肛門から、さらに大量の下痢便が土石流となってぶちまけられる。
 灼熱の吐息と共に大きな尻を情けなく震わせ、夏美は狂おしい欲求を便器へと叩きつけていった。

  ブブオォッッ!! ベチビチブリュリュリュビチッ!!
  ボピブピブボビヂヂヂブリヂヂブーーーーーーッ!!
 その音が他の排便と重なり合い、いっそう汚らしい音色となってトイレ中に響きわたる。
 脂汗を垂れ流しながら、夏美は自分の出しているものを股ごしに見た。
 昨夜食べた麻婆豆腐がほとんどそのままの形で汗だくの尻から噴き出してゆく。いくつも混ざる黒いかけらは、一緒に飲んだワカメスープだ。それは前からの飛沫にも含まれていた。みな同じようなものを出しているらしい。

 そのとき慌しい足音が聞こえ、いなやそれは悲鳴のような吐息になって後ろの個室に飛び込んできた。
 すぐさま鍵がかけられ、激しい足踏みと共に衣擦れの音がしゃがみ込む。

  ブビィーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!
  ブボオオブリブリブリブリブリブリブリブリブリッ!!

 続けて聞こえてきたのは、あまりにも夏美の想像どおりの音だった。
 ぬるつく股の底を埋め尽くしてゆく未消化物を見つめながら、後ろの光景を想像するのはたやすかった。

「おええええええぇぇぇーーーーっっ!!」
  ボチャボチャボチャボチャボチャーーーーッ!!
 間髪入れず猛烈な嘔吐の声が轟いてそれに重なる。部長と同様、吐き下しだ。

「う、うそ……、なに、これ……」
 外で誰かの声が震えた。
 雪崩のように足音が押し寄せてきたのは、それからすぐのことだった。


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  ジャーーーービチビチビチビチビチビチビチビチビチ!!
  ビュチュゥゥゥーーーッ!! ビュビーーーーーーッ!!
  ビシャーーーーッ!! シャーーーッ!! ブピーーーッ!!

 ノックが嵐となって響くなか、むき出された五つの肛門は茶色い狂想曲をかき鳴らし続けていた。
 五つの白かった陶器に、脂のぬめりしたたるすぼまりから絶えることなく水流が打ち付けられてゆく。

「いつまで入ってんだよ!! いい加減にしろよ!!」
「もういいでしょ!? 後ろ待ってんだよお!!」
「お願いだからかわって、もうゲンカイ、もらしそう、おねがいっっ!!」
  ブーーーーーッ!! ブウウウウウウーーッ!!
  ブピープウウゥゥウウゥゥ!! ブブブブブビビイィッッ!!

 熱気と便臭に埋め尽くされた空間で、並ぶ少女たちの表情がいよいよ鬼気迫ったものに変わりだす。
 個室から鳴り響く水気に満ちた破裂音がみじめな答えをそれに返す。

  グオォォオオオオォォ〜〜〜〜〜ッッ!!
「んふっ……! ぐっくくくく……っ!」
  ボチョボチョボチョボチョボチョッ!!
  ビュルッ!! ビュルルルビュチュチュチチュッ!!
 真っ青な顔でぐるぐると腹をさすりながら、夏美はひたすら便器の中に水便を注ぎ込んでいた。
 全身から溶けるように汗が流れ、足が激しく痙攣し、尻が小刻みに跳ね続ける。
 まったく和らぐことのない、腸のちぎれるような腹痛。健康的に引き締まった尻はいまや形だけだ。便器を茶色で埋め尽くし、その周りにも大量に飛び散らせながら、なお便意の治まる気配はない。

「ううええええええぇぇっっ!!」
 後ろから喉の潰れるような嘔吐の声。
 よほど胃を乱しているのか、ものの落下が聞こえなくなっても断続的に続いている。
 トイレに駆け込んでからもうだいぶ経つが、まだ誰も替わっていない。皆それほど具合が悪いのだろう。

「もう、ダメええぇぇえぇーーっ!!!」
  ブビーーーーーーーーーッッ!!!
  ブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!!!
  ブボブボグボゴボブボボボボオオォォッッ!!!
 外から突然おぞましい音色が響き渡った。
 猛烈にノックを続けていた二つ隣の先頭だ。夏美はぎゅっと唇を噛んだ。

 そのとき、前の個室から素早く紙を巻き取る音が聞こえ始めた。
 同時に、やはり激しく続いていたノックの音が静止する。

 腹の肉をえぐりながら、夏美は下から数多の飛沫が散った正面の壁を見つめた。
 ときおり戸惑いがちに止まりながら、次々と物音が肛門を拭いてゆく。

  ジャアアアアァァーーーーーーーーーッッ

 ほどなくして、衣擦れがして水が流れた。鍵の外れる音が鳴り響く。軋んだ音をさせドアが開く。
 次の瞬間、猛獣のような足音がそれに替わった。足踏みの豪雨が個室に飛び込み、ドアが叩き閉められ鍵がかかる。

  ボチャッベチャベチャベチャベチャッブボオォッッ!!!
 爆音と共に大量の下痢便が夏美の個室に飛び込んできたのは、それとほとんど同時だった。
 灼けかすれた吐息がして、足音が一気にしゃがみ込む。

  ドボボボボボボボボボボーーーーーーーーッ!!
  ビチビチビチビチビチブボボボボボボボッッ!!
 便器を割らんばかりの壮絶な噴出の音がそれに続いた。
 滝の内容物は、下の隙間を埋め尽くしたのと同じ、ワカメにまみれた未消化の麻婆豆腐だろう。

  ブウーーーーウウウウゥゥゥーーーーーーッッ!!!
 巨大な放屁が鳴り響き、喘ぐようなため息が重ねられる。

「もうがまんできない〜〜〜!!」
 ふいに、すぐ側でよく見知った声が聞こえた。
 それまで一度もノックのなかった夏美のドアが、ものすごい勢いで叩かれる。

「おねがいもう替わって!! 漏らしそうだ!!」
 個室中が揺れ、叫び声が響き込む。扉の向こうにいるのは、天沢先輩だった。

「十秒だけでいいからかわってくれよ!!」
 どんなに激しい運動をしたときよりも胸の鼓動が跳ね上がる。
「もうがまんできないんだよお〜〜」
  ぶりぶりぶりっぶりぶりぶぶううっ!!
 嘆くような先輩の声と限界そのものの放屁。夏美は唇をえぐり、目に涙を浮かべた。
 充血した肛門から溢れ続ける下痢は、まったく止められそうにない。

  ブウーーーーーーーーッッ!!
 黙って身を震わせていると、さらに窮まった音がした。

「おねがいぃっっ!!!」
 溢れ出す吐息と共に先輩の声が泣きそうに揺れ震える。
 夏美は両手を握り締めて、全力で肛門を閉めた。しかし一秒も持たず水流がほとばしった。

「あけて、あけて、あけてええぇぇっ!!!」
 ドアの壊れんばかりにノックが轟く中、夏美は目を固くつぶって両手を耳に当てた。
 何回か目、本当に壊されると思ったとき、ふいにそれは止まった。

  ぷううううううぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜っ

 世にもなさけない音色がドアの前から響きわたる。
 蚊のような悲鳴が一瞬だけ聞こえた。

  ブグボブボブボブボブボブボブボブボブボッッ!!!
  ビピーーブジュビジュビジュビジュビビーーーーッ!!!
 次の瞬間、夏美は破滅を認識した。
 いつも格好良くて、真夏の太陽のようにまぶしく笑う先輩の顔が脳裏に浮かぶ。
 どんなに苦しい練習にもけして音を上げることのない、男子顔負けの強靭な身体。――失禁、してしまった。

「ぁ、ぁ、ぁ、ぁぁあぁあぁ……」
  ビヂビヂビヂビヂビヂビヂビヂブゥピッッ!!
  ブリブリグブブブブブブブブブブブブブブブッッ!!
  ブヂュブヂュブヂュブヂュブヂュビュゥーーッ!!
 軟らかい破裂音が、次から次へと聞こえてくる。
 どれほど彼女はその行為を、いま自分がいる場所で行いたかったことだろう。
 夏美は替わることができなかった。今になってあれほど酷かった腹の痛みが落ち着いてくる。夏美は、舌を噛んで死のうかと思った。

  ゴボボボボボボボボボボボボボボボボッッ!!
  ボブッッ!! グプププグピグピグピグピグピッ!!

 音は、しばらくのあいだ止むことがなかった。


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 およそ一分後、夏美は腰を上げ、ハーフパンツを引き上げていた。

 便器の中は大量の下痢便とゆるんだ米粒で埋め尽くされ、周りにも派手に飛び散っている。
 昨夜と今朝の食事。彼女の内臓の中にあったものが全てそこに広がっていた。
 尻の汚れはすさまじく、満足に清めるにはいくらでも時間が必要だった。しかし今、そんな猶予はなかった。

  ジャアアアアァァーーーーーーーーーッッ
 大きな音と共に、吐き出した地獄が下水へと流れてゆく。
 夏美は唇をきゅっと噛んだ。先輩は個室の中が自分だと気付いていなかった。できれば永久に出たくない。
 だが、自分にできることは一刻も早くこの便器を開放することだけだ。夏美は鍵を外してドアを開けた。

 かくして、天沢先輩はいなかった。
 しゃがみ込んで顔を覆い、足元を泥まみれにして泣いている少女たちが目に入る。
 眼前は泥の海だったが、そこに立っているのは鬼の形相をした同級生だった。

  ブフウウブリブリブリブリブリ!!
 瞬間、彼女は体ごと突進してきた。慌てて避けると、尻にめり込まれた右手が見えた。
 目にも止まらぬ速さでドアが叩き閉められ、赤い印が跳ね上がる。

  ブボオオビチビチビチビチビチビチビチビチ!!!
  ブウウウウウウウゥゥゥゥゥーーーーッッ!!!
 音が聞こえ始めたのは、それとほとんど同時だった。夏美はぐっと目を伏せて体を回した。

 足元に広がったものを二度見ることはできなかった。
 自分が便器に排泄したのとまったく同じ、黒いかけらにまみれたドロドロの未消化物。
 天沢先輩の下痢便。先輩の腹の中で暴れ狂い、ついにその肛門を制御不能にした地獄の苦しみ。

 汚物は、ぼたぼたと落ちて途切れながら、トイレの外へ続いていた。
 立ち上る悪臭から逃れるように、夏美はよろよろと歩きだした。

「もおーーっ!! 早くしてよおっっ!!」
「おねがいっ……っ! もう、無理っ……!」
 まだ、二人が替わり、三人が漏らしただけで、部員の大半は地獄の最中にあった。
 真夏の熱気と下痢の臭気がおぞましく混ざり合う中、少女たちは滝のように脂汗を流しながら並び続けている。

  ブーーーッ! プウウゥゥーーーーッ!
  ブピィィィィーーーーッ! プウーーーーーーッ!
 ひっきりなしに切羽詰ったおならの音が鳴り響く。もう、みんな限界なのだ。
 噛み締められた唇。尻に挿さって震える指先。救いを求めるように腹の上を往復する手の平。
 いったいこの内の何人が無事便器に排泄することができるのか。顔面蒼白の仲間たちを見つめながら、夏美はぎゅっと体操着の裾を握り締めた。

「もう、だめっ……」
 真ん中の列で、二年生がひとり震えながらしゃがみ込む。

  ブリブリブリブリリリリリリリリリリリリリリリ!!!
  ビチビチビチブブブブビビビビビビビビッッ!!
 どれほど聞いたかも分からない音と共に、ハーフパンツの底が情けなく膨らみあがる。
 もう、誰もその光景に気を留めなくなっていた。みな己の一秒一秒を闘い抜くことで必死なのだ。

 いちばん右の前から三人目には副部長が並んでいた。
 唇を押し合わせて目を固くとざし、両手で腹を抱き続けている。
 カモシカのような脚を小刻みに震わせながら絡み合わせ、その手からは水に浸かったように汗が滴っていた。

 そのとき、後ろから水洗の音が聞こえた。
 振り向くと、三年生の先輩が腹を抱えながら外に出てきた。その表情は重く、眉間に深いしわが浮かんでいる。
 同時に先頭の二年生が飛び込み、鍵がかかるや激烈な排便の音が響きわたった。

「大滝か、大丈夫?」
 すぐに先輩は傍に来た。水を浴びたように濡れた短髪。その白い靴下の内側には、激しく茶色が吹き付けられていた。

「とにかく保健室に行こう」
 夏美がうなずくと、そう言って先輩はおぼつかない足取りで歩きだした。

  ジャアアアアァァーーーーーーーーーッッ
 あとについて歩き始めると、今度は一番右から水洗の音が聞こえた。
 赤い標示が消え、中からげっそりとやつれた顔で一年生が外に出てくる。
 めちゃくちゃにノックしていた三年生が飛び込み、いなや壮絶な脱糞の音が鳴り響く。

「若葉っ」
 この時になって初めて夏美は後ろの個室にいたのが親友だと知った。
 目が合ったが若葉はそれに応えず、うつむきがちにふらふらと歩いてきた。

「大丈夫!?」
「……うん……」
 若葉はびっしょりと服を濡らし、生気の失せた顔に嘔吐のゆがみを貼り付けていた。
 震えながらかすかに言葉を紡いだ唇を、夏美はじっと見てしまう。

「春原、大丈夫か? 保健室まで行けそう?」
「はい……大丈夫です……」
 うつむいたまま、若葉は答えた。

「マイ、行くなら先生に校舎中のトイレットペーパーを持ってくるように頼んで」
 列から抜けると、中央の最後尾に並んでいた三年生が話しかけてきた。

「用具室のストックは二個か三個しかないの。このままじゃ確実に足りなくなるから」
「何人かいないみたいだけど、大丈夫だった娘たちはどうしたの?」
「分からない。先生を呼びに行ったと思うんだけど……」
「私達より先に出た娘は?」
「校舎までは行けそうにないって。部屋で横になってるはず」
「わかった。必ず伝えるから」
 彼女もやはり険しい顔で腹をさすり続けていた。
 並んでいる全員にとってもそうだが、彼女にとってはいっそう深刻な問題であることだろう。

「ぐぷっっ!!」
 そのときだった。

「若葉っ!?」
 とつぜん若葉が口を押さえ、側の洗面台へと駆け込んだ。

「げーーーーーーっっ!!」
  ビシャーーーーッッ!!!
 黄色い液体が正面の鏡へと派手に飛び散る。
 駆け寄った夏美は瞳を固めた。何らの混ざりも無い、それは彼女の胃液そのものだった。

「大丈夫か!?」
「えっっ!! げえほっ、げえっっ!!」
 先輩が駆け寄り背中をさする。若葉は台を掴み、全身を激しく痙攣させながら黄色い残滓をこぼれさせた。

「うううううううえええっっ!!」
  ビュチャッ!! ボタボタボタボタボタッ!!
 苦しみを極めた形相で涙を溢れさせ、さらに大量の胃液をぶちまける。

「大滝、こいつは無理だ。先に校舎に行ってくれ」
 おぞましく波打つ背中をなだめながら、先輩が試合中のような眼を飛ばす。

「え、でもっ、若葉!」
「ナツミ、みない、ぐへっっ!!」
 夏美は叫んだ。同時に若葉の肩が跳ね、突き出された唇から黄色い飛沫が撒き散らされる。

「春原は落ち着いたら私が近くの部屋に運ぶから」
「わたしだけ先に行くなんてできません! それなら先輩が、」

「夏美!」
 大きく息を吸い込むと、ふいに若葉は顔を上げた。

「天沢先輩が気になるんでしょ? いいから先に行ってよ」
 どろどろになった顔で若葉は言った。夏美は、鼻の奥がひどく熱くなった。
「でも」
「わたしなら大丈夫だから。すぐにあと行くからさ」
 全身を大きく震わせて息を継ぎながら、震える声を絞り出す。

「うぐっ!!」
 そのとき、再び若葉の顔がひどく歪んだ。顔を突き下ろし、前髪が当たるほど洗面台に口を近づける。

「わかば」
「行ってっっ!! 友達ならこれ以上みないでっ!!」
 夏美は一瞬して走りだした。

「ぐううううううううっっ!!」
 えずき声が膨らみ上がるなか、夏美はトイレから飛び出した。
 その姿がドアの向こうに消えた瞬間、巨大な嘔吐の音が洗面台に轟いた。


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「やだ……っ……」

 トイレから出た夏美を待っていたのは、さらなる鼓動の加速だった。
 ぼたぼたと落ちる汚物の足跡。それは土間をまっすぐに進み、急に右に折れていた。

 その数歩先の壁に、大量の吐瀉物がぶちまけられていた。
 胸ほどの高さから足元まで、漆喰の広範囲にふやけた米が貼り付き、やわらかく垂れ落ちていた。
 さらにその足元の古びたコンクリートの床には、黄土色の液体がバケツをこぼしたように広がっている。
 中央には軟らかい便がなだらかに落ち、水便はその山を鋭くけずるようにして広がっていた。

 夏美はそこで何があったのか想像しかけたが、心の何かに止められた。
 それは、たとえ頭の中であっても見てはならないものだった。

 その場所から、今度はスニーカーの模様がはっきりと表れた黄土色の靴跡が伸びていた。
 蟹の歩くような大股でぐるりとUターンし、それは土間の隅にある用具室へと続いていた。

 夏美は後を追った。
 トイレの入り口から右に十歩ほど細く暗い通路を進んだところに、今にも壊れそうなドアがある。
 土間やトイレの清掃具置き場も兼ねた、四畳ほどの物置だ。
 中は薄暗くてほこりっぽく、雑多な物で埋まってひどく狭い。夏美は昨日の練習中に小間使いで入る羽目になり、もう二度と近づきたくないと思った。

 足跡は、ドアの前まで続いていた。
 どうしてノックをしなかったのか分からない。
 夏美はそっとドアを開けた。

 天沢先輩は部屋の中央で、下半身裸で下痢便にまみれた尻と足を拭いていた。
 トイレットペーパーを手にしゃがみ込み、眉を八の字に傾け、大粒の涙を流しながら。
 体操着がたくし上げられ、段々と褐色が純白に変わる太ももの間、赤くなった女陰部が剥き出しだった。

 夏美は左手を口に当てた。
 ほんの十分ほどぶりなのに、先輩の顔を見るのはずいぶん久しぶりな感じがした。
 目が合うと、先輩はこの世の終わりのような瞳をした。一瞬遅れてばたんと股が閉じた。
 夏美は、半分まで開いたドアを再び閉めた。

 早足で歩きだした。
 通路を抜けたところで、先輩の靴跡を踏みにじっていることに気が付いた。
 足を上げると、白いスニーカーの底が黄色くなっていた。

 土間を通り、夏美は外に出た。
 コートには誰もいない。

 挿すような日差しが夏美の頭を焼いた。
 灼熱が激痛となって視界を回した。
 もう、校舎まで行くのは無理だと思った。

 遠くの練習用ゴールが陽炎となってゆらゆら揺れる。
 夏美はその場にゆっくりとしゃがみ込んだ。

 遠くから、何人かの部員に連れられて先生たちの走ってくるのが見えた。


 典型的な、集団食中毒事件であった。
 朝食のおにぎりの具だったタラコが古くなっていたのだ。
 冷蔵庫にあった残りから、大量の腸炎ビブリオが検出された。

 激しい腹痛と下痢の症状に襲われた生徒は、ハンドボール部員三十人のうち、二十五名に及んだ。
 合宿所のトイレへと殺到した彼女たちは、およそ二十分の間に、全員が便器、あるいは下着へとその下しきった腹の中身を噴出させた。どれほどの量の下痢便がその二十分の間に放たれたのか、途方も付かない。

 食中毒によって、あるいは悪臭に中てられて嘔吐を起こした少女も多かった。
 その中には下痢の酷さと相まって激しい脱水症状に陥った者もおり、十人ほどが救急車で病院に搬送された。

 最も症状の重かったのは、部長の高峰早織であった。
 夏美は幸いにしてスポーツドリンクを飲むとだいぶ回復し、入院までには至らなかった。
 こしらえられた布団から起き上がって歩きだし、彼女はその光景を垣間見た。

 おむつが行き渡り少女の掃けた女子トイレは、まるごと下痢便の海と化していた。
 狭い床のあちこちに、ほとんど足の踏み場も無いぐらいに広がっているドロドロの下痢便。
 悪臭の凄まじさは想像を絶し、空気は眼にも感じられるほど黄土色に染まっていた。
 個室はどの便器も下痢にまみれ、その後ろ半分の周りはいずれも大量の飛沫でタイルが見えないほどだった。

 真ん中の個室は想像どおり、後ろの壁から便器の後方まで一面に下痢便が叩きつけられていた。
 夏美のいた個室ではその後に派手な嘔吐があったらしく、前の壁におびただしい米粒が貼り付いていた。
 一番右は誰かが寸前で間に合わなかったらしく、便器から周りの床、後ろの壁まで全てが下痢便にまみれて悲惨だった。
 左から二番目は、途中に何らかの事情で詰まったようで、下痢便が便器から文字通り溢れ出していた。

 一番左の個室だけは閉ざされ続けていた。消えることのない赤い印に、大人たちが大きな声をかけていた。
 しかし、中からはかすかな呼吸が聞こえるものの、返事は一向になかった。
 やがて鍵が壊され無理やりドアが開けられた。
 高峰部長は、ゲリとゲロで埋め尽くされた便器をまたいだまま、気を失っていた。

 部長がアレルギーのある友人に頼まれ、おにぎりの具だけを二人分食べていたと知ったのは、後日のことである。
 厳重に下半身を隠され担架で運ばれてゆく部長を見届けると、夏美は部屋に戻った。

 もう鼻が麻痺していたが、宿舎中に下痢の臭いが満ちているようだった。
 ある部屋は堪えきれず漏らしてしまった少女たちが尻を清めるために用いられ、その中からはすすり泣く声が絶えることはなかった。排泄物にまみれた下着と包み紙で大きなゴミ袋がいくつも埋まった。

「搬送者は、高峰早織、……天沢美羽、……春原若葉……」
 あちこちからうなり声が聞こえる中、夏美は布団に横たわって大人の声を聞いていた。


 水里保健所は6日、県立水里第二高校で合宿していた女子ハンドボール部員25人が食中毒を発症したと発表した。
 同保健所によると、6日午前10時半ごろから、女子生徒らが下痢や腹痛、嘔吐の症状を訴えた。
 学校によると、合宿は5日から7日までの予定で、教諭を含めて31人が参加。生徒達は5日夜にマーボー豆腐とワカメスープ、6日朝はおにぎりを食べた。いずれも校内の調理室を使い自分たちで調理した。検査の結果、おにぎりの具のたらこから腸炎ビブリオが検出された。
 10人が入院したが、重症者はいないという。保健所は食中毒の季節として注意を呼びかけている。
 常陸日報 2010年8月7日(土曜日) 朝刊


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 練習は翌々日から再開されたが、全員が本調子になるには、なお一週間ほどを要した。
 特に三日三晩下痢に苦しんだ高峰部長と、ショックで数日間食事のできなかった天沢先輩は、最後まで調子が悪かった。

 練習不足がたたり、秋の大会で夏美たちは一点足りず決勝で敗れた。
 誰もが涙を流し、特に部長は、いつまでもコートにしゃがみ込んで泣いていた。
 一週間後、ハンドボール部の新しい部長は天沢先輩に決まった。


「おい一年、こっちまだポット来てないぞ」
「あ、すみません、いま持ってきます!」
 夏美が言うと、端の席の一年生が慌てて立ち上がり駆けていった。

 冷房の効いた食堂で、夏美たちは欧風の洒落たデザインをした長テーブルに並んで座っていた。
 それぞれの部員の前には、様々な食材を使った色彩やかな朝食が並んでいる。部屋は広くて清潔で、窓からは品良く抑えられた陽の光が注ぎ込んでいた。

「これじゃあなんだか合宿って感じがしないな……」
「そうですか?」
 隣で頬杖をつく天沢部長に、夏美はデザートの苺をつつきながら尋ねた。

「ご飯の量も少ないし……」
「先輩、おかわりもできるみたいですよ」
 部長は、それには応えず、両手を頭で組んで天井を見上げた。
 夏美は唇をとがらせてその横顔を見つめた。二人とも、去年より一回り逞しくなっている。

 ハンドボール部は、その年の夏も合宿を行っていた。
 去年やその前とも同じように、よく日焼けした精悍な少女たちがまぶしい笑い声を上げている。

 ただ、今年からその場所は隣県の避暑地にある女子運動部専用の宿舎だった。
 校内にある合宿所は、昨年の冬に取り壊された。あの事件とは関係なく、老朽化のため前々から決まっていたらしい。

「すみません、持ってきました」
「言っておくけど、去年まではボロボロの合宿所で、配膳も一年がやってたんだ。おまえ達は恵まれてるんだからね」
 一年生が水滴の浮いた金属製のポットを持ってくると、若葉がそう言って受け取った。

「部長、どうぞ」
「ん……」
 後ろで結んだ髪を揺らして立ち上がり、部長のコップに水を注ぐ。
 それから彼女は夏美にポットを渡し、水はすぐに周りの上級生にも行き渡った。
 硝子のコップは光をきらきらと湛えて綺麗だった。

「秋の大会、前部長も見に来るんですよね?」
「ああ、それに他の先輩たちも来る。無様なところは見せられない。今年は絶対に優勝するぞ!」
 夏美の言葉に、ようやく部長はその瞳を輝かせた。高峰前部長は大学に入ってからも体育会で活躍を続け、秋からは日本代表チームの候補生入りが決定していた。

 ほどなくして部長が音頭を取ると、部員たちはいっせいに食事を始めた。
 料理の外見につられて可愛らしく食べようとする一年生らに、夏美たちがその有様でもって範を示す。
 勢いにまかせて食べきると、少女はまぶしく食器を片し、そして食堂の外へと飛び出していった。

 今日も、外はずいぶんと暑いようだった。


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