No.16「夏のきずあと」

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 その年は、まれに見るひどく暑い夏だった。

「――というわけで、三角形ABDは二等辺三角形と分かるわけです」
 冷房の強く効いた教室で、生徒たちはじっと黒板を見つめ、ノートを取り続けていた。
 右一面の大きな窓から、眩しい日光が絶えることなく差し込んでくる。

 八月中旬の真昼、その学習塾では夏期講習の真っ只中であった。
 小学五年生の、上から二番目の学力クラス。
 私語はほとんどなく、机を埋めた少年や少女たちはみな真面目に講義へと向かっている。

 その中に、ひときわ集中してペンを動かしている少女の姿があった。
 大きな瞳で弛むことなく解説を聞き、凛々しい唇をきゅっと固めて整った字と図形を連ねてゆく。
 彼女の背は回りより高く、短く揃えられた黒髪と相まり、ひときわ聡明な印象をもたらしていた。

「今の問題なかなか難しかったけど、全部できた人いるかな?」
 講師がそう言うと、手を上げたのは彼女だけだった。小さな歓声が所々で起こった。

 美樹は、今年の夏から塾に通い始めたばかりだった。
 それまでの勉強は学校の予復習のみで、進度の速い学習塾で、最初の成績はクラスでも下の方だった。
 しかし頭の良い彼女はすぐに順応し、二回目のテストで平均を超えると、三回目でクラス三位まで成績を上げた。
 次も同じ順位であれば、早くもトップクラスへのアップが決まる。彼女は一位を目指していた。


「そういえば、あさってまたテストだね」
 夕方の帰り道、塾で唯一、同じ小学校に通っている里奈が言った。

「うん。頑張らなくちゃね」
 美樹は力強い瞳で微笑んだ。

「明日はずっと勉強?」
「うん、一位で上がれたらなって思ってる」
「そっかー。すごいなー。みきちゃんならきっといけるよ」
「里奈ちゃんもがんばって」
「あはは……私はそれより落ちないようにしなくっちゃ……」
 曖昧な表情で里奈は笑った。彼女は四年生から通っていたが、上から三番目と四番目を行ったり来たりしていた。

「じゃあ、またね」
「うん、バイバイ」
 やがて二人は小さな交差点で手を振って別れた。


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 日曜日の朝、教室の座席はすでに半分ほどが埋まっていた。
 親しいもの同士で問題を出し合ったり、予想をする声などが聞こえてきて教室は騒がしい。

 一番前の席で、美樹はひどくなさけない顔で背中を曲げて座っていた。
 机の上には綺麗にまとまったノートが開かれている。しかし彼女の瞳は澱み、著しく集中力を欠いていた。

 その左手が、一回、二回と腹の上で左右に動く。
 美樹は机上にある橙色のプラスチック製の腕時計を見つめた。
 着席時間まであと十分。わずかなのち、彼女はそれを腕に巻くと立ち上がった。

 体を丸めたまま、内股で足早に教室を出る。
 廊下を渡り、彼女は女子トイレへと入っていった。

 おなかに手を当てながら最寄の個室へと入り、鍵をかける。
 便器をまたぐと、すぐに彼女はデニムのスカートを下着ごと下ろしてしゃがみ込んだ。

  チュオッ!! チョオオオオッ!! ジュオォッ!!
 突き出された堅い純白のおしりから、完全に形を失った黄土色の便が流れ出す。
 水鉄砲のように水流がほとばしり、様々な色や形の未消化物が便器の底に広がってゆく。

  ブピッ!! チョポポポポポポポポ!! ブゥビッ!!
  ボチョチョチョチョチョチョチョチョッッ!! ボビピッ!!
 眉をかたむけ、固めた唇を小刻みにふるわせながら、美樹は小便のようなそれを続けた。
 次々と肛門から注ぎ込まれる水便に揺らされ、赤いニンジンや黄色いピーマンのかけらが便器を泳ぐ。

 彼女は、下痢をしてしまったのだった。
 昨日の夜、勉強をしながらアイスを三つ食べたのが良くなかったらしい。
 朝からピーピーの状態だった。下痢止めを多めに飲んできたが、効果のほどは感じられない。

  ブピピピピピピピピピピピッ!! ブボッッ!!

 試験前の静かな女子トイレに、なさけない破裂音が響き続ける。
 閉ざされたドアに上がった赤い印は、しばらくのあいだ消えそうに無かった。


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 じっとりと汗をかきながら、美樹は重い表情で女子トイレから外に出た。
 腕時計は着席の一分前を指していた。足早に教室へ向かう。

「あ、みきちゃん、おはよー!」
 そのとき、里奈が駆け足で階段を上ってきた。
 笑顔で寄ってきた彼女だったが、傍まで来るとすぐに表情を変えた。

「どうしたのみきちゃん? 顔色悪いよ?」
 心配げな瞳でじっと見つめてくる。美樹は目を沈めて唇を押し合わせた。

「具合悪いの? だいじょうぶ?」
 その青白い顔をまじまじと覗き込んでくる。
 わずかなのち、美樹は里奈の耳にそっと口を近づけ手をかぶせた。
「……ゲリピー」
 消え入るような声で小さくささやく。

「ええ〜〜〜!?」
 里奈は抑えながらも声を上げた。

「おい、もう始まるぞ。教室に入りなさい」
 そのとき、違うクラスの先生が問題冊子の束を持って階段を上がってきた。

 美樹はうつむきながら教室に入った。閉め切られた冷気が全身を舐めるように包み込む。
 その弱々しい後姿を不安そうに一瞥すると、里奈も小走りに教室へと入った。

「では、これから問題冊子と解答用紙を配ります」
 数分後、静まりきった教室で一時間目の算数の問題が配られ始めた。

  グリュリュリュリュッ……キュゥゥゥゥゥゥ……
 美樹は泣きそうな顔でその下腹を見つめ続けていた。


 試験が始まってから三十分ほどが経った教室で、一つの席だけが空いていた。
 裏返された解答用紙。無造作に散らばった筆記用具。そこにいた生徒は、もう十五分以上戻ってこない。

 試験監督は算数の講師だった。
 怪訝な眼で席を眺め続けていた彼は、ちらりと時計を見ると静かに椅子から立って外に出た。

  チャポッ! チョポポポポポポッ! チュオッ!
 固く閉ざされた個室の中で、美樹は膝を抱えて便器にしゃがみ込み続けていた。
 汗だくになった尻から断続的に水便がこぼれ出し、飴色の水面を跳ねさせる。

  グウウゥゥゥゥゥ〜〜ッ……ゴロゴロゴロロロッ……
 合間には充血した肛門が情けなく蠢き、汁と脂が溶け合ってぽたぽたと下に落ちる。
 美樹は唇を噛みえぐり、進み続ける腕時計を舐めるように凝視していた。

  チョオオオォォォォーーーーーーーッ!!
 何十秒かを経て、再びまとまった量が注ぎ込まれる。

 鼻腔から息を溢れさせながら、美樹は険しく膝をこすり合わせた。
 盛り上がったままの肛門が、苦しげにぬめりを揉んで収縮を繰り返す。
 ほどなくして美樹はぴくりと顔を歪めると、便器をまたぐ足幅を広げ、尻を深くうずめた。

  ブーーーーーーーッッ!!

 下しきったおならの音がトイレ中に響きわたる。
 そっと女子トイレの様子を覗き込んだ講師は、すぐに振り返り去っていった。


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 翌日、テストの結果が廊下の掲示板に貼り出された。
 大きな横長の紙に受験者全員の成績が載せられ、廊下は多くの生徒たちと話し声で満ちていた。

 美樹の点数はクラスで最下位だった。
 試験時間の大半をトイレですごした算数と国語は悲惨な数字で、社会と理科もだいぶ点を落としていた。

 何人か隔てた所で里奈も掲示を見つめていた。
 目が合うと、彼女はひどく気まずい顔をして教室へと入っていった。
 美樹の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 顔を上げることなく美樹は教室に入った。
 席に座ったとき、どこかでくすくすと笑い声が聞こえたような気がした。


 授業は十分ほど延長になり、廊下に出たときには、里奈のクラスはもう誰もいなかった。
 家に帰った美樹は、すぐさま二階に上がろうとしたところを母親に呼び止められた。

「美樹、昨日のテストの成績表は?」
 母の前に立つと、美樹は目を逸らしながら、のろのろとした仕草で背中からバッグを下ろした。
 彼女はこれまで母親に逆らったことは一度も無かった。

 大きく「N」と書かれたふたを開け、唇を歪めながらその中身を露わにする。
 動きを止め、美樹は小さく顔を上げて母を見た。静かに自分の様子を見つめている。
 底に手をつっこみ、雑に折りたたまれた紙切れを取り出すと、そっと母に手渡した。

「ちょっと、どうしたのこの点数!?」
 いなや大きな声が居間に響く。

「だから、おなかこわしてたんだってば……」
 うつむいたまま、美樹は声を震わせてつぶやいた。
 それから長い沈黙があった。

「トイレに行っていたの?」
「もおーーっ!! 見ればわかるでしょおっ!!」
 次の瞬間、美樹は母を睨み付けて声を上げていた。
 バッグをひっ掴み、一気に背を向けて歩き出し、音を立てて階段を上る。
 自室に駆け入り、一階まで響く音を立ててドアを閉める。

 部屋の中は夕日で真っ赤だった。
 バッグを床に投げつけ、どさりとベッドに座り込むと、美樹はぎゅっとふとももを掴んで動きを止めた。
 ベッドはすでに日から外れて薄暗く、その表情は闇に溶けた。

 やがて、鼻をすする音が静寂のなか聞こえ始めた。
 それはゆっくりと大きくなり、陰る紅の奥に沈んでいった。

 空が紺に閉ざされたころ、様子を見に来た母は、押し殺して泣く娘の声を聞いた。
 彼女は何も言わずに去っていった。

 九月の中旬、美樹は上のクラスに昇級した。


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