No.17「迸る音」

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 一階から澱んだ水の音が聞こえると、三十分ぶりに彼女は部屋へと戻ってきた。

「大丈夫?」
 宿題を止め、げっそりとやつれた表情の姉に声をかける。
 彼女は眉間に深く皺を寄せて唇を押し合わせ、体を重く丸め、両手を腹にあてていた。
 パジャマ姿だが、中学のジャージを重ね着している。上にはさらにえんじ色のジャンパーを羽織っていた。

 その様が、彼女のこれまでにしていた行為を雄弁に物語っていた。
 姉は答えることなくジャンパーを放り、二段ベッドの下へと倒れ込んだ。
 膝とあごが着くほどに背中を曲げ、後ろで結んだ髪を面倒そうにまとめると、荒っぽい手つきで布団を寄せる。
 大きくため息をつくと、ようやく彼女は口を開いた。

「ものっすごいピーピー……。こんなに下痢したの、はじめて、ほんと……」
 低くかすれた、苦しみに満ちた声だった。少しばかり惑ってから、僕はまた尋ねた。
「そんなにひどいの?」
「完全に水」
 吐き捨てるように姉は言った。一瞬、光景が浮かんでしまい、僕はあわてて打ち消した。
 大きな瞳を細めて弱々しく身をふるわせるその姿は、普段の活発で頼りになる彼女とはかけ離れていた。
 けして特別にきれいなわけではないが、絵に描いたような健康体で、いつも血色の良い凛々しい顔立ちが誰よりも力強く感じられる自慢の姉だ。陸上部で日々トラックを駆けているそのたくましい身体が、今は生気を失ってもろい人形のように沈んでいる。

「……やっぱり、ノロウイルスじゃないの」
「でもほんとうに、思い当たることがないんだってば……」
 それから僕が何度目かの同じ質問をすると、姉はぐるぐると腹をさすりながらつぶやいた。

 それで、会話は止まった。
 しきりにもぞもぞと揺れる物音と、ときおりうめくような吐息だけが、静かな部屋に聞こえ続けた。
 窓の外から見える空はいちめん灰色で、まるで雪でも降りそうな天気だった。


「また来た……っ!」
 十分も経たないうちに、再び姉は跳ね起きた。

 振り返ると、彼女はもうベッドから飛び降りジャンパーを掴んでいた。
 ぐしゃぐしゃなままのそれを抱え、弾丸のように丸まった姿勢で右手の甲を尻に押し付けて走りだす。

「ごめん閉めといてっ!」
 浮ついた眼で僕を一瞥するや、ひっぱり開けたドアから外に飛び出す。慌しく降りてゆく足音がそれに続いた。
 一寸遅れて立ち上がると同時に激しくドアの閉まる音が階下から聞こえ、大きな水洗の音が上ってきた。


 二十分ほどで宿題は片付いたが、やはり彼女はまだ戻ってはこなかった。
 しばらくぼんやりとしていたが、やがて僕は椅子から立った。どうにも気になってならなかった。

 身に沁み込むような廊下の寒さに震えながら、慎重な足取りで階段を下りてゆくと、すぐにトイレのドアが見えてきた。
 使用中を示す赤い印。換気扇のスイッチが入りっぱなしで、乾いたうねり音がドアに近づくと聞こえてきた。

「んふっ……ぅぅぅぅぅ……ぐっ……」
  チュオッ……チョポポポポッ……ジュポッ……
 そうして前に立つと、わき水のような音がこぼれてきた。
 漂う黄土色の臭いと苦しげな吐息が、小便にも聞こえる音の出元を語っている。
 止むことなく聞こえてくる重い衣擦れが、ひどく痛がゆく感じられた。

「っむ、はううぅぅ……っ……!」
  ビチュゥゥゥゥゥゥーーーーーッ……!
 むき出したおしりを便座に押し付け、苦悶に満ちた顔で排泄を続けている姉の姿が、ありありと目に浮かんだ。
 本当におなかの調子が悪いんだなと感じた。何十分たっても出てこないわけだと思った。

 それからしばらくは、排泄の音が聞こえなかった。
 ただ衣擦れと嘆くような呼吸だけが、無機質な換気扇の音にまみれて絶えることなく聞こえてくる。
 ちょっと具合でも尋ねようかと、僕はそっとドアに手を寄せた。そのときだった。

  ゴウウウウゥゥウウゥゥゥグ〜〜〜〜〜ッ!!
 突然、激しく息の溢れ出すのが聞こえ、便座の大きく揺れる音がした。

  ブピッ!! ドポポポポポポポポポ!!
 水気に満ちた破裂音が鳴り響き、それまでにない重い質量を帯びた音が耳を貫く。

  ボピィッッ!! ビッ!! ジャーーーーッッ!!
 水道の蛇口をひねったのと変わらない音に、僕は胸のえぐられるような心地がした。
 姉の大きなおしりから茶色い滝のほとばしる様が、ありありと目の奥に浮かんでしまう。
 下しに下しているのだろう。これではまだ当分の間、彼女はトイレから出てこられそうにない。

  ブーーーーーーーーーッ!!
 おぞましく揺れる空気の中、僕は来たときよりもいっそう足を忍ばせてトイレの前をあとにした。

  ビイイイイイイイィィィィッッ!!
  ブブブブビビビビビビビビビビビッッ!!
 姉の尻が咆える音は、階段を上ってゆくさなかでもはっきりと聞こえた。
 二階まで上がりきってようやく、その腹が息をついたのだろうか、静寂が冷気の中に沈みこんだ。


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 その日は、まさに真冬といった冷え込みで、僕は身をふるわせながら帰宅した。
 母が用事だったので、家に着くと、自分で鍵を取り出してドアを開けた。

 中に入ると、姉の通学靴を兼ねたスニーカーがすでに玄関に並んでいることに気が付いた。
 その日、彼女は部活があるはずだった。行事の類があるという話も聞いていない。

 怪訝に思いながら靴を脱ぐと、奥のトイレから水洗の音が聞こえてきた。
 出てきた姉の姿を見て、驚いた。そのパジャマ姿もだが、げっそりとした顔で下腹を抱え込んでいたからだ。

 絶え間なく腹をさすりながら、彼女はそこの激しい不調で早退してきたことを僕に明かした。
 信じがたいことだったが、その憔悴した表情と、色の失せた頬が、なにより彼女の腹具合を語っていた。
 自身でも誇るほどに身体の強い彼女が、よりにもよって下痢で早退するのなど、小学校から通して初めてのことだった。

 そして、よろめく彼女のあとについて僕も二階へと階段を上った。
 苦しげに丸まったその背中は、ひどく痛ましくなさけなく、そして華奢なものに感じられた。


 あれからおよそ一時間経ったほとんどを、姉はトイレですごしてきた。

「――どこに行くの?」
 おもむろに椅子から立ち上がると、姉が責めるようにこちらを向いて尋ねてきた。

 再びの長い戦いから彼女が戻ってきてから、その十分の一ほどが過ぎたときのことだった。
 廊下で寒気に触れたせいか、僕は尿意をもよおしていた。姉との入れ替わりを避け、今になって立ったのだった。

「トイレだよ」
「まさか、大きいほうじゃないよね?」
「ちがうちがう。すぐに戻るよ」
 とつぜん声を震わせた姉に、あわてて否定の言葉を返す。その表情に安堵の浮かぶのが分かった。

「ならいいけど……その……今かなり汚れてるから、あんまり見ないでくれる?」
「じゃあ、目をつぶってするよ」
 あやふやな表情で目を伏せる姉から顔をそらすと、僕は足早に外に出た。


 換気扇の回り続けているトイレに入ると、臭いはなお濃く残っていた。
 腐った卵のようなそれが空間に満ち、汗を思わせる酸っぱさも溶けこんでいた。

 頭の中であの汚らしい音色が再生される。
 早くすませようと便座に目を下ろしたところで、僕は立ちすくんだ。
 その表面は、まるで水飴でも塗ったかのように、天井の明かりを浴びてべっとりと照っていた。
 それは、三十分を超える彼女の苦悶そのものだった。

 触れてみると、ぬるりと脂が手についた。まだかすかに温かかった。
 そうして便座を持ち上げると、中は下痢の嵐だった。
 水洗の届かない便器の端や側面には、いちめん黄色がかった飛沫が吹き付けられていた。便座の裏側にも大量にはね散り、所々に貼り付いている黒いひじきや赤いかけらは、昨日の夕食を思い出させた。

 ピーピーという姉の言葉が脳裏を駆ける。
 彼女がこれほどに酷く腹を下したのを、僕は今までに見たことがなかった。
 ひとしきり眺めると、はっとして僕は用を足し始めた。
 放射状にこびりついた未消化物のかけらを小便で狙うと、やわらかく溶けて水面へと落ちていった。

 そのとき、転がり落ちるようにして足音が階段を駆け下りてきた。

「ごめんかわって!!」
 あっという間にトイレの前まで来ると、猛烈なノックの音がそれに続いた。

「ちょっと待って――」
 とっさのことに、僕はすぐに対応できなかった。
 まだ出している途中だった尿を、あわてて腰に力を入れてしぼり出す。
 外からは一刻の猶予もない足踏みが聞こえだした。尿を出し切るのには数秒を要した。

  ブゥピッッ!!
 いなやドアが跳ね開けられた。
 尻に手をめり込ませて目を回している姉が視界に入る。
 激しく息を漏らしながら飛び込んでくると、彼女は僕のズボンをむりやり引き上げてトイレの外へと突き出した。歯を食いしばって物凄い速さで着衣を掴み下ろしながら片手でドアを叩き閉める。

  ジュオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
 間髪入れず、激烈な水流の音がほとばしった。

  ブビーイイイィィィィ!! ジョボボボボボボッ!!
  チョボボボボポポポポポポポポ!! ブボッッ!!
 開いたままの鍵。もちろんやり返す気になどならない。それ以上に、深い不安となさけなさが去来した。
 視界が途切れる寸前、姉の股の間に見えた黒い茂みが、眼に焼きついてちらちらと点滅する。
 施錠も、音消しさえもされないなか、僕は無言で場を離れ、二階へと戻っていった。

  ブウウウウゥゥゥゥゥーーーーーーーッッ!!!
 家中にまで届くような巨大なおならの音が、今度は階段を上りきってもはっきりと聞こえてきた。


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 姉が部屋に戻ってきたとき、もう外は暗くなりだしていた。

 現れた彼女の表情は、それまでに輪をかけて苦しげだった。
 真っ青な顔で眉間だけでなく口元にも深く皺を浮かべ、その様は幾十年かの年月を越え母の顔を思わせた。
 しゃがみ込まんばかりに腹を抱え、ぶるぶると派手に体を震わせ、おびただしい量の脂汗で額を一面に濡らしていた。

「ごめんね、さっき……もう我慢できなくて……」
 どうしようもなく下痢といった顔つきで、姉は弱々しく声を出した。
 僕はううんと口ごもることしかできなかった。姉はよろめきながら部屋に入ると、そのままベッドへと崩れこんだ。

「お腹のなか、地獄だ……。ほんと、きつくなってきた……」
 歯を噛み締めて腹の肉をえぐりながら、姉は声を震わせた。
「大丈夫かよ? お母さんに電話しようか?」
 異様な姿に鼓動が上がる。しかしそう尋ねると、彼女は首を振った。

「おなかいたい……気持ち悪い……」
 腹を掻きむしり、世にも苦しそうな表情で、ぐしゃぐしゃと布団に頭をこすりつける。
 ほどなくして、彼女はうなりに近いため息を何度もくりかえし吐き出し始めた。

「ウーッ、きもちわるい」
「まじかよ。吐きそうなの?」
 やがて姉はいっそうひどく顔を歪めながら呻いた。おぞましく波打つ声に、僕は危機感を覚えて尋ねた。
「グウッ!!」
 そのときだった。突然姉は体を跳ね上げ、両手で口元を押さえつけた。

「う、ゲプッ!!」
 布団を蹴飛ばして起き上がり、転がるようにして部屋から出てゆく。
 落下に等しい凄まじい足音がそれに続いた。

「おえええええええええーーーーーーーっっ!!!」
 慌てて廊下に出たところで、家中に響きわたるような物凄い声が聞こえてきた。

「げーーーーーーーーーっっ!!」
  ボチャボチャボチャボチャボチャーーーッ!!
 階段の中ほどで再び壮絶な音。僕は全力であとを追っていた。トイレのドアは開いていた。

「げほっ! げほっ! おえっっ!!」
「お姉ちゃんだいじょうぶ!?」
 見ると、姉が便器を掴んで激しく肩を震わせていた。
 間に合わなかったのだろう、吐瀉物は便器の内だけではなく、その周りにも大量にぶちまけられていた。味噌汁色で米粒の形の残ったものが、内蓋や床へ派手に飛び散り、あるいは台を垂れていた。

「うええええええええぇぇーーーーっ!!」
  ドボボボボボボボボボボボオオーーーーーッ!!
 踏み込んで背中を撫でると、姉はまた激烈に嘔吐した。
 茶漬け状のものが滝のように便器へと注ぎ込まれ、様々な色の具と共に水面を埋め尽くす。
 赤、灰色、ごぼう、肉らしきかけら……。豚汁だ。

「はあー、はあーっ、はあーっ……は、ふううううっっ!!」
 全身を痙攣させながら、いなや姉は背中をびくんと吊り上げた。

「ごめん出て!!」
 身を跳ね起こし、彼女は鬼気迫る形相で僕を睨みつけて叫んだ。
 溢れ滲む涙と鼻水。僕は物怖じして動けなかった。すると、ふうーっ、と違う生き物のように姉は吼えた。

 次の瞬間、僕はトイレの外に突き出されていた。
 体ごとの体当たりでそれをすると、姉は猛烈に身を回しながら着衣を下ろし、尻をむき出してドアを蹴たぐり閉めた。

  ブバッッ!!! ジョボボボボボボボボボッ!!!
  ジャアアアアアアァァァァーーーーーーーーーッ!!

 同時に、それは聞こえだした。

  ドポドポドポドジューーーーーーーーーーッッ!!
  ビジャーーーー!! ジャーーーーーーーーーッ!!
 今度は鍵さえかからなかった。水道の破裂したような音が、ただ耳をつんざいて聞こえ続ける。
 僕は己の心臓に、叫びにも似た鼓動を感じていた。彼女はこのまま脱水症状で死んでしまうのではないかとすら思われた。

「ぐぶーーーーーーっっ!!」
  ボタボタボタボタボターーーーーーッ!!
 泣きそうになりながら、扉の向こうの光景を僕はただ眺め続けていた。


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「うえええええーーーーーっ!! えーーっっ!!」
「香織、ちょっと大丈夫!? 香織!?」

 母が帰ってきたのは、それからすぐのことだった。
 そのときの姉は、固く閉ざされたトイレの中で再び猛烈な吐き下しの真っ最中だった。

 やがて憔悴しきった顔でどろどろのジャージを手にトイレから出てきた姉は、もう立っていることもできなかった。
 彼女はなんとか手指を清めて着替えると、エチケット袋を手に、おむつを着けて母の車で病院に行った。

 姉の激しい下痢と嘔吐の原因は、やはりノロウイルスであった。
 噂どおりの感染力でどこからか姉の体に入り込み、その胃と腸をかき回していたのだ。
 ウイルスまみれの便座に触れながら僕が以後も無事だったのは、幸運だったというほかなかった。

 姉は、三日間学校を休んだ。
 病院から戻ってきてからは洗面器を常備し、居間に布団をこしらえることになったが、翌日からは二階に戻った。
 三日目には症状もだいぶ収まり、四日目の午後から学校に行った。


「あのときは、ほんと、死ぬかと思った……」
 毎年ノロウイルスのニュースが出るたびに、姉はそう言って苦しげな顔を作る。

「あれはほんと見ててつらかったよ」
「お願いだからあの日のことは記憶から消しておいてね」
 僕がつぶやくと、彼女はこちらを向くことなく、真顔で言葉を刺した。

「とにかく、もう二度とノロウイルスはごめんね」
 そうして返事を聞くこともなく、思い出すのも嫌といった様子で立ち上がって行ってしまった。

 いつも元気な、まぶしいほどの健康体である姉にとって、あれが人生で唯一の大患であった。
 力に満ちたその体が制御を失って汚物を噴出する様を僕は、何より彼女自身、一生忘れることはできないだろう。

 そして、今もどこかで……。


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