No.19「褐色の街(前編)」

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 澄み渡った冬空の下、雪で覆われた街が続いている。
 気温は凍えるような氷点下だが、陽はまぶしく差し、白い路を照らしている。
 並ぶ家々の向こうには幾重にも銀の嶺が連なり、それが空の青と良く合っている。

 北海道北見沢市の、二月上旬の風景であった。
 その広い敷地の目立つ静かな住宅街を、四人の少女がランドセルを背に歩いていた。
 三人は同じほどの背格好だが、一人は幾回りか小さい。みなコートやジャンパーにマフラーで身を包み、めいめいに白い息を弾ませて、楽しげに言葉を交わしていた。

「えへへ、わたしもそんな感じかな」
 会話の中心にいるのは、雪色のボンボンで髪を結んだ快活なしぐさの少女だった。
 丸みのある素朴な顔立ちだが、人懐こい大きな瞳で、りんごのように赤い頬と相まって可愛らしい。

「ところで静流ちゃんは、どんなチョコレート作るの?」
「私はね、トリュフを作るつもり。少しお酒を入れて、ブラックチョコでまぶしたものと、ホワイトの二種類」
 右端の少女が話をふられて微笑み答える。彼女は、四人の中で最も背が高く美しかった。
 子供らしからぬ気品のあるまっすぐな瞳。整った顔立ちでつややかな栗色の髪を長く伸ばし、育ちの良さが溢れている。何気ない仕草の一つ一つが洗練されていて、ブランド物のコートに身を包みながら少しも嫌味らしさが感じられない。

「すごーい、お酒なんて使うんだ!? やっぱり静流ちゃんは大人だなあ」
 素直なおだての言葉に、彼女は恥ずかしげに唇を小さく隠してはにかんだ。

「凜は?」
「あたしは姉まかせだから分かんないなあ。普通の型抜きチョコかな」
 今度はその隣にいる少女が頭で手を組みながら答える。
 男子のように短い髪をした、名前どおりのはっきりとした顔立ちの少女だった。飾り気のないジャンパーを着て下には紺のジーンズを穿いている。工務店の娘で男子顔負けの力自慢だが、大きな切れ長の瞳とふっくらした桜色の唇は、疑いなく年ごろをひかえた娘のそれであった。

「凜ちゃん、男子と仲いいのだからみんなに配ったらいいのに。きっと喜ばれるわよ」
「そんなのガラじゃないってば。今年もあにきとお父さんにしかあげないよっ」
 彼女はこういった話題自体が苦手なようで、淡く頬を染めると、瞳を空へと逃がしてしまった。

「よく考えたら、凜はもらう側じゃないの?」
「あーーっ! バカにしたなあっ!」
 静流が再び淑やかに笑う。

「澄音ちゃんは、だれにチョコレートをあげるの?」
「わたしはね、パパとお姉ちゃんにあげるよ」
 それから静流はわずかに背を折ると、端にいる幼女に優しく尋ねかけた。
 彼女は澄みきった丸い瞳を輝かせ、長い黒髪を背中で跳ねさせながら元気に答えた。

「おいしいチョコレートができるといいね?」
「うん!!」
 大きな声が静かな家々にこだまする。

「ほとんどわたしが作るんだけどね」
「今年はすみねもがんばるもん」
 澄音と髪を結んだ少女は姉妹だった。姉の雪香が言うと、妹の澄音はあどけなく頬を膨らませた。
 おそろいのコートでよく似た顔の二人を見つめながら、静流は穏やかに微笑んだ。

 そうしているうちに四人はいつも別れる叉路に辿り着いた。
 姉妹が立ち止まり、凜と静流が道を離れる。

「じゃあ、また明日な」
「さようなら」
 凜が手を高々と上げ、静流が両手を前で合わせてお辞儀を作る。

「またね〜」
「バイバーイ」
 澄音が力いっぱい手を振ると、静流もにっこりと手のひらを泳がせた。

「あした、たのしみだね、お姉ちゃん」
 二人の姿が見えなくなると、澄音は黄色い長靴でぱたぱたと跳ねながら、嬉しそうに姉を見上げた。

「そうだね。みんなでいっぱいチョコレート買おうね」
 雪香も頬を鮮やかに、胸の躍る顔つきで妹を見た。白い吐息が柔らかく揺れて交じり合う。

 彼女と澄音は二歳違いで、小学五年生と三年生の姉妹であった。
 先に別れた凜と静流は雪香の幼馴染で、家が近く、何度も互いに訪問しあう仲だった。
 明日は三連休の初日で、四日後のバレンタインデーに向け、みんなで町のスーパーに買い物に行くことになったのだ。

「きゃうっ!」
「ほら、危ないよ!」
 元気さのあまり転びかけた澄音の肩をあわてて雪香はぎゅっとつかんだ。

「も〜っ、転んでねんざでもしちゃったら、明日チョコ買いにいけないよ?」
「えへへ……」
 明日の夜には本州へ出張に行っている父が帰り、明後日には家族で札幌の遊園地へ行くことにもなっていた。
 舌を出してはにかむ妹を見ながら、雪香も内心では同じぐらいはしゃぎたい気持ちになっていた。

「お姉ちゃん、みてみて、ゆきだるま!」
 まぶしい陽光が道端の雪を氷細工のようにきらめかせる。
 青空には一点の曇りもなく、こんな天気が連休中も続いたらいいな、と雪香は思った。


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 楽しい時は瞬く間に過ぎ去ってゆく。

 はやる気持ちと共に家に帰り、宿題を終わらせたり部屋を片付けたりしているともう夜だった。
 そして母と三人で夕ご飯を食べ、姉妹で入浴し、お菓子の本を読んでいると、すぐ寝る時間になった。
 顔を洗って歯を磨き、一足先に寝静まった隣室を眺めながらトイレを済ませると、雪香は穏やかに眠りについた。

 窓の外は一面の暗闇で、月明りだけが冷えゆく部屋の形を照らしていた。


 ――なにかが、騒々しかった。

 どたどたと足音のようなものが響き、どこからかささやく声が聞こえてくる。
 断続的に続くそれらは甘い深淵を乱し、彼女は少しずつその眠りを浅くしていった。
 夢を見ていた気もするが、よく憶えていない。

 雪香は、目を覚ました。

 淡く尿意を感じ、むくりと体を起き上がらせる。
 目覚まし時計の蛍光文字は午前五時前を指していた。布団をのけ、身震いしつつベッドから下りる。
 暗い部屋の中、漏れ込む光で廊下の明かりがついていることに気がついた。
 頭を徐々にはっきりとさせながら、かすかに音をさせてドアを開ける。

(おかあさん……?)
 それは奇妙な光景だった。廊下に出ると、トイレの前で母が寒そうに手を擦り合わせていた。
 目が合うと、母は困ったような表情をしていた。雪香は静かに歩み寄った。

「お母さん、どうしたの?」
 小さな声で尋ねる。見ると、トイレの鍵はかかっていた。

「澄音がね……ひどい下痢なの」
「えっ……?」
  ブリッ!! ジュポッ!!
 驚きの言葉と同時に、トイレの中から異様な音が鳴り響く。

  プウウウウウウウゥゥ!! ブゥピッ!!
 水気に満ちたおならの音がさらに続き、痛ましくかすれた吐息がふるえながら聞こえてくる。
 下痢特有のいやな臭いが漏れ出していて鼻をついた。

「一時間ぐらい前から、もう何度もトイレ。お腹がすごく痛いんですって」
 閉ざされたドアを心配そうに見つめながら、母がささやく。
 雪香も同じまなざしで見つめると、それから、控えめにドアへと手を伸ばした。

「澄音、だいじょうぶ? おなか壊しちゃったの?」
 小さく二回ノックをし、声を抑えてそっと尋ねる。しかし返事はなかった。

  ブーーーーーーーーッッ!!!
 代わりに聞こえてきたのは、小さな体らしからぬ凄まじい放屁だった。雪香は切ない顔で手を戻した。

「雪香、お手洗い? まだしばらく空きそうにないから、一階ですませてらっしゃい」
 母に言われると、雪香はうなずいて一階へと向かっていった。

  ジュボボボボボボボボボボッ!!
 階段を下りていると、後ろからまた、胸の凍える音が聞こえてきた。


 用を足して階段を上ってゆくと、ちょうど二階でも水洗の音が聞こえてきた。

 上りきったところでトイレのドアが力なく開き、澄音が体を丸くして中から出てきた。
 げっそりとやつれた表情で顔をしかめ、両手を固くおなかに押し付けている。

「澄音、だいじょうぶ?」
 駆け寄り尋ねた雪香に、澄音はただ小さく首を振るだけだった。
 その顔は根雪のように青白く、頬には一点の赤みも無い。祖母が手編みした毛糸のセーターを羽織っていたが、肩と足が絶えることなく震えていた。

「大丈夫だから、雪香はちゃんと寝てなさい。澄音にはお母さんがついてるから」
「うん……」
 そっと澄音の体を寄せると、母は彼女と共に寝室へと入っていった。
 ドアが静かに閉まると、喉の縮まるような感覚をおぼえながら、雪香も自身の部屋へと戻っていった。


 布団にもぐって体を暖めながら、しかしすぐに眠ることはできそうになかった。
 下痢をしてしまった妹。昨日一日の、元気な姿が頭に浮かぶ。
 理由は全く思いつかなかった。目覚まし時計だけが、一分、二分と時を静かに刻んでゆく。

 十分ほどしたころ、また隣から声が聞こえ始めた。
 何を話しているかまでは分からない。ただ、良い内容でないことは分かっていた。
 それからすぐ、二つの足音が外に向かって歩きだした。雪香も、静かに起き上がると外に出た。

 険しい表情の母と目が合う。傍では澄音が真っ青な顔で眉間に皺を浮かべ、唇を固く押し合わせていた。

「気持ち悪くなってきたんですって」
 そう言うと、母は澄音の肩を抱いてトイレへと入っていった。
 ドアは閉ざされることなく、雪香は側に寄ってその中を覗いた。

「おえっっ!!」
 便器に顔を突き出し、激しくえずく妹の姿が目に入る。震える小さな背中を母は上下にさすり続けていた。

「うっ!! ぐえっ!!」
 普段からは考えられないような、低く濁った声が静かなトイレに揺れ響く。
 澄音の顔は先刻とは打って変わって真っ赤だった。耳まで血に満ちたように赤かった。

「げえーーーーーーーっっ!!」
  ボチャボチャボチャボチャボチャーーーーーーッ!!!
 次の瞬間、澄音は吐いた。黄土色の液体が物凄い勢いで水面に注ぎ込まれ、昨日の夕食が撒き散らされる。

「かわいそうに……とにかく全部出しちゃいなさい」
「おええええええぇぇっ!! うええぇぇえええぇぇーーーーっ!!」
  バチャバチャボチャチャチャチャビチャッ!!
  ドボチャボチャボチャボチャボチャーーーーッ!!
 背中をさすられながら、澄音はさらに大量の汚物を便器の中へと吐きもどした。
 夕食はカレーとサラダだった。わずかに形を残した茶色い米粒の渦に、色鮮やかな野菜や福神漬けが浮かんでいる。
 妹の嘔吐を見たのは幼稚園のとき以来だった。自身も胃に危うさを覚え、雪香はたまらず目をそらした。

「げほっ、げほっ!! うげっっ!! おええぇぇぇぇっ!!」
 激しいえずきが続き、さらに声が蠢いたが、今度は音の続くことはなかった。
 うめきはやがて乱れた呼吸に変わり、ほどなくして大きく水が流された。

「何か食べた物が合わなかったのかしらね……」
 紙を巻く音と共に母がつぶやく。

 顔を戻すと、母が澄音の目や鼻の下を指で丁寧に拭っていた。
 その無垢な顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。拭われながらも、さらにそれらは溢れ続けていた。

「雪香、見ないであげて」
「ごめんなさい……」
 それが、最後の会話だった。雪香は逃げるように部屋に戻り、布団に入った。

 足音は、それからも幾度となく続いた。
 ふだん目覚める時間まで、雪香は浅く寝たり起きたりを繰り返した。


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 九時四十分過ぎ、雪香は居間で遅い朝食をとっていた。
 部屋の端では、母が澄音のことについて電話で父と相談している。

 バターだけを塗ったパンを胃に送り込みながら、雪香はひどく憂鬱だった。
 十時には二人が来るが、正直そういう気分ではなかった。
 家に入れるわけにはいかないし、三人だけで買い物に行くのも、澄音のことを説明するのも億劫だった。

 やがて、時計が五十分を指そうというころ、雪香は味の無い朝食をとり終わった。
 ほぼ同時に、母も電話を終えて受話器を置いた。

「やっぱり、病院に連れていって診てもらうことにしたわ」
 重い表情で彼女は言った。澄音は激しい下痢を続けている。夜中のように便器から離れられない状態ではなくなっていたが、部屋とトイレの往復は止まなかった。ピーピーであることに変わりはない。

 そのとき電話が鳴った。母はすぐさま受話器を取った。

「はい沢渡です。あら、おはようございます」
「……え? 雪香ですが? いま替わりますので少しお待ちくださいね」
 雪香は目を丸くして首を上げた。

「凜ちゃんのお母さん。雪香に用事ですって」
 受話器を押さえ、小さく言う。雪香は静かに立ち上がると、傍に向かった。

「もしもし、沢渡です。電話かわりました」
「雪香ちゃん? ごめんなさいね、実は凜なんだけど……」
「どうしたんですか?」
 そっと受話器を受け取り、話し始める。聞きなれた太い声だ。

「ちょっとね、今朝からひどい下痢をしちゃってて……」
「え?」
「昨日の冷え込みで体でも冷やしたのか、ピーピーなのよ。悪いのだけど、今日はお断りさせてもらえるかしら」

「……分かりました。おだいじに」
「ほんとう情けない話でごめんなさいね。また今度遊んであげてね」
 驚きのあまり、返事が少し遅れた。慌しく通話は終わった。

「凜ちゃん、どうかしたの?」
「えっと……」
 母に尋ねられて言い澱むと、いなや再び電話が鳴った。
 何か追申だろうか。雪香は受話器を取った。

「はい、沢渡です」
「小野寺です。……雪香ちゃん?」
 違った。目の覚めるような、しとやかで上品な声。今度の相手は静流だった。

「静流ちゃん……どうしたの?」
 だが、その様子はおかしかった。いつもとは違う角ばったしゃべり方。息が揺れ、言葉の紡ぎが妙に速い。雪香は怪訝な表情で尋ねた。

「ごめんなさい。ちょっと今日、朝からおなかが痛くて……」
 雪香は出かかった困惑を喉の内に押し留めた。

「私はお休みさせてもらってもいいかしら?」
「う、うん……しかたないね。大丈夫?」
「楽しいお買い物になることを願っています」
「……おだいじに」
「さようなら」
 そのまま、ほとんど会話にならず通話は終わった。

「雪香、今度は小野寺さんだったの? ご用件はなに?」
 受話器を置くや母が尋ねてきた。雪香は頭を整理するのにしばらくの時間を要した。

「凜も静流ちゃんも、おなかを壊したんだって。それで、二人とも来れなくなっちゃった」
「ええ? 二人とも?」
 母はさすがに驚いた表情を見せた。雪香も、何が何だか分からなかった。

「びっくりね。もしかしてノロウイルスかしら……? うちの学校では流行ってないって聞いていたのだけれど」
「澄音も、それなのかな……?」
「可能性はあるわね」
 腹痛、下痢、嘔吐……。そんな言葉が頭に浮かぶ。

「とにかく、今日の約束は無しなのね。じゃあ、もうすぐに澄音を病院に連れて行くわね」
 そう言うと、彼女は慌しく二階へと向かっていった。雪香もそのあとについていった。

  ボチャボチャボチャッ!! ブピッ!!
 二階に上がると、トイレからまたもや痛ましい音が聞こえてきた。
 朝食に向かったとき、澄音は部屋で横になっていた。もう何度目かも分からない。
 凜や静流ちゃんも今ごろ……。ふいに生じた考えを雪香は必死に打ち消した。

「澄音。それが終わったら、北村先生のところに行きましょう」
「……うん……」
 母がそっとノックすると、わずかに遅れ、弱々しい妹の声が聞こえた。

  ブボピッ!! ビピッッ!! チュオオォォォォ!
 しかし、彼女がトイレから出てこられるまでには、まだいくらかの時間を要しそうだった。


「それじゃあ、お留守番お願いね」
「うん。いってらっしゃい。澄音、だいじょうぶ? 寒くない?」
 あれから二十分ほどの後、雪香は玄関で二人と向かい合っていた。

「だいじょうぶ……」
「そう、じゃあ、いってらっしゃい」
 げっそりとやつれた表情で澄音が健気にうなずくと、雪香はその頭をなでてあげた。
 澄音は薄い水色のパジャマの上にセーターを重ね着し、その上に赤いダッフルコートを羽織っていた。車内には一足先に暖房がきかされている。

「……おねえちゃん、ごめんなさい」
「いいの。どうせ凜と静流ちゃんも来れなくなっちゃったんだし」
「りんちゃんとしずるちゃん、だいじょうぶかな……?」
「大丈夫だから。澄音は、自分のおなかを治すことだけを考えて」
 髪を乱し、小さく背を曲げ続けている妹の姿は痛々しかった。

「じゃあ、そろそろ行くわよ」
「うん……おねえちゃん、いってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 小さく手を振りながら、澄音は母のあとを追って玄関から出ていった。
 扉が閉まると、雪香はそっと鍵をかけた。

 冷え込んだ廊下を歩き、居間の窓から外を見る。
 エンジンの音が響き、白い車のゆっくりと庭から道路に出てゆく様が見渡せた。
 白銀の光景に溶けゆくようにして、走りだしたそれはすぐに見えなくなった。

 雪香は、それからもしばらく窓の外を眺め続けていた。
 陽に照らし出され、庭を覆う雪々はまぶしいほどに輝いていた。
 見上げる空は一面の青。端に見える植木の枝から、雪の塊が崩れ落ちて音を立てた。


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