No.27「機密のさなか」

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「それでは、次の文章を訳してみましょう」
 ある冬の日の二時間目。中学三年生のそのクラスでは、いつものように英語の授業が行われていた。
 中年の英語教師が受験を意識した授業を進め、生徒たちは私語もなく黒板を写している。

 その中に、ひとり様子の落ち着かない少女の姿があった。
 教室のちょうど中ほどに座っている、髪の長いおとなしげな少女。
 彼女はだいぶ前から険しい顔で、ときおり下腹をさすっていた。

  グルッ……キュゥゥゥゥ……
 その掌の内から、かすかに重苦しい音が漏れ響く。
 少女は唇を固め、何度も正面の時計を見上げていた。

 おなかが痛い……。トイレに行きたい……。
 彼女は下痢をしてしまっていた。朝からのきつい冷え込みで、腹を壊してしまったらしい。
 しかし、その内気な性格が災いしてトイレに行けずにいた。もう、二十分近くも、そんな状態が続いていた。

 授業はまだ半分以上もある。繰り返し押し寄せる便意に悶えながら、少女は額に脂汗を浮かべていた。


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「先生」
 授業が始まってから、三十分が過ぎたときのことだった。

「松永さん、どうしたの?」
「すみません。ちょっと気分が悪いので、お手洗いに行ってきてもいいですか」
 手を挙げたのは、学級委員を務める優等生の女子だった。
 短めに揃えた髪で真ん中をはっきり分け、凛々しい眉毛と目つきが印象的である。ほとんど全て5の成績で知られ、トップの公立高校への進学を確実にしていた。気の強い自信家で、今も体調不良を感じさせない堂々とした振る舞いだった。

「あら大丈夫? じゃあ、ちょっと保健委員さん」
「いえ、一人で大丈夫です」
「そう……? じゃあ、いってらっしゃい」
 先生が許可を出すと、彼女はすっと立ち上がり、背筋を伸ばして静かに教室を出ていった。

 ……それは、下痢に苦しんでいた少女にとって格好の機会だった。
 苦しみの加速に喘いでいた彼女は、一呼吸すると、ついに自分も手を挙げた。

「先生……」
「小森さん? どうしたの?」
「あの、わたしも、お手洗いに行ってきてもいいですか?」
 集まる視線に頬を赤めながら、うつむきがちに尋ねる。

「あなたも気分が悪いの?」
「い、いえ……あの……」
「……行ってらっしゃい」
 兎にも角にも許可が下りると、少女は小さくふるえながら立ち上がった。
 そして足早に机の間を通り抜け、情けない顔で教室から出ていった。


「うぅっ……」
 おなかを押さえながら急いで廊下を渡り、最寄の女子トイレのドアを開ける。

  ブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!!!

 同時に少女は凍りついた。

  ブボッッ!!! ビチビチビチビチビチビチ!!
  ドブボボボボボボボボボボボーーーーーッッ!!

 一つだけ赤い印の浮かんだ使用中の個室。その中から、物凄い爆音が鳴り響いていた。

  ブヒッ!! ビイッ!! ビーーーーッ!!
  ブピピピピピピピピピピピピピピピピッッ!!

 トイレ中に、まるで温泉地にでもいるかのような強烈な臭いが広がっていた。
 排便の音にまぎれて低くかすれた息み声も聞こえてくる。

  ブーーーーーーーーーーーーッッ!!!
 激しい屁がトイレ中に響きわたったときだった。

 かつん、と足元で音がした。
 心臓の凍りつく思いで顔を下ろすと、落ちていたシャープペンシルにつま先が当たり、それは滑りよく転がって使用中の個室の中へと入っていた。

  ブリ!!!
 再び鳴りかけた音が停止する。

 息もできぬような静寂が到来した。
 授業中のトイレ。聞こえてくるのは校庭からの体育の声のみとなった。
 少女は両手で口元を押さえ、蛇に睨まれた蛙のごとく動けなかった。

 そのまま十秒、二十秒、三十秒……。少女は自分の便意さえ忘れていた。
 四十秒、五十秒……。視界には、ただ閉ざされた扉のみ。一秒一秒がはてなく長い。

 一分が経ったところで、少女はトイレから逃げ出した。
 廊下の風景を認識したところで一気にもよおし、そして彼女はひとつ隣のトイレへと走っていった。

 少女が教室に戻ったとき、空席はすでに一つだけになっていた。
 それから卒業まで、彼女は一度も松永さんの顔を見られなかった。


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