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彼女は、その日のことが楽しみでならなかった。
春の陽気に、初夏の匂いが混ざりだす四月の下旬。
昼で学校が終わった小学四年生のその少女は、家で時間が来るのを今か今かと待ちかねていた。
大好きな担任の先生が、今日は家庭訪問で彼女の家に来るのだった。
ことし教員になったばかりという、きれいで優しい女の先生。
入念に片付けられた居間で、彼女は跳ねるように歩き回りながら、先生が来るのを待っていた。
テーブルの上には飲み物とお茶菓子が置かれ、母が微笑みながらそんな彼女を眺めていた。
時間通りにチャイムが鳴るや、少女は駆け出して玄関を開けた。
「先生、こんにちはっ」
「渡辺さん、こんにちは」
少女が大きな瞳をきらめかせて挨拶をすると、先生も穏やかに微笑んだ。
清水先生は名門大学の教育学部卒業で、真面目な性格もあって父母からの評判は上々だった。
清潔で癖のない顔立ちだが、整いすぎてもおらず、温和な親しみやすさがある。今日の先生はいつになくかっちりと紺のスーツを着ていた。前髪を綺麗に分けて後ろの髪は端正に束ねられ、その唇には淡く紅が塗られている。
「先生、どうもこんにちは」
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
迎えに出た母に、手をスカートの上で合わせて深々とお辞儀をする。
「ではどうぞ」
「はい、お邪魔します」
そして柔らかく腰を折り、革靴を丁寧に脱ぎ揃えてスリッパへ足を通すと、先生はゆっくりと居間に入った。
立ち上がるとき、スカートの形を正すためか、先生は一瞬だけ手の平をおしりに当てた。
「それでは、短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
改めて会釈をしながら、用意された席に座る。
座ると、先生は手にしていた鞄から様々な書類を取り出した。
「渡辺さんも、よろしくね」
「はい!」
先生ににっこりと微笑みかけられると、少女も大きく声を出した。
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夢のような時間は、またたく間に過ぎていった。
学校生活のこと、ゴールデンウィークのこと、初夏の遠足、運動会、そしてもちろん自身のこと――。
多くの話題を次々と話している内に、あっというまに二十分間は終わってしまった。
「それでは先生、一年間どうぞよろしくお願いします」
「はい。こちらこそよろしくお願い致します。ご相談事などありましたら、いつでもご連絡ください」
玄関で母と会釈をしあうと、先生はゆっくりとスリッパを脱ぎ、しゃがみ込んで丁寧に揃えた。
「お邪魔しました」
綺麗に手入れされた靴に履き替え、身を向け直してお辞儀する。
「桃花、門の外まで先生をお送りしてさしあげなさい」
「はーいっ」
母の言葉に少女が元気に応えてスニーカーを履きだすと、先生は恐縮げにはにかんだ。
「さようなら」
笑顔の母を背に、二人はドアを開けて外に出た。
「先生、次は山本君の家ですよね? わたし、案内します」
門を開けながら、少女はまだ話し足りない顔で先生を見つめた。
「ううん。道ならちゃんと覚えてるから大丈夫よ。ありがとう」
だが、先生はすぐさまそう言って断った。
「そうですか……」
「それより、お母さんと、今日お話したことについて、思いかえしてくれると嬉しいな」
諭すように微笑みながら、道路へと出る。
「それじゃあ、渡辺さん、さようなら」
そして先生は小さく一回だけ手をふると歩きだした。
「さようなら」
くるりと前を向くと、先生は振り返ることなく去っていった。
小さくなってゆく後姿を、少女はぼんやりと見つめていた。
最後の先生は、いつもよりどこか笑顔が浅くて、よそよそしかった。
今も、心なしか足の速い気がする。自分は何か失礼なことでも言ってしまったのだろうか。消化不良の想いが彼女の胸で澱んでいた。
しかし、ほどなくしてそれは弾け飛んだ。
五十メートルほど向こうの十字路で、左に行かなければならないのを、先生は右に曲がってしまったのだ。
考えるより早く、少女はあわてて走りだしていた。
十字路までおよそ十秒。
急いで右を向くと、先生が数十メートル先にある小さな公園に、いやに早歩きで入ってゆくのが見えた。
通り抜けてショートカットでもするつもりなのだろうか。しかしどう考えても逆方向である。
少女は先生を呼ぼうとしたが、息が上がっていてできなかった。
数秒立ち止まって呼吸を整えると、すぐに公園に向かって走りだした。
「あれ……?」
しかし公園に入ってみると、先生の姿はどこにもなかった。
反対側の出口や、その向こうの道路にも見当たらない。あれから十秒も経っていないにもかかわらず。
「……トイレ?」
少女はすぐわきに見える公衆便所へと目をやった。
男女共用の個室と小便器が並び、それに気持ちばかりの手洗い場が付いた簡素なものである。
建物というより半屋外で、公園から内への視界を遮っているのは薄い仕切り板だけだ。
個室には使用中の赤い印が浮かんでいた。
少女はとっさにトイレへと駆け寄った。
ブウウウウゥゥーーーーーッッ!!!
近づくや異様な音が聞こえ、少女は目を丸くして立ちすくんだ。
ブピッ!! ブビビビビビビビビッ!!
ブチャブチャブチャブボッッ!! ボピピピピッ!!
続けざまに、ひどく汚らしい、水気に満ちた破裂音が連続する。
出所は疑いようもなく個室の中だ。少女は深く困惑したが、すぐに事情を理解した。
……先生は、下痢をしていた。
ブボピッッ!! ブゥピッ!! ビイッ!!
ジュオッビチビチビチビチビチ!! ブオッッ!!
せつない表情でドアの正面まで寄ると、激しく響き続ける排便の音の裏に、重い吐息も聞こえてきた。
低くかすれて耳の底を這うそれは、普段の先生からは想像もできない、大人の女性の息だった。
腐った卵のようなひどい臭いが鼻をつく。顔をしかめて嗅ぎながら、少女は先生の淡く口紅の塗られた唇を思い出した。
ビイイイイイイイイィィィィッッ!!
個室はかなり狭いらしく、扉の下のやや広い隙間からは、しゃがみ込んでいる先生の靴がわずかに見えた。
大きなため息がして何度も腹をさする音が聞こえ、乾いた擦れ音と共にその踵が鈍く動く。
ブーーーーーーーッ!! ブッッ!!
そして、搾り出すように放屁が響くと、慌しくペーパーを巻き取る音が聞こえ始めた。
少女は辺りを見回すと、急いでその場を離れた。
先生がトイレから出てきたのは、それからすぐのことだった。
眉間に深く皺を寄せて腹に手を当てながら。――少女は、先生の険しい顔を見るのは初めてだった。
素早く手を洗ってハンカチで拭くと、先生は腕時計をにらみながら足早に公園を出て行った。
木陰に身を隠しながら、少女はしばらくの間、動悸を抑えることができなかった。
やがて場を離れた彼女は、その日いくども樹の前で同じ光景が繰り返されたことまでは知りえるに至らなかった。