No.30「我慢、できなくて」

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(あーあ、やっぱり来るんじゃなかった)
 喧騒をかわいた瞳で見下ろしながら、たいしておいしくなかったアイスを仕方なしに舐めてゆく。
 椅子に座ると、むれた肌着が背中にくっついて気持ちが悪い。

 平成24年7月21日。
 東京都お台場のあるビルディングでは、児童向けのロボット展が開催されていた。
 多くの親子連れでにぎわい、絶え間なく人の行き来と歓声が続いている。

 未来は、ホールから出た通路のベンチに座って、ぼんやりとアイスを舐めていた。
 中学一年の彼女は、共働きの母に頼まれ、四つ下の弟の悠貴を連れてここに来たのだった。
 その悠貴は今、視界の遠くでテーブルに設置されたアトラクションに興じている。

(バッカみたい)
 『遠くの人と話してみよう!』というモニターの文字がひどく幼稚に感じられた。
 真剣な様子で向かっている弟の姿をしばらく眺めたのち、目を冷たくして首をそらす。

 何もかもがつまらなかった。
 うるさい弟。馬鹿で下品な大人たち。子供だましの機械。
 目にかかる前髪が無性に不快だった。今日、ゆっくり切るつもりだったのに。

 携帯を見ると、時計は2時46分を指していた。
 いつまでこんな所にいなければならないのだろう。

 いっそ停電でも起こって、ロボットが全部止まってしまえばいいのに――。
 未来はどこまでも退屈な表情で、ただアイスを舌で溶かし続けていた。

 そのときは、思いもしなかった。
 ほんの一時間後に、それが最悪の形で現実になるなんて。

 平成24年7月21日午後3時46分。

 マグニチュード8.0の大地震が東京を襲った。
 未来は、生まれて初めて、心の底から泣き叫んだ。


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「到着しましたか?」
「いいえ、次の船です」

 物々しい格好をした大人たちが走り回ったり慌しく話したりするのを、未来は疲れた眼で見つめていた。
 日の出桟橋、海上バス乗り場。世界が変わり果ててからもうすぐ一日になる。

 左には悠貴が同じようにしゃがみ、右ではマリさんが立って地図を開いていた。
 マリさんとは、震災直後に離れ離れになった悠貴の捜索を手伝ってもらった縁で一緒に行動している。
 子供だけで被災した二人を同情し、保護者の役割を買って出てくれたのだ。
 バイク便ライダーをやっている格好の良い大人の女性で、五歳の子供がいて二人の境遇に思うところがあったらしい。目指す自宅の場所も、姉弟は世田谷区成城、彼女は三軒茶屋で近かった。

 三人は悠貴を助け出したあと、土砂降りになった雨をしのぐためビルの下で一夜を明かし、海上保安庁の船でお台場からここに渡ってきたのだった。
 次の目的地は、救援物資の配布が行われている芝公園だ。

「芝公園は十五分ぐらいか……未来ちゃん、靴ずれは大丈夫?」
 地図をたたみながらマリさんが言う。

「はい……」
 絆創膏を重ね貼りした踵をさすりながら未来は答えた。
 サンダルで歩きずくめ、ひどい靴ずれを起こしてしまったのだ。今でも上から押すとじくじくと痛む。

「さて、じゃあ行きましょうか」
 大丈夫そうなことを確認すると、マリさんはそっと二人を見下ろした。
「はい」
 悠貴といっしょに立ち上がる。

 正面にはちょうどトイレの入り口があって、長蛇の列ができていた。
 未来は立ち止まって、少しのあいだ、それを見つめた。
 が、すぐに二人のあとを追った。


『昨日、15時46分頃、関東地方を中心に大きな地震がありました。この地震の震源地は……』
 どこかからニュースの声が聞こえる。

 自衛隊のジープが並び、あちこちで怪我人が横たわっている中を、三人はゆっくりと進んだ。
 周りにも同じように行進している人たちが無数にいる。みな疲れた表情でうつむいていた。

 桟橋の敷地から外に出るころ、未来はふいに目を見開いて立ち止まった。
 マリさんとつないだ手が離れないよう、すぐに再び歩きだす。

 歩きながら、未来は歯を噛み締めて自分のおなかを見つめた。
 たまらず手を当てて、重く息を吐き、小さくつぶやく。

「……やばい……」

 おなかが、痛い……。
 熱く煮えた、ひどく嫌な質感の腹痛が、手の下で蠢いていた。
 とつぜん生じたそれは、急速に下腹全体に広がってゆく。
 そして……。

 少し前から覚えていた違和感が牙を剥いた瞬間だった。
 未来のおなかは、おぞましく続く余震のように、不気味に揺れて下り始めた。


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 行進は続く。

 あちこち崩れたビルの中を、三人はひたすら歩き続けていた。
 建物という建物にひびが入り、ガラスが割れて看板は傾き、酷いものはビルごと倒れかかっている。
 生気なく、人形のように前後を歩く大人たち。

 未来は、青ざめた顔で自分のおなかをじっと見つめていた。
 二人に気づかれないように、そっと何度もおなかをさする。
 額にびっしりと浮かんだ汗は、暑さのせいではない。

 トイレに、トイレに行きたい……。

 未来は猛烈な腹痛に襲われていた。
 熱くて軟らかいものが、次から次へと肛門に押し寄せてくる。

 完全にゲリであった。

 おなかが痛い……。ウンチがしたい……。
 体を小刻みに震わせ、険しい瞳で熱く吐息を漏らす。
 狂おしい便意。肛門が情けなく収縮し、ドロドロの下痢便を排泄したくてたまらなくなっていた。

「お姉ちゃん! 東京タワー見えてきたよ! あとちょっとで家につくよね!?」
 悠貴がとつぜん大声を上げる。

「まだだって……」
 人知れず括約筋を引き締めながら、未来は細い声で答えた。

「でも、うちから東京タワー見えるよ?」
「それでもうちまでは遠いの!」

  グウウウゥゥ〜〜〜ッ
「ぅ……っ!」
 声を上げるや腸が激しく縮み、未来は唇を噛んでうめき声を上げた。
 荒れ狂う腹を見つめ、苦しげにため息を吐く。

「未来ちゃん、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、です……」
 ふるえる肛門を必死にすぼめながら、笑顔を作る。

「あの……公園って、手を洗ったりとかできるところありますよね?」
「うーん……トイレがあると思うけど……水はでるかしら……」
 たまらず尋ねるとマリさんはそう答えて、未来は困った表情でうつむいた。
 どうしよう。臭くてゆるいものがたくさん出てしまいそうだった。
 でも、ウンチがしたい。我慢できない……。

「どこか汚れちゃった?」
「あ……いえ……」
 消え入りそうな声でごまかす。

「そうだお姉ちゃん! うちに帰ったら、ぼくのプリンあげるよ!」
 そのとき、また悠貴が大声を上げた。
「なに……? いきなり……」
「だから、がんばって!」
 にっこりと笑顔を見せる。

「あのねえ! おやつで釣られるほど子供じゃないんだけど!」
 馬鹿にされてる気がしてひどく不愉快だった。大きな声で言いかえす。

「うっそだー! おやつ軍曹のくせに」
「おやつ軍曹?」
「そうだよー!」
 さなか、未来はべこりと腹をへこませ、右手をそれにめり込ませた。

  グウ〜〜〜ウウウゥ〜〜〜〜ッ
 刃物で刺されたような物凄い腹痛。欲求が膨らみあがり、膨大な質量が穴の上にのしかかってくる。

「ちょっ……これはやばいかも……」
 眉間にしわを浮かべ、腹の肉を掴んで悶絶する。
 猛烈な便意。盛り上がる肛門。まずい。一刻も早くトイレに行かないと間に合わなくなる可能性が出てきた。
 大粒の脂汗を垂らして震える未来の姿に、マリさんがはっとした表情を見せる。

「未来ちゃん……もしかして、お腹痛いの?」
「だいじょうぶです……」
 おなかから手を離せないまま、白い顔で、露骨にそうでない声でつぶやく。

「痛い時は、無理しないで言うのよ」
 やさしく諭すような声。もうバレバレだ。

 そうこうしているうちに公園の入り口が見えていた。
 たくさんの自衛隊員が集まり、行き交う人に案内をしたり、中で物資を配ったりしている。

「ちょっと待ってて。あたし、あそこ見てすぐ戻ってくるから」
 ふいにそう言うと、マリさんは手を離して公園の中に走っていった。

(だめっ!!)
 泥の渦が一気に未来の肛門にのしかかったのは、困惑とほぼ同時だった。
 唇を押し合わせ、両手を握り締めて括約筋を引き締める。

 小学四年生の時にしてしまった大失敗が、一瞬だけ脳裏をかすめる。

「……はあ……っ」
 数秒後、未来は空気の抜けたようにため息をついた。

 幸いにして、理性を吹き飛ばす程度ではなかった。
 なんとか耐え切ると共に、わずかではあるが便意の波が引いてゆく。
 未来はよろよろと歩道の端に向かった。


 ふりそそぐ蝉の声。

 木陰の石垣に並んで座り、マリさんを待つ。
 未来は小康状態のおなかにそっと手を当て、疲れた身体を休めていた。
 不気味な痛みは治まらない。おなかの中に靴ずれができているような気がする。

「おなかへったの?」
 前を飛んでゆくモンシロチョウをぼんやりと眺める。

「うちについたらさ、北海道のおじいちゃんち行こうよ」
 早くトイレに行って苦しみをぜんぶ出して楽になりたい。

「でさ、牛乳ソフトとかさ、」
「また北海道。今年は無理なの!」
 未来は唐突に叫んだ。純粋な瞳がびくりと震える。

「……パパがそう言ってたもん」
 唇を尖らせてそっぽを向く。

「おーい!」
 そのとき、マリさんが公園から出てきた。
「ごめんごめん!」
 手を振って駆け戻ってくる。

「未来ちゃんごめんね。お腹、もしかしてケーキで?」
 次の瞬間、未来は目を見開き、顔をいちめん真っ赤にした。

「い、いえ、ちがいます」
 顔をそらせてうつむき、瞳と唇を震わせて消え入りそうな声で否定する。
 図星だった。未来がおなかを壊したのは、昨日の夜にケーキを食べすぎたのが原因だった。
 二人のためにマリさんがバイクから持ってきてくれた、大好物のバースデーケーキ。空腹のあまり未来はその半分近くを一人で平らげてしまったのだ。それに野宿による寝冷えや疲れ、ストレスが重なり、か弱い少女の腸は、たちどころに猛烈な下痢を起こしてしまったのである。

「はいっ」
「え……?」
 目を伏せたままの未来の前に、何かが差し出される。

「携帯トイレ」
 『困ったときにいつでもつカエル!』
 未来の好きなカエルの絵が描かれた三回分入りの袋と、ポケットティッシュだった。

「か……」
 燃えそうな頬をさらに紅く染め、未来は切ない表情で凍りついた。

「えー!? これトイレなの? みして!」
 悠貴が大喜びでそれに食いつく。
「うわっ! これ紙でできてる!」
 がさがさと音を立てて、一つを組み立ててゆく。

「みてみて!!」
 緑色の紙袋と白い厚紙でできた便器そっくりに腰掛けると、悠貴は唇から唾を吹いて汚らしい音を立ててみせた。
 今の未来にとっては冗談でない。魂を震わせながらデリカシーのない弟の姿を見下ろす。

「使うとき言ってね。どこでも使えるやつだから」
 得意げにほほえむマリさん。
「あの……まだ、だいじょぶなんで……」
「そう?」
 絶対に、嫌だった。


「すっごい人……」
 公園の中心部に着くと、そこは人の海だった。
 いくつものテントから大声で配給の案内が繰り返され、それを求めて被災者が列をなしている。

「トイレ……トイレは……」
 未来は険しい表情でそれらしき建物を探した。
 再びおなかが下り始めていた。鋭い痛みを孕んで大腸が蠢き、肛門の圧力が上昇してゆく。
 いつ爆弾に火がつくか分からない。一刻の猶予もなかった。早く行かなくては。
 しかし彼女の望む施設は見つからない。

「あ、あっちで食べ物もらえるかもね」
 ひどく困った瞳で唇を噛み締め、歩き出した二人のあとを追う。

「救援物資を配布しておりまーす! 一人一つずつ受け取ってくださーい!」
 声の方に向かって進むと、カップラーメンを食べている人の姿が目に入り始めた。
「ラーメンだ!」
「向こうで配ってるみたいね」
 急速に悪化してゆく顔色に、前を見る二人は気付かない。

「お姉ちゃん! カップめんあるってよ!?」
 嬉しそうに話しかける悠貴。

 そのとき、未来は激しく体を震わせ始めた。
 歯を食いしばって目をつぶり、小さく呻きながら手を雑に振って食事を断る。
 微笑していたマリさんの表情が変わる。
 おなかをえぐるように抱え込み、ぶるぶると全身を痙攣させだす。

「ねえ、未来ちゃ……」
 真剣な声が発せられるのとそれは、同時だった。

 轟音と共に大地が揺れる。

 鳥がいっせいに飛び立ち、ビルが動いて悲鳴が響く。
 強烈な余震。立っていられなかった。大きな肩が二人を抱いて腰を落とす。

  グウウウウウゥゥゥ〜〜〜ッ!!
 さなかに轟いたもう一つの音と唸り声は、巨大な地響きに飲まれて聞こえなかった。
 おぞましい揺れの中、激烈に下り始めていた腹の中が、さらにめちゃくちゃに掻き乱される。
 悲鳴を上げ嘔吐しようとするおしり。淡い桜色のつぼみが、露に満ちてむくむくと膨らみあがる。
 べこりと下腹がへこみ、灼熱の吐息が溢れ出す。

  ブフーーッ! プリプリプリプリプリッ!!
 その湿りきった破裂音と、小さな悲鳴もまた、ひとりにしか聞こえなかった。

 視界の樹がいくつか倒れて揺れが収まる。

「ふう……今のはちょっと大きかったわね……」
 二人をかばいながら、マリさんがゆっくりと立ち上がる。

「ひとまずどこかで休みましょう」
 その脇には、真っ青な顔で歯を抉りあわせてその腕を掴みしだいている未来の姿があった。
 泥のように汗を垂らし、後ろに大きく突き出された尻は、なお余震のさなかにある。
 決壊しかけた肛門は猛烈に盛り上がり、爆発的な便意に包まれていた。あと一秒余震が長かったら……。

「あっちは? あれテント?」
「じゃなくてトイレみたいね……」

 トイレ。

 その言葉を聞いた瞬間、固く目を閉ざして堪えていた未来は、その方向を凝視した。
 歪んだ視界にらしきものを捉えるや、よろよろと腕から離れる。

「ちょっ、と、行って、くる」
 いなや未来は両手で腹を抱えて走りだした。

「向こうの木陰で待ってるからね!」
 振り返る余裕などあるはずもなかった。


「はあっ、はあっ、はあっ!」
 公園の端に、それはあった。
 仮設トイレ。中を見えなくした青いテントのようなものがいくつも並び、それぞれに行列ができている。

  ギュウ〜〜グルグルグルグルグル!
(はやく、はやく……!)
 いずれも十人近くが並んでいた。
 開きそうになるおしりを必死に締め付け、一人でも少ない列を探す。見つけるや未来は並んだ。が、それでも顔を出して数えると、七人が前に並んでいた。

「くうぅ……っ!」
 地獄の苦しみに、体を丸めてうめき声をあげる。
 暴れ狂う大腸。尻の破裂しそうな便意。おなかが痛い。我慢できない。しゃがみこみたい。
 未来の肛門はひくひくと痙攣し、汗にまみれてぬめり、今にも全開になりそうだった。

 そのとき、一人の男性が出てきて列が前に進んだ。
 まぶたを固く締めていた未来は前の女性の足音でようやく気付き、痙攣する足を前に出そうとした。

「ぅっ!!」
 その瞳が大きく開く。
 激烈に盛り上がる肛門。
「っ……ぁ……っ!」
 脂汗が噴き出る。大量に充填された下痢便が今にも溢れ出そうとしている。
 限界だった。必死に肛門をすぼめようとするが、もうその感覚が無い。ぬめりが便か汗かも分からない。

 未来は四年生のとき、下校中に公衆トイレの入り口で下痢を堪えきれずに漏らしたことがあった。
 全てがそのときの感覚と酷似していた。
 人前でだけはいや……! 割れそうに歯を食いしばり、その想いだけで理性をつなぎとめる。

「おーい! こっちあいてるぞー!」
 そのとき、とつぜん正面で声がした。
「え……?」
 顔を上げると立っていた若い長髪の男を、未来は目を丸くして見つめた。

「わあーっ! 助かったわー!」
「ラッキーっ! 超タイミングよかったよねー!」
「だべ?」
 ぶるぶると震えて見つめる未来の前に、呼ばれた二人の女が入り込もうとする。
 明らかな不正だった。しかし世界一弱い未来は声も出せない。

「おい。後からきて割り込むなよ。順番守れ」
 後ろの男性が不愉快そうに声を上げる。
「なに? あいてんじゃん?」
「後ろを見ればわかるだろう。ごまかすんじゃない」
 そう言って未来の前を指差す。

「ほら、君も割り込まれたんだから何か言いなさい」
「え……ぁ……」
 促されたが、未来はただ、震えることしかできなかった。

「おい、ガキ盾にして文句いってんじゃねーぞ!」
「子供の前で恥ずかしくないのか。君はいったい幾つなんだ!?」
 声を荒げ始めた二人をおびえた瞳で見つめる。

「オマエいったいいくつなんだよこの野郎!!」
 いきなり長髪が手を伸ばして飛びかかった。小さな悲鳴と共に脇に避ける。
「そういう事を言ってるんじゃないだろう! 並べって言ってるんだよ!!」
 取っ組み合いの喧嘩が始まった。

「離せ! 聞こえないのか!」
「うるせえこの野郎コラァ!!」
 大きな体が暴れ回り、またたく間に周囲が野次馬に覆われる。
 間一髪で場から飛び離れた未来は、ぐちゃぐちゃな意識で、目に涙を浮かべてそれを見た。

  ギュウウウゥゥゥゥ!! ゴグゥ!!
 同時にその下りきった腹を、すべてを押し流すような巨大な波が襲った。
 灼熱に包まれる肛門。おぞましい何かが、限度を超えて膨らみあがる。

「いや、ぁ……!」
 次の瞬間、未来は輪をくぐり抜け走りだしていた。


 ゆるむ視界の中、彼方に見える、ベンチに座っている二人の姿を目指して全力で走る。
 途中で足が言うことを聞かなくなり、よろめき、這うようにしてそこへ向かった。

「あれ? どしたの?」
 服をひっぱられてようやく気付いたマリさんが談笑をやめ未来を振り向く。

「マ、リ、さ……ん」
「え?」
 ガクガクと震えながら汗まみれの顔を上げる。
 かすれた声を聞き取れず、マリさんが問うように目を見つめる。

  ブリッ!!!
「ぁっっ!!」
 瞬間、音と共に未来は手を尻の上に跳ねさせた。

「ちょっと待って今出すから!」
 即座に表情を固めてポケットの中に手を突っ込む。
 一回分のトイレとティッシュが現れるや、未来はそれをふんだくった。

「ほら、あそこなら人がいないよ!」
 マリさんが指差したときには、もうその先に突撃していた。

 積まれた石の敷居を踏み越え、草木が雑多に生えた公園の隅に走り込む。
 茂み、茂み! 回る世界を走りながらただそれだけを探す。だが十分な厚さのものは見当たらない。

(もうだめえーーーーーっ!!!)
 塀沿いにわずかなものを見つけるや未来はその中に飛び込んだ。

「あああぁぁぁぁあ!!」
 ティッシュを投げ、手をめちゃくちゃに動かして携帯トイレを組み立てる。
 なんとからしきものを作ると、置き、またいでスカートを掴む。開く肛門。下着ごと引きずり下ろしてしゃがみ込む。

  ブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!!!

 むき出された肛門から、未来が堪え続けてきたものが物凄い音を立ててぶちまけられる。
 汗だくの尻が便器を捉えるのと、その底が大噴火を始めたのは同時だった。

  ブボオッッ!! ビチビチビチビチビチ!!
  ビチビチビチブリリリブリブリブリブリブリ!!
  ブウウビイィブビイイイイイィィィィィィィッッ!!
 激烈に尻を揺らし、腹の中で暴れ狂っていた地獄、苦しみ欲求を携帯トイレに叩きつけてゆく。
 はち切れんばかりに膨らみあがって暴力的に振動しながら土石流を噴出する肛門。
 まるで尻が地震だった。溜めに溜め込まれた圧力の爆発的開放。崩れそうなほどに痙攣する足の間に、壮絶な腹圧でドロドロの下痢便が打ち付けられてゆく。

「っううう、ふうっ……っ!」
  ドブボビヂビヂビヂビチビヂビヂビヂ!!
  ブボボボボボボボボボボーーーーーーッ!!
  ブビッ!! ブリリリリリリリッ!! ブゥピッ!!
 出しながら、未来はよどんだ瞳で唇を揉み合わせて全身を打ち震わせていた。
 視界が焦点を結ばず息もできない。破滅的な快楽と胸の裂けるような羞恥が混ざりうねって脳が灼ける。
 掴んだままのスカートに爪をめり込ませ、器に突き出された双球からただひたすら下しきった内容物を排泄してゆく。

  ブウーーーーーーーーーーッ!!
  ブウウウウウーーーッ!! ブビーーッ!!
 いっしゅん排便が途切れるや、尻の割れるような放屁がそれに続いた。
 跳ね揺れる尻から大量の飛沫が撒き散らされ、携帯トイレやその周りを派手に汚す。
 肛門が抜けんばかりにめくれ上がり、あのとき悠貴がまねたのよりもずっと汚い音が鳴り響く。

  ブウウウウウウゥゥゥゥゥーーーーーーーッッ!!!
 激しい脱糞と放屁の音は、様子を伺うため近くに来ていた二人の耳にまで届いていた。
 実の姉が放つあまりに凄まじい音に、悠貴は自分まで恥ずかしくなって顔を赤くしていた。

「ねえ悠貴くん、聞こえなかったことにしておこうね」
 腕を組みながらマリさんが言う。悠貴はよく分からない顔で彼女を見た。が、すぐに「うん」とうなずいた。
 歩道脇の石積みの上に腰をかけ、何でもない顔を作って足をパタパタと振らす。

「んふううぅぅぅぅ……!」
  ブチャブチャブチャッ!! ブボッ!!
  ビチビチビチビチビチビチビチビチッ!!

 被災者で溢れかえった公園の、しかしひっそりと静かな奥の隅で。
 哀れにも下痢をしてしまった一人の女子中学生は、茂みの中で激しく震えて野糞をしていた。
 その大きく、情けない音は、しばらくのあいだ止むことなく聞こえ続けた。


「はぁー……はぁー……はぁーー……」

 木立とブロック塀に遮られて薄暗い茂みの中。
 蝉の音が雨のように降り注ぎ、遠くからは配給の案内が聞こえ続けている。

 肥溜めと化した携帯トイレの上で、未来は滝のように汗を流し、唇を噛み締め肩を震わせていた。
 ぎゅっと丸められた体。ぬるぬるになった二つの丸みを脂が伝わり、その底からやわらかく垂れてゆく。

 真っ赤に充血して盛り上がりきったまま、小刻みに痙攣している肛門。
 意識の全てを満たしていた欲求は、今は震えるおしりの下で泥の海と化していた。
 けっして浅くない携帯トイレから溢れかえらんばかりの、大量の下痢便。
 日の出桟橋からずっと、我慢に我慢をし続けてきた腹の中の地獄が、そこに広がっていた。

 茂みの中は、むせ返るような悪臭で満ちていた。
 真夏の熱気の中、風がなく、未来の下痢便の臭いがそこにまとわりついていた。

 顔を下げ、淡く発毛したむき出しの陰部を、その下を埋め尽くす自身が排泄したものを見る。
 束になった前髪からぽたぽたと地に落ちる汗。わずかに向くだけで顔をしかめずにはいられない物凄い臭い。
 ドロドロのペーストに戻った、未消化のケーキが肛門から吐き散らかされていた。
 本当は、マリさんが自分の子供と食べるはずだったバースデーケーキだ。五歳の誕生日を祝って。

 どうしようもない恥ずかしさが未来の胸を焼いていた。
 鼓動がおさまらず、心臓が血で煮えて潰れそうだった。
 幸いにしてわずかに漏らした便は下着に届いていなかったが、救いにもならない。

 未来はしばらくのあいだ動けなかった。
 しかし、もし誰かにこの光景を見られたら、恥ずかしいどころの騒ぎではない。
 ポケットティッシュを開くと、未来はぬめりに包まれた尻と穴を拭い始めた。


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「あの……マリ、さん……」
 五分ほどして、未来はひどくしおらしい表情で茂みから出てきた。
 両手を前に重ねて歩き、悠貴と並んで石積みに座っていたマリさんにうつむきがちに話しかける。

「未来ちゃん、大丈夫?」
「あの……トイレは、どうしたら……」
 頬を真っ赤に染めて、消え入るような声でそうつぶやく。

「ああ、ごめんごめん! ちょっと待ってて」
 言うと、マリさんはポケットから残りが入った袋を取り出し、裏面を少し読むと、未来に渡した。
「この通りにすれば、中身をこぼさないで畳めるから。そしたらいっしょに入ってる黒いビニールに入れて」
 受け取り、裏に書かれた説明を読む。カエルの絵が折り畳み方をレクチャーしていた。
 未来は唇を震わせて、それをぎゅっとスカートの上に押し付けた。

「専用のゴミ箱が向こうにあったから。あとはそこに捨てたらおしまい」
 笑顔で人ごみの方を指す。未来は顔を上げなかった。
 わずかなのち、マリさんは神妙な表情をしてその側に顔を寄せた。

「……未来ちゃん、下着とかは大丈夫? 汚しちゃったりしてない?」
 そっと穏やかな声でささやく。未来は小さく首を振った。それを見てため息をつく。

「じゃあ、ここで待ってるから。いってらっしゃい」
 そして未来は再び奥へと走っていった。
 じっと自分を見つめる悠貴の方を、彼女は絶対に見なかった。
 もしいま目が合ったら、それだけで死んでしまいそうだった。


 茂みに近づくだけで、むわりと強烈な悪臭が漂ってくる。

 その源である携帯トイレを、未来は震える手で片し始めた。
 茶色くぬめり照る下痢便に触れないように、手元をじっと見てたたんでゆく。

 わずかにその場から離れただけなのに、自分の排泄物がひどく穢らわしく感じられ、見るのさえ嫌だった。
 ほんの十分前には疑いなく自分のおなかの中にあったものにもかかわらず。
 あまりのおぞましさに、未来は一瞬吐き気さえもよおした。

 慎重に袋に入れ、唇を噛み締めて何回も固結びをする。
 どっさりと重いそれを持ち上げると、後ろ手で隠して茂みから出る。


「未来ちゃん、足ふらふらだけど大丈夫? 代わりに捨ててきてあげようか?」
 戻ると、マリさんが心配そうな表情で寄ってきた。

「え……いいです……」
 袋をより後ろに隠しながら、難しい上目でつぶやく。

「でも、ゴミ箱まで遠いし、場所も分からないでしょう?」
「いえ……探しますから……」
 顔を背けながら、石積みの上にのぼる。
 次の瞬間、視界が青空になっていた。

「危ない!!」
 未来は不安定な石の上で足を滑らせていた。
 背中から落ちかけたその体と持つものを、マリさんがとっさに腕を伸ばして支える。

「はあっ、はあっ、はあっ!」
 石の上に座らせられると、未来は目に涙を浮かべ、肩を大きく震わせて息を継いだ。
 袋をぎゅっと握り締める。もし傍に彼女がいなかったら、おぞましいことになっていた。
「未来ちゃん、もう少し気をつけてよ!」
 さすがにマリさんが声を荒げる。少しして、未来は蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と謝った。

「大丈夫? どこかひねったりしなかった?」
「いえ……」
 袋を悠貴から見えない方に回しながら小さくつぶやく。

「ねえ未来ちゃん、やっぱり私が捨ててくるから、少しここで休んでいて」
 再びマリさんがそう言うと、未来は唇を押し合わせてうつむいた。足がガクガクと震えて言うことを聞かない。

「ね? 少し休憩した方がいいわ。それに、捨てるところ見られるの嫌でしょう?」
 未来は肩をぴくりと跳ねさせ顔を上げた。マリさんが優しい表情でじっと自分を見つめていた。
 頬にりんごのように赤くなり、眉が八の字に傾く。未来は唇を震わせた。マリさんはただ穏やかだった。

 十秒ほど、蝉の音だけが聞こえ続けた。

「……すみません……おねがい、します……」
 瞳を揺らしてうつむき、袋から手を離すと、そっとそれが持ち上げられる。

「すぐに戻ってくるからね」
 そう言って袋を隠すように持つと、マリさんは人ごみの方へと走っていった。
 小さくなってゆく黒いそれを、未来は切ない瞳で見つめ続けた。


「お姉ちゃん、おなか、まだいたいの……?」
 ずっと黙っていた悠貴が沈黙にたえきれず口を開くのと、マリさんが戻ってくるのは同時だった。

「ごめんね遅くなっちゃって!」
 ペットボトルを二本抱えて戻ってくる。

「はいお水。おなか壊したときはちゃんと水分補給しないと脱水症状になるからね」
「……ありがとうございます」
 ずっとうつむき続けていた顔を上げ、受け取り、未来はゆっくりと蓋を開けた。
「悠貴くんも。喉かわいたでしょ?」
「ありがとう!」
 横からも元気な声がする。

 さほど喉が渇いているつもりはなかったのに、飲み始めると止まらなくなった。
 大量に出してしまった水分が、喉から身体中に沁み渡ってゆく。
 光を浴びて輝く水滴。一息ついて唇から離したペットボトルを見つめ、未来は目に涙を浮かべていた。

「大きいゴミ箱の中に入れてきたから安心してね。もう大丈夫よ」
 傍に腰かけ、マリさんがそっとささやく。
「他にもいっぱい捨ててあったから。緊急時なんだから、何も恥ずかしいことじゃないからね」
 それを聞いて、ようやく未来は胸の揺れが収まる気がした。

「ごめんなさい。ありがとうございました」
 蓋をして頭を下げると、未来は目をつぶって大きくため息をついた。
 しばらくじっと止まり、目を開けたときには瞳から雲が晴れ、青い空がのぞいていた。

「向こうに井戸があるみたい。使えるらしいから、手を洗いにいきましょう」
 にっこりと微笑み、来た道の先を指差すマリさん。
 悠貴も蓋をするのを確認すると、三人はゆっくりと歩き始めた。

 途中、ちらりと悠貴を見つめた未来は、ほとんど同時に目が合った。
 すぐ傍を歩く小さな弟は、にっと口を広げ、無垢な笑顔を見せた。
 未来は怪訝な目をしてすぐに顔を背けた。しかし、嫌な気はしなかった。

 青銅色の、懐かしいデザインの水汲み器。
 キコキコと音を立ててマリさんがハンドルを動かすと、きらめく水が蛇口からいっぱいに溢れ出してきた。
 差し出した両手が冷たい水に覆われた瞬間、全てを洗い流すような爽快感が胸に満ちた。
 幼かったころのような笑顔で、ごしごしと手をこすり合わせる。

「あははははははっっ! あはっ!」
 未来は空の太陽のようなまぶしい笑顔で、身を躍らせて声を上げた。
 思いっきり振られた手から、勢いよく水しぶきが飛ぶ。
 マリさんと悠貴も、それを見て微笑しあった。

 それからしばらく、未来は遠い空の彼方を見つめた。

 パパやママや、マリさんの娘さんも、同じ空を見ているのだろうか。
 絶対に元気で帰ろうと、あらためて思った。


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