No.01「決壊」

<1> / 1 2 3 / Novel / Index

 秋の高速道路を、一台の観光バスが上りの方面へと走っていた。
 山を拓いて造られた一帯は冷たく空気が澄んでいたが、まだ一面の木々は濃い緑色を残している。
 白地にいくつかの原色で簡易な模様と会社名の英字が記されたそのバスは、遠足か合宿の帰りだろうか、窓の中には制服姿の生徒たちが隙間なく席を埋めているのが見えた。歳は中学生ほどで、男子と女子の交互に座っている車内は、まるでにぎやかな会話が外にまで溢れてきそうな風景だった。

 静かな車内に、車体のわずかに揺れる振動音だけが空気を擦るように響き続ける。
 バスの中は、外からは想像もできぬほどにしんとしていた。
 三泊四日にわたった移動教室からの帰路にある生徒たちは、開放感を見せようともせず、どこか気まずそうな表情で唇を閉ざして沈黙していた。ときおり心配げな、あるいはうわついた面持ちで背を伸ばして車内の前方を眺め込む者がいる。細切れに聞こえるひそひそ話だけが、ほとんど唯一の会話だった。

 最前から二列目の席で、真っ青な顔をした女子生徒が震えていた。
 中年の女性教師を挟んで、運転席のほぼ真後ろ。窓の外すら見えないほどに背を曲げて浮かし気味に尻を座席に乗せているその女生徒は、額を大粒の汗でいっぱいにして、止むことなく腹をさすっていた。
 黒髪を丁寧に結って三つ編みにした、本来は真面目な性格で知られるはっきりとした瞳を持つ少女だったが、今その眼はほとんど見えぬほどに細められ、情けなく歪んだ顔では苦悶の皺が波打っていた。しみ一つない真っ白なブラウスの腹部が、度重なる摩擦で痛ましく乱れている。隣の席では、髪を短く揃えたやはり優等生ふうな顔立ちの女生徒が、かつて見たことのない形相の友人を見守っていた。

  ギュルルルルルルル……グリュッ……!
 脂汗にまみれた手の下から情けない音色が響くと、彼女はいっそうその顔を醜く歪めた。
 眉間に幾重もの谷を刻んで目を固くつぶり、震える尻を椅子からわずかに宙へと浮かせる。血色の失せるほどに唇を激しく押し合わせ、数秒の後、鼻腔から音を立てて息を吐きながら姿勢と表情を元に戻す。

「先生……あと、どれぐらいですか……?」
 始終を見つめていた友人は、いてもたってもいられぬ様子で背を伸ばして前に座る教師へと問いかけた。
「もうあと五分もかからないはずよ」
 あくまで落ち着いた答えが、間を置かずに返ってくる。
「宮沢さん、あと少しだけだから、がんばって」
 友人が口を閉ざして再び座ると、今度は先生が腰を上げ後ろを向いて少女に言った。ベテランの教師らしく何気ない雰囲気だが、その表情にはやはり緊張の色も混ざっている。
 少女は顔を上げることなく、唇を固めたまま、ただ首をわずかにだけ動かした。

 彼女――宮沢加奈子は、猛烈な腹痛と便意……下痢に襲われていた。
 バスは、急遽停まることになった次のサービスエリアに向け、速度を上げて走行している最中であった。
 一女子の用便の為に停車する旨は事実をぼかして生徒たちに伝えられたが、彼女が親友の安川恵に付き添われて座席を先生のそばへ移動した時点ですでに噂は広がりだし、今や車内に事情を知らぬ者はいなかった。
 宮沢さんが、下痢が漏れそうなので緊急停車する……クラスメートたちは、普段の清潔で規律じみた彼女を思い浮かべ、この茶色いトラブルに困惑せずにはいられなかった。山里での移動教室から帰途にある、まったくありふれた中学二年生のそのクラスは、突如として爆発物を内に抱え込むことになってしまった。

  グウォォオゴロゴロゴロゴロゴ〜〜ッッ!!
 再びおぞましい音を立てて、加奈子の腹が窮まった排便欲求を訴える。
 彼女は椅子から尻を突き上げると、ついに両手をその下にすべり込ませ、全身を捻じ曲げて便意の波に悶絶した。いっそう深まった眉間の谷を幾筋も脂汗の川がつたわり、顎から泥のように落ちてゆく。青白んだ唇を絶え間なく揉み合わせ、ただひたすら一つの穴を閉じ続けることに意識を注ぐ。

「だめっ……加奈子……っ!」
 ふいに加奈子の眉が八に折れ、その体が軟らかく揺れだすと、とっさに恵は声を上げていた。
  ブゥピッ!
 同時に、押し重ねられた両手の底から、ひどく湿った破裂音が鳴り響いた。濃さ以外は下痢便そのものの強烈な臭いが辺りに広がる。放屁したのだ。
「……ごめんな……、さい……!」
  プーーーー! プリリリッ! ブッ!
 小刻みな放出音がさらに続く。全身を打ち震わせて加奈子は屁を繰り返した。
 脱糞にこそ至ってはいないものの、限界の二文字がそこにあった。すでに彼女が下痢を告白してから三十分近くが経っていた。我慢自体はどれほど前からしていたのか分からない。

 さなか恵は座席から立ち上がると、駆け足で運転席へと向かった。
「すみません、もう少しスピードって上げられないんですか?」
「ちょっとこれ以上は出せないんですよね〜」
 あわただしく発せられた問いに、男性の運転士がため息まじりに答える。さらに何か言おうとしたが、彼女はぐっと言葉をこらえてきびすを返した。

 席に戻ると、細めきった眼で正面を一点に睨みながら、狂おしく腹をなぐさめている加奈子の姿があった。
 座ると同時に再び危うい音が漏れ響く。痙攣を続ける足。見るに堪えぬほど苦しみに歪んだ顔。右手は尻の底に敷かれたままだ。
 さっき先生はあと五分と言ったが、それが今の彼女には五時間にも等しいことを知っている。無力な恵にただできるのは、バスが一秒でも早くサービスエリアに着き、彼女がトイレに間に合うことを祈るのみだった。
 ほどなくして、加奈子はうめきながらいっそう大量のガスを肛門から放出した。


<2> / 1 2 3 / Novel / Index

 それは、古びた小さなサービスエリアだった。
 ゆっくりと速度を落として敷地へ入ってゆくバスの窓から、色褪せたコンクリートの建物が見えた。昭和じみた字体の看板の下に、いくつかの自動販売機と、飾り気のないガラス戸の入り口が見える。戸は開け放たれていたが、内の様子はよく見えなかった。トイレらしき建物は見当たらず、どうやら中にあるらしい。

「着くわよ」
 先生が静かに口を開く。

 バスはちょうど入り口の正面で停止した。乾いた音を立ててドアが開く。
 いなや加奈子は跳ね上がり、恵と入れ替わっていた通路側の座席から鬼のような形相で飛び出した。
 激しく音を立ててステップを駆け下り、尻を抱えて建物の中へ転がり込んでゆく彼女の姿を、クラスメートたちはかたずを呑んで見送った。

 痙攣する肛門に両指を突き刺し、加奈子は無我夢中で建物の中を見渡した。
 土産物の並んだ棚や売店、調理場とカウンターが合わさった食堂――ありふれたサービスエリアの光景が視界に入る。理性の溶けた目で、加奈子はただその場所を示す文字なりマークなりを探した。調理場に立つ女性が怪訝なまなざしを向けてきたが、もはや恥も外聞もない。意識まるごと全てが肛門に向けられていた。

 建物の右突き当たりに奥への矢印と「お手洗い」という文字を見つけるや、彼女は一目散に突進した。
 目を回しながら文字の寸前に至ると、さらに左に折れた通路のいちばん奥に、二つ並んだ扉が見えた。片方の上には赤い人型が輝いていた。

  ブリブリブリブリブリブリブリブリブーーーーーーッッ!!!
 瞬間、吐息を溢れさせながら加奈子の肛門は決壊した。声にならぬ悲鳴を上げながら、彼女は両手で尻を覆ってトイレに向かって疾走した。
  ブブブブブボボボボボボボボボボボボボボボ!!
  ブリュリュリュリュビヂビヂビヂビヂビヂヂヂヂヂヂ!!
 全開になった肛門から、加奈子を苦しめていたものが物凄い勢いで排泄されてゆく。トイレのドアに手をかけると同時に、その足元に茶色い泥状の下痢便が勢いよく落下した。崩れる膝を必死に立てて重い金属製のドアを押し開けている間に、さらに彼女の足元には次から次へとドロドロの便が落下した。床を下痢まみれにしながらトイレの中へと這いずり込む。
  ブゥピッ!! グボゴボゴボゴボジュウウウーーーーッ!!
 左右合わせて四つの個室と、暗く狭い洗面台を備えた小さなトイレ。歪みきった視界に、地獄の中たえず思い描き続けてきた白い陶器が映り込む。便器にぶちまけているのと同じ勢いで下着の中に排便を続けながら、加奈子は途切れなく汚物のこぼれる尻を抱えて個室の中へと直進した。
  ボタッボタッボタボタボトトトト!! ベチャッッ!!
 またたく間に足元のタイルを泥だらけにしながら、加奈子は鍵を殴りかけ、便器をまたいだ。
 膝の力尽きるにまかせて崩れ込み、スカートを跳ね上げて下着をおろす。大量に垂れ落ちる汚物と共に、一面茶色に塗りつくされた、張りつめた稜線のみ元の姿をとどめた下痢便まみれの尻がむき出される。露わになった富士の形の肛門が、ついに願い焦がれた便器を捉える。
  グジュジュジュジュジュウゥ〜〜ッ!! ブィーーーーッ!!
 しかし、続けざまに放たれたのは、肛門の上で弾ける無数の泡と、単なる音にすぎなかった。……それきり、便器の上で尻はただ沈黙した。真っ赤に肥大した肛門だけが小刻みに開閉を続ける。もう、彼女の腸はその中身を出しきっていたのだ。手遅れだった。

「はあっはあっはあっっ!! はっぁぁあ……はあっ……、あーーーー……っ」
 視界を回転させながら、加奈子は眉をいっぱいにかたむけて全身を激しく跳ね揺れさせた。
 ――やってしまった。我慢することができなかった。下痢をぜんぶ漏らしてしまった。
 体中から滝のように流れ出す汗と共に、死に等しい後悔がわき上がって彼女の胸を張り裂けさせる。

「……どうすんのよ……、これっ……」
 やがて瞳が焦点を取り戻すと、加奈子は汗だくの顔を歪めて細い金切り声でつぶやいた。
 足元のタイルが見えないほどに打ち広がっている泥の海。がくがくと痙攣を続ける足も肌の見えぬほどに下痢にまみれ、純白だった靴下もくまなく黄土色に染まり、革靴の中にも便が流れ込んでいた。
 一面から立ち上る鼻腔の埋まるような悪臭にあえぎながら、さらに加奈子は自分の下半身をじっと見つめた。爆心地の尻が悪夢のような状態なのは言うまでもない。肛門から噴き放たれた泥は彼女の女性器をも飲み込んでいた。淡く咲いた陰唇の内にまで便が詰まり、陰毛も汚物とぐちゃぐちゃに絡み合っている。
 そして下着。しみ一つなかったその内は元の色を探すのも難しいほどに下痢便で溢れかえり、クロッチの左右のふちには遍くそれらの流れ出した跡があった。やまぬ足の痙攣に揺らされ、今もときおり中身がこぼれ落ちている。後ろ側はゴムの高さにまで大量の便が遡行していた。はっとして加奈子は体をねじると、ひっぱり出したブラウスの裾にまでべったりと下痢便が付着しているのを発見した。

 これではトイレットペーパーが十あっても処理しきれるか分からない。
 喉の奥を甲高く鳴らし、焼け爛れたため息を吐くと、加奈子は自身の作り出した惨状から逃れるかのように、前方の無機質な灰色のタイルへと目を移した。長きにわたって彼女の意識を飲み込んでいた悪魔が出され、加奈子の思考は皮肉にも元の聡明さを取り戻しつつあった。さなか、彼女の脳裏に、この結果を生み出した一連の原因が想起された。

 加奈子は、宿舎での四日間、一度も大便をしなかった。
 変なプライドが邪魔をして、人前でそうした行為をすることができなかったのだ。
 そして迎えた今日の朝、現地は九月とは思えぬほどの急激な冷え込みだった。寒気が身に沁み込み、加奈子は午前中のある時期から、腹部に違和感を抱き始めていた。そしてバスに乗る前の昼食に出た、氷のように冷たい牛乳。加奈子は迷いながらも飲み干した。……それがいけなかった。
 バスが走り出してからまもなく、締め付けられるような腹痛が始まった。同時に尻に圧迫感を覚えだし、みるみる内にそれは情けなさに満ちた欲求へと姿を変える。爆発的な勢いで押し寄せだす、熱く軟らかい質量。まさに腹の急降下だった。にぎやかなバスの中で、加奈子はひとり猛烈な下痢に苦しみ始めた。
 バスが高速に乗る頃には、加奈子はもうトイレのことしか考えられなくなっていた。狂おしく蠢き続ける腸。全身から噴き出す汗、青ざめる頬、減る口数。我慢。やがて背を曲げずにはいられなくなると、友人たちも次々と心配の言葉を口にし始めた。隣の席にやってきた恵に、ついに耳打ちで下痢をした旨を告白する。
 堪えがたい腹痛と便意に肛門が震え始める。まだ休憩までは一時間以上あった。加奈子が表情に苦悶を隠さなくなると、恵は制止を退けて先生のもとに彼女の下痢を伝えにいった。ほどなくして戻ってきた恵に連れられ、席を先生の後ろへと移動する。
 その後のことはあまりよく覚えていない。ただ、我慢。便意、我慢、便意、我慢。便意。そして……。

 顔をしかめきったまま、加奈子は大きく鼻をすすった。
 下痢便の海と化した眼下の光景。小さなトイレを埋め尽くし、外にまで溢れんばかりの強烈な悪臭。
 結局、腹の中にあった物のほとんどを、彼女は下着の中へ放ってしまったのである。受けとめるために存在している器を、そこまでもつことのできなかった肛門が空しく捉え続けていた。
 幾筋もの感情がわき上がるが、それはこの四日に摂った幾十もの食材が均一に泥と化している自身の排泄物のように、彼女の中でまとまりはつかなかった。

 よろめきながら腰を上げ、ペーパーホルダーへと手を伸ばす。
 ……そのときになって初めて加奈子は紙がないことに気がついた。個室の中を見回しても予備のロールらしきものは見当たらない。後ろの床に目をやったとき、彼女は自身のスカートの内からなおぽたぽたと便汁が落ち続けていることを知った。

 加奈子は姿勢を戻すと、唇をきゅっと固め、左右の手で両膝をえぐるように握りしめた。
 そうして静かに呼吸を繰り返しながら、全てを生み出した小さな穴を、ただひくつかせ続けた。


 五分ほど経った頃、軋んだ音を立てて、一つの気配が静かに女子トイレへと入ってきた。それはひどく慎重な足取りで進んでくると、加奈子のいる個室の前で立ち止まった。

「……加奈子……大丈夫……?」
 一呼吸おいて、恵の声が小さく聞こえた。
 大丈夫なわけがない……加奈子が下痢を我慢できず漏らしたことは一目瞭然である。しかし、他にかける言葉が思い浮かばないのだろう。下痢便まみれの尻を便器に向け続けながら、彼女はそんなことを考えた。
「ごめんなさい、間に合わなかった」
 きゅっと肛門をすぼませながら落ち着いた声で答える。
「……先生呼んでくるね」
 そう言うと、足音が小走りに個室の前を離れていった。


 ジャージ姿の加奈子がバスへと戻ったのは、彼女が飛び出していってからおよそ四十分後のことだった。
 うつむいて顔を上げず、ひどく小幅で歩くその姿は、彼女がしでかした大失敗を明白に物語っていた。だが、彼女を侮蔑したり嘲笑したりする者はクラスに一人もいなかった。
 それから学校へと帰り着くまで、車内はただ静かだった。ときおり明るい声での雑談やささやかな笑い声なども聞かれたが、一定以上に盛り上がることはなく、ほどなくしてしぼんでしまった。前方の席で唇を固く結んでうつむき続ける加奈子の隣では、恵がただじっと付き添っていた。

 バスは他の二クラスに大きく遅れ、窓から校舎が見えたときにはもう夕暮れになっていた。
 歓声の上げるなかバスはゆっくりと速度を落とし、そして校門の前の通りで停車した。
 そのときになって加奈子は大きな声を上げて泣きだした。ちらちらと男子たちが戸惑いの視線を送りながらバスを降りてゆく横で、幾人もの女子たちが彼女の傍らでなぐさめの言葉をかけた。下痢便のお漏らし。年ごろの少女にとって、あってはならなかったこと。大粒の涙を流して嗚咽する加奈子の波打つ背中を、恵も眉をかたむけてさすり続けていた。

 その日あった事件は、彼女たちのクラスでタブーとなった。
 それでも数日も経つ頃には学年中におおよそのことは知られていたが、他のクラスも含めて表立って話題に出す者はいなかった。ひと月もするとみな記憶の函に封じ込み、加奈子もまた整った美しい顔を上げ、その模範的な学校生活を再び謳歌するようになった。一年次から生徒会に所属していた彼女は次の会長選挙に出ることが予想されていたが、これが見送られたのはやむを得ないところだった。

 宮沢加奈子”腹痛”事件。一人の女生徒の身に起こった不運なトラブルは、そうして思い出から抹消された。


<3> / 1 2 3 / Novel / Index

 九月も半ばを過ぎたというのに、真夏のような暑さが続いている。
 まぶしい日光から遮られた校舎の昇降口で、加奈子は鞄をたずさえた両手を前で重ね、ひとり静かにたたずんでいた。その周りでは、下校してゆく生徒や部活に向かう生徒らが行き交っている。今週は二年生が移動教室なので、その分校舎はどこか静かだ。
 うだるような暑さで大粒の汗を流している者も少なくないが、加奈子は一筋の汗も流さず、ただそのはっきりとした瞳を廊下へと向け続けていた。その背筋はまっすぐに伸ばされ、革靴の踵も綺麗に合わさっている。しみ一つない真っ白なブラウスは、彼女の揺るぎない雰囲気とよく重なっていた。

「ごめーん、お待たせ!」
 ほどなくして、恵が手を振りながら階段を駆け下りてきた。
 一緒に帰る約束をしていたのだが、上履きを脱ぐ段になって急に彼女は忘れ物をしたと言って教室へと戻って行ってしまったのだ。
「時間かかっちゃってごめんね、結局ロッカーの奥に隠れててさ」
 あわただしく靴に履き替える恵の顔には、汗がびっしょりと浮かんでいた。加奈子は彼女の足元に目をやりながら簡単な言葉を返すと、すぐに顔を上げてそのわきに並んだ。そうして二人の少女はゆっくりと歩きだし昇降口から出ていった。

「恵、お腹の調子が悪いんでしょう」
 校舎から離れ、部活動の喧騒が途絶えたところで、加奈子は静かにそう言った。
「え!? ……どうして……」
 それまで勢いよく話を続けていた恵が、目を丸くして口をつぐむ。忘れ物をしたというのは嘘でしょうと加奈子は言ったのだ。……図星だった。彼女は教室ではなくトイレに行っていたのだった。だが、それに対して出た恵の表情は恥ずかしみの類ではなく、何か別のものだった。

「掃除中に何度かお腹に手を当てているのを見たから」
「あーー……」
 しまった、という顔をして恵は小さくため息をついた。
「……そこまで遠慮されちゃうと、逆に困るから」
「ごめん……そうだよね……」
 ある共通の記憶が二人の脳裏をよぎる。しかし、それは互いにすぐさま振り払われた。
「大丈夫? 無理して急いで来たんじゃないの?」
「ううん、もう平気。ちょっとお腹が痛かっただけだから。ありがとう」
 恵は昇降口を出てから初めて素直な気持ちで言葉をつむいだ。

「そういえば、もうすぐ三年生も修学旅行だね」
「そうね。そろそろ細かい下調べとかも始めたほうがいいのかな」
 そうして二人はまぶしい表情で会話を続け、真っ白な雲に彩られた青空の下を歩いていった。

 何らのトラブルもなく、修学旅行は彼女たちにとって最高の思い出となった。
 加奈子と恵は同じ高校に進学し、その後もずっと親友だった。消しえぬ過去を抱きながら、少女たちは大人へとなっていった。


- Back to Index -