No.02「蠕くもの」

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 いわゆる進学校でなくとも、不思議と学年に数人は妙に優秀な生徒が存在する。
 東京都下にあるその中堅女子高校でも、一人だけ極端に成績の良い生徒が在籍していた。

「安田さん、この間の模試で全国十六位だってさ」
「すごいねー。もう東大合格確定じゃん」
 昼休みの教室で、ユカはいつものように親友のマキと机を合わせて弁当を食べながら、”彼女”のことを噂していた。窓の外の季節はすっかり冬で、日に日に鋭さを増してゆく寒さが、試練の日の刻一刻とした接近を肌に知らせている。
「前回は八十位ぐらいだったらしいから、さらに上がってるんだよね。もう本当、別次元って感じ」
 彼女たちの通う高校は、その近辺にいくつも存在する私立女子校の中のありふれた一つだった。東大合格者は稀に出る程度で、ゼロの年がほとんどだった。
「毎日図書室で閉校時間まで勉強してるんでしょ? すごいよねえ」
 話しながら、二人はほぼ同時に食事を終え、弁当箱を包んで鞄に戻した。教室ではまだあちこちで生徒たちが食事を続けており、にぎやかな話し声が絶えることなく聞こえてくる。
「トイレいこっか?」
「うん」
 立ち上がり机を離すと、二人は喧騒の中をゆっくりと歩き、廊下へと出た。

「あ、噂をすれば……」
 マキが廊下の向こうに目をやり、ユカもそれに続く。
 見ると、ちょうど二人が噂していた秀才の安田智佳子が、彼女を慕う者らと共に廊下を歩いてきた。
 168センチという高い身長に、清潔に伸ばされた長い黒髪。知性を象徴するかのような銀縁の眼鏡の下では、才知に満ちた瞳がゆるぎなく正面を捉えている。その背筋はまっすぐに伸ばされ、同じブレザーの制服姿でありながら、彼女はまるで高級なスーツに身を包んでいるキャリアウーマンのようにさえ見えた。
 校内試験においても常に大差で学年のトップに君臨する彼女は、淡く笑みを浮かべながら唇を開いていても、なお圧倒される雰囲気があった。一分の隙間もない完璧な存在。鋼鉄のごとく強固で、いかなる困難に対しても不動を思わせる、確たる力強さがその全身には満ち溢れていた。ユカとマキの二人は名も無い背景のような女生徒として、ただ彼女に羨望のまなざしを送ることしかできなかった。
 後姿が隣の教室へと静かに消える。あれで体の肉付きまで良いのだからかなわない。

「そもそも、なんで彼女ってうちの高校に来たんだろ?」
 数拍置いて、ようやくユカは声を出せた。
「さあ〜……? 家から近かったからとか?」
「でも二十三区の方から電車乗り継いで通ってるって聞いたけど」
「う〜ん、まあ何か理由があるんでしょ」
 二人は他愛もない会話をしながら、同じように出入りする生徒らで混雑した女子トイレへと入っていった。


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 やがて年が明け、受験生にとって最初の関門であるセンター試験の日がやってきた。
 空気のひどく乾いた身震いするほどに凍える日で、ユカは数多くの厚着をした受験生たちにまぎれて、会場に入り試験に臨んだ。

 二日間の日程を終えた翌日の登校日、学校はある一つの噂話で持ち切りになっていた。
 その内容はかなり衝撃的なもので、初めて聞かされた者は誰もがその耳を疑った。しかしどうやら事実らしいと知ると、その強烈な印象を与える理由と結果を、すぐに別の誰かへと伝えずにはいられなかった。
 それは、安田さんがセンター試験で大失敗をしたというものだった。

「当日に緊張で、ひどい下痢しちゃったんだって……」
「うわー……気の毒……」
 休み時間の廊下で、ユカはマキと小声で話をしていた。
「同じ教室にいた娘の話だと、試験中に全部で六回トイレに行ったって。休み時間も全部トイレ」
「ひどいね……ピーピーじゃない……」
 あまりに痛ましい話に、ユカは他人事ながら自分も腹の痛むような寒気を覚えて身を縮めた。
 廊下には他にも何組か立ち話をしている生徒たちがいたが、みな重い表情で顔を近づけ、口元を隠したり押さえたりしながら、小声で会話を続けていた。
「……それで、肝心の点数は……?」
「足切り確定だって」
 ユカはもう言葉も出なかった。この世に、これほどまでになさけのない話があるのだろうか。体調管理の大切さは、確かに先生からうんざりするほど聞かされてきた。それでもこの結末はあんまりではないか。あれほど頭も良くて努力もしてきた人が……。

「あ……」
 ふいに、マキが短く小さな声を漏らした。
 はっとして彼女の視線を追うと、そこには安田さんが廊下を歩いてくる姿が見えた。
 他の生徒たちも気づいたようで、一斉に小声が止まる。そうしながら視線は一点に集中する。
 安田さんは、背を丸めうつむいて歩いていた。しかし、身長が高いので、その表情ははっきりと見えた。
 ……安田さんはげっそりとやつれた顔で、眉を大きく八の字にかたむけ、唇を押し合わせて歪めていた。その様は、まるでひどい食中りか何かでトイレに篭もり、憔悴しきって出てきた者かのようだった。重く伏せられたその眼は、一度も上げられることがなかった。
 にぎりしめた両手を無意識に下腹へ押し付けながら、ユカは通り過ぎる彼女のスカートを、そこに浮かんでいる二つの丸い形をつい見つめた。そこが二十四時間前の今ごろには火の車だったという事実が、それでもなおユカには想像することができなかった。
 安田さんの後姿が教室に消えてから、ユカはようやく、彼女のそばに誰もいなかったことを認識した。

「私たちも気をつけなくちゃね」
「そうだね……」
 無言で教室に戻り、椅子に座ってやっと二人は再び口を開いた。
「……下痢ピーで落ちるなんて、かっこ悪すぎるもの……」
「うん……」
 低く吐き捨てるようなマキの言葉に、ユカはかすかなささくれを覚えながらも相槌を打った。見ると、マキは唇をきゅっと固め、何か穢らわしい物を目にしたあとのような、それでいて、大切な何かを失ったかのような哀しげな顔で遠くの景色を眺めていた。
 その横顔が目に焼きついた。薄暗い冬の日で、窓の外には一面灰色の雲が空を覆って広がっていた。

 安田さんは、結局その年はどこの大学にも行かなかった。
 それまで三年間にわたって皆勤だったにもかかわらず、彼女は卒業式を欠席した。


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 大学一年生にも別れの近づいた小春日和、ユカは安田さんが東大に受かったことを知らされた。

 本当に良かったよ。安心したね――。数日後、久しぶりに会ったマキとの会話は、ほとんどその内容に終始した。心から嬉しそうなマキの笑顔を見ながら、実際、ユカは胸のつかえが取れた気がした。やっと高校生活が本当に終わって、心身ともに大学生になれたような気がした。

 それからだいぶ年月が経って、ユカは安田さんと中学校で同級生だったという女性と知己を得た。
 安田さんは中学時代もやはりものすごく勉強ができて、入学してから卒業するまで一度も学年トップの座を譲らなかったとのことだった。高校時代のことを話すと、同じね、と女性は笑った。が、それから急に表情を重くして、妙に続きを言いづらげに口をつぐんだ。でもね……。
 下痢で高校受験全滅。中学三年生だった彼女の身に起こったことを聞いた瞬間、ユカは飲んでいた紅茶を落としそうになった。
 急に汚い話になってごめんなさいね、と女性は謝った。周りからの大きすぎる期待で潰れてしまったみたい。結局、遠い親類が理事をやっている私立の高校があって、そこに親が内申書や模試の成績を見せ、ほとんど裏口に近い形で入学することができたとのことだった。

 センター試験のことを話すと、今度は相手が先にユカが見せたのと同じ顔で絶句した。
 中学のときのトラウマが甦ったのかもしれないわね、とややあって女性は言った。あるいは、そういう精神的性質があるのかもしれない――。けれど、とにかく最終的には克服できたみたいで良かったと彼女は微笑んだ。ユカも同意し、その辺りで安田さんの話はおしまいとなった。

 安田さんは大学卒業後、数年間だけ名の知れた会社に勤めたが、すぐに結婚して退職したそうだった。
 そうして今では娘にも恵まれ、専業主婦として穏やかな日々を送っているらしい。


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