No.03「出し尽くすまで」

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 教室の、街を望むがわ一面にはめられた窓ガラス。
 その先には様々な色や形の家屋が並び、田畑を交えて彼方に見える山嶺へと続いている。
 ストーブで暖められた空気と一月の外気を隔てるそれは、綺麗に磨かれて内へと昼の陽光を透している。

 とある地方都市の小学校。五年一組の教室に、その日も大きな挨拶がこだました。

「ねえ、のぞみちゃん……」
 芯のある落ち着いた声で唱和し、小さく手を合わせて給食を食べ始めた少女に、隣の席の生徒がもじもじしながら声をかけた。
「どうしたの?」
 短く切り揃えられた髪を真ん中で清潔に分けているその少女は、口にした食パンを飲みこむと、まっすぐに背筋を伸ばした姿勢のまま横を向いた。凛々しく整っているその顔立ちは、クラス委員という彼女の立場によく似合っていた。
「あのね、わたし、カボチャきらいで……よかったらかわりに食べてくれないかなあ」
 人並だが愛らしさのある顔を伏せ、同級生は申し訳なさそうにささやいた。その瞳に映る小皿には、カボチャの煮つけがたっぷりと盛られている。

「あやちゃん、だめよ、好き嫌いしたら」
 頼まれた少女――花川望実は、大きくはっきりとした瞳で相手を見つめ、そっと諭すように答えた。
「ごめんね……でも、カボチャだけはどうしてもダメで……」
 同級生は心底困った表情で、なお嘆願するように望実の顔をじっと見つめた。
「うーん……。じゃあ、今回だけね。早く苦手じゃなくなるといいね」
「わあっ、ありがとうー! 助かったー」
 小さくため息をついて答えた望実に、同級生は抑えながらも声を跳ねさせ、小皿をすばやく手渡した。
 ほとんど常に給食を残さず食べきる望実は、その日も二人分のカボチャを含めたすべての料理を完食した。


「花川さん、ひさびさにバスケやらない?」
 昼休み、女子で集まって談笑している望実の前へ、ふいに男子生徒がやってきてそう尋ねた。

「え、いいけど……。でも、どうしよう?」
「今日は二組のやつが二人もかぜで休んじゃっててさ、人数が足りないんだ。頼むよ」
 仲の良い友達どうしで、今日は何をして過ごそうか相談している最中のことであった。
 ややとまどった顔で望実が振り返ると、意外にも彼女たちはその誘いに前向きのようだった。
「たまにはいいんじゃない?」
「二学期の授業のときみたいにやっつけちゃえ」
「じゃあ、私たち、のぞみちゃんのこと応援しよっか!」
 さきほどカボチャを押し付けた広沢綾音が上機嫌で身を跳ねさせ、長い栗色の髪を揺れさせる。
 望実は白いブラウスに、小さな花柄が胸に刺繍された淡い水色のカーディガンを重ね、下は膝まであるデニムのハーフパンツを穿いていた。身のこなしも大丈夫そうだ。

「うん、じゃあ、やる」
「よっし! もうメンバー集まってるから、急いで来て!」
 望実が笑顔で答えると、男子生徒はそう言って、走って教室から出ていった。
 その場で軽く体をかがめて膝を伸ばし、ハーフパンツの折り返しに縫い付けられている小さなレースをそっとなぞると、望実も女子らと共に校庭へ向かった。

「なんで花川なんか連れてきたんだよ!?」
「ひまそうだったから……」
 場所に着くと、グループの中央にいた目つきの鋭い男子がいなや大きく声を荒げた。
 望実は動揺した様子もなく、大きな瞳で男子の顔をまっすぐに見つめた。同時に彼もにらみ返した。
「わざわざ来たのに失礼ね。また負かされるのがこわいのかしら?」
 瞳をそらすことなく、望実は両手を腰に当てて強者の格好をし、少しだけ唇をとがらせた。
「そんなんじゃねーよ!! なんかおまえやたら小賢しいテクばっか使うからやっててむかつくんだよ!」
 負けじとにらみ続けながら、威圧するように男子はいっそう大きく声をあげた。
 彼は教師やクラス委員に従わないことで有名な生徒だった。運動が得意で体も大きかったため、それでも強い求心力を持っていたが、二学期の体育の授業で望実にバスケットボールで惨敗し、面目を潰されていた。昨年の秋に十一歳の誕生日を迎えたころから望実は急に身長が伸びだし、今では目に見えて彼女のほうが背も高くなっていた。

「まあまあ、あれからオレたちはずっとバスケやってたんだしさ、今回はいけるだろ」
 別の男子生徒が間に入ると、そうやく二人は互いへの視線を外した。
「そうだな。よし、時間がもったいないからやろうぜ。とうぜん俺とこいつは敵な。みてろよこのデカ女」
 気を取り直して宣言すると、彼は再び望実をにらみつけて思いっきり中指を突き立てた。
「やだー!」
「意味わかってんのかしら、あのバカ」
 女子が赤面して小さく悲鳴を上げる。望実も顔をしかめながらかすかに頬に色を差させたが、すぐに「ふん」と言ってそっぽを向いた。
 試合はすぐに始まった。


 望実の放ったシュートが音もなくゴールに刺さるや、女子たちから大きな歓声がわき起こった。
 校庭の端にあるバスケットゴールを使用して始められた三人対三人の試合。開始から二十分が経とうとしている今、その勝敗はもはや決していた。
 二桁の点差をつけて望実のチームの大勝だった。件の男子は接近戦にこだわり、やたらとドリブルでゴールに突っ込もうとし続けたが、ことごとく望実に止められてしまっていた。動きが単純なため隙をついてボールを取られたり、パスをしようとしても、ほとんどを先に読まれてカットされた。後半になると体ごとぶつかっていくような荒いプレイも目立ちだしたが、望実は力においても彼に劣ることはなかった。

「やばい、もう昼休み終わっちゃう」
 ボールを拾った生徒が校舎を見上げてあわてて言った。

「今日はここまでかな……」
 誰かがそうつぶやくと、とたんに試合の熱気は冷め、解散の雰囲気となった。
「授業の前にちゃんと手を洗っておきたいから、もうわたし戻ってもいい?」
 小さく息をつくと、望実は周囲の男子に尋ねた。大活躍のわりに彼女の様子は涼しげで、分けられた前髪からのぞく額に、かろうじて小さな汗の雫が見てとれる程度だった。彼女の問いに、男子たちは一人を除いて口々に同意やねぎらいの言葉をかけた。
「今日は誘ってくれてありがとう。すごく楽しかった。わたしでもよかったら、また誘ってね」
 両手をハーフパンツの上で重ねてほほえみ、そう言いながら、望実の視界は汗だくでうつむいて肩を上下させている者のもとへと向かっていた。言い終わるやその顔が鋭く上がると、望実は軽やかに瞳を閉じ、一瞬だけ舌先を出してみせた。すぐさま振り返り、いつしか十名近い数になっていた女子たちのもとへ歩き始める。

「すごかったねー! おつかれさまー!」
「のぞみちゃんスポーツもできてすごいよねえ」
「のぞみん最強!」
「えへへ、ありがとう」
 集まったクラスメートから次々に称賛と感嘆の声が送られる。望実は頬をほころばせながら、手を高く上げた綾音と瑞々しい音をさせてハイタッチを交わした。
「くそ、調子のんなブス!!」
 その背中に、力いっぱいの罵声が投げつけられる。
「なあに? わたしたちってもうすぐ六年生になるのに、そんな負け惜しみしか言えないの?」
 ため息をついて振り向くと、露骨に軽蔑の表情を作りながら望実は言った。
「うっせーブス! ブスブスブスブスブス」
「時間ないから行きましょ。二学期のときからぜんぜん上手くなってないし、才能ないんじゃない?」
 顔を戻すと、望実はもはや振り返ることなく、つんとした表情で歩きだした。まわりの女子たちも小馬鹿にした顔つきで、笑いあったり目線だけ後ろに送ったりなどしながら、華やかに彼女のあとへ続いた。綾音が後ろを振り向いて「バーカ」と言った。

「でか女! 給食のとき広沢からカボチャの煮つけ奪ったの知ってるぞ! 大食い女! カボチャ女!!」
 支離滅裂に至った罵倒にお腹を抱えて子供らしく笑いあいながら、望実たちは校舎の中へと入っていった。


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「じゃ、またねー」
「さようなら。また明日ね」
 元気に揺れる二つの赤いランドセル。
 近所に住む友達と手を振って別れると、望実は自宅の門を開けて内へ入った。
 広く見通しの良い道路に面した、築十年ほどの落ち着いた佇まいの一軒家である。

「ただいま」
「おかえりなさい、今日はどうだった?」
 玄関で靴を脱ぐと、居間からよく似た顔立ちの母親が出てきておだやかにたずねた。
「掃除のときに、西丘君たちがふざけて注意しても聞いてくれなくて大変だった。昼休みにバスケットボールで試合して負けたのを根に持たれたみたい」
「あらあら、たいへんだったわね」
 笑いながら母は居間へと戻っていった。

 洗面所で石鹸を使って丁寧に手を洗いうがいをすると、望実は二階にある自分の部屋へと入った。
 その異性じみた短い髪に反して、彼女の部屋は赤やピンクの暖色が配され、棚の上にはぬいぐるみなども置かれている、ありふれた女子のそれだった。しかし全体の色合いは歳のわりに落ち着いていて、友人たちのものよりも機能的に整理されていた。
 ランドセルを下ろして中身を出すと、望実はすぐに机に向かって算数の宿題を解き始めた。十分ほどで見直しも含めてそれを終えると、時間割を見ながら翌日の教材をランドセルに詰め、赤い布製のペンケースと背に数字のシールが貼られた本だけを手に、机のわきにかけてあるリュックサックを持ち上げた。
 明るいピンク色の生地で、所々にハートや花形のフェルトが貼られた使い古しのリュックに、図書室で借りてきた『小学生から学ぶ日本国憲法』という本とペンケースを入れると、望実はそれを手にして部屋を出た。

「今日も塾の前に少し食べていくの?」
「うん、途中でお腹すいちゃうから。おねがいします」
「じゃあ待っていてね」
 居間に入ると、望実は母に間食の準備を頼み、食卓についた。
 望実は自転車で十分ほどの所にある個人経営の学習塾に通っていた。県内の名門進学校を退職した先生が一人で全教科を教えてくれる塾で、小規模ながらそのレベルは高かった。五年生のクラスはすでに小学校の範囲の学習を終え、思考力を鍛える独自の問題に向かっていた。小さな自習室もあり、授業時間の前でも先生が質問に答えてくれる。望実はそこで本を読むつもりだった。

「はい、どうぞ。今日は望実の好きなカレーパンね」
「わあっ、うれしい。いただきまーす」
 香ばしい香りを放つカレーパンとホットミルクがテーブルに並べられると、望実は嬉しそうに目を輝かせて両手を合わせ、幸福に満ちた顔で食事を始めた。

「西丘君が掃除のときにふざけて大変だったんだって?」
 ごちそうさまでしたと両手を合わせたところで、母が台所から戻ってきた。
「そーお。アイツわたしのことをデカ女とか大食い女とか言ってつっかかってくるの。もうぜんぜん掃除にならなくて……六年になったら違うクラスにしてほしいぐらいうざい」
「昔は仲良かったのにねえ」
 唇をとがらせる娘をほほえましく見つめながら母は言った。二人の家は歩いて一分もかからない距離で、昔は一緒に登下校することも珍しくなかった。
「だってアイツ精神年齢が三年生ぐらいで止まってるんだもん。子供すぎてもう付き合ってらんない」
「今はそういう時期なのよ」
「えー、なにそれ」
「ほら、今日も友香ちゃんと一緒に行くんでしょ」
 くすくすと笑いながら言う母の言葉が釈然としなかったが、望実は小さくうなずくと居間を出た。

「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 落ち着いた赤色のダッフルコートを身に着けて玄関を出て、自転車のかごにリュックをのせると、望実は元気に冬の道路へと走り出していった。


「毎日、がんばっている成果ね」
 遅めの夕食をとる望実の向かいで、母は嬉しそうに一枚の紙を眺めていた。
 それは全問書き取り式の漢字テストで、全ての答えが引き締まった楷書で正確に記され、その全てに赤い丸がついていた。右下には百の数字と称賛のコメントが付されている。
 前回の授業で行われて今日返却された小学校全範囲の漢字テスト。多くの生徒が八割以上の点数を取ったが、満点は望実ひとりだった。
「えへへ……満点はちょっとできすぎだけどね」
 ナポリタンのスパゲッティーを食べながら、望実は気恥ずかしそうにはにかんだ。
 わきには母の手作りのコーンスープが入っていたカップと、色彩やかにきらきらと輝いている海草のサラダが並べられている。

 食事を終えたところで、ちょうど父親が帰ってきた。
 隣県の国立大学を卒業し地元の大手企業に勤めている彼は、答案を見せられると、百点とそれ以外とでは数字以上に大きい差があると話し、望実の日々の努力を心からほめてくれた。
「望実はお母さんに似て美人だし、手間もかからなくて本当に良い子だな」
 彼はそう言って、望実の頭を幾度となくなでた。
「もう、やめてよお父さんったら……こんな小さい子にするみたいなこと」
 望実は恥ずかしげに頬を染めながら、珍しく年相応にその瞳を無邪気に細めさせた。
「望実、お風呂わいたから、先に入っちゃいなさい」
「はーい」
 そこに母がやって来た。望実は食器を台所へ片付けると、テストをそっと抱いて二階へと走っていった。


 清潔好きの望実にとって、毎晩の入浴は絶対に欠かすことのできない時間である。
 この日は昼休みに汗をかいたこともあり、望実はいっそう入念に体中を洗った。背こそ高いが彼女の体はまだ薄く、裸になるとかえって細さが際立った。発毛もなく、その体は人形のようにきめの細かな乳色で、湯を浴びると水あめを塗ったかのごとく照り輝いた。

 風呂を出てパジャマを着ると、望実は鏡に向かってドライヤーで髪を丁寧に乾かしながら櫛を入れた。
 そして塾の復習を終え、寝る準備もすませると、彼女は机の引き出しから日記帳を取り出した。
 ページを開けて日付を記し、今日あったできごとを書きこんでゆく。昼休みのこと、掃除中のこと、塾で返されたテストが百点だったこと――。四年生になったとき、先生の奨めでクラス中がいっせいに日記を書き始めたが、学年が終わるとき続けていたのは望実だけだった。学級会で表彰され、そのまま今日まで継続している。

 望実の座右の銘は努力だった。
 ひとたびある事柄を正しいと信じたら、自分に妥協することなく突き詰めて反復する。
 今日返ってきたテストも、彼女が格別に優秀な記憶力を持っているからではなく、他の生徒よりも数倍書き取りの勉強を繰り返した結果だった。昼休みのバスケットボールも、多くの生徒が持っているだけの体育の教科書にしっかりと目を通し、テクニックや心構えを体得していたことが役立った。

「よしっ」
 書き終えると、望実は日記帳を机に戻した。時計は十一時を指している。あとは寝るだけだ。

 しかし望実は椅子に座ったまま、唇を固め大きい瞳でぼんやりと前を見つめた。
 その清らかな体を真新しいジュニアパジャマが包んでいる。白に一滴ばかりの淡い桜色が差した生地で、襟と袖口だけが明るいピンクで縁取られている。一週間前に母と買い物に行ったとき、清潔感のあるデザインが気に入って買ってもらったものだった。
『調子のんなブス!!』
 あれから何十回と再生されてきた言葉が、望実の脳裏に響きわたる。
 望実は小さいふくらみの片方にそっと右手をあてた。試合のとき、彼の腕が一度だけそこにぶつかった。強い痛みを覚えたが、彼女は奥歯を噛みしめて表には出さなかった。

 やがて立ち上がり明かりを消すと、望実は静かにベッドへと横たわって眠りについた。


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 望実は毎朝七時前に起床する。
 目覚まし時計は七時に設定してあるが、それよりも少し前にいつも自然と目が覚める。
 カーテンを開け、歯を磨いて顔を洗い、寝癖があれば直して髪を整え、着替えて一階に下りて朝食の準備を手伝う。食後にトイレをすませると、八時には学校に到着する。以後はクラス委員の仕事か読書だ。

 その日、望実は五時半ば過ぎに目を覚ました。
 部屋の中はいまだ深い闇に包まれ、普通ならばすぐにまた眠りへと落ちるような時間だった。

「う……」
 だが、望実の意識は覚醒へと向かった。眉間に皺を寄せ、よどんだ眼で小さくうめく。額にしばらく手を当てていた彼女は、やがて起伏の薄い身体の面にけわしくその平を這わせだした。

「……やだ……どうしたんだろ……」
 瞳をせばめ、顔をしかめながら、重い吐息まじりに望実は細い声でつぶやいた。
 低からぬ発熱と共に、かつて経験したことのないおぞましい異変が彼女の内に沸き起こっていた。波の上で絶え間なく揺らされているかのような、ひどく不快な臓器の感覚。胃が蠢き、強い吐き気がこみ上げてくる。身ぶるいのする寒気もあり、冷えた下腹がするどく締め付けられるかのように緊張していた。具合がおかしい。お腹が張って、気持ちが悪い――。

 望実はせつなく目をつぶると、嘆くようにため息をついた。
 自身の健康に強い自負のある彼女は、とつじょ乱れた己の体調を咎めずにはいられなかった。望実は三年生から皆勤で、一度の欠席や遅刻・早退もすることなく今日へと至っていた。低学年のときも風邪による欠席がわずかにあった程度だった。
 望実は目覚まし時計の鈍く光る数字で現在の時刻を確認した。もう眠気は完全に消えていた。得体の知れない不調だが、活動を始める七時までには、なんとか落ち着かせなければならない。唇を固めて決意しながら、望実は布団の中で自分の体を静かに抱いた。


 暗闇の中に苦しげなうなり声が聞こえだすまでに、そう時間はかからなかった。

「ううっ……ふっっ……」
 小刻みに揺れ続ける布団。
 望実は真っ青な顔で大量の脂汗を額に浮かべ、体を丸め込んで震えていた。
 胃がたまらなくムカムカする。熱も上がってめまいがし、寒気が際限なく強まってゆく。
  グウッ……キュウウゥゥ……
 布団の中にある彼女の両手は、固く握り締められてそのへその下をえぐっていた。
 気味が悪く張りつめていた下腹は、いつしか執拗な圧迫をともなう激しい疼きに満ちていた。何か異常な力によって押し込まれているかのようで、へそが背に貼り付くがごとき悪寒を彼女に与えていた。

「くっ……、ぅぅぅーーーー……っ……」
 本格的に体調を崩した。お腹の具合がどうしようもなく変だ。
 内臓が万力に挟まれているような感じがする。へこむ下腹に圧されて、すっぱい汁が口の中まで上ってくる。にじみ出る汗で体中がぬるぬるする。全身が空焚きのように熱く、それでいて氷を抱くがごとくに凍えている。眉を深く歪めて形相をねじ曲げながら、望実は歯を野卑にむき出して噛み締めさえもした。
 輝かしい健康に充ちていた肉体の、服毒じみた調子の崩落。闇に沈んだ静寂の中で、望実はひたすらに悶絶を続けた。必死の拒絶に反して苦しみの膨張は止まず、彼女の中をはち切れんばかりに蝕んでゆく。

 ほどなくして、望実は肩をにわかに動かし始めた。
 彼女の生活のように規則正しい静かな動きは、だんだんとその速度を高めていった。


 望実が激しい吐息と共に身を起こしたのは、六時まぢかのことだった。
 わずかに前からひどく情けない表情で身をねじりだしていた彼女は、荒々しく布団をのけると、時刻を確認しつつベッドから一気に足を降ろした。赤い肉の見えないほどに唇を内へと揉み込み、刃物に貫かれたかのように背を折り曲げて腹を抱える。しかめきった顔で、彼女は足早に歩きだした。

 身震いのするほどに空気の冷えた、薄暗い真冬の朝の廊下。窓からのぞく空はまだ藍色だ。
 望実は静かに自室の戸を閉めると、すぐ向かいにあるドアを舐めるようにじっと見つめた。しかし顔を背けると横にある階段を下り始めた。

 暗く静まり返った一階に、熱く重い呼吸が響く。
 下りた望実は直角近くまで背をかたむけ、両手で尻を包んで玄関の脇にあるドアへと向かった。

 小走りで中へと入りドアを閉める。
 すばやく施錠すると、望実は歪みきった顔でこれから自分が座るものを見下ろした。すみずみまで綺麗に磨かれて手入れされ、温かげな薄桃色のカバーに飾られた白い便器。
 灼けた息を溢れさせ、パジャマをつかんで純白のショーツごと膝の下までずり下ろす。固く閉じた性器と張りつめた下半身がむき出されるや、上衣をたくしあげて座り込む。汗だくの尻が便器の中へと突き出され、肛門が清冽な水面の上に固定される。

「んふっっ……っ!!」
  ブリブリブリブリブリブリブリブリブボッッ!!!
  ブチャボチャブチャブチャブチャブチャボチャッ!!
 次の瞬間、それは始まった。大噴火する火山のごとき勢いで未熟な丸みの底から土石流が噴出する。
 巨大な音を鳴り響かせ、ドロドロに溶けた粥状の排泄物が裂けんばかりに押し広げられた肛門から便器の中へとぶちまけられる。
「ふううぅぅぅ……ううっ……!」
  ビチビチビチビチビチビチビチビチビチッ!!
  ブオッ!! ドポポブピピピピピピピブビッッ!!
  ビイイィィボチャボチャボチャチャチャチャボチャ!!
 望実は、腹を壊したのだ。下腹の圧迫が狂おしい腹痛と便意に変じたのは、ほぼ同時のことであった。
 またたく間に茶色で埋め尽くされた便器の中へ、下りきった尻から止むことなく下痢便が注がれ続ける。それらは泥に埋まった水面に激突してはね返り、直上の肌へおぞましい感覚を付着させる。だが肛門の噴射は止まらない。眉間に皺をえぐり込んで全身を激しく波打たせながら、望実はただ肉体の暴駆にのみ支配されていた。
「っ、ふ……っっ!!」
  ブーーーーーーーーーーッッ!!!
 おびただしいガスの放出と共に、彼女の肛門は排泄を止めた。だが、望実の顔にはわずかの安堵も浮かぶことはなかった。両腕を腹にめり込ませながら、危ういまでに青ざめた顔で、滝のように脂汗を流し続ける。真っ赤に膨らみ隆起している肛門も、水面に向かってあえぐように収縮を繰り返している。
 たちまち、強烈な悪臭が便器の中から溢れ始めた。腐った卵のようなひどい臭いが、窓の閉ざされた狭い個室の中に充満する。むせ返らんばかりのそれは、乱れた呼吸を通じて望実の胸にもいっぱいに流れ込んだ。眉を深くかたむけ目を押しつぶりながら、望実は唇を不体裁に揉み合わせだした。

「うーーーーーーっっ!!」
  ドボボボボボボボボボボボオオオーーーーッッ!!
  ブボッドポポポポポポポッ!! ブピピピピピピピ!!
 べちゃべちゃに汚れた尻の底から、再びその内容物が猛烈な勢いで瀉出される。望実の細い手足は痙攣を始めていた。体中の内臓を悪魔に揉みしだかれているかのような、極限的苦しみ。熱病のごとく身を震わせて悶えながら、望実はその意識をぐるぐると回転させだすに至っていた。

「げえぇえっぷ!!」
 突然、望実は尋常ならざる音を喉の奥から溢れさせた。
「う!! ぐうっっ!!」
 全身をこわばらせてまぶたを押し開け獣じみた瞳で視界を捉えると、いなや彼女は凄まじい勢いでトイレットペーパーを巻き取り始めた。めちゃくちゃにまとめたそれを肛門に押し付けながら身を便座から跳ね上げさせると、彼女は一瞬のうちに翻りつつ膝を折り便器の前にしゃがみ込んだ。
「げぶぉおおおおおおおおおおおーーーーーーっっ!!!」
  ボチャボチャボチャボチャボチャーーーーーーッ!!
 瞬間、望実は嘔吐した。全開になった唇から大量の汚物が便器の中へと盛大に噴出する。
「げえええええええええええええおおっっ!!」
  ビチャビチャボチャベチャビチャベヂャッボチャッ!!
 物凄い悪臭を間近に浴びながら、体中を痙攣させ、顔を皺だらけにして望実はさらに膨大な量の吐瀉物をぶちまけた。蠢き狂う体内から押し上げられた濁流が、茶色の渦に激突して水面をおびただしくかき回す。

「げっっほっ!! おっうええぇぇぇっ!!」
 涙を溢れさせてえずきながら、望実は己が生み出した光景を意に反して瞳に捉えた。
 肛門から放たれた下痢便の海は、ドロドロに溶けて元の食事の形は分からない。ただ、カレーパンに入っていた赤いニンジンと、濃い緑色をしたカボチャの皮ははっきりそれとわかった。後者はやはり量が多い。便器の縁にまで飛び散った汁とともに、鮮やかなかけらもいたるところに貼り付いていた。
 ぐちゃぐちゃにそれらと混ざり合った吐瀉物は、細切れになったスパゲッティーが主だった。濃い橙色の液に漬かり、咀嚼された肉類やピーマンにコーンの粒、種々の海草が無秩序に浮かんでいる。崩れかけてはいるが、下から出たものよりは、食卓に並んでいたときの姿をかえっておぞましく留めていた。
 ……悪夢のような光景。便器を埋め尽くしている全てのものは、彼女が恵みに感謝し、味わいながら食べたものである。猛烈な悪臭を放っている一面の汚物は、憐れな望実にいっそう烈しい衝動を沸き起こさせた。

「おおええええええええええええええぇぇ!!」
  ビヂャアアアアアアアアアァァーーーーーーーーッ!!
 苦しみの業火に脳を焼かれながら、望実は押し出された唇から先にもまさる量の内容物を噴射させた。
 汗だくの尻をむき出したまま、出口を向けていた場所に入口を突き出し、歪みきった形相で食事をもどすその様は、彼女の人生最低の姿であるに疑いなかった。

「げーーーーーーえええええええぇぇぇえっっ!!!」
  ビチャベチャボチャブウウウウウウーーウウーーッッ!!!
 続けざまに嘔吐しながら、極まった腹圧によって望実は壮絶に放屁した。地獄。ただ、地獄だった。混濁した意識の中、あいつにだけはこのことを知られたくないという想いのみが、結晶のように望実の深くできらめいていた。


<4> / 1 2 3 4 5 6 / Novel / Index

 水洗の音が響くなか、げっそりとやつれた顔で望実はトイレの中からよろめいて外に出た。
 その瞳はうつろなまでに細められ、唇はぼんやりと開いている。昨日の朝以来に口に入れたものを全て下水へと流したらしき顔だった。背を押し曲げて腹を抱えたまま洗面所に行き、操られた人形のごとく手を洗ってうがいをすると、彼女は這うようにして階段を上っていった。

 ふらついた足取りで、望実は倒れるようにベッドの上へと転がり込んだ。
 すがるように布団を引き寄せ、疲弊しきった細い身体を丸め込むと、重く深い吐息が自然と漏れた。
 時刻は六時を半近くまで回っていた。入口と出口――唇と肛門から、幾度その中身を水面へとほとばしらせたのか覚えていない。どれだけ出しても、彼女の苦しみは少しも和らぐことはなかった。止まぬ腹痛と吐き気に悶絶し、ひたすらに肛門を便器へと向け続ける。彼女がトイレを出たのは、体が楽になったのではなく、一度横にならないと気を失いかねないという恐怖からだった。

「うううう〜〜うぅ……ぐ、ぅうううううっ……」
  グウウウウゥゥ〜〜ッ……ギュウウウオオォッ……
 トイレで何十分もの間そうしていたように、望実は真っ青な顔で目を固くつぶり、なさけなさに満ちた腹を必死になぐさめ続けた。パジャマをじっとりと湿らせてなお噴き出し続ける脂汗。布団の外に裸でいるかのごとく体が震え、めまいも治まらない。
 ピーピーという言葉さえ生ぬるい壮絶な下痢。これほどまでにひどく腹を下したのは、彼女の人生で初めてのことだった。今までは、多少緩くなることが数度あった程度で、それも三年生以降は一切なかった。嘔吐をしたのも、小学校に上がってからは、四年生の夏に家族旅行中のバスで酔ってしまったときのみだ。
 破滅的な不調にあえぐ彼女の目には、トイレで見たおぞましい光景が焼きついていた。何か悪い食べ物にでも中ったのだろうかと、望実は回らない頭で考えた。それとも……。いずれにせよ、今日の遅刻か欠席は確定だ。悔しく情けないことで、家族や友達らに心配をさせるのも嫌だが、無理に出席でもしたらそれ以上の事態になりかねない。望実はきゅっと唇を噛み締めた。

「……またきた……っ……!」
 さなか、望実は体を鋭く硬直させた。
 切なく薄目を開くと、深い皺を眉根に寄せつつ身を起こす。唇を内に揉み込みながら重い布団を押し払うと、脱力する体をベッドから下へ急いで降ろす。足に力が入らず、彼女はしゃがみ込んでしまった。その底に押し寄せる感覚は完全に水で、わずかでも気を抜いたら漏らしさえしてしまいそうだった。両手で腹を抱え込んで背を丸め、おぼつかない内股で足早に外へと向かう。
 一階まではとうてい間に合いそうになかった。慌しく正面のトイレに飛び込むと、望実は着衣をつかみ下ろして肛門を便器へと突き出した。

「ふうううぅぅぅっ!!」
  ビュジュウオオオオオオオーーーーーーーーッッ!!!
 いなや、液状の下痢便が物凄い勢いでほとばしった。下りきって完全に形を失った黄土色の水流が、おびただしく水面を撃ち貫く。
「あぁぁぁぁぁ……はあっ……っ」
  ジョボッ!! ジュボボボボボボボボボボボッ!!
  チュボボボバッ!! ボチョチョチョチョチョッ!!
  ビジューーーーゥゥゥウブビビビビビビビブビッッ!!
 具のないスープカレーのようになった水面に、汗だくの尻から次々と水便が注ぎ込まれる。
 暴力的な腹圧で下し続ける彼女の尻は、まるで水鉄砲そのものだった。悪魔にねぶられたかのように濡れた尻から中身が吐き出されるたび、わずかに浮いた未消化物のかけらが水の中を揺れ回る。
 望実は両腕のめり込んだ腹をべっこりとへこませ、杭に貫かれたかのごとく悶絶していた。もういやだという心の嘆きも届かず、繰り返される地獄の瀉出が、そのたびに彼女の体力をえぐり流す。打ち震える華奢な身体。かたむききった眉の下でまわる瞳が、苦しみの渦に満たされる。

「おぇええええええええぇぇーーーーーーっっ!!!」
  ビチャビチャビチャビチャビシャーーーーーーッ!!
 突然、望実は体中の筋肉を跳ね上げさせながら嘔吐した。胃液とも見分けのつかぬ橙色の汁が、押し出された唇から足元へ一直線に撒き散らされる。極限のさなか起きた内臓の劇的な転覆は、彼女に予兆を認識する間すらも与えなかった。
「げほおっっ!! おぶうえええぇぇええっ!!」
  ベチャベチャボチャ!! ボタボタボタボタボタッ!!
 大粒の涙と鼻水をこぼしながら、望実は激しくえずき、全身を痙攣させながら嘔吐を続けた。
 氾濫する吐瀉物は膝下までおろされたパジャマと下着、床のマットを直撃していた。なお混ざっている咀嚼物が布に溢れ、取り返しのつかない域までおぞましい色がしみ込んでゆく。だが、どうしようもなかった。

「はあっっ、ああっぁぁあ、っげっ……っ!!」
  ゴギュオオオオオオオォォォ〜〜〜〜ッ!!
 肩を膝に押し付けて唾を垂らしながら、望実は崩れるように背中を波打たせて息を継いだ。
 その間にも彼女の肛門は猛烈に隆起を続けている。苦しみに冒されつくした消化器官は、もはやその中を空にするためにのみ機能していた。生まれて初めて、もう死にたいとさえ望実は感じた。

「うえええぇぇええええええぇぇぇえーーーーっっ!!!」
  ジョボボボボボボボオオォーーーー!! ブーーッッ!!!
 ついに望実は上下から同時にその内容物を噴出させた。下痢の方が音が太く、吐く声のほかは飲み込まれた。肛門と声帯の慟哭じみた振動――未熟な肉体による痛ましい吐き下しの物音は、閉ざされたトイレのドアから闇の薄れだした廊下へ、その後も幾度となく響き続けた。


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「望実、どうしたの? 具合が悪いの?」
 えずいても出てくるものが枯れたころ、静かで優しいノックと声が聞こえた。

「おかあさん……わたし、ノロウイルスにかかっちゃったかもしれない……」
 やがて尻を拭い水を流すと、望実はトイレのドアを開くことなく、そうつぶやいた。
「え? ほんとうに?」
「うん……一時間ぐらい前からすごいゲリで、気持ちも悪くて……」
「大変。今も具合が悪いの?」
「うん、まだ……あのね、さっき一階のトイレでもしたから、気をつけて。すごく感染しやすいから」
「分かったわ。入った後に手をしっかり洗えばいいのよね?」
「……うん……」
 にわかに沈黙が生じた。
 トイレの中で、望実は揉み込んだ唇を震わせながら、ぐちゃぐちゃになったパジャマと下着を見つめていた。包むことのできない未熟な陰部が、トイレの冷気に痛ましく晒されている。真っ赤に腫れ上がって震えている肛門も同様だった。

「大丈夫? まだ出られなさそう?」
 しばらくして再び母の声が聞こえると、望実は喉を小さく鳴らし、口を開いた。
「お母さん……ごめんなさい……パジャマ、だめにしちゃった……」
「……漏らしちゃった?」
「ううん……、吐いちゃったの、ゲロ、」
「……かわいそうに……汚しちゃったのね。だいじょうぶ。具合が悪いときは仕方ないわ」
 望実は眉を大きくかたむけて二度三度としゃくり上げると、とうとう喉を震わせて泣きだした。

「なんだ、どうしたんだ?」
「望実がね、お腹の具合が悪いんですって……」
 ドアの外から落ち着いた両親の会話が聞こえてくる。露わになった肉体も相まり、泣きじゃくる望実の姿は、普段からは考えられもしないほど子供じみて見えた。嗚咽が収まるまでには、思いのほか時間を要した。


 望実はその日、判断の余地なく学校を欠席した。
 真っ青な顔で部屋とトイレを尽きることなく往復し、エチケット袋をつかみながら便器へと座り続ける。疲弊しきった肛門はその距離ですら危うく、下着を汚してしまってからは母の生理用品を借用した。枕のそばには洗面器を置いてもらい、極限時に使用した。脱水症状を防ぐため温めたポカリスエットを繰り返し飲んだが、それさえもすぐに便器へと出してしまった。

 午後になるとわずかだが下痢の回数が減ったので、母の車で近所の小児科へ急いで行った。
 中へ入ると、同じ小学校の子供たちが何人も来ていて驚いた。みな青ざめた顔で、苦しげに腹をさすり、トイレを出入りしたりなどしていた。
 その中に、望実は綾音の姿を発見した。だが、げっそりと頬のこけた彼女は望実と同じかそれ以上に具合が悪そうで、話しかけても生気のない生返事が返ってくるのみだった。そうしてすぐに慌しくトイレの中へと消えてしまった。

 どの子も激しい下痢や嘔吐の症状で、ノロウイルスの集団感染の疑いがあると先生は話した。望実のしっかりとした受け答えを中年の看護婦がほめてくれた。専用の検査キットで調べてもらうと、やはり望実はノロウイルスに感染していた。
 仮に給食等が原因の感染だとすると、手洗いをしっかりしていても意味がない……。説明を受けているところで望実はひどくもよおし、診察室を抜けてトイレに走った。だが三つある女子用の個室は全て使用中で、激しい下痢の音が絶えることなく響いていた。強烈な臭いが漂い、さらに四年生ほどの少女が歯をくいしばって両手で肛門を押さえ膝を屈伸させていた。
 だめだと思いトイレを出ようとしたところで水洗が聞こえ、個室の中から綾音が真っ青な顔で出てきて、待っていた母親に抱きかかえられた。同時に少女が飛び込んでいき、赤い使用中のしるしが再び浮かぶや凄まじい排泄の音が轟いた。
 底の抜けた状態にある望実にそこまでの我慢はできない。診察室に駆け戻って事情を伝えると、携帯トイレがあるので奥の部屋ですますよう勧められた。とまどう望実の前で看護婦が棚の引き出しからすばやくそれを取り出して組み立てる。もはや断る猶予もなかった。診察室と同じ形のベッドが置かれた小さな部屋の隅で、望実はしゃがみ込んで尻を出し、羞恥に悶えながら慣れぬ器の内へと水便を注ぎ込んだ。
 待合室に戻ると、綾音がげえげえ言いながら若い看護婦が持つ紙袋へと嘔吐していた。大粒の涙を流しながら波打つ背中を母親にさすられているその姿に、望実は声をかけることもできなかった。帰りの車内で気持ちが悪くなり、望実もエチケット袋へ勢いよく嘔吐した。

 帰宅後も望実は寝るまで部屋とトイレの往復を繰り返した。
 夜になって、自分の住む地域で小学生が大量に欠席してニュースになっていると母から知らされ、望実はよろめきながらベッドから降りてテレビをつけた。
 十二の小学校で、合わせて九百人以上の児童が下痢や嘔吐などの症状を訴え、学校を欠席――。アナウンサーが報じたのち画面に映しだされたのは、他でもない、彼女が日々通っている小学校だった。見入りだすや、再び読み上げられた症状が自身の内臓に沸き起こった。望実はテレビを消す間もなくトイレへと駆け込んだ。
 翌日の朝、目を覚ました望実は下着の内がどっさりと重くなっていることを発見した。慣れない手つきで中身を見ると、溢れんばかりの水分がしみ込んでいた。依然として登校は不可能な状態だったが、望実はすでに学校がしばらく閉鎖になったことを聞かされていた。
 やがて吐き気は落ち着いたが下痢はおさまらず、望実は部屋とトイレを往復する生活を週明けまで強いられることとなった。執拗を極めた下痢の症状に、望実は歴史の本で読んだことのあるコレラという恐ろしい病を連想した。日記に続く「げり」の文字。そのあいだ望実は風呂にすら入れず、食事もわずかな流動物と水分補給のみで、数日間で彼女の体重は四キロ減った。
 その後はようやく腹の具合も回復へと向かったが、学校は閉鎖されたままで、望実の疲弊した身体もなお安静を求めていた。塾も大事を取って欠席した。彼女の生活がようやく日常を取り戻したのは、その週の半ばをすぎてからだった。

 ノロウイルスの感染による、市内複数の小学校にわたる集団食中毒。
 それが望実たちの身に起こった災厄の原因だった。給食として教室に並んだ食パンの一部に、製造工場でウイルスが付着していたのだ。それを食べてしまった児童たちが、猛烈な食中りに見舞われたのである。望実もその中の一人だった。
 望実は、自分がノロウイルスというものに感染することになるとは思ってもいなかった。そして何より、自分の体がこれほどまでに言うことを聞かなくなるとは思わなかった。両親に移らなかったことだけが、悪夢のような日々を過ごした彼女にとって唯一の救いだった。


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「途中で大変なこともありましたが、みなさんが無事に学年を終えられて先生はとても嬉しいです」
 五年生の最終日、大掃除を終えた帰りの会で、担任の女性教師が五年一組の生徒たちに向かっていた。
 それを聞く望実たちの机の上には通知表が並んでいた。こっそりと中身を見たり、友人同士でにやつきながら見せ合っている者もいる。背筋を伸ばして真剣な表情で先生の話に耳を傾けている望実の成績は、全ての教科でAだった。

「最後に、皆勤賞の表彰です。この一年間、一度の欠席や遅刻・早退もなく、全部の授業に出席した花川さんに贈られます。今年、一組での皆勤は花川さんだけです」
 続いて先生がそう発表すると、クラスのあちこちから称賛の声が聞こえだした。
「なお、花川さんは一月十六日に学校を休んでいますが、この日は三時間目で下校になったので、学級閉鎖扱いになっています。なので、欠席日数には含まれていません。それでは、花川望実さん」
「はい」
 事前に説明を受けていた望実は、名前を呼ばれるや力強い声でまっすぐに立ち上がった。そのまま前を見すえて進み、教壇の前で手指を伸ばして姿勢を正した。
「出席番号二十一番、花川望実さん。あなたは日々の健康維持と自己管理に努め、第五学年すべての日程に休むことなく出席しましたので、これを賞します。おめでとう」
「ありがとうございます」
 望実は賞状を受け取ると深く礼をした。同時に拍手がわき起こった。

「のぞみちゃん、おめでとう」
「ありがとう」
 席に戻った望実を後ろの席の綾音が祝福する。望実はほほえみながら着席した。

「なんだかずりーよな。本当はその日ピーピーで休んだくせに」
「ちょっと何よそれ!? サイテー!!」
 突然ななめ後ろから声がかけられるや、望実は頬を真っ赤にした。同時に綾音も燃えるように赤面し、声の主をにらみつけた。
「はいはい静かに! これで帰りの会を終わります。最後の号令はクラス委員の花川さん、お願いします」
「……あ……はい!」
 あわてて賞状を置くと、望実は再び姿勢を正した。

「起立! 気をつけ、礼!」
 清らかに澄んだ声が教室に響きわたる。望実が別れの挨拶を告げると、元気の良い斉唱がそれに続いた。

「……女の子相手に信じらんない。一回死んだほうがいいんじゃない?」
「事実を言ってるだけじゃねーか。そういえば広沢も感染してたんだっけ?」
「わたしはただのかぜ!!」
 着席した望実は唇をとがらせながら黙々と賞状を丸めてランドセルにしまいこんだ。それをする彼女の脳裏には、二ヶ月前の記憶がよみがえっていた。
 望実が部屋とトイレの往復を繰り返していた二日目の夕方に、いきなり”彼”が見舞いに来たのだった。しかし望実はトイレで行為の真っ最中であり、それを母から婉曲的に告げられると帰っていった。翌日もまた同じ時間に来たが、同様の事情で望実は出られず、申し訳なく思った母からより具体的に理由を告げられると、ほとんど無言で帰っていった。それきり彼は来なくなった。――その事実を望実が母から伝えられたのは、学校が再開する前日のことであった。

「あ〜もうむかつく! ねえ、のぞみちゃんもなんか文句いいなよ!」
「図星だから黙ってんだろ。大食いだからそのぶんゲリもすごかったんだろうな」
 望実はうつむいて二人の口論を聞いていたが、ふいに派手な音をさせて立ち上がると、つかつかと彼のもとへ歩み寄った。
「な、なんだよ……やるのか」
 吐息が触れるにまで近づき、真顔で相手を見つめおろす。望実はこの二ヶ月の間にも順調に背が伸び続けており、二人の身長はいっそう差が開いていた。心臓が幾度か鳴るあいだ、両者は視線を押し付けあった。望実がまとう甘い洗剤の匂いは、相手にはないものであった。

「こども」
 ふいにささやくと、望実は思いっきり首をそむけ、頬を染めたまま席に戻った。

「行きましょ」
 ランドセルをすばやく背負い、呆然としていた綾音に声をかける。
「えっ? なになに? もういいの?」
 あわてて綾音が尋ねるも、すでに望実は廊下へ向かって歩きだしていた。
「おいなんだとこのデカ女! ちょっと背が伸びたからって調子のってんじゃねーぞ! 逃げんな!!」
 一呼吸遅れて始まった大声にいっさい反応することなく、望実は教室の外へと出ていった。

「ねえ、のぞみちゃん今あいつになんて言ったの?」
「ないしょ」
 胸を張って足早に進む望実に、追いついた綾音が質問する。しかし望実は取り合わず歩き続けた。
「え〜何それ気になる〜! どんなすごいこと言ったんだろう?」
 望実は腹を抱えて笑いだした。そして踊るようにつま先を跳ねさせると、綾音の手をつかんで走りだした。

「いいの走って!?」
「だってほら、追っかけてくる」
 綾音がふりかえると、教室から飛び出てくる彼の姿が確認できた。
 びっくりして顔を戻し、駆けながら彼女はさらに気づいた。望実は大きな瞳をまぶしいほどに輝かせ、真っ白な歯を夢のようにきらめかせていた。

 青空を望む廊下の窓から春の陽光が注ぎこみ、生徒たちをやわらかく照らしていた。
 一年の終わりを告げる鐘が鳴る。開かれた窓の一つからあたたかな風が流れこみ、二人の髪をなびかせた。


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