No.05「遍在する色(後編)」

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 穏やかな郊外の街に、その小学校はあった。
 ありふれた家並みが窓の外に広がる教室では、それぞれに三時間目の授業が進められていた。
 そうした中で、何らかの事情だろうか、自習をしているクラスがあった。黒板にはその旨がはっきりとした字で書かれているが、教員は席を外しており、教室の雰囲気は休み時間のごとき様相を呈していた。

「え〜〜、それほんと!?」
「ほんとほんと、きのう二組の子が見たんだって」
「やだーー!」
 窓際の席で、三人の女子が楽しげにおしゃべりを交わしていた。
 前後の椅子を向かい合わせ、遠くから来た一人がしゃがんで机に腕を乗せている。隣にいたであろう男子もよそで話すためか、その席を空けていた。
 教室の壁には「4年3組」の文字が散見された。まだ一桁の歳でさえありうる彼女らは、上級生であれどその容姿やふるまいに幼さを残していた。

「そういえば、けっきょくかなちゃん来ないね」
「だいじょうぶかなあ……」
 途中で、話はふいに向きを変えた。三人の視線が、同じ列の最前にある席へと注がれる。その机は椅子が押し込まれたままで、中には一冊の教科書も入れられていなかった。

「朝、そんなに熱はなかったんだよね?」
「うん、おばさんが三十七度ぐらいって言ってた」
「じゃあ上がったのかな?」
 どうやら、友達が一人欠席しているらしい。三人はその身を案じ始めた。

「……えっと、実はね……」
「え?」
「なになに?」
 後ろの机に座っている女子が、唐突に口ごもる。他の二人は不思議そうにその顔をのぞき込んだ。彼女はやや思い悩んだ様子で、すばやく周囲を見回した。
「これ、みんなにはないしょね。実は、かなちゃん、すごいおなかこわしてるんだって」
「ええーーっ……!」
 彼女が口元に手を添えてささやくと、前方の女子が交わした両手で口元を覆って声を上げた。突然の理由に、その顔を恥ずかしげに浮つかせる。
「そうだったんだ。……じゃあ、ピーピー……?」
「来れないみたいだし、たぶん……」
「わ〜〜……かわいそう……」
 しゃがんでいる女子が尋ねつつ頬を染めると、他の二人もつられたように赤面した。
「かなちゃん、あした誕生日なのにね……」
「うん、早くなおるといいんだけど……」
 話しながら、彼女たちは漠然と窓の外へと目をやった。
 そのとき、初老の女性教師がプリントの束を抱えて教室へと入ってきた。

「はい、静かに。席に戻って。ちょうど時間が空いたので、明日の予定だったアンケートを配ります」
 言うが早いか、先生は教卓で手早く紙の束を分け始めた。
「じゃあ、またあとでね」
「うん。またね」
 一人が立ち上がって席に向かい、前の席の女子も椅子の向きを元に戻す。隣の机にも男子が戻り、教室はすぐに静かになった。
 アンケートの内容は、一日の勉強時間や読書習慣などのありふれたものであった。丸い字で埋めながら、後ろの女子は再び窓の外へと目をやった。教室は三階で、緑の多い住宅街の風景が遠くまで見渡せた。視界の見切れるまぎわに、公園でもあるのか、木々の多く集まっている箇所があった。そこを、彼女はせつない眼差しで見つめていた。

「はあっ……うぅ……っ!」
  ジョボッッ!! ジュボボボボボッ!!
 水面へと突き出された汗だくの尻から、黄土色の水流が間欠泉のように注ぎ込まれる。

「……くっ……、んふっっ……!」
  チュオオオオォッ!! ドポポポポポッ!!
 その出元は前ではなく底だった。苦しげに蠢く淡い桜色の肛門から、次々とまとまった水が吐き出される。
 二つの丸みにより蓋のされた洋式便器。便座に下半球をめり込ませたその尻はまだ幼く、性器は一すじの線だった。きめ細かな肌色でつるつるの双球はむき卵のようである。それがひどい下痢を起こしていた。

  ピーーッ……ゴロゴロゴロゴロゴロ……
「はあああぁぁ……っ……」
 三時間目の教室と同じ時刻の、閑静な住宅街の中にある一軒家。
 その少女は真っ青な顔で、大粒の汗を流しながら便器へと座りこんでいた。
 桃色のパジャマに包まれた華奢な体が、ぶるぶると震えている。その背中は苦しげに折り曲げられ、こわばった右手が止むことなく下腹をさすっている。
 彼女は栗色の髪を背まで伸ばした、いかにも女の子らしい、あどけのない容姿をしていた。大きく澄んだ瞳は愛らしく、ふくよかな頬はわた雪のように無垢である。その顔が今は重苦しく歪み、眉は深い八の字にねじれている。トイレ中に漂う、腐った卵のような臭い。完全に下していた。

「……んふっっ!!」
  ブーーーーーーーーッッ!!
 顔中の肉をけわしく固めながら、少女は再び下半身を力ませた。
 その肛門が便座に埋まって見えずとも、放たれたものが鮮明に分かる音だった。
「っむ、ふうっ……!」
  ボチョチョチョチョチョチョチョチョ!!
  ボピッッ!! チョボボボボボボボボボッ!!
 小さい唇を押し合わせ、口元になさけなく皺を浮かべながら、彼女は続けざまに茶色い音色を溢れさせた。
 びくびくと揺れる身体に合わさって、とろけた水音が汗に蒸れた股の下から漏れ響く。

  グリュグリュグリュグリュグゥ〜〜〜〜ッ……!
「はふ〜〜ぅぅぅう……」
 汗にまみれて悶絶を繰り返す彼女は、おなかを壊したという表現を絵に描いたような姿だった。
 どれほど可愛いらしさに満ちた存在であっても、下痢をしたらやることは他の誰とも同じである。
 そのパジャマの下は、白いショーツごと乱雑に乱れて細いくるぶしまで下ろされていた。轟く腹をなぐさめながら、彼女は泣きそうな顔で膝を激しくこすり合わせた。

「んんんんふっ!!」
  ブーーーーーーゥゥゥゥウウウウウウウッッ!!
 尻と水面、そして陶器に覆われた不浄の空間。再びそこに巨大な放出音が響きわたる。赤い粘膜の見えるほどにめくれ返った肛門から、無数の飛沫が噴出する。
 放屁すると肛門はせつなくすぼまり、息苦しそうに収縮した。尻肉をつたい落ちる汗と直腸からにじむ汁が肛門で揉み合わされ、ぽたぽたと雫になって落下する。ほどなく新しい滝がそのすべてを押し流した。


 どれほどの時間が経ったか、少女は目を重く伏せながらその尻を拭いていた。
 ぬぐうのではなく、トイレットペーパーを肛門に押し付けるだけの雑な拭き方であった。彼女の顔は憔悴しており、丁寧に拭く気力がないようにも見えた。
 ほとんど水だったためか、少ない紙で始末は終わった。中腰で下衣を引き上げ、脂を塗ったようにべったりと汗ばんだ尻を、彼女は可憐なショーツの中へそっと戻した。

「うう〜〜……ひどいゲリ……」
 身を返し、便器の中へと目をやるや、少女は顔をしかめてつぶやいた。
 つい前まで大便のなされていた水面には、しかし、形のあるものはほとんどなかった。ただ水が濁った黄土色に染まり、赤いニンジンのかけらや、黒ずんだ繊維のようなものがわずかに浮かんでいるのみである。完全な水便だった。

  ゴウウウゥゥゥゥウウ〜〜〜〜ッ
 腹をさすりながら、少女は己の尻が吐いたものをおびえるような眼で見つめ続けた。
 水面の周りにはおびただしく汁がはね、陶器のかなり高くにも黄土色と無残なかけらが貼り付いている。
 かなりの量の下痢を出したにもかかわらず、彼女の顔は真っ青なままだった。その鼻腔に、酸味をおびた病的な臭いがまとわりつくように上ってくる。

「うっ……っ!」
 眉を急峻にかたむけ口元をすぼめると、彼女はあわててレバーへと手を伸ばした。

「佳菜、おなかの調子はどう?」
 響く水洗と共に少女がよろめきつつトイレから出ると、ちょうど母親が階段を上がってきていた。
「ピーピー……。おしりからおしっこしてるみたい……」
 腹に手を当てながら、少女はよどんだ声で答えた。その頬は心なしかやつれていた。
「困ったわねえ……。もう少し落ち着かないとお医者さんにも行けないわね」
「うん……まだおなかも痛いし、うちにいたい……」
 彼女は、その顔立ちどおりに素直でおだやかな性格をしていた。
 洗面所に立ち、手に水をかけるのみで力なくタオルへと押し付けると、彼女は背を丸めてうつむきながら自室に戻った。

 暖色に彩られた室内は、カーテンが半分ほど閉ざされ、やや薄暗く陽差していた。
 可愛いらしい小物やぬいぐるみが棚に並ぶ、描いたように女の子らしい部屋だった。白い本棚には色とりどりの少女漫画や雑誌、図鑑などが入っている。赤いランドセルは学習机にかけられたままだった。
 少女は中ほどにある小さいテーブルの前へ膝を抱えてしゃがみ込むと、ぎこちない動きで置かれていたポカリスエットのボトルをコップに向けた。半分ほどそそぎ、身を縮めながらゆっくりと口にする。その横には、カタカナの品名に下痢止めの文字が添えられた紙箱が、いくつか開けられた錠剤のシートと共に置かれていた。

 飲み終えると少女は腰を曲げきったまま身を起こし、膝に手を突きながら歩き、倒れるようにしてベッドへと横たわった。髪が乱れるのもかまわず枕に頭をこすり付け、ぬいぐるみと同じような動物の柄の布団をおぼつかなく引き寄せる。

  グルルルル……キュウゥゥッ……
「はぁっ……ぁ……っ」
 布団ごと体を丸め込み、弱々しく目を細めながら、少女は腹をさすり続けた。いくつもの純粋な瞳が、下痢をした主の姿を見つめていた。
 部屋はまだ新しく、澄んだ木の香りがやわらかな洗剤や石鹸の匂いと溶け合って満ちていた。甘く清らかで、トイレにこもっていた臭気とは対極そのものの空気だった。窓の外には緑が多く見えていた。隣に公園があるからだ。秋の陽におだやかに照らされた木々は、少しずつ色を変えだしながら揺れていた。

「もう、三時間目なんだ……」
 あてどなく視界に入った時計を眺めながら、少女はせつなげにつぶやいた。
 時刻はちょうど午前十一時になるところで、三時間目が始まってから十五分ほどが過ぎていた。


  ゴロゴロゴオオォォ〜〜……!
「ぅぅぅぅう……む……っ」
 十分も経たず、少女は再び苦しげに顔を歪め始めた。
 額に脂汗が浮かび、小さな身体が震えだす。眉根を寄せてまぶたと唇を押し合わせ、腹をさする手の動きを速めてゆく。

  グゥゥゥウウウウゥ〜〜〜〜ッ!
「……く、う〜〜〜〜っ……」
 どれほどになだめても、彼女の表情は苦しみを増してゆくばかりだった。
 どこまでも女の子らしい室内に、一縷の余地もなく不似合いなぬかるんだ音色が響きわたる。
 愛らしさに満ちた小さな部屋は、彼女の空間であると同時に彼女そのものでもあった。一点の曇りもなく無垢をたたえた女子小学生。排泄という行為から最もかけ離れた、妖精のような顔と身体。それが今は、疑いなく、体調を崩して大便を繰り返す症状に見舞われている……。

  ギュルッ!! ゴグウウウッッ!!
「っっトイレ……っ……!!」
 あっという間に、彼女は眉をかたむけきって身を起こした。
 おびただしい吐息と共に、尻をかばいながらあわただしく布団をのける。背を曲げきったままベッドから飛び降りると、腹を抱え込んで彼女は駆けるように歩きだした。

「佳菜!?」
 ドアを勢いよく開けると、様子を見にきたのか、母がすぐ先に立っていた。
「またトイレ?」
 首だけをかすかに下げながら、そのわきを変わらぬ速度ですり抜ける。彼女の部屋からトイレまでは、十歩もかからない距離であった。

「ママ、やだからちょっとむこう行っててっ!」
 トイレのノブをつかみつつ、少女は振り返って足ぶみをしながら叫んだ。大きな瞳を泣きそうに広げながら、切実をきわめた様で訴える。
「え……?」
 戸惑った母の顔を尻目に、彼女はトイレへと飛び込んだ。
 荒々しくドアを閉めるなり水を流し、彼女は足ぶみを続けながら下着ごと一気にパジャマをずり下げた。すぐさま身をひるがえし、むき出された尻を便器へと突き出して座り込む。

「ふうぅぅぅっ!!」
  ジョボボボボボボボブビビビビビビッッ!!!
 いなやひどい下痢の音が始まった。最大を逃した水洗の音色は、まったく彼女の望む役割を果たさなかった。満たされた水槽の上で蛇口を全開にしたような轟音が、トイレ中の空気を振動させる。
  ブーーーーーーーーーーッッ!!!
 間髪いれず巨大な放出音が鳴り響く。明らかに、廊下にまで溢れ出している音だった。
「くっっ、ふ! んんんんんっ!」
  ブビイイイイイイィィッッ!!
  ジュボボボボポポポポ!! チュオオオオオォォォ!!
 顔の肉を押し曲げて腹を激しくへこませながら、少女は嘔吐するような様で排便を続けた。
 派手に痙攣する細い足。痛ましいまでに震える小さな身体。下りきったその音は完全な水である。憐れな彼女の肛門は、その腸と同じほどに意の届くことなく動いていた。
「ふ〜〜〜〜っっ!!」
  ブウウウウウウウウウウウゥゥーーーーーーーーッッ!!!
 顔をはち切れんばかりに赤めながら、少女は猛烈に放屁した。その盛大な音は、廊下はもちろん、わずかに開かれた窓の外の公園にまで響きわたらんばかりだった。悪夢のようにピーピーな、水便とおならの狂奏曲。人形じみた彼女の未熟な肉体は、どうしようもないほどに下痢をしていた。

 算数のドリルを一区切り終えたところで、その女子は背をそらせて息をついた。
 漠然と教室を眺めると、みな静かに本を読んだり教材に取り組んだりしている。時計を見ると、まだ休み時間まではだいぶある。おもむろに頬杖をつくと、彼女は久方ぶりに窓の外へと目をやった。視界の端に小さく連なる清らかな緑色。それを彼女はしばらくの間ぼんやりと眺めていた。


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 その中学校は、のどかな地方の町に建っていた。
 絵に描いたような田舎で、中心部こそ家屋が集っているが、少し離れると景色の多くは田畑である。四方はすべて山で、彼方に深い緑の壁がある。三階を超す建物はほとんどなく、澄みきった広い空の下、町外れを穏やかな河川が流れている。――そんな風景が、丘の上にある教室の窓からは見渡せた。

 三時間目の中ほどにあるその教室では、英会話の授業が行われていた。
 六人の班ごとに机を合わせ、生徒たちが楽しげに言葉を交わしている。その一つに若い白人の女性講師が立ち寄り、何らかの試問を行っている。もっとも、それ以外の班では日本語もごく自然に聞こえていた。中年の男性教師が教卓に座っていたが、ときおり全体に目をやるほかは、事務の作業にあたっていた。
 半開きの窓からは、清冽な里の空気が流れてくる。生徒らは、育ちの場所ゆえか皆どことなく純粋な雰囲気があった。男子はネクタイ姿だが、女子は古典的な紺色のセーラー服で、白いラインの入った襟に藍色のタイを結んでいる。この日、地域は急峻な冷え込みで、衣替えから幾月も経たぬ冬服でさえ肌寒げだった。

 教室の中央後ろにあるその班でも、雑談で盛り上がっている様子が見て取れた。
 生徒らの机上には、会話によって友達のプロフィールを記入するプリントが配られていたが、すでにそれらは埋まっていた。

 その班には、ひときわ明るい性格で会話の中心になっている女子生徒の姿があった。
 首を包むほどの長さで揃えられた丸みのある髪型で、目と口を大きく開き笑い声を漏らしている。
 美人という類ではない、素朴で人並みな容姿の少女であったが、笑顔の絶えない表情は気持ちが良く、真っ白な歯は清潔感に満ちていた。健康的なふるまいで相手を選ぶことなく人なつこく会話をする、誰からも好かれる雰囲気の少女だった。

「ねえねえ、『Nice to meet you』のさ、meetをloveに変えたらどんな意味になると思う?」
 プリントに書かれている例文を眺めながら、少女はおもむろに声をはずませた。
「え〜〜っ、どんな意味だろ? すごい親密な挨拶とかになるんじゃない?」
 横に座る目の細いおさげ髪の女子が、愉快そうに答える。その席は、普段は少女の後ろにあたるが、長方形に机を合わせた今は右にあった。少女の席は班の最前にあり、今は角の一つとなっている。

「ほんとう? じゃあためしに使ってみよっかな。ねえ山西くん、ちょっとこっち見て」
「俺?」
 言うが早いか、少女は正面にいる朴訥な男子の顔をじっと見た。彼女の目は一重だが、常にはっきりと開かれていて薄い印象はまったくない。丸みをおびた頬は瑞々しく張りつめ、内に充ちた生命力が外に溢れ出しているかのようだった。

「オーケー? Nice to love you!」
 男子と目が合うやまっすぐに相手を見つめ、少女は元気よくそう言った。つややかな肉付きの唇が、まぶしく動く。一瞬遅れて、男子の顔はみるみる内に赤くなった。
「やだーーっ! 山西くん顔真っ赤になってる!」
「うわ、マジかよおまえ!」
「え、もしかして……」
 たちまち班の生徒らはわき立った。

「ちっ、違えよ! 急に変なこと言うから! なんで俺が野本なんか……」
「なんかってひどーい。英語で挨拶したんだから英語でかえしてよ」
 動揺してうつむく男子に、少女は明るい表情のままにその口元をとがらせた。
「……わかったよ。Nice to ラぶゅ、っ!?」
「あっはははっ! かんだかんだ!」
 隣の女子が手を叩いて爆笑する。他の者も笑うなか、当の男子も満更でもなさげにはにかんだ。

「ごめんね変なこと言っちゃって! 次うちの班みたいだし、そろそろ静かにしよ」
 少女が親しみを込めた目で手を合わせてそう言うと、男子は生返事をし、他のメンバーもうなずいた。おのおの手元のプリントへと目を向け始める。

「……ねえ、かおりんさあ」
「ん?」
 ほどなくして、隣の女子が少女の耳へとささやいた。
「なんだかさっきからさ、顔色悪いけど大丈夫?」
 女子は真顔でそう続けた。
「え? ほんとう? 自分だとぜんぜんわかんないけど」
「うん、ちょっと青っぽいよ」
 少女は目を丸くして両手を己の頬に押し当てた。言われた通り、彼女の顔からは赤みがほとんど失せていた。土じみた色素の濃い肌だが、今はその黄色が目立っていた。赤面したままプリントを凝視している向かいの男子とは、はっきりとした相違があった。

「体調でも悪い?」
「う〜ん、ぜんぜん元気だけど。もしかしたらちょっと睡眠不足かも?」
 相手を見つめる少女の顔は、依然として健康的な生き生きとした笑顔であった。
「昨日は何時ぐらいに寝たの?」
「十一時ぐらいかなあ」
「テニス部って、何時から朝錬あるの?」
「今日はなし」
「じゃあふつうに寝てるじゃん!」
「あはは、ほんとだ。ごめん」
 口元をゆるめながら突っ込まれると、少女はいたずらげに目を細めた。
 ちょうどそのとき、外国人講師が彼女らの班へとやってきた。軽快な英語の挨拶に、少女は率先して闊達な挨拶を返した。他の者もそれに続く。向かいの男子がまず名前を呼ばれ、その隣の男子について名前や趣味、部活動などについてスピーチを始めた。

「Excellent!」
 やがて少女の番になり発表を終えると、講師は満面の笑顔でそう褒めた。
 相手としっかり目を合わせながらしゃべる少女の姿は、不器用な発音ながらも、はっきりとした大きい声で周囲にも心地よさを与えるものであった。
 手にした名簿に評価を書き込み終えると、しかし、ふいに講師の顔は笑みを消した。

「Kaori, you look pale. Are you OK?」
 再び少女の顔を見ると、講師はやにわにそう言った。
「え? え? えーっと……」
 それは教科書に書かれている簡単な表現に留められていたが、突然のことで少女はほとんど聞き取ることができなかった。講師は少女の瞳をじっと見ていた。
「顔色悪いけど、大丈夫ですかって」
「あ。オーケーオーケー! ノープロブレム!」
 隣の女子が神妙な顔つきで助け舟を出すと、少女はすぐさま元気よくそう答えた。
  グウーーウウウウゥゥ〜〜〜〜〜〜ッ
 そのとき、少女の腹が大きく鳴った。派手な音が輪の中に響きわたる。沈黙。

「……ぁ、あ……、アイム、ハングリー!」
「OH!」
 数拍の後、少女が勢いよくそう言うと、講師は目を丸くして表情を緩ませた。同時に、班のメンバーからどっと笑い声がわき起こった。ほほえましい風景の中で、少女もいたずらげに白い歯をのぞかせた。

 残りの生徒もスピーチを終え、もう一つ残っていた班も同様に済ませると、今度はクラス全体を前にした発表が始まった。それぞれの班から無作為に選ばれた一組が黒板の前で互いについて紹介をし、先生や講師から簡単な質問を受けて応答する。
 緊張しながらスピーチをする生徒らの様子はほほえましく、時に愉快な内容などがあると、教室中が明るい笑いに包まれた。一組が終わるごとに満場の拍手。万事が良く機能した、絵に描いたように平和な授業の風景がそこにあった。発表は、二十分ほどにわたって続いた。


 最後の組が発表を終え席に戻ると、先生はおもむろに黄色いチョークを手に取り黒板に向かった。
 そして、”FREE TALK TIME”と大きく記し、下に小さい筆記体で”Feel free to talk.”と手早く書いて教卓へと戻った。休み時間まで五分ほどの教室は、それで一挙に空気がほぐれた。

「ごめん。私ちょっと気持ちが悪いから保健室行ってくるね」
 大きい拍手を終えたばかりの少女は、喧騒の広がるよりも早く、横を向いてそう言った。
「……え!? ちょっとかおりん、顔真っ青だけど大丈夫!?」
 その顔を見るや、相手の女子は目を丸くした。二十分ぶりに目にする少女の顔からは、血の気が完全に引いていた。顔面蒼白という形容が、誇張でなくふさわしいありさまだった。
「だいじょぶだいじょぶ! ちょっとだけ気分が悪いだけだから!」
「え〜っ、でも顔色やばすぎるよ。私、ついてこっか?」
 明るい声で手を振る少女の表情は、二十分前と変わることのない笑顔だった。しかし他のメンバーもその顔色に気づいて心配げな視線を送り、正面の男子も眼を広げて彼女の相貌を凝視していた。
「ありがと! でも本当に大したことないから、ちょっと行ってくるね」
 言うが早いか、少女はすばやく席を立った。軽やかに手のひらを見せて班を離れ、何気ない様子で教室を縦断して教卓へと歩いてゆく。

「エクスキューズミー、アイフィール……えっと……!」
「日本語でいい」
 教卓の前に立ちしゃべり始めた少女を、先生はそう言って制した。
「すみません、ちょっと具合が悪いので保健室に行ってきてもいいですか?」
「ずいぶん顔色が悪いな。一人で大丈夫か?」
 先生は眼鏡を直しながら、少女の顔をじっと見た。昼近い陽射しがちょうど教卓の周りに差していた。それを浴びる彼女の頬は、脂を塗ったかのように照っていた。
「大丈夫です。行ってきてもいいですか?」
「そうか。じゃあ行ってきなさい」
 許可されるや、少女はしっかりと会釈をしてドアに向かって歩きだした。

「あれ? かおりんどしたの?」
「ちょっと気分悪くて保健室」
「えーー!? 珍しいね?」
「だいじょうぶ?」
 ドアの前で、近くにあった班の女子らに声をかけられた。少女が笑顔で答えると、彼女らは親しみを込めて心配の言葉を口にした。前歯をのぞかせ、手を振ってそれに応じながら、少女はドアを開けて廊下に出た。なお見つめてくる女子らに変わらぬ表情を返しながら、ゆっくりとドアを閉める。

 廊下を歩きだすと、すぐに隣の教室が見えてきた。
 扉にはめられた窓から、後列の生徒らの姿が見渡せる。すると、一人の女子が少女の存在に気づいた。愉快げに目を見開き、何かを尋ねるように手を振ってくる。それまでと同じように、少女は笑顔で手を振り返した。
 さらに歩き、黒板の前で授業を進める若い男性教師の姿が見えてくると、反応した生徒のせいか、二三度続けて一瞥された。少女は愛想笑いをしつつ少しだけ会釈をした。
 彼女らの教室は二階にあり、その先には、上下の階を結ぶ広い階段が見えていた。まだどこも授業は終わっていないようで、視界に映るその風景は完全なる無人だった。彼女は静かにそこへ向かった。

 ほどなくして到着すると、彼女は廊下に背を向けて下を眺めた。
 ……人の姿はまったくない。一階からも、声や物音は聞こえてこない。

 淡い笑みを浮かべ続けていた彼女の表情は、次の瞬間、百八十度転換した。
 瑞々しく張った顔の、肉という肉が押し合わされる。輝いていた眼が醜く細まり、卑しいまでに眉が八の字へとかたむけられる。眉間の皮膚が幾重にも折り重ねられ、柔和だった唇が激しく歪んで揉み込まれる。
 まるで、おぞましい病でひしゃげたかのような変貌だった。顔中に皺を浮かべ、少女は一瞬の内にその形相を地獄の色で塗り尽くした。
 同時に彼女は背中を著しく押し丸め、腹をえぐるように抱え込んだ。震えながら、後ろへと突き出される尻。重心を深く下げ、ひどい内股で彼女は階段をくだり始めた。腹を執拗にさすり、ぬかるみを歩むように慎重に足を一歩ずつ出してゆく。

  ギュルギュルグリュリュリュリュグ〜〜〜〜〜〜ッッ!!
 踊り場へと至るや、その腹が大きく轟いた。少女は顔面の皺をさらに深めておびただしく息を吐き、尻をわななくように打ち震わせた。眉をかたむけきってその底に右手をあてがい、爆発物を抱くように残りの階段を下りてゆく。

 一階の廊下。位置は校舎の中ほどで、一方の奥に保健室の文字が見える。
 しかし、歯を噛み締めて進む彼女の瞳はわずかもそれを捉えることはなかった。反対側のやや先に並ぶ、二つの扉。片方の上には赤い人の形が貼られている。彼女は顔の肉を波打たせながらそこへと直進していた。スカートをはいた女性の姿を模したマーク。学びの場に欠かすことのできない、ある行為のための設備。彼女の左手は狂おしく腹をさすり続けていた。……肛門を、出せる場所。
 彼女が激烈な勢いで走りだしたのは、扉の正面へ達したときのことだった。声にならぬ叫びと共に、彼女はその中へと転がり込んだ。

 空気の湿った古いトイレ。小さい灰色のタイルが床を埋め、和式の便器ばかりが並んでいる。
 その一つへと少女は鬼の形相で突進した。尻を抱え、目を回しながら個室へ飛び込む。灼けた吐息を溢れさせてドアを打ち閉め、派手に音を立てて施錠する。返す手でスカートを跳ね上げ、下着をひっつかみながら便器をまたぐ。全身を痙攣させて膝を折りつつ両手で猛烈に引きずりおろす。

「はぁあぁあっっ!!」
  ブビッッ!!! ブヒブヒブヒヒブヒ!! ブウウウウ!!!
 瞬間、少女の尻から煮えたぎった下痢便が溢れ出した。劇的に盛り上がった肛門が現れるのと、それが中身を噴き放つのは同時だった。中腰で半分だけむき出された尻は、便器の後ろへと派手に茶色を撒き散らした。
  ボタボタボタボタボタブビイイイイーーーーーーッ!!!
 悲鳴のように息を吐き出しながら少女は尻を振り下ろしてしゃがみ込んだ。歪みきった顔で下着を足の付け根までおろしきる。その頬以上に張りつめた、肉の詰まった汗だくの尻が便器へと突き出される。

「ふーーーー!!!」
  ドボドボドボドボドドドドドオーーーーーーーーッッ!!!
  ブボッボボボオッブボブボブボブボブボオオオオブボッ!!
  ドボボボボボボボボボビチビチビチビチビチビチビチビチ!!
 尻の爆ぜるような大噴火が始まった。全開になった肛門から膨大な下痢便が飛沫をぶちまけながら噴出する。大股を開き、陰部をまる出しにして、揺れる尻の底に大音響の滝を叩きつける。物凄い下痢であった。淡い緑色をした彼女のショーツには、手のひらほどの丸い黄土色が染みていた。
  ブウウウウウウウウーーウウーーーーーーーーーーッッ!!!
 さなか、ひときわ巨大な音が鳴り響き、真っ赤にめくれ返った肛門からおびただしく茶色の汁が炸裂する。
 腹の中が真空になりそうなほどの壮絶な放屁。それは排泄以上に下痢らしい光景だった。陰毛の生えそろった女性器を露わにして轟音を産む彼女の下半身は、きわまりないほどに下劣でそして痛ましかった。
「くんんうぅっ……はあっ……っっ!」
  ブリブリブリブリブリュリュリュリュリュリュッ!!
  ブゥビビビビビブビブビブビビビビビビビビビビブビッ!!
  ビチビチビチブオッ!! ビュルルルルブボオオオッ!!
 間髪いれず、溢れかえった下痢便の上にそれにもまさる量の濁流が吐き出される。彼女は完膚なきまでに腹を壊していた。滝のように脂汗を流し、両腕を腹にねじ込んで悶絶しながら、ひたすらにその原因を肛門から出してゆく。接さんばかりに便器へとねじり出された尻からは大粒の汗が搾られるように垂れ続け、活動的に引き締まった両脚にもおびただしい流れが浮かんでいた。
  ビュチュビュチュビュチュビュチュビューーーーッ!!
  ブヒイッッ!! ボピプピプピプピビヒイイィィィッッ!!
 止まぬ排泄のなか、尋常ならざる悪臭が個室の中にうねり始めた。腐った卵を蒸したかのような、脳をかき回すおぞましい臭い。源は彼女のまたぐ便器にほかならない。ドロドロに溶けた下痢便に底が見えないほどに飲み込まれ、ふちにまで無数の飛沫がこぼれているそれは、まるで肥溜めであった。このようなものが腹の中に満ちていた彼女の苦しみと欲求は、どれほどに狂おしかったことだろう。
「おっ、ふう、ぅっ……!」
  ブゥゥゥウーーーーーーーーッ!!
  ブウウウウウウウゥゥ!! ブーーーーーーーーーーッッ!!
 全身を打ち震わせて再び放屁。空間を埋め尽くす臭気と同じ臭いのガスを、隆起しきった肛門から猛烈に放出する。深く眉をかたむけて顔中に皺を寄せている彼女の姿は、眉間からつたいやまぬ汗と相まり、悲痛に泣きうめいているようにも見えた。
 下痢。容姿の優れているとはいえない彼女にとって、肛門と性器をさらけ出してかかる野卑な行為に及んだことは、絶対に知られたくなかったであろうに相違なかった。今の彼女は、弁明の余地もなくただ醜かった。見るに堪えない姿の奥に、宝石のように硬くきらめく、思春期の少女の尊厳がむき出しになっていた。


「失礼しましたっ」
 竹を割ったような爽やかな声と共に、少女ははつらつと礼をして保健室の戸を閉めた。
 一階の廊下には、まばらに生徒たちが歩いている。膝を合わせてスカートを押し伸ばすと、少女はまっすぐに背を伸ばして廊下を歩きだした。その一角に掛けられた時計は、四時間目まで数分の時刻を指していた。

「あ、かおりん戻ってきた」
「どしたの〜? だいじょぶだった?」
「だいじょぶだいじょぶ! ありがと〜!」
 校舎の端にある階段を経て教室へ戻ると、さっそくドアの近くに座る女子らが声をかけてきた。少女はからりとした笑顔でそれに応えた。彼女が入ったのは教室の後ろからで、出るときに会話を交わしたのとはまた別の者たちであった。

 にぎやかで楽しげな、ありふれた休み時間の教室。
 男子も含めた他の生徒からも声をかけられたり手を振られたりし、軽やかに応じながら少女は教室の中ほどにある席へと戻った。

「おかえり。もう大丈夫なの?」
「うん! ちょっと横になったら楽になっちゃった」
 後ろの席の女子と言葉を交わしながら、少女は満面の笑顔で着席した。
 周囲の机と同様、彼女の机も元の向きに戻されていた。その上には授業中のままの教科書と筆記用具がある。プロフィールを記入したプリントは回収されていた。
「びっくりしたよ〜。急に真っ青な顔であんなこと言うから」
「ごめんねっ! でも、本当にぜんぜんたいしたことないから」
 膝を押し合わせ、スカートの形を整えながら、少女は上半身だけ後ろにひねって会話を続けた。彼女の顔色は完調とまではいえずとも、だいぶ血色が良くなっていた。本来の姿にあるその肌は清水で洗われたようにつやがあり、健康的なクラスの娘たちの中でもひときわきめが細かかった。

「そういえば私の机、かわりに動かしてくれたの? ありがとう」
「ううん、私じゃなくて山西くん」
「え、ごめん。山西くん、ありがとう!」
 少女がまっすぐに横を向くと、ちょうど様子を伺っていた男子とぴったりと目が合った。
「い、いや、べつに……それより、大丈夫か?」
 一瞬の内に頬を染めながら、視線をうわつかせつつ彼は尋ねた。
「うん! もうすっごい元気! 絶好調!」
「……そっか、よかったな」
 少女がひときわ目を広げて真っ白な歯を見せると、彼も不器用に微笑んだ。
「山西くん、かおりんのことすごい心配してたよ」
 後ろの女子がにやつきながら口をはさむや、その顔がさらに赤らむ。
「ええー、ほんとう? 山西くんて優しいよね。ごめんね変なところ見せちゃって」
 人なつこい顔をいっぱいに輝かせ、少女は清らかな好意を言葉に乗せた。
 彼はうつむき、ぼそぼそと小声で返事をつぶやいた。後ろが笑いながらはやし立てる。さなか四時間目のチャイムが鳴った。

 授業が始まり数分が経ったころ、ありふれた板書が続く中で後ろの女子は小さなあくびをした。
 彼女はぼんやりと教室の中を見回した。静寂が広がり、程度の差こそあれ誰もが真面目に授業を受けている。横の席の男子も、さきほどまで愉快に話していた前の二人も同様である。
 折っていた膝を伸ばしながら、何気なしに彼女は机の下に見える己のつまさきへと目をやった。そのまま当てもなく視界を周囲へとずらしてゆく。
 ほどなくして、彼女はふいに眼を止めた。小さく唇を開き、視界の中のある一箇所をじっと見る。彼女の表情は休み時間のゆるみを引きずっていたが、それがたちまち消えてゆく。
 ……彼女の瞳には、前の席に座る少女の足元が映っていた。真白い生地の上履きと靴下。その右足のかかと。赤いラインのまぎわの厚布に、小さな黄土色のしみができていた。色は薄く、黄色のようでもあるが、見れば見るほど茶色に近い。さらに、そのずいぶん上にある靴下のゴムにも同じ色のしみがあることを発見した。目を凝らすと、他にもかすかな色素がいくつもある。左足も同じだった。
 彼女は著しく瞳を広げ、それを何秒も凝視した。それから、静かに顔を上げ、前に座る者を見つめた。生命力に満ちたまっすぐな後姿がそこにある。背から下へと、視線を這わせる。折り目の整ったスカートに、採れたての桃のような丸みがはっきりと浮かんでいる。いつしか、彼女は眉をひそめ、その目を細くしかめさせていた。押しつぶりながら眼をはがし、しばらくのあいだ顔を背け続けたのち、彼女は真顔で板書の写しを再開した。


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 その中学校は、都心の中央部近くに位置していた。
 周囲にはオフィスビルや種々の施設が立ち並び、教室が三階ともなると、林立するそれらが彼方まで窓の先に続いている。それでいて景色には落ち着きもあった。敷地の内には外界を隔つように樹木が厚く植わり、公園か寺社か、まとまった緑の色がいくつも校舎の周りに見えている。そうした地区のようで、教室も都会の喧騒とは無縁なほどに静かだった。

 休み時間の教室では、紺色のブレザーに身を包んだ女子生徒らが楽しげに談笑していた。
 タイやリボンのない飾り気をひかえた制服で、胸元には白いブラウスのみがのぞいている。しかし、その作りはかなり良く、しっとりと厚い上着には上質の生地が使われていた。スカートも同じ色の無地で、みな膝丈にそろえている。男子はおらず、私立である。
 かなりの選抜を経て入学したのか、生徒らは誰もが並ならず賢げで、瞳に聡明の輝きを宿していた。
 そして、同じほどに目を引くのが、彼女らのふるまいにおける洗練だった。その容姿はとりどりだが、誰もに底から漂う気品があった。その門は学力の他でも狭いらしい。
 校風が厳しいのか、育ちのゆえか、休み時間でも大きく声を立てる者は誰もいない。教室には紙屑一つ落ちておらず、清潔で滑らかな板張りの床は、並ぶ机の脚を淡く湖面のように映していた。

 3年A組の標があるその教室でも、他と変わらぬ景色が続いていた。
 胸の透くように清浄で、かすかな甘みをおびている空気。それを彩る、華やかで貞淑な笑い声。廊下に近いその一角でも、数人の生徒らが優美な会話の風景を見せていた。

 その中に、ひとり、殊に知的な顔立ちをした少女の姿があった。
 つややかな黒髪を長く伸ばし、整った相貌を澄みきった肌で引き締めている彼女は、その容姿にまったく隙がなかった。美しくはっきりとした利発な眼、端正な鼻筋、きよらかで形の良い唇――。だが、何よりも印象的なのは、その瞳の揺らぐことのない力強さだった。
 彼女は、四人からなる会話において常に中心の位置にいた。前に押し出ているのではなく、自然と流れがそのほうに向かっていた。貴く張りつめた誇りを身にまとっている彼女だったが、ふるまいに気高さが障ることはけしてなかった。友人らと共に、ほほえみ、笑う。おろしたてのように清潔な制服が、すらりとしたその身体を包んでいた。

「松崎さん……お話し中にごめんね。ちょっといい?」
 少女らは、今日の予定や部活動についてのありふれた話を続けていた。
 さなか、一人の女子生徒が英語の教科書を手に訪れ、彼女の名を呼んだ。やや離れた席で、電子辞書を手に、あわてた様子でノートに訳を記していた生徒だった。

「どうしたの?」
「あのね、ここの箇所だけ、どうしてもよく分からなくて……。差し支えなかったら……」
 落ち着いた物腰で少女が振り向くと、女生徒は教科書を開いてその前へと中身を見せた。シャープペンシルで線の引いてある二行ほどを指し示す。
「ここは難しいよね。今日の範囲でいちばん構文が複雑なんじゃないかしら」
 見るなり少女はそう言った。
「やっぱりそうなんだ? お願いします、ヒントだけでも教えてください」
「いいわよ。ちょっとごめんね」
 女生徒に手を仰ぎ合わせられると、少女はおだやかな顔で応じ、話していた友人らに中座を謝した。

「たぶんthatから先が分かりづらいと思うんだけど、これは文頭のThisと並列の関係になっているの。つまり、thatはthat sort of workの略ね」
 渡された教科書を手に、呑まれるように真剣な眼で少女は解説を始めた。
「ああー、そうだったんだ、じゃあ、次のtoとの間には……」
「そう。Thisと同じis meantを補えば意味が通るわね」
「だいぶ分かってきたかも。えっと、そうするとこのwe realize in childhoodは両方を修飾してるの?」
「ううん。ここも少し難しいところだけど、それは関係代名詞節ではなくて挿入なの――」
 一点の曇りもなく英文を説明してゆく少女の姿に、相手の女生徒も、周囲の者らも敬慕の表情を寄せていた。芸能人でさえ務まりうる相貌から述べられてゆく精緻な言葉は、隔たりがあるようであり、完璧に調和しているようでもあった。

「っ……」
 さなか、少女は唇を噛んだかのごとくふいに言葉を途切らせた。
 口ごもり、その視線を教科書の下へと一瞬おろす。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。なぜかというと、非制限用法のときは関係代名詞は原則として省略できないから」
「え、そうなんだ! 知らなかった」
「うん。だから、文全体がrealizeの対象。頭に移してthatを置いて考えると分かりやすいかもね」
「We realize in childhood that this sort of……」
「そうそう」
 教科書へ目を伏せていると、少女の睫毛は長さがいっそう際立った。
 微笑みによってほのかに動くつややかな唇を、友人の一人が頬を染めながら見つめていた。

「……うん! 完全に分かった! 松崎さん、どうもありがとう」
「どういたしまして」
 満面の笑顔で去ってゆく女生徒を、少女はやわらかな顔で見送った。

「すごーい。完璧だね」
「今の遙さん、先生よりも先生らしかったかも」
「ええ、まだまだだよ、私なんか」
 さっそく友人たちからの称揚が始まる。調子付くこともなく、送られた冗談を少女は退けた。
「私なんか自分が当たらない日は単語チェックぐらいしかしないのに」
「だから英語の成績悪いんだよ」
「いいもん。数学なら松崎さんに近いぐらいできるから」
 一人が機転の利いた台詞を口にすると、彼女らは淑やかに盛り上がった。友人らは楽しげに笑い、少女もひかえめに微笑した。

 それからは、再びありふれた日常の話題が始まった。
 放課後の予定や部活動についての気軽な雑談。話の中で、校内での実力テストが数日後に迫っていることと、少女の習っている楽器の大切なコンクールが日を連ねていることが触れられた。日々の学習を厳密にこなしながら、それらをも入念に準備することは、並ならぬ負担である。しかし、彼女のゆるぎない表情からは、そうした苦労はまったく感じられることがないのであった。

 やがて休み時間が終わり、四時間目の授業が始まった。
 四十歳ほどの眼鏡をかけ髪をきっちりとまとめた女性教師が、定刻どおりに口を開いて板書をしだす。
 目に見えて厳格な教師であり、校風も相まってか、一切の私語が教室からなくなった。
 教科は英語で、簡単な導入を終えると、教師は指名した生徒に一段落分の音読と和訳を指示した。それを添削しつつ解説することで、解釈力を磨く授業のようであった。

 流暢に読み上げられる英文を、少女はまっすぐに背を伸ばして聴いていた。
 その集中の度合いは、朗読の当事者にも比するほどであった。彼女のノートには訳こそ記されてはいないが、開かれたページに、様々なメモや疑問点がびっしりと書き連ねられていた。わずかの抜かりもなく予習がなされていることの証左だった。

  ギュルッ……
 さなか、少女はぴくりと顔を固めて机の下へと目をやった。

  ……グゥッ……キュ〜〜……
 怪訝な表情で、ブレザーに包まれたへその下あたりをじっと見つめる。
 だが、すぐに彼女は真剣な眼差しで机上へ戻った。英文に続けて訳の朗読が終わると、冒頭にあったケアレスミスについて教師の鋭い指摘が始まった。


 授業が開始してから、数分が経った。

 硬質な講義の声が続く教室は、完全な静寂に満ちていた。
 一瞬たりとも私語はなく、誰もが姿勢を正して話される内容に集中している。休み時間を楽しげに過ごしていた生徒たちの誰もが、動かぬ背景のように授業への専念を続けている。

  グギュゥゥゥ……グリュルルル……
 完全なる風景の中で、一人の生徒のみがその様子を崩していた。

 すみずみまで清潔な教室の、殊に清らかな場所として知られる一角。
 眉根を寄せて目を細め、引き締めた唇を固く押し合わせている少女の姿がそこにあった。
 その顔色は青ざめ、左手がつかむがごとく下腹の上に置かれている。長いスカートに浮かぶ両膝は一体となったかのように固められ、左右のくるぶしもけわしいまでに貼りついている。

「この比喩表現は間違えやすいので、正確に理解するよう努めてください」
 さなか、教師が板書を始めると、すぐさま少女もそれをノートへと写しだした。
 様子のおかしい彼女だったが、背筋の伸ばされたその姿は模範的なものに変わりなかった。教えることに集中している教師も、学ぶことに集中している生徒らも、彼女のわずかな異変に気づく者は誰一人いなかった。廊下際の列で後ろから三番目という座席の位置も、彼女の姿を多くの視界から溶かしていた。

 やがて次の音読に移ると、彼女はおもむろに視線を下げ、とまどいに満ちた眼で己の腹をにらみ続けた。
 訳に変わったところで彼女は小さく尻を上げ、足の位置を改めた。


 授業が開始してから、二十分が過ぎた。

  グウウウウウゥゥゥゥ〜〜〜〜ッ
 美しい声で英文の読み上げられている教室の一角に、くぐもった音色が小さく轟く。

 その音は、真っ青な顔で、額を大粒の汗で満たしている少女の腹部から溢れていた。
 眉間に深く寄せられた皺と共にその眼は固く閉ざされ、唇が鋭く噛み締められている。
 訳が始まると彼女は細く目を開きノートを見つめだしたが、まったく集中を欠いている様子であった。すぐに視線を机の下へと移し、責めるような眼で下腹をねめつける。そこにある左手は、人目をはばかるかのように小刻みに、しかし止むことなく同じ場所をさすっている。

 彼女は、明らかに体調を崩してしまっているようであった。
 そして、かかる不調は彼女の腹の中で起こっているものであり、彼女にとってはきわめて不名誉なことのようだった。おそらくはほとんど経験したことのない、まれなものでも。

 もはや、かかる事実は否定することのできる余地がないように見えた。
 この品格に満ちた場に、何よりも、完璧に等しいその肉体に、著しく不似合いな恥ずべきトラブル。
 ……彼女は、下痢をしてしまったらしい。それも、かなりひどく。激しい腹痛と共に、猛烈に便意をもよおしているようであった。

 教師が解説を始めると、少女は唇を揉み合わせながら、黒板の斜め上に掛けられた時計を見上げた。
 その横には各時限と休み時間の時程が貼られていたが、進学校のゆえか一時限は六十分で、四時間目の終わりも四十分後の時刻が記されていた。まだ、かなりの長きが残っている。
 しかし、張りつめた教室の空気のゆえか、己の抱く誇りのゆえか、彼女に用便の許諾を求める意思はないようだった。けわしい顔でうつむき、手を震わせながらも授業の内容を正確にノートへと書きとめてゆく。

 次の生徒の音読が始まると、少女は静かに生徒手帳を取り出した。
 汗ばんだ手ですばやく繰って校内図が描かれたページを開くと、彼女はその節々を舐めるように追いだした。続けざまに瞳に映るトイレの文字。どうやら、休み時間に人目に触れることなく大便のできる場所を探しているようであった。
 どれほどに育ちの良い子女であっても、下痢のときには、用を足す際に汚らしい音を立ててしまうことは免れえない。それを誰かに聞かれることは、彼女にとって、あってはならぬ恥であろうに違いなかった。校舎の内で排便に及ぶことですら許されざる人種である。

  ゴギュゥゥゥオオオオオ〜〜ッ……!
 一つ二つ目星をつけたそぶりを見せたところで、彼女はその表情をいっそう歪めた。
 目を押しつぶりながら手帳をしまうと、彼女は教師が話しだすまで再び目を開こうとはしなかった。


 授業が開始してから、四十分が経過した。

 教室の緊張は、一時たりとも弛緩することはない。
 教師は黒板に書いた英文へ黄色のチョークでさらに注釈を加えながら、緻密な説明を続けている。生徒らは真剣をきわめた様で耳を傾け、ノートにペンを走らせている。

 三十人を超える生徒の中で、一人だけ、注釈をまったく書き写していない者がいた。
 そのノートには美しく整った文字で精緻な筆記が続いていたが、途中からどんどんと線が歪みだし、記述も雑になってゆくのが見て取れた。いま板書されている英文にいたっては、線もかすれ、ぐちゃぐちゃな字で読むことさえ困難である。右手はシャープペンシルを握り続けているが、病人のように震えるのみで、もはや理知的な働きは不可能のようにさえ見えた。

  グピ〜〜ギュルギュルギュルゥゥゥ〜〜〜〜……!
 汗だくになった少女の眉は、著しい八の字を描くに至っていた。
 その唇はひどく不格好にすぼめられ、顔のあちこちに醜い肉の隆起が生じている。
 完全なる下痢が、そこにあった。彼女の相貌から美というものは失せていた。今の彼女は、ただ一人の腹を下しきった少女でしかなかった。蠢く大腸がその意識を支配している。もはや彼女は、トイレのことしか考えられないようであった。腹の中で煮えたぎっている下痢便をトイレで排泄することのみが、彼女の思考のすべてであるに違いなかった。

  グオオオオオオオォーーーーッ!!
 その形相をひときわ深くねじ曲げ、狂おしく下腹を見つめると、少女はおもむろに顔を上げた。
 教師はチョークを青色へと持ち替え、さらなる知識を黒板に付記しながら解説していた。
 その横顔を、少女は切実に凝視した。視野を固定したまま、シャープペンシルを置き、わずかにその手を机から浮かせる。ゆっくりと高め、胸元近くまでその先を持ち上げる。

 ……だが、彼女がそれ以上に身を動かすことはなかった。
 一部の隙間も生じえない厳密な授業。それに集中しきっているクラスメートたちの姿。静謐。彼女は泣きだしそうな顔で教師の姿を見つめ続けたが、震える右手が胸より高く上げられることはついになかった。

 どれほどに我慢を続けても、腹をなぐさめても、彼女の苦しみが治まることはけしてない。
 トイレで肛門をむき出し、原因を便器へと吐き出すまで、地獄からの開放は訪れない。
 ここまで腹を痛め、便意が高まっている以上、今すぐにでもそうするべきなのは明らかだった。一時の羞恥にさえ耐えられれば、彼女は元の姿を取り戻せる。麗しい顔と澄みわたった頭で、選ばれた者のための授業に没頭できる。この空間を象徴するような気品に満ち溢れた姿で、美しい文字をノートへと連ねられる。
 しかし、彼女は、その行為が、どうしてもできなかった。狂おしい欲求に悶絶しながらも、ただ席に座っていることしかできなかった。

「――では、次の段落は藤本さん。読んでください」
「はい」
 やがて説明を終えると、先生は入念な眼差しでテキストへと目を落としだした。新しい生徒が読み始めた箇所を確認しているのだろう、他へ意識をそらす様子はわずかもない。……少女は、静かに手と顔を下ろした。

 その姿勢が身に染み付いているからか、彼女は堪えがたい腹痛を抱えているであろうにもかかわらず、背をかたくなに伸ばし続けていた。そのため、うつむいてさえいれば、殊に離れた教壇からは、真剣に机へ向かっているようにしか見えなかった。自身の用便についてなど考えてもいないであろう、他の生徒たちと同じように。

 トイレ。

 その言葉で脳を満たしているにもかかわらず、外界へと告白するまでの間には、彼女にとって鋼鉄よりも硬く厚い壁がそびえているようであった。
 その音をつむぐべき唇を肉の見えぬほどに揉み込みながら、彼女は嘆くように眉をかたむけ悶えていた。
 痛ましく這い続ける左の指。大粒の汗が眉間からつたわり、あごから垂れて派手なしみをノートに作った。


「すみません」
 静かな教室に、低まった女子の声が響く。

「トイレに、行ってきてもいいですか」
 男女の入り混じった、ありふれた中学校の教室。その注目を浴びながら、一人の女子生徒がけわしい顔つきで挙手をしていた。
 紺色のセーラー服。襟に届かぬ長さで後ろを整え、前髪を右目の上で分けたその女生徒は、整った顔で細い銀縁の眼鏡をかけていた。切れ長な目つきをした、いかにも規律正しい優等生といった容姿であった。

「ああ、行ってきなさい」
 黒板に和歌を記していた白髪の老教師がおだやかに応じると、女生徒は小さく会釈をして立ち上がった。
 薄い唇をきゅっと固め、目を伏せて足早に教室の中を歩いてゆく。彼女の顔色は悪かった。後ろのドアを静かに開け、同様に閉めて彼女は廊下へと出ていった。

「めずらしいね」
「ゲリピーだったりして」
「まっさかー」
 派手な外見をした素行の悪げな二人の生徒が、前後の席で噂をする。
 しかし、なされた会話は他になく、何事もない様子で授業は進行をしていった。幾人かが眠っている教室に、板書を終えた老教師のゆったりとした説明が続いてゆく。

  ブゥピッッ!!
 教室から数十メートルほど離れた場所にある女子トイレ。
 一つだけ閉ざされて赤い表示の浮かんだ個室から、汚らしい音と濃密な悪臭が漏れていた。

「っく……ふっっ……!」
  ブリブリビチビチビチビチビチビチビチッ!!
 腰までむき出された汗だくの尻から、和式便器の中へと茶色い濁流が注ぎ込まれる。
 大きく広げた両足でピンク色のタイルを踏みしめながら、女生徒は深々としゃがみ込んで大便をしている最中であった。

「はぁっっ……っ」
  ビチビチビチブオッッ!! ブリリリブピブピブピッ!!
 便器の中に大量に広がる、ミートソースのようなドロドロの軟便。その上に、苦しげに蠢く肛門から同じ形状の便が次々と吐き出されてゆく。……彼女は、下痢であった。休み時間までどうしても我慢ができず、授業中にトイレへ立つことを決意したのだろう。

 無様に形の崩れた下痢便からは、鼻の曲がるような強烈な臭いが立ち上っていた。
 教室では目立たなかった汗を額にたっぷりと浮かべながら、彼女は澄みきったレンズの奥の眼を固く閉ざし、唇を歪めてあえいでいた。


 授業が開始してから、およそ五十分。

 その終わりまで十分を切ろうかというころ、教室の一角に異変が生じ始めた。
 かすかに鼻をつきだす、不快な臭い。三文字の恥ずかしいひらがなを想起させるそれは、しかし、急激に密度と量を増していった。腐った卵を思わせる、顔をしかめざるをえない悪臭が一角へ満ちるのに、さほど時間はかからなかった。

 誰かが放屁をしている。おそらくは腹の具合をなさけなく乱して。
 純潔な空間への冒涜に対する嫌悪か、集中を乱されたことへの抗議か、鼻腔を穢された幾人かの生徒らはおもむろに犯人を捜し始めた。

 まず見つけたのは、”出元”の真後ろにいる生徒だった。
 たまりかねた様子で筆記を止めて顔を上げた彼女は、正面の光景が視界に入るや、目を丸くして硬直した。
 そこには、足を激しくねじり合わせ、おぞましく震えている後姿があった。左の肘が絶えず小刻みに動き続けている理由を解するのに時間は不要だった。その不浄な姿は、彼女の脳裏にある美しい存在とはかけ離れているに違いなかった。

 ある生徒は、己の前と左を捜していた。
 無意識にありえないとみなしているのだろうか、右は一瞥たりともしなかった。
 だが、いくら観察しても、様子のおかしい者は誰もいない。みな顔色一つ変えず机へと向かっている。
 やがて彼女は眼を戻すと、ちらりと右をのぞいてみた。いなや、瞳を大きく広げて息を止めた。
 あるはずの美とは対極の存在がそこにいた。伏せられた顔の一面にえぐり込まれた深い皺。眉をかたむけきって口元を狂おしくねじり上げ、おびただしい脂汗を流している。その姿は、漂う黄土色の臭いとおぞましいまでに調和していた。
 事態を完全に把握するや、はっとして彼女は顔ごと左へ目をそむけた。右にいる醜そのものの存在は直視に堪えなかった。同時にそれは、見てはならぬものでもあった。

 生徒は、困惑しきった表情であてもなく机の上を見下ろした。
 やがて、目を上げてそっと教師の顔をのぞき見た。手にしたテキストに目をやりつつ講義を続けるその姿は、教室の中に起きている小さな異変には、まるで気づいていない様子がうかがえた。
 生徒は眉をかたむけながら時計を見つめた。再び右を見かけ、寸前で瞳を止める。そしてうつむくと、表情を戻すことなく机へと向かいなおした。

 さなか、少女もまた、細めきった眼で時計を見上げていた。
 大便ができるまで、残り八分と数十秒であった。


 四時間目終了のチャイムが鳴る。

「では、終わりとする」
 二十秒ほど前に授業を切り上げ、教材を片付けていたベテランの男性教師は、鐘と同時にそう言った。

「気をつけー、礼」
 やや間の抜けた男子の声と共に、生徒らがあっさりと礼をする。
 一息の間を置いて喧騒が教室を覆い出すなか、真っ先に席から立ち上がる女子生徒の姿があった。

 いなや歩きだしたその女生徒は、耳がくまなく見える短い髪で、背の高い活動的な容姿をしていた。はっきりとした大きな瞳で、瑞々しく引き締まった顔をしている。だが、彼女の表情はけわしく、顔色も悪かった。
 制服はブレザーで、胸元に小さな赤いリボンがついている。窓際の最前列が席であった彼女は、かろうじて目立つことのない速さで、窓に沿って教室を後ろへと突っ切った。その両手は硬く握り締められていた。直角に曲がり、教室の後ろを同じ勢いで歩いてゆく。

「ねえ、今日の部活ってさ――」
 その接近にまぎわで気づいた最後列の女子が、立ち上がりつつ声をかける。
「ごめん、ちょっと、あとで……!」
 立ち止まることなく眉を寄せて早口に言うと、女生徒は一気にドアを開け放って廊下へと出ていった。

 残された女子はあっけにとられた様子だったが、すぐに自分も歩きだして廊下へと出た。
 教室の斜め向いにある女子トイレ。苦しげな横顔で、その中へと入ってゆく姿を彼女は見た。得心した顔で後を追い、赤いマークの下にあるドアをゆっくりと押し開ける。

  ブオッッ!! ボチャボチャボチャッ!!
 いなや聞こえてきたのは、水洗の音と、それにまさる激しい破裂音であった。
 使用中の個室は、入り口から最も近い一つのみである。恥ずかしげに口元を覆いつつ、今度こそ本当に理解した面持ちで、彼女は奥にある個室へと向かっていった。

「はぁぁあぁぁ……ぁ……っ!」
  ブリブリブチャチャチャチャッ!! ブウッ!!
 水の流れる和式便器の中へ、力いっぱいにむき出された肛門から大量の下痢便が吐き出されてゆく。
 額から大粒の汗を垂らしながら、女生徒はおびただしくため息を吐き、全身を打ち震わせて排便をしていた。休み時間まで、かなり我慢をしていた様子である。

「く……っ、むぅん……ふっっ……!」
  ブゥピッ!! ビチビチビチビビッ!! ブボボボオッ!!
 その顔以上に汗で満ちた大きい尻から、爆発的な下痢が次々と撃ち放たれる。瑞々しく張りつめて引き締まった健康的な尻と、粥のように形の崩れた噴出物は、鮮烈なまでの対照をなしていた。さなかに水洗が途絶えてしまい、野卑な音が赤裸々に個室の空気を震わせた。

「んふーーーーっ……!」
  ブーーウウウウウウウウゥゥゥーーーーーーーーッッ!!
 レバーを力強く押し倒し、再び便器に水が流れだすや、彼女は盛大に放屁した。その音が予想以上に大きかったのだろうか、爆音が響き終わるや、彼女は眉をかたむけて著しく赤面した。


「この文の主部がwayまでであることは、すぐに分かるはずです」
 怜悧な顔つきをした女子生徒のみの教室に、変わることのない教師の声が続いていた。
 黒板の斜め上にある時計は、今にも数字の一つ――五の倍数の時刻に、分針が重なろうとしていた。

「is often condemned forは、condemn 目的語 forの受動態で――」
 分針の先端が数字の中央を貫くと同時に、鐘の音が教室中に響きわたった。
 四時間目の終わりと、昼休みの始まりを告げるチャイムである。教師が口を閉ざし、わずかの間、静寂の中にその旋律のみが流れてゆく。

「昼休みですし、このページで章の区切りなので、少しだけ延長します」
 だが、教師は理知的な眼をテキストに落としつつ、息をするようにそう言った。
 これまでにもあったことなのか、生徒らはごく自然にそれを受け入れたようだった。誰も緊張を解かず、授業への集中を継続する。張りつめた空気が教室の支配を続けてゆく。

「受動態で、forの後が非難の理由となります。その具体的な内容ですが、まずno better reason than thatを正確に解釈することが求められます。no better thanの構文自体は有名ですが――」
 地獄以上の苦しみを味わっている者が同じ教室にいることを、ほとんどの生徒はいまだ知らない。
 それが、一秒が運命を分かつほどの極限状態にあることも。
 まばゆい光と共に楽園の扉が開き、いなや慈悲なく閉ざされたことも。

 幾度にもわたって放たれた臭いが、空気の色づかんばかりに教室の一角を覆っている。
 おびただしく震えている尻がそこにあった。貞淑なスカートに浮かぶ桃のような美しい丸みは、便意そのものと化していた。足をも激しく痙攣させ、膨大な臭く軟らかいものをその内にとどめている。それは同時に、彼女の輝かしい生涯をとどめてもいた。

「――したがって、この文章の意味は、ありふれた題材を思いもよらない方法で表現した絵画は、それが正しいとは思えないというだけの理由で、しばしば非難される。となります。より自然に訳すのでしたら――」
 尻は悲鳴をあげていた。下痢をしてから、もう一時間が経とうとしている。尻は、ただ便器を求めていた。


 授業の終わるはずだった時刻から、三分が経過した。

「ですから、下から二行目のtoカンマまでが副詞節となります」
 教室の風景は変わらない。廊下から昼休みの雑踏が聞こえ、ドアの窓を覗きこんでいる者らも見えるが、教師も生徒も集中を絶やすそぶりは見られない。

「副詞節の内容自体は難しいものではありませんが、先ほど示した強調構文は訳すときにはっきりと理解を示すように注意してください。示さなければ、気づいていないものとみなされてテストでは減点されます。この文でしたら、ほかでもない、などの言葉を補うと良いでしょう」
 延長したからといって急ぐことも手を抜くこともなく、教師は重厚な講義を続けていた。わずかも静謐の崩れぬ教室は、一枚の壁をもって外界から聖域のように隔絶されていた。それでも解説は最後の行へと入り、じきに開放の時であることを知らせていた。

「次に副詞節の最後のused toですが、これは関係代名詞の目的格whichが」
  ビウウゥウゥ!!!
 突然、異様な音が教室の内に鳴り響いた。
 紙を引き裂いたように鋭い、しかし溢れるほどの水気と確かな質量に満ちた音だった。
 教師が口を止め、クラス中が目を丸める。動きだす視線の先には、ひしゃげた顔で大口を開き、突き出した尻を押さえつけている少女の姿があった。
  ブリュリュリュリュリュリュリュブリブリブリブリブウ!!!
 間髪いれず凄まじい音が響きわたる。眉を破滅的にかたむけ、顔中の肉を押し合わせて口を広げながら、彼女は全身を打ち震わせてそれをしていた。
  ブボボボボボボブリュウウウウグブギュブグプウッッ!!!
 爆発的な勢いで悪夢のような音色が轟き続ける。下劣と不快をきわめたその音は、今、このような場においては聞こえるはずのないものであった。多くの認識が追いつかぬなか、後ろの生徒のみが哀切の瞳でさなかの光景を見つめていた。痙攣しながら丸みの底を押さえ続ける汗まみれの指。いびつに膨れあがり、その先を埋めてゆくスカート。……下痢を、漏らしている尻だった。
  ブーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!
 次の瞬間、少女は転がるように立ち上がって駆けだした。背と膝を著しく折り曲げ、両手で尻を包んでねじれきった形相で疾走する。その顔は火を噴くように赤かった。異常な光景を、クラス中が息を詰めて凝視した。

「松崎さん!?」
 廊下ぎわに座っていた彼女は、すぐに後ろのドアへと到達した。
 教師が困惑の叫びを出すなか、盛大な音を立ててドアを横に引き開ける。
「えっ!?」
「きゃ!!」
 正面を囲っていた者たちを体当たりでこじ開け、彼女は廊下へと飛び出した。
 目をむいて立ち止まる生徒らの間を、眉をむごくかたむけて突進する。教室から斜めに十メートルほど先にある一つの押し扉が、彼女の向かう先だった。汚れ一つない壁の一角に、小さな赤いしるしの打たれた上品な木目のドアがはまっている。

  ブブブブブオッ!! グボボボボボボボボッ!!
 廊下の半ばから、彼女の足元にはドロドロの下痢便が落ちだした。ゆるみきった泥のような黄土色が、スカートの中から次々と派手に落下して打ち広がる。同じ色の濁流に両足を飲み包まれながら、彼女はトイレの中へと飛び込んだ。
  ブゥビイイイイイイィィィィィッッ!!
 美しく手入れされた、真珠色のタイルが敷かれた清潔なトイレ。中へ踏み込むや、数歩先にいた生徒が汚物を避けるような顔で後ずさる。他の者も、嫌悪や驚愕の形相で身を逃す。一歩ごとに排泄物を撒き散らしながら、彼女は慟哭に等しい表情でトイレの中をひた走った。
 個室はすべて埋まり数人が並んでいたが、ちょうど一つが開いて中が出てきた。そこへと彼女は直進した。
「わ!? やっ!!」
 気づくと同時に飛びのく生徒の横をすり抜け、彼女は個室の中へとなだれ込んだ。すぐさまドアを叩き閉めて施錠する。

「おふううううぅぅうーー」
  ブボゴボゴボグボゴボゴボボボボオッッ!!!
 便器へと身を向けるや、ひときわ激しい音と共に、彼女は大量の下痢便を足元に落下させた。
 新品のように清潔に磨かれた、真っ白な洋式便器がそこにあった。ウォシュレットと音消しの機能もついた、恵まれた子女にふさわしい設備である。……それは、彼女にとって天上の楽園となるはずの器だった。
「はぁっっ……あぁぁぁぁ、ぁ……」
  ボゴッ!! ゴポポポポポポポポ!! グブゴブグプッ!!
 足の動く間もなく排便が継続する。諦念か、これ以上汚してはならぬという想いか、彼女は便器の前で膝を打ち崩してしまった。下半身を脱力させてスカートをつかみ締め、みじめさに塗り尽くされた顔で下着の中へと肛門を開き続ける。人の出せうる最も汚らしい音色が響き、スカートの中から絶えず汚物が溢れてゆく。
  ビュビビビビーーーーッ!! ゴボボボゴポッ!!
  ジューーゥゥウーーーーーーッ!! グボゴボゴポンッッ!!
 後になるほどに便は溶け、ぶるぶると震える下半身は、まるで黄土色の小便を漏らしているかのようだった。両足がくまなく下痢に包まれ、靴下と上履きも悲惨な色で染まりきる。液状の大便は床へと広がってゆき、彼女の足元に哀れな水溜りを作っていった。

「はあー……はあーー……あーーーー……」
 下半身をすみずみまで汚し、彼女の排泄は終焉した。
 顔中をおびただしい汗でぐしゃぐしゃにし、彼女は下痢便の海に立っていた。物凄い悪臭。底の膨れ上がったスカートの中からはなおぼとぼとと泥がこぼれ、濡れきった裾からも同じ色の汁が垂れ続けている。
 それらすべてが彼女の腸にあったもの、そして、堪えきれなくなった肛門から噴き出したものであった。これほどの量の下痢便が腹の中で暴れ狂っていた彼女の苦しみは、気の狂わんばかりだったに違いなかった。一時間もの我慢は、他の者には無理だったことだろう。だが、その意志の強さを称賛する者は誰もいない。結局、彼女は便意に負けてぶちまけてしまったのだから。絶対に、許されない場所で。

「……あぁ……」
 やがて、彼女は糸が切れたように崩れ込んだ。
 その眼は水気に埋まっていたが、それが汗なのか涙なのかは分からなかった。

 すぐにざわめきが扉の外に溢れ始めた。
 嫌悪、軽蔑、心配、好奇……。様々な感情が波濤のように聞こえてくる。
 彼女は固く眼を閉ざし、己が作り出した肥溜めの中にただしゃがみ続けていた。


「松崎さん、大丈夫……? ごめんなさい……気づいてあげられなくて……」
 使用中の赤色が鎮座しているドアに、授業を終えた教師が静かに語りかけていた。
 その表情は、心底申し訳なさそうなものであった。彼女の後ろでは、トイレから溢れださんばかりの生徒らが見守っている。みな神妙な顔で、頬を赤めたり青めたり、口元を覆ったりしている。鼻の曲がるようなひどい臭いがその空間を満たしていた。

「職員室に行って、手の空いている先生を呼んできてもらえますか。それから、紙とちりとりを」
 手近にいた生徒に、教師はそう指示をした。彼女らの足元には、トイレの入り口と個室を結ぶ痛ましい痕跡が広がったままであった。

 すぐに一人が持ってくると、教師はしゃがみ込んで始末を始めた。
 泥のように形の崩れたクラスメートの大便が、押し付けられたトイレットペーパーに垂れ落ちんばかりに付着する。ひどく非現実的な光景だった。
「……あ、私、手伝います!」
「私も……!」
 すぐに二人の生徒が駆け寄った。一人は前の休み時間に少女と親しく談笑していた生徒だった。
「ありがとう。――廊下から先にやりましょう」
 礼を述べた教師は、はっとした様子を見せると、急ぎ外へと歩きだした。そばにいくつも置かれていたロールを手に取り、生徒らもあとを追った。

 廊下には、トイレ以上の人だかりができていた。
 同じクラスや周辺はもちろん、他の学年の生徒らも噂を聞いて集まっているようであった。

「教室で漏らして、飛び出したんだって」
「信じられない……」
「松崎先輩だって……。これやったの……」
「あの綺麗な人!? うっそ〜〜……」
 生徒らはざわめきながら、顔をしかめておぞましい光景を凝視していた。下痢便そのものの臭いが、昼休みの廊下に充満している。彼女らの記憶にいつまでも残り続けるであろう大事件だった。

「すぐに片付けます。用事がなければ教室に戻りなさい」
 教師は毅然とした顔で声を張ると、すぐさま汚物の掃除に取りかかった。
 ついてきた二人に、さらに一人が加わり、けわしい顔つきで作業を始める。クラスメートの腹の中にあったものを、その肛門から排泄されたものを、手指に質感を覚えながらぬぐってゆく。
 生徒らはなお様子を見つめていたが、一人、二人と場を去りだし、まもなくほとんど残らず姿を消した。


「松崎さん……あのね、着替えと、必要そうなもの、持ってきたんだけど……」
 まるで授業中のように閑散としたトイレで、なお一つの個室だけが閉まり、赤いしるしが浮かんでいた。
 そのドアを、静かにノックしている生徒の姿があった。手には、大きい紙袋が提げられている。隣にも同じ紙袋を手にした者がおり、彼女らの後ろではさらに二人の生徒が胸痛げに扉を見つめていた。ノックをした生徒を含めた三人は、前の休み時間を共に過ごしていた者らである。もう一人は宿題を教えてもらった生徒だった。

「……入ってる袋、ここに置くね。先生が見張ってて誰もいないから、ドアを開けても大丈夫だよ」
 個室の中は、無人のように静かだった。その前にそっと紙袋が置かれる。中には、新品の制服や靴下や下着、いくつものトイレットペーパー、分厚いウェットティッシュ、重ねられたビニール袋などが入っていた。

 生徒らは、重い表情でうつむいていた。
 トイレの床は元通りの美しさを取り戻し、窓も大きく開かれていたが、なお強烈な悪臭が漂っている。扉の向こうには、一人のクラスメートの、人生で最も醜い姿があるに違いなかった。

「私たちみんな気にしてないし、クラスのみんなもそうだから。具合が悪いときは誰だって失敗するよ」
「私も、同じ考え。どうか気にしないで」
「元気出してね。……わたし、これからも遙さんと色々なことを話したいな」
「……私も。具合が良くなったらまたお勉強とか教えてね」
 一人がふいに口を開くと、他の者もすぐに続いた。いずれも言葉だけのなぐさめではなく、心からの憐憫の情がこもっていた。

「ごめんなさい……ありがとう」
 やがて、個室の中からかすかな声が聞こえた。
 その声は憔悴しきっていたが、確かな知性と気品が感じられた。

「じゃあ、私たち教室に行くね。お大事に」
 そうして彼女らは去っていった。


「どうしてもトイレに行くことができなかったんだろうね……」
「うん。延長したのも運が悪かったし、いい年して……みたいには責められないと思う」
 教室に戻った生徒たちは、手ごろな机の周りに集まると、静かに話を始めた。
 昼休みにもかかわらずひと気は少なく、食事をしている者は誰もいない。いくつかの小さいグループがひそひそと言葉を交わしているのみだった。少女の座っていた椅子や机の上はすでに整頓されていた。

「ご飯、どうする?」
「……ちょっと無理……」
「だよね……さすがに……」
 突然起こった信じがたい事件を、彼女たちはまだ十分に咀嚼しきれていないようであった。
 もしクラスメートの誰かが急に罪を犯して逮捕されでもしたら、近しい反応を示していたのかもしれない。

「あのさ」
 しばらくの沈黙の後、一人が喉を鳴らしてから口を開いた。
「実は、私も……小五のとき、卒業式の日におなかの調子が悪くて、……漏らしちゃったことがあるんだ」
 突然の告白に、他の者が驚いた様子で耳をかたむける。真剣をきわめた顔で話しだしたのは、トイレでノックをして話しかけたり、真っ先にいたわりの言葉を口にしたりしていた生徒だった。人並みの容姿だがその瞳は力強く、短めの髪の左右をそれぞれの耳にかけた、清潔感のある外貌だった。
「そのときは本気でこの世の終わりだと思ったんだけど、実際はたいしたことなかった。どうしてかと言うと、勉強ができて馬鹿にされづらかったのもあるけど、一番は友達がみんなでかばってくれたから。だから、今回もそういうふうにしたい」
 頬を真っ赤に染めながら、彼女は一気に言いきった。
「うん、賛成」
「わたしも」
「きっとすごいショック受けてるよね。他のみんなにも声をかけて支えてあげよ」
 彼女らの方針は完全に決した。それは、少女の運命をも決した瞬間かもしれなかった。


 静寂に包まれた女子トイレ。
 固く閉ざされたドアの前から、紙袋はその形を消していた。

 個室の中には、憔悴しきった顔で行為を繰り返している少女の姿があった。
 前髪こそ汗に濡れきり乱れていたが、つややかな黒髪や清潔な制服と相まり、彼女の整った顔は皮肉にも元来の理知と美しさを取り戻していた。

 その下半身は丸裸になり、肌のほとんどが泥と見まがう黄土色にまみれていた。
 少しも弱まることのない、猛烈な悪臭。彼女はがに股の姿勢で、トイレットパーパーを巻き取ってはふとももにこすり付け、便器の中へ落とすことを繰り返していた。水溜りを踏んではだしで立っている足元には、何重にもペーパーにくるまれた下着や靴下類が、ビニール袋に封をされ並べられていた。重く濡れたスカートはそのまま大きい袋に入っている。
 汚れがひどいため後回しにされたのか、下痢便の塗りたくられた尻は、漏らしたときのままであろう姿を晒していた。その形の良さがかえって痛ましく、上品に実った二つの丸みは、まるでぬかるみにでも座り込んだかのごとくべったりと便に包まれ照っていた。ほかならぬ、そのはざまから溢れ出した便に。
 排泄物は腰近くまで遡上しており、その噴出の激しさをしのばせた。他方で、真っ先に手を着けたのか、淡い桜色の肉がわずかにのぞいている性器だけは、貴くさえある元の色と形を晒していた。しかし、その上に生えている陰毛は、便とからんでぐちゃぐちゃに固まったままの状態だった。

 後始末を続けながら、少女はときおり眉を深くかたむけて嘆くようにため息をついた。
 一時間にもわたって我慢を続けた下痢。生き地獄のようだった腹痛と便意。それが、今は彼女の下半身を覆っている。露わになっている彼女の底の小さなすぼまり――苦しみを堪えきれなかった肛門は、その吐き狂ったものに埋もれ、ただせつなくひくついていた。
 公共の場で着衣のまま排便してしまった排泄物を、そのさなかにあることを他の者に知られながら、己の身体からぬぐい続ける。……この上なくなさけない、異常な光景だが、それは確かに今、この中学校の内で行われているのだった。
 およそいかなる少女であっても、その尻には排泄のための器官がある。百人の少女がいれば、百の肛門がそこにある。不浄の穴は消化器官の果てで、彼女たちは必ず食事をし、消化をし、大便にしてそれを出す。そうして生きている以上、ときには腹の調子を崩し、下痢をしてしまうこともある。そして、行わねばならなくなったことを行うことができなかったとき、己の意思に反して下着の内へとその肛門を開いてしまうことになる。
 美しさも、賢さも、育ちも、そこには関係がない。数多に生きる少女たちの中で、この日たまたま彼女は腹を壊した。速やかにトイレへ行く必要が生じた。だが、彼女は行くことができなかった。肉体が悲鳴を上げだし、即座の用便が必要となっても、なお行けなかった。結果、便意を我慢できなくなり盛大に下痢便を漏らした。

 もしかすると、今もどこかで彼女と同じ行為のさなかにある者がいるのかもしれない。
 それも、一人ではなく幾人も。もしも彼女に恵まれたものがあるとするならば、それは、破滅に足る悲劇を経ながらも瞳から失わずにいられた光輝だろう。

 幾百万もの少女たちが、日々、学び舎へと通い、かさなる時間を生きている。
 だとするならば、それはけして珍しいことではないのかもしれない。



 すでに引退している身ではあるのですが、新しい「Lolisca Library」をささやかながら応援できればと思い、久しぶりに作品を書いてみました。
 この種のフェティシズムの魅力の一つとして挙げられる、いわゆる日常性を追求した作品です。Lolisca2.0の掌編も同じコンセプトで書かれたものが多いのですが、今回はそれらを総合した作品といえるかもしれません。日々どこかで起こっていそうな出来事を描くべく、ヒロインたちのキャラクター性は控えめにしました。最後だけ少し毛色が違いますが。
 また、本作にとりかかる前に前作「出し尽くすまで」を読んでみたところ、短時間で書いたせいか排泄シーンやその前後にクオリティの低さを感じましたので、こちらも該当箇所を中心に手を入れてみました。吐き下しものが好きな方は再読してみてください。
 過去の者である私が今になりでしゃばるようなことは慎みたく思いますので、次の作品は、もし書くことがあるとしても、かなり先になるはずです。
 AJさんによる新しい「Lolisca Library」を、これからもよろしくお願いします。


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