No.18「静寂の海で(後編)」

 岩崎 真雪 (いわさき まゆき)
 10歳 みそら市立下里第一小学校4年1組
 身長:132.7cm 体重:27.4kg 3サイズ:61-47-65
 透明感のある長めのおかっぱが可愛らしい、内気でおとなしい女の子。

 ヒロインの物語開始直前一週間の日別排便回数(←過去 最近→)
 1/2/1/1/8/15/11 平均:5.6(=39/7)回 状態:下痢

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 がんばることにしたから――。

 淡々とした解説と、乾いたチョークの音のみが続いてゆく教室。
 真雪は、授業に参加していた。十二月三十日の三コマめ。算数の時間。
 あれから家でおしりを洗いお粥を食べて横になったのち、少しでも授業に出ておきたいと思い立ち、再び長い雪道を通ってこの校舎にやってきたのだった。
 強い意志力が芽生えていた。
 窓風はこのような無理をせず休めるだけ休むように言ってくれたが、しかし真雪はそれでも、明確な形で今すぐに自身を頑張らせたいと感じたのである。

 かつてなく澄み透った勇ましい瞳で黒板を視野に掴みながら、カリカリと逞しくノートを書き進めてゆく真雪。
 彼女の中で、何かがはっきりと変わっていた。
 ひたむきに前を見つめるその小さな顔は、なお疲れの色に覆われ、下痢の痕跡が滲み出ている。この最後の授業の中ごろに、突如として教室に入ってきた真雪。昨日までのこともあって、クラスの誰もが彼女の大遅刻の理由を把握し、今朝から今に至るまでの間に汚らしいことを何度もしたのだろうと眉をひそめた。
 が、今の姿を見ていると、そう思うことが申し訳なく感じられてくる。
 それどころか、そのような感情を抱くのが愚かにさえ思えてくる。
 そもそも、他人の体調不良を、――それも、女の子の下痢を笑うなんて、人として最低だ。
 真雪は真剣に授業を受けていた。

 おなかの具合は、ことのほか良かった。
 駐車場でやってしまってからこれまで、トイレで大便をしたのはわずかに一回。お粥を食べている最中にもよおし、水のようなものをピーピーと出してしまったが、それ以後はわずかな腹痛にさえ襲われていなかった。
 何時間かベッドの中でおなかを暖め続けた間も、再び寒くなりだした雪道を二十分歩き続けた間も。
 あの最悪の排泄行為で、出せるものをあらかた野に放ってしまったからだろうか。あの激しさからしてそれもあるだろうが、しかし真雪は本当の理由を感じていた。――おなかが暖かいのだ。窓風がくれた毛糸のパンツのおかげで。今、真雪は新しい無地のパンツを下に穿き、その上に窓風のパンツを穿いている。それが、信じられないほどに暖かい。

 あまり暖房が効いておらず、今日も教室の空気は冷たい。普段の真雪なら、これでまた輪をかけて酷く下痢をしてしまうことだろう。しかし、今は冷えない。ぬくもりに包まれている。
 真雪が教室に入った時、入れ替わりに一人の少女が険しい表情でおなかを抱え教室を出ていった。彼女は二十分後に戻ってきた。そういう寒さなのだ。真雪でなくても、か弱い小学生の女の子なら誰もが下しかねない。それでも、真雪だけはもう平気である。
 本当に、夢のようにおなかが暖かかった。
 だから彼女は来れたのだ。


  キーンコーンカーンコーン――

 そしてあっという間に授業が終わる。
 今日、真雪が受けられたのはわずかに三十分間。しかし得られたものは大きかった。
 お正月も休まず頑張って勉強して、遅れた分を完全に取り戻したいと思う。

 先生が扉を開け放して教室を出てゆくと、すぐに真雪は隣にある栄冠組の教室へと向かった。
 何より、窓風に会いたかった。元気になった姿を見せたかった。瞳を結び、言葉を交わし、体を近づけて互いのぬくもりを感じながら、あの雪道を二人だけで帰りたかった。

 珍しく栄冠組の方が先に授業が終わったらしく、すでに人の出入りが始まっていた。
 真雪は胸を鳴らしながら教室に入った。窓風のことを想うと同時に、それまでにない感情も生じていた。彼女は決めていたのだ。ベッドで窓風とのことを思い出していた時に、一日も早く、絶対ここに上がるのだと。

(え……?)
 ――だが。教室全景を視界に捉えた真雪は、二つの予期せぬ事実と出くわした。

 一つは、栄冠組の生徒のほとんどが、なお席を立たずに机で教科書と格闘していること。
 すぐに真雪は思い出した。栄冠組だけは、三コマ目が終わったあと、さらに毎日一時間残って小テストを受けているのだった。――すっかり忘れていた。おそらく、これまでは遠い世界としてここを見ていたからだろう。
 が、それはどうでもよかった。空き教室で遅れた分を取り戻していれば、一時間ぐらいはすぐに過ぎる。

 彼女の意識を引いたのは二つ目だった。
 窓風が、教室にいなかった。早退でないのは一目で分かった。目の前の一列目。いつも窓風が座っている席の机上には、ノートや教科書が乱雑に広げられていた。まるで授業中そのままの風景で、放置されていた。
 どうしたんだろう――?
「……あ、あの……、白鳥さんは、どうしたんですか?」
 シャープペンや消しゴム、さらに蛍光マーカーまで無造作に投げられている。
 周囲から浮いた奇妙な光景。真雪は無性に気になり、勇気を出して後席の少女に窓風のことを尋ねた。
「白鳥さんなら、授業が終わるなり、教室を出ていったわよ」
「そうですか……」
 なんということのない答え。
 だとしたら、そんなに急いでどこに行ったんだろう……?
 戸惑いながら、真雪は「ごめんなさい」とお礼を言おうとした。――が、
「トイレに、行ったんじゃないかしら? 顔色が真っ青だったから、具合が悪かったんだと思う」
「ぇ……?」
 直後には目を丸くして固まっていた。
 いきなりに重ねられた、小さく、どこか申し訳なさげなささやき。聞いた瞬間、真雪は驚愕の電撃に胸を貫かれた。にわかには信じがたい、あまりにも唐突な内容。
(うそ……?)
 心がぞくりと震える。
 あの白鳥さんが、具合を悪くしてトイレ……?
 真っ青な顔色でトイレ……?
 それって――、
「もういいですか? 暗記に集中したいんですけど」
「ご、ごめんなさいっ!」
 血がどろつくような感覚の中。冷ややかな手に心臓を掴まれ困惑を始めた真雪だったが、少女の言葉で現実に引き戻された。真雪は咄嗟におじぎをすると、慌てて教室から飛び出した。

 そのまま、廊下の突き当たりにあるトイレへと向かった。
 行くべきではないような気もしたが、窓風が気になる想いの方が強かった。
(どうしたんだろう……気分でも悪くなったのかな……だいじょうぶかな……)
 むりやりに紡ぎ出した言葉を心の中で詠唱しながら、重く感じられる足を一歩一歩と前に出してゆく。
 雪のように冷たい血液が、胸の奥をどくんどくんと蠢く。家に向かう生徒で溢れ始めた廊下。視界が揺れていて、真雪は何度もぶつかりそうになった。

 意外と人気のないトイレに入る。
「……っ」
 と同時に強烈な悪臭がむわっと漂い、真雪はたまらず顔をしかめた。
(やだ……このにおい……)
 濃密な硫黄、あるいは腐った卵のような、不快きわまりない異臭がトイレの中に充満していた。
 大便の臭いだ。ただし腹を壊しているとき特有の、未消化の下痢便の臭いである。
 見ると、入り口最寄にある個室のドアが閉ざされていた。掛けられた鍵、使用中を示す赤。他の個室は開いていた。間違いなく、この個室が悪臭の源だ。
  ブビィッ!!
(あ……っ……)
 そう気付いた瞬間、個室の中から下品なおならの音が鳴り響いた。さらに、
  ブビビブリブリブリブリブリ!!
  ブボッ!! ビチビチビチビチビチブピッッ!!
 連続して、次々と恥ずかしい下痢の音が放たれた。
 ブピブピと汚らしい破裂音、完全に下している排泄の音。真雪は全てを悟り、ごくんと唾を飲み込んだ。
 ……窓風は、下痢をしていた。

  ブーーーーッ!!
(やだ……、白鳥さん……)
 よどめく下痢の臭いの中、物凄い屁の音がぶちまけられる。
 真雪は脅えた表情で全身をぎゅっと強張らせた。
 この校舎には他に女子トイレがない。目の前の個室の中にいるのは、正真正銘、あの白鳥窓風なのだ。

  ブピップピピッブピブピブピッ!!
 わずかに間が入りながら、さらに壮絶な下痢便噴射の音が続く。
 おそらく授業中に下痢に襲われ、終わると同時に駆け込んだのだろう。
 にも関わらずいまだに激しく叩きつけているあたり、腹具合はかなり酷いようだ。
  ブビブチュブチュブチュブチュブチュビチュ……!
(……白鳥さん……、ゲリ……、しちゃったんだ……)
 どくどくと喘ぐ胸を両手で抑えつけながら、切ない瞳でドアを見つめる真雪。
 どこまでも信じがたい、異様な光景であった。
 あの美しく高貴な窓風が、情けなく腹を下し、いま扉の向こうで尻を出して下痢便を排泄している。顔面蒼白で個室の中にしゃがみこみ、惨めに股を開いて乱れた糞を和式便器にぶちまけているのだ。こんなにも下品な音を、その暴れ狂う肛門から奏でながら。

  ブリュリュビチビチビチブポッ! ……ブジュビヂヂ……ビチブボッ!!
(…………)
 下痢をした天使。ビチビチに下した窓風の下痢便の臭いが、個室の中から渦巻いている。
 真雪はもはや、心の中でさえ言葉を紡げなくなった。
 わずかに耳が慣れたせいか、「はあ、はあ」という、荒々しい吐息がはっきりと聞こえてくるようになった。声未満のうめき。おそらく、必死に押し殺しているのだろう。だいぶおなかが苦しいようだ。
  ブブゥゥーーッッ!!
 またもや、爆発のように凄まじい勢いでおならの音が鳴り響く。
 まるで口をすぼめて水を吹き出すような音だが、実際、今の彼女の肛門はそういう状態なのだろう。
 真雪は胸が痛くて痛くてたまらなかった。窓風が放つ音が痛い。その痛ましい音が痛い。
  ビチュビチュビチュッ……ブヒッ……ブリブリブピピブピッ!
 窓風は今、どんな気持ちなのだろう。腹を壊して塾のトイレに駆け込んで。その荒れ下った腹の中身を尻から便器へとぶちまけて。品性のかけらもない野蛮な音、鼻がねじれそうにくさい猛烈な悪臭を撒き散らして。
 やはり、死にも等しい羞恥と屈辱に胸を焼かれているのだろうか。恥ずかしいおしりをまくり出して。下痢による物凄い腹痛に悶え、汗を流して震えながら。

 ――その時だった。
 後ろから人の気配を感じ、はっとして真雪は振り返った。
 見ると、三人の少女が鼻をつまんで苦い顔をしながら、連れ立ってトイレへと入ってきていた。
 ついに人が来てしまったのだ。怪訝な表情で眺められ、真雪は体をすくめてうつむいた。
  ブボポッッ!! ブリブリビチビチビチビチビチ!!
 個室の中からは、なお激しい肛門の咆哮が響きわたっている。
「やーねー」
 その音の切れ間に、少女の一人が大きな声でそう言った。つられてクスクスと嘲笑が起こる。
 すると、個室の中からの音がぴたりと止んだ。
 慌てて肛門を締め付けたようだ。窓風の羞恥がはっきりと解り、真雪は自分まで頬を赤く染めた。少女たちの嘲笑はますます激しくなる。あまりにも惨めだった。

 真雪が個室に入るつもりがないことを見て取ると、少女たちはそれぞれ個室へと入ろうとした。
 が、そこで一人が急に立ち止まった。
「ちょっとちょっと、待ってよ」
「え?」
「どうしたの?」
 止まった少女が慌てたように口を開くと、他の少女たちもドアの前で足を止めた。
「わたし、ここ入りたくない……」
 それから少女はそう言うと、窓風が篭っている個室のドアをいかにも不快そうに指差した。彼女はその隣に入ろうとしていたのだ。横で下痢をされているのが嫌なのだろう。
「えー……わたしだってやだよ……」
「わたしもやだ……隣が下痢してる個室に入るなんて……なんか汚い……」
 すぐに他の二人が難色を示す。個室は全部で四つ。余裕はないのだ。
「じゃあ、わたしにここに入れって言うの?」
「ごめんね。運が悪かったってことで」
「罰ゲームだとでも思って」
「うーー……」
 結局、少女たちはそのまま個室へと入っていった。
 下痢をしている窓風をまるで汚物として扱うかのような会話に、真雪はずきりと心を痛めた。
 汚らしい行為の最中なのは事実だが、これはいくらなんでもあんまりだ。声だって全部聞こえている。窓風の静寂が、かえって痛ましく感じられる。

 だが、ほどなくしてシューシューと放尿の音が聞こえ始めると、
  ブヒッ……ブピピッ……
 窓風の個室から、小さく下痢の音が聞こえてきた。
(……がまん、してるんだ……)
 それで真雪は気付き、ますます胸を痛めた。
 今のは出したのではなく、出てしまったのだ。今の小さな排泄が便意に敗北しての情けないちびりであると、真雪は気付いてしまったのである。似た経験があるからよく分かった。
  ……ブプチュッ……!
 さらに惨めな音が続く。「はあぁぁ……」と、苦しげにかすれた溜息のように重い吐息も同時に聞こえた。
 苦悶し震えながら、必死の思いで尻の穴を締めつけているのだろう。
 よく考えれば無理もない。和式便器の上で大便座りをしているという状況に加え、したたる下痢便と脂汗で彼女の肛門はぬめりきっている。この肛門抑制は地獄のようにつらいはずだ。
(早く終わらせて……)
 真雪はまるで自身のことのように祈った。
 下痢でピーピーの窓風。彼女の腹の中にはまだ、苦しみの源の未消化物が大量に煮えたぎっているのだろう。
 灼熱の痛みに腹をねじられ、猛烈な腹圧による激しい便意に苛まされて。下りきった腸の中身を出したくて出したくてたまらないことだろう。

 しかし、不幸にも――。
「くさいね……」
「うん……」
 新たに二人組が入ってきた。やはり、鼻を手で覆って顔をしかめている。
 今度の少女たちはおとなしそうで、配慮からか声も小さかったが、やはり他人という負荷であることに変わりはないだろう。窓風もいずれ存在に気付くはずだ。
 いっそう表情を重くした真雪を尻目に、二人は窓風から離れた奥側の個室にそれぞれ並んだ。実際、窓風の下痢の臭さは物凄い。本当に酷い腹具合のようだ。
「やだあ、くっさー……」
「うえ……、なにこのにおい……? ゲリ?」
 その時、さらに、大きな声がトイレの入り口から聞こえた。
「え、なに、どしたの? ……っ、う……っ……」
「……誰かおなか壊してウンチしてるね」
 見ると、今度は四人組の少女が不快そうな表情で入ってきていた。……最悪だ。真雪は頭を真っ白にした。
 残酷にも、ここにきて増え始めた利用者。すぐにもう一人入ってきて、三つの個室の前には小さな行列ができた。窓風が篭っている個室には誰も並ぼうとしない。その窓風はあのちびり音以後、険しい呼吸を除き、完全に静寂を保っていた。放尿の音が流れる中、個室の中まで聞こえる大きさのひそひそ話が続いてゆく。

 ……そうして約数十秒の後。
 示し合わせたかのようにして次々と水洗音が鳴ると、最初に入った三人の少女たちが個室から出てきた。すぐに二人組、さらに四人組の中の一人が入れ替わりに個室へと入りドアを閉める。
 むわむわと便臭が渦巻く窓風の個室は、依然として沈黙を保っていた。苦しげな吐息だけが漏れ聞こえ、もはやその気配は不気味だとさえ表現できる。
 真雪は数歩後ずさり、入り口側の壁に背をつけて沈鬱な表情で震えていた。
 また新たに少女が入ってきて、しかめ顔でその前を通る。個室を出た少女たちは洗面台へと向かった。
  グウゥゥ〜〜ギュルルルルグウウウゥゥゥ〜〜
 その時、肉食獣のうなり声のような物凄い音が、唐突に個室の中から発せられた。
 誰もが何事かと思ったが、すぐに分かった。中で下痢をしている少女――窓風の腹が雷鳴を上げたのだ。下痢特有の、乱れた腸の過剰蠕動による下腹部の轟きである。……しかしそれは、真雪には悲鳴のように感じられた。
 わずかな静寂。数字にしておよそ四秒か五秒。
 それでようやくトイレの空気が弛緩すると、少女たちは蛇口に手を伸ばして話し始めた。
「なんか……今、すごい音したね……」
「……うん……あれって、ゲリ」
  ブーーーーーッ!!!
 その会話は、突如として個室内から鳴り響いた激烈な勢いの屁によって叩き消された。
 直後、少女たちが驚愕の瞳で振り返った瞬間、
  ブバビチビチビチビチビチビチビチブボッッ!!!
  ブリュリュブリュブリュブリュブビビビーーーーーッ!!
 窓風の肛門が、決壊した。
 物凄い破裂音が響きわたる。直腸に溜め込まれたおならと下痢便の暴発噴射。力尽きた尻の穴から、荒れ狂う腹の中身が一気に便器へとぶちまけられたのだ。音だけで尻から便器へ叩きつけられる茶色い滝を想像できる、凄まじい下痢の響き。下痢を我慢するという自分との闘いに、誇り高き窓風が完全敗北した瞬間だった。
  ブピーーーッ! ビチブブブブブーーーーッ!!
  ブリュリュリュブポッ! ピーブピピピピーーーッ、プボッ!
 さらに猛々しい噴出が続く。おそらく必死に肛門を締め付けようとしているのだろうが、もう、少しも締まらないのだろう。あまりにも情けない排泄。まさにピーピーの状態。腹の中の汚物を垂れ流している。おそらく、さっきの猛烈な腹鳴りは、限界を迎えた窓風のおなかの叫びだったのだ。
  ブウゥゥ〜ブヒヒブピブピビヒ〜〜
 爆発事故のようなその脱糞の最後に、またもや窓風は大きな屁を放った。
 ゆるくて水気のある屁であった。ショックで自失していた真雪は、その間延びした音でようやく思考を取り戻せた。が、その信じられないほどに下品な音色に、足元が崩れるような切なさを覚えた。あの美しく聡明な窓風の尻から出てきた音だとは考えたくない。自身の肛門からこんなにも汚らしいおならが出てきた窓風の惨めさを想うと、胸の詰まるものがあった。

 そして、静寂。
 トイレの時間は止まっていた。驚き、声など出せない。少女たちは無言で互いに目を見合わせたり、個室のドアを呆然と見つめたりしている。唯一聞こえてくるのは、窓風の個室からのぽちゃりぽちゃりという水音だけだ。おそらく、盛り上がりきった肛門から腸液がしたたっているのだろう。
 ますますひどくなった悪臭の中、真雪は、もうこれ以上ここにいるべきではないと感じ始めた。
 すると、ずうっ、と鼻をすする音が扉の向こうから聞こえた。
 聞いた瞬間、胸がざくりと切られた。
 もう聞いていられない。
 真雪は音を立てずにトイレから外へと駆け出した。


 窓風がトイレから出てきたのは、それから十分以上あとのことだった。
 すでに生徒はみな帰宅し、廊下は静寂に包まれていた。栄冠組のテストはとっくに始まっていた。
 真雪は、トイレの入り口からは死角になる、側の階段の真ん中に隠れて様子を見守っていた。

 こそこそと廊下の様子を伺いながら、窓風はトイレからよろめいて出てきた。
 顔色が青白く、表情がげっそりとやつれているのが、遠目からもよく分かった。
 そしてあたりに人がいないことを確認すると、窓風はいかにも必死な表情で、素早く逃げるようにトイレから歩き出して距離を置いた。まるで泥棒か何かのような、下賎なふるまいであった。

 そして、中腰で腹をさすりながら、よたよたとおぼつかない足取りで教室へと歩いていった。
 今朝の輝きなどまるで見受けられない、惨めで情けなく、弱々しい姿であった。
 下痢をした窓風。体力の大半を肛門から吐き出したからだ。本当に、窓風は見事なまでに下痢をしたのだ。

 前の授業中のまま止まっている窓風の机。
 その上、大切なテストに遅刻。
 痛ましく憔悴した彼女の顔を見て、周りの生徒たちは何を思ったことだろうか。


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 あれから、およそ三十分後。

 落ち着きを取り戻した真雪は、予定通りに空き教室で窓風を待っていた。
 四年生の授業終了から一時間後に、今度は五、六年生の授業が始まる。それまでは、開放された教室を自由に使って良いことになっていた。

(早く、会いたいな……)
 あんなことの後であるが、真雪は、やはり窓風といっしょに帰りたかった。
 目の前で演じられた窓風の失態に対し、軽蔑の思いなどは毛頭なかった。
 最初は不気味な動悸が収まらなかったが、ぬくもりを欲するうちにやんでいた。

 もう、あれを惨めだと思わないことにした。
 下痢をしてしまったのだから仕方がないと考えることにした。
 窓風だって下痢をするのだ。どんなに普段が美しく、誇りと気品に満ち溢れているとしても。人間なのだから下痢だってするのだ。……とは言っても、もちろん、見なかったことにして接するつもりだが。

 そして、もう一つ大切なこと。
 真雪は今穿いている毛糸のパンツを、窓風に返さなくてはならないと感じ始めていた。
 おそらく窓風は拒むだろうし、早くも大切なものになったそれを返してしまうのは自分にとっても悲しいが、それでも、そうしなくてはならないと考えるに至っていた。
 窓風がなぜあれほどに酷く下痢をしてしまったのか、真雪には思い当たることがあったのだ。
 ――強く、違和感を覚えた言葉があった。

『わたしも経験あるから分かるよ』
 今朝の通塾中に真雪がおなかを冷やしてしまった時に、窓風の口から出た言葉である。
 この言葉を聞いた時、反応こそ示さなかったが、真雪は心のどこかで、その真実性を疑ったのであった。
 状況からして、自分も腹を冷やして下痢をしたことがあるという告白に他ならなかった。が、真雪には、窓風がそれに苦しんでいる姿がどうしても想像できなかったのだ。
 下痢というのは、惨めで汚らしい病である。情けない腹痛に悶えながら、下品な破裂音と共に、強烈な悪臭を放つ未消化の泥状便を便器へと叩きつける。――女の子にとっては最も起こってほしくない、最低の類の体調不良。大便それ自体さえするのかどうか疑わしい窓風がそんな恥ずかしい行為をしうるとは、とてもではないが思えなかった。

 その戸惑いが、心に焼きついたのだった。
 絶対に嘘をつきそうにない窓風の口から、にわかに信じがたい言葉が飛び出したことからの困惑。
 もちろん、今では真実だったと分かる。唐突に示された、"窓風さま"でさえ、時には恥ずかしく下痢をしてしまうという事実。まさに窓風は、情けない腹痛に悶えながら、下品な破裂音と共に、強烈な悪臭を放つ未消化の泥状便を便器へと叩きつけていた。本当に、彼女も自分と同じように、おなかを冷やして下痢をしてしまった経験があったのだ。

 そうすると、真雪はもう気付くしかなかった。
 もしかすると、窓風がきょう下痢をしてしまったのも、おなかを冷やしてしまったせいではないかと。
『私ね、冬はおなかを冷やさないように、いつもこうやって重ね穿きしているの』
 パンツをくれた時の言葉が思い起こされる。
 この寒さの教室で、窓風は今、パンツを一枚しか穿いていないのだ。自分だったらひとたまりもないだろう。真雪は特別に弱いとしても、窓風がもはや人間だと分かった以上、この寒さは十分に下痢をしうる寒さである。間違いなく――とまでは言えないが、可能性は高かった。

 だとしたら、窓風が痛ましく下痢をしてしまったのは、自分のせいでさえある。
 だから、真雪はこの温かい毛糸のパンツを窓風の身体に返さなければならないと考えたのだ。
 たとえそれによって自身が再び下り腹に苦しむことになったとしても。今の彼女には、このぬくもりが必要なはずだ。仮に腹を壊した原因が何か別のものだったとしても、下痢をしている時は、とにかくおなかを暖めるべきだろう。

(白鳥さん……)
 さっきの授業中以上に真剣な表情で、真雪は両手をぎゅっと胸に押し付けた。

 憐れにおなかを痛め、水のように便を下し、弱々しく震えていた窓風。
 トイレからよろよろと出てきた時の、あのやつれた表情が目から離れない。
 今の彼女は、まるで翼を失って地に堕ちた天使だ。
 本当に、自分を助けてくれたせいで彼女がこうなってしまったのだとしたら、申し訳なくて泣きそうである。

 彼女の力になりたい。
 ぬくもりを返して、あの力強さと美しさを、少しでもいいから、早く取り戻してほしい。
 あの雪に照らされて光り輝いていた姿を思い浮かべながら。真雪は、窓風のことを想い続けていた。


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 そして、さらに十分後。

(……もうすぐ……)
 真雪は、栄冠組の前の廊下で、窓風の授業が終わるのを待っていた。
 思っていたよりも早く六年生が次々と教室に入ってきて、いづらくなり出てきたのである。
 やはり受験が近いからだろう。廊下も背の高い上級生が行き来するようになり、校舎中がぴりりとした雰囲気に包まれつつあった。

(早く終わらないかな……)
 その空気にあてられたわけではないが、真雪の思いもまた緊張に染まりつつあった。
 ついさっきになって、急に不安な事柄が生じたからである。
 野糞をした場所に埋めた下痢まみれのパンツ。とりあえずの処理として雪をかぶせたのだったが、運悪く、少し前から雨がしとしとと降りだしてしまったのだ。廊下に出て窓の外を見るなり気付いた。雪が溶けてパンツが露になってしまうのではないかと、真雪は危惧を抱き始めていた。
 幸いにして雨は傘がいらない程度に弱いし、雪はそれなりに厚くかぶせてあるから、おそらくは大丈夫だろう。が、それでも、できることなら、今すぐあの駐車場へと向かいたかった。パンツのゴムに「四年一組 いわさき まゆき」と名前が書いてあるからだ。もし誰かに見られたらと思うと、真雪は気が気でなかった。
 パンツを入れるためのビニール袋はすでに用意してある。一人で掘り返す勇気を出せず、塾の帰りに窓風に見守ってもらいながらやろうと考えた真雪であったが、その臆病さが裏目に出てしまったのだった。

 時計と栄冠組の教室のドアとを交互に眺めながら、もどかしく大好きな人を待つ。
 その内にふと尿意を覚え、真雪はトイレへと向かった。

(やっぱり、たくさん飲んだからかな……)
 塾に着いた時も一回行っていた。家でお粥と共にお茶をたくさん飲んだからである。
 おしりを拭いてもらっている時に、水分補給を十分にするよう窓風に言われたのだった。
 へたをすると自分よりも二十センチ以上背の高い上級生、殊に男子に脅えながら、真雪はちょこちょこと廊下を歩いて女子トイレへと入った。どこかから、「かわいい〜」とはやす女子の声が聞こえた。


(あ……)
 中を見ると、入り口最寄の個室を除き、残り三つが使用中になっていた。
 窓が開いているおかげか、あれほど物凄かった窓風の便臭はすでに消えていた。ここだけ空いていたのは、単なる偶然だろう。
 わずかに躊躇したが、真雪は、窓風が大便をしていた個室へと入った。

(ここで、うんちしてた……)
 鍵をかけ、今は静かな和式便器を見下ろす。
 ほんの数十分前、窓風はこの陶器にまたがり、汗まみれの尻から下痢とおならを噴射していたのである。
 窓風が腹痛に悶えながら下痢便を排泄した便器。分かっていたことだが、真雪はえも言われぬ背徳を感じ、胸をどくりとさせた。
「っ……」
  シュイイイイイィィーーーーッ……
 素早い動きでパンツを下ろし、愛らしいわれめの中央から勢いよくおしっこを始める。
 ふと股の間に目をやった真雪は、陶器が不自然なほどにピカピカと綺麗なことに気がついた。まるで新品のようだ。
(……白鳥さん……)
 すぐに理由に思い当たって心を痛めた。飛び散った下痢便が丁寧に拭い取られた結果だと気付いたのだ。
 むしろ、よっぽど酷い汚れ具合だったのだろう。後始末の徹底ぶりが、かえって痛ましかった。

 おしっこを出し終えた真雪は軽く腰を振って残尿を払い、やはり素早い動きでパンツを穿いた。
 ほんの数十秒下半身を出していただけなのに、もう寒気がおなかにまとわりついている。真雪は、冬のトイレが大嫌いだった。
「っ!」
 ――が、立ち上がって足元を見下ろすと、その感覚は驚きに打ち消された。

(やだ……)
 和式便器の後方一帯、タイルの隙間のセメントが、薄い黄土色に染まっていたのだ。
 どうしてそうなったのかは、すぐに分かった。昨日の自分が隣の個室で全く同じことをしたから。……窓風も、便器の外に下痢便を噴射してしまったらしい。おそらく、個室に駆け込んでパンツをずり下ろした瞬間に。どうやら、相当にぎりぎりの状態だったようだ。よほど酷く下していたのだろう。
(白鳥さん……)
 胸がずきずきと痛む。全く同じ経験をしてしまっただけに、窓風の心の痛みは手に取るように分かった。
 情けなくも床に撒き散らしてしまった自身の下痢汚物を、その悪臭と惨めな形状と、そして軟らかい感触に悶えながら、必死の思いで拭き取った窓風。しかし、セメントだけはどうしても綺麗にできず、自分の腸の中の色を残し、個室から逃げなければならなかった窓風。……自分でさえ、恥ずかしくて泣きそうになったというのに。誇り高き窓風が味わった羞恥と屈辱は、嘆きにさえ等しかったことであろう。
(……かわいそう……)
 窓風の排泄物の色を見つめながら、真雪はやりきれない切なさに小さな体をきゅっとちぢこまらせた。
 常に弱者だった彼女が他人のことを可哀想だと感じたのは、もう一年以上ぶりかもしれなかった。


  ジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ……
  ガチャッ……

 暗い表情で個室から出る。
 目の前には背の高い六年生が立っていて、かわりに個室へと入っていった。
 何気なく目をやると、他の個室はやはり使用中になっていた。している最中に何度か水音は聞こえたような気がするので、使用者は替わっているのだろう。三つの個室の前には、五年生ぐらいの身長の少女が一人待っている。五、六年生の授業時間が近づき、徐々に使用者は増えつつあるようだ。

 ――眺めながら洗面台に向かう途中で、真雪ははっとして足を止めた。
 個室が空くのを待っている、栗色の髪を長く伸ばした女の子。その様子がおかしかった。
 険しい表情をしながら、左手でぎゅっとコートの裾を掴み、右手でぐるぐるとおなかをさすっている。わずかに背筋が曲がっていて、よく見ると、つまさき同士を擦り合わせていた。……どうやら、下痢をしてしまっているようだ。Nのバッグを背負っているので、塾に着くと同時に慌てて来たのだろう。
(やっぱり、おなか冷やしちゃったのかな……?)
 少女は、いかにも寒そうにぶるぶると体を震わせてもいた。
 上級生が下痢をしている様を見るのなど、これが初めてである。やはり、これほどに寒いと、体力や年齢に関係なく、誰でも運が悪ければおなかを壊してしまうのだろうか。

  ジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ
 真雪が蛇口に手を伸ばすと、奥から二番目のドアが空いて少女が出てきた。
 と同時に、下痢をしている少女が隙間をくぐるようにして中に飛び込む。
  バタンッ! ガチャッ!
 荒々しくドアが閉められ、施錠の音が響く。出てきた少女が怪訝な表情で振り返るのと同時だった。
 そしてわずかな静寂の後、
  ブリブリブリブリブリブリブビビビビビビーーーッ!!
 個室の中から、派手に下痢の音が響きわたった。
  ブリュチュブポポポポポッ! ブピーーーー!!
 さらに恥ずかしい音が連続する。すごい勢いだ。音の質感も水に近く、だいぶ調子が悪いようである。
  ブヒィ……ッ……
 ――が、直後に豚の鳴き声のような屁が放たれると、個室の中は静かになった。
 そのまま、一秒、二秒、三秒――。
(……もう、終わったの……?)
 手を洗いながら、真雪は困惑を覚えた。しかしその瞬間、

  ジャアアアアァブビビブピピビィィィーーーーーーーーッ!!
  ビチビチビチッ! ブポッッ!!
「っ……、」
 水洗の音と共に、肛門が水便を噴射する音が猛々しく響きわたった。

  ……ブリ、ブリブリ……ブリリ……
 そして今度は穏やかなブリブリ音。全開にした肛門を再び締めつけたようだ。
 それで真雪は気が付いた。どうやら、水を流す音で下痢の爆音を隠そうとしたらしい。さっきの静寂は、タンクに水が溜まるのを待っていたのだろう。今もおそらくそうだ。いかにも年上のお姉さんらしい行動だと真雪は感じた。……哀れにも、爆音が激しすぎて、音消しはほとんど意味をなしていなかったが。

  ジャアアアアァァァーーーリビュチブリブピビピ……ッ
  プウゥゥゥ〜〜ッ
 数秒後、また、水洗音と共に湿った破裂音が聞こえ、さらに可愛らしいおならが続いた。
 幸いにして、今度はだいぶ隠せていた。ガスの噴出も攻撃性がなくなり、具合が落ち着いてきたようだ。
 代わりに濃密な下痢の臭いが漂い始める。窓風のそれよりも酸味が強く、腐ったチーズのような刺激臭であった。

「……ユミちゃん、どこ?」
 手を洗い終えた真雪がハンカチを取り出すと、六年生らしき女の子がトイレに入ってきて、そう言った。
 わずかの後、下痢をした少女が入っている個室からコンコンとドアを叩く音が響く。
「大丈夫?」
 すると、女の子はその個室の前に行き、心配そうに声をかけた。おそらく、友達かお姉さんあたりだろう。
「……うん……」
 また少し遅れて、個室の中から弱々しく恥ずかしげな声が聞こえた。
「受付のお姉さんに言ったら正露丸くれたよ。トイレの前で持って待ってるから」
「ありがとう……ごめんね……」
「わたしのことは気にしないで、ゆっくりね」
 便臭を嗅がれる羞恥を察したのだろう。用件だけ伝えると、女の子はすぐにトイレから出ていった。

  ブリリリッ! ジャアアアアァァァーーブピッ!ーッッッ……、ポチャン……
 それからすぐに再び下痢の音が聞こえ、焦ったように水を流す音が響き、さらに水分の落下する音が続いた。
  ブオッ!
 直後に、またおならが爆発する。おそらく、意に反してつい出てしまうのだろう。
 その下品な音が響く中、真雪も静かにトイレを後にした。
 彼女がその後どうなったかは、廊下が五、六年生でごった返したため、見ることはできなかった。


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(どうして……?)

 真雪は、悲しげな表情で戸惑っていた。
 あれからさらに三十分後。すでに上級生の授業さえ始まって再び静寂となった廊下に、一人たたずみながら。
 どういうわけか、いまだに栄冠組の教室のドアが開かないのだ。
 中からは、なぜか講義の声が聞こえてくる。テストが終わったのは間違いないが、授業をしている理由が全く分からなかった。今日で今年最後だから、特別に何かしているのかもしれない。――そう考えながら健気に待ち続けている真雪だったが、すでに十分、二十分、と、動きのない時間が過ぎ去っていた。

 早くいっしょに帰りたいのに。早くパンツを掘り出さないといけないのに。早く――。
 胸が凍りつきそうに、焦りがつのってゆく。切なさがこみ上げ、真雪は小さく鼻をすすった。
 冷たい孤独に押し潰され、可哀想な真雪は泣きだしそうにさえなっていた。

 ――そんな中でのことだった。
(あっ……?)
 真雪は目を丸くした。
 突然、一人の少女がどこからともなく歩いてきて、教室の様子をドアに近づいて伺いだしたのだ。
 気がついたらすぐ傍まで来ていた。背中には真雪と同じ、Nバッグを背負っている。身長からしても、どうやら同じ四年生のようだ。
「まだみたいね」
 そして少女はいきなり真雪の方を振り返ると、そうささやいた。
「ぇ――」
 真雪は驚き、反応できなかった。答えたかったが、小さく開いた可愛らしい口をぱくつかせることしかできなかった。遅れて口を開きなおすと、もう彼女は廊下の向こうへと歩き始めていた。

(……どうしよう……)
 困惑の中にもわずかなぬくもりを覚えながら、ぼんやりと少女の背中を眺める。
 すると、少女はトイレへと入っていった。その時、入り口から別の少女が顔を出すのが見えた。どうやら、彼女たちも授業が終わるのを待っているらしかった。
 もしかすると、何か知っているかもしれない――。
 咄嗟に、真雪は自分もトイレへと歩き出していた。勇気を出すよりも早かった。


「あっ」
 トイレに入ると、さっそく今の少女と目が合った。
 見ると、彼女を含めて三人の女の子が洗面台の傍に立っていた。いずれも知らない顔である。
「知り合い?」
「ううん、今、廊下であっただけ」
 他の二人が不思議そうな目で見つめてくる。真雪はにわかに緊張した。
 三人とも、自分よりもずっと背が高くて大人っぽい。真雪は脅えてうつむき、上目づかいになった。

「……あ……あの……」
 そのまま数秒の沈黙。先に口を開いたのは、いたたまれなくなった真雪の方であった。
「栄冠組の……、授業が、終わるの……、待っているんですか?」
 頬を赤く染め、小さな両手をぎゅっと胸に押し当てながら、真雪は途切れながらもそう尋ねた。
「そうだよ」
「まいにちまいにち延長授業、ヤになっちゃうよね」
 答えは意外にも親しげなものであった。真雪はほっとして胸をなで下ろし、ひかえめに微笑んだ。

「あの……、いつもこんなふうに、テストが終わったあとに、授業するんですか?」
 さらに勇気を出して質問を続ける。
「栄冠組待つの、今日が初めて?」
「あ、はい……はじめてです」
「そっかー」
「そう、毎日。テストが終わったあとに、問題の解説やってるの」
「そうだったんですか……」
 複雑な表情でうつむく真雪。ようやく謎が解けた。
「……もう三十分ぐらいしてますけど、いつもどれぐらいなんですか?」
 そうなると、あと気になるのはこれだけだ。胸を鳴らしながら、真雪は思いのたけを尋ねきった。
「三十分以上、一時間半以内」
「え……っ?」
 ――だが。
「決まってないの。テストが国語だと早く終わるんだけど、算数だと、たいてい一時間以上やってる」
「早ければ算数でも三十分ぐらいで終わるんだけどね。今日で今年最後だし、けっこうかかるかも……」
「……そう……ですか……」
 今度の答えは思っていたよりもずっと過酷だった。真雪は驚き、表情を一気に暗くした。
 もうそろそろ終わるのだろうと考えていたというのに。……まさかここまで長いとは。テストと合わせると、普通のクラスより一時間半以上も長く残ることになる。
「国語の時は外で待ってるんだけど、算数だと寒くなってきてつらいから、いつもここでしゃべってるんだ」
「…………」
「大変だよねえ、栄冠組は」
 胸を締め付けられ、もう口を開くことができなかった。
 心の中で、急激に焦りと切なさが膨らみ始める。
 真雪は悲しげに床を睨みつけた。
 そんなに待っていたら、きっと雪が溶けてしまう。もう一人で帰るしかない。けれど、それでも窓風といっしょに帰りたい。どうすればいいのか分からない――。

「えっと。そんなわけだから、他に何かあったらまた聞いてね」
 急に落ち込んでしまった真雪に困惑し、少女たちも沈黙した。が、やがてそう言うと、彼女たちは真雪から視線を離し、おしゃべりを再開した。
「……あ、あの……、わたしも、ここで待っていていいですか?」
 取り残された真雪は、わずかに遅れ、慌ててそう尋ねた。切なく逡巡を続けながら。
「もちろん。いいよ」
「ごめんなさい……ありがとうございます」
 駐車場の状況が気になって気になって仕方がないが、それと同じぐらいに、ここまで待ち続けて一人で帰るのは寂しくて悔しかった。――すぐには、答えを出せそうになかった。


 そしてさらに五分、十分、と、不安な時間が過ぎ去っていった。
 真雪は壁際にしゃがみ込み、胸を痛めて悩み続けた。少女たちが何か声をかけてくれることを内心期待していたが、願いは叶わなかった。

 切なくて切なくてたまらなかった。
 身体は依然としておなかから温かいというのに、心は冬の冷酷に裂かれてゆく。

 やがて真雪は気が付いた。
 ここから駐車場まで、歩いて十分。走れば、往復で十分。今すぐ向かえば、パンツの始末に数分かかるとしても、窓風の授業が終わる前にここに戻ってくることができるかもしれない、と。
 気付くなり、はっとして顔を上げた。
 ちょうどその時、再び様子を見に行っていた少女が戻ってきた。

「まだまだって感じ」
「そっか……やっぱり、今日も一時間以上みたいね」
 ……真雪は、ついに立ち上がった。
 少女たちの視線が集中する。
「……あの……わたし……、」
 「やっぱり帰ります」と言おうとした。が、それは勇気を要した。口にした時が本当の決心の時だからだ。
 胸がどきどきと鳴る。真雪はごくりと喉を鳴らした。

 ――が、その時だった。
  ブッ、ブピッ……
(っ?)
 突然、後ろから湿り気のある破裂音が聞こえた。
 驚いて振り返ると、険しい表情の少女が目を見開いて入り口に立っていた。
(ぁっ――)
 真雪も、目を見開いた。
 鮮明に見覚えのある顔。さっきこのトイレで見た上級生だった。長く伸ばされた栗色の髪、乱れながらもおしとやかな雰囲気。……腹を壊し、派手に音を響かせながら下痢をしていた女の子だ。
 そして真雪はすぐに気付いた。大粒の汗が流れるつらそうな表情、絵に描いたような内股中腰の姿勢、そしておなかをかばうように抱え込んでいる両手……。
 ……下痢である。哀れにも、またしても腹が下ってしまったらしい。
 授業の中もよおし、休み時間まで我慢できなかったのだろう。恥を忍んで席を立ち、荒れ狂う腹の中身を放ちにこのトイレへと駆けて来たのだ。一度や二度の排泄で収まらないのが下痢である。

「……っ……」
 一方、少女は小刻みに体を震わせながら、唇を固めて泣きそうな顔になった。
 頬を真っ赤に染め、あからさまに困りきった表情でうつむく。無理もない。これから大便をしなければならないのに、下級生が四人も自分のことを注視しているのだ。真雪は、少女の灼けるような羞恥がよく分かった。
  グウ〜ウゥゥゥ〜〜ッ!
「っぅぅぅ……っ」
 だが直後におなかが派手にうなると、少女はうめき声を上げ、吸い込まれるようにして個室へと飛び込んだ。
  バタンッ! ガチャリッ!
 勢いよく扉が閉められ、慌しく鍵がかけられる。
  ……ブウッッ!!
 同時におならの音が響きわたった。完全に限界状態のようだ。
  ジャアアアアァァァブリュブポブポブポポブビポポポポポ!!
 そしていきなり水洗音が聞こえたかと思うと、物凄い勢いで噴射が始まった。
 どうやらガスを漏らしながら慌ててレバーを倒し、一気にパンツを下ろしてしゃがみ込んだらしい。
 さっき以上に水に近いピーピーの下痢の音。ここまで間髪なき一瞬である。その音と速さが、彼女の便意がいかに猛烈であったかを物語っていた。
  ブビチビチビチビチビチビチビチビチ!! ブボッッ!!
 さらに下痢便が注ぎ込まれる。お粥を叩きつけるような音と激しい放屁。少女は腹を壊しきっていた。

  ビチブリュブリュブポポブビポポポブポッ!!
  ブピッ! ブオッ! ブリッ! ブジュブポポポポブポポポッ!!
 水洗の音が途絶えても、激しい脱糞の音はなお収まらず鳴り続けた。
 ガスまじりの爆音が響く中、カコカコとレバーを倒す音が聞こえてくる。焦っている様子だった。どうやら、下痢を抑えられないらしい。さっきよりも一段と腹の具合が悪いようだ。
  ブピピッビヂビヂビチチビチュブピピッ!!
 暴れ狂う少女のおしり。次々と汚らしい下痢の音が奏でられる。
 静寂の女子トイレに響き続ける下品な音。外の少女たちはまゆをひそめ、互いに顔を見合わせていた。個室の中から悪臭が漂い始める。
  ブヒッ、ビヒヒッ、ビヒブウゥゥゥゥゥーーーッ!!
 そして今度は物凄い放屁。抗うがごとくちびり気味の破裂音が連発されたかと思うと、堰が切れたかのようにガスの塊が肛門から便器へと投下された。
  ブーーーーーッ!!
 もう一発、巨大なものがぶちまけられる。
 我慢できないのだろう。おならの限界噴射である。鳴り響く肛門。荒々しく振動を続ける少女の恥ずかしい穴は、もはや痙攣さえしていることだろう。

  ジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ
 ようやく水が流される。哀れにも、噴出が収まった直後であった。
 爆音の止んだトイレに唯一流れる水音。無意味に響く音消しは、ひどく情けなく感じられた。

「……はぁっ、はぁっ、はぁ……っ……!」
 その濁った音も消えると、今度は荒々しい呼吸が聞こえた。本当に荒々しく、声色まではっきりと聞こえた。
「はぁ、……っは……、」
  ビリュトポトポトポ……、ブピッ!
 こんなにも可愛らしい声だというのに、その尻の穴から放たれる下痢の音はこんなにも汚らしい。
 あまりにも惨めで、そして恥ずかしい音の連鎖であった。
「…………」
 外の少女たちは苦い顔を向け合ったまま、沈黙しきっていた。
 あまりにも気まずい。強烈な下痢の臭いでむせ返しそうな状態だが、誰もそれを揶揄したりなどできない。
 年上の人の脱糞。腹痛に悶える険しい表情を目の当たりにしてしまった。しかも彼女は授業を抜け出してここに来ているのだ。授業中にトイレで大便をするという、本来なら誰にも見咎められるはずのない秘密の時間。見てはいけないものを見てしまっているという罪悪感に苛まれていた。

  ジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ

 それからは、ブチュブチュという果物の潰れるような音が、水洗音に隠されながら断続的に続いた。
 痛ましい下痢の音。乱れた吐息も止まず、苦しみながら排泄しているのが嫌でもよく分かった。


  ガラッ、ガラガラガラガラ……、ビリッ
  カサカサカサ……

 ……やがて、個室から聞こえる物音が尻を拭くそれに変わる。
 少女たちは息を飲んだ。もうすぐおしりを隠して個室から出てくる。行為を終えて出てくる屈辱の瞬間まで見てしまってよいのか、悩み、脅えさえし始めていた。

 そして、気付いた。
 少し前にやってきた、あの、小さなおかっぱ髪の女の子。――真雪は、すでにそこにいなかった。
 下痢をする少女の切実な感情を察し、ひとり静かにトイレを後にしたのだ。

  ジャアアアアァァァーーーーーーーッッッ
 これまでとは用途の異なる、十数回ぶりに正しい目的で放たれた水洗音が、無音の便所に響きわたる。
 結局、少女たちは真雪のように行動することができなかった。表情を揺らしながら、個室のドアを見つめていた。
  …………ガチャッ……、
 わずかな間の後、ついに個室の表示が赤から青へと変わった。
 さらに数秒遅れ、きい、と音を立てながら、そっと扉が開いてゆく。

 それからは、一瞬だった。
 少女はうつむきながら出てくると、そのまま手を洗わずに早歩きでトイレから逃げ去っていった。
 洗面台の前を通る時に、少しだけ顔が見えた。
 泣きそうな表情。燃え尽きるように真っ赤な頬。脂汗で照るほどに濡れ、まるで長距離走のあとだった。
 ……三人は、それからしばらく言葉を発せなかった。


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 結局、あれが決め手になった。

(よかった……とけてない……)
 真雪は、駐車場に辿り着いていた。朝よりも白が薄れたその野外の隅に、ひとりしゃがみ込んでいた。
 幸いにして、真雪のパンツは露出していなかった。何度か車の出入りがあったらしく、靴跡や轍があちこちにできていたが、真雪がトイレ代わりにした空間は朝のままであった。

(早く、しなくちゃ……)
 すぐに雪を払い始める。すでに延長授業が始まってから一時間以上がすぎていた。

(…………、)
 始めるとすぐに真雪の頬は染まりだし、あっというまに真っ赤になった。
 自分がここで野糞をしたのだということを、再自覚したのである。
 左右には車。正面にはブロック塀。完全な野外。よくこんな場所で大便をしたものだと感じた。冷静になった今ではもう、ここで尻を出すことなど考えられない。
(……わたし……)
 羞恥で頬が燃える。野外での大便排泄。……野糞。どうしようもないぐらいに最低の行為。
 下痢の苛みに耐えられず、それをしてしまった自分。恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。いくらパニックになっていたとはいえ……。本当に下痢というのは恐ろしいものだ。

 その野糞を目撃された真雪。
 美しく高貴なまどか様に。野糞に加えておもらしまでしていた姿を。
 下痢まみれの尻、下痢まみれの肛門、下痢まみれの下着、下痢まみれの足元。――最悪の現場を全て視界に収められたあの時、真雪は舌を噛もうかと思った。死にも等しく軽蔑されると思った。

 しかし嘲笑さえしなかったどころか、下痢便を漏らした臭く汚いおしりを拭い、さらに肛門まで拭い、そして大切な下着を与えてくれた窓風。
 夢のような優しさとぬくもり。
 また胸が苦しくなった。そこまで思い至ると、真雪は手の動きを速めた。


 ほどなくして茶色い布の塊が姿を表すと、真雪は素早くそれをビニール袋に入れた。
 泥の渦からは少し離して埋めていたおかげで、自分の腸の中にあったものは、再び見ずにすんだ。
 が、パンツの残骸をつまみあげた時には、やはりすえた悪臭がした。五枚重ねたコンビニエンスストアの袋の口を、真雪は惨めな表情で縛った。

 どっさりと重くなった袋。
 中身は全く見えない。あとはこれをどこかに捨てるだけだ。
 掘り出した雪を元に戻すと、真雪はさっと立ち上がった。

「っ……!」
 その時、後ろの方から、大きな車のエンジン音が聞こえた。
 驚き、傍の車の陰から覗き見てみると、一台の赤い車が駐車場の中へと入ってきていた。
 じゃりじゃりと、タイヤが雪を削る音が響き始める。真雪は慌ててブロック塀に駆け寄り、車の陰に隠れながら、駐車場の奥へと体を屈めて疾走した。もはや姿を見られてもどうということはなかったが、やはり、後ろめたさのようなものがあった。
 そもそも、無人の駐車場に小さな小学生の女の子が一人だけ立っているというのは、明らかに変だ。
 人のいない奥まった場所には近づかないよう、学校でも指導されている。不審に思われて何かを聞かれたりするのが怖かった。

 駐車場の一番奥まで辿り着くと、大きな木が一本生えていた。
 幹がちょうど自分の体を隠してくれるほどの太さだったので、真雪はその陰に隠れて様子を伺った。

 車は駐車場の真ん中辺りで前進を止めると、ゆっくりとバックし、空いているスペースに入り込んでいった。
 その様を眺めながら、真雪はふと時計を見た。……すでに、延長授業の開始から一時間と十分が経っていた。真雪は少し焦りを覚えた。

 すぐにエンジン音が止むと、中から背の高い男性が出てきて、何事もなく駐車場の外に消えていった。
 再び静寂が支配する。
 真雪は鼓動を速めながら、駐車場の入り口と、外の道路を見つめ続けた。もう人の姿はなかったが、今の人が戻ってきでもしないかと脅え、そのまま一、二分ほど、もどかしくも木の陰から動けなかった。


 そして、喉をごくりと鳴らし、ついに足先を踏み出そうとした時。
(えっ……?)
 しかし真雪は、目を丸くしてその足を止めた。

 窓風が、いた。

 駐車場前の道路を歩いていた。足を動かそうとしたのと同時に、視界に入った。
 一瞬、目を疑ったが、その美しい横顔は間違いがなかった。白いリボンで結ばれた優雅なポニーテール、ベージュのコートもまぶたの記憶と曇りなく重なる。

 どうやら、遅かったらしい。
 真雪が汚物を掘り出している間に、栄冠組の授業は終わってしまったのだ。
(――っ、)
 喉がきゅうっ、と鳴り震えた。
 胸の奥に後悔と、しかし同時に求めていたぬくもりが広がる。
 真雪はそれこそ抱きつきたいぐらいの想いで、窓風のもとに駆け出そうとした。

 ……が。
「ぇ……」
 またもや、踏み出そうとした足を止めてしまった。
 窓風の様子が、おかしいのである。
 遠目にも分かるほどに表情を険しく歪め、腰を低くし、背を曲げて歩いていた。
 右手をこぶしにして腹に押し付け、左手も固く握り締めて腰の辺りに押し付けている。そろそろとした小股で、しかし早歩きで足を前に進めていた。

「……」
 すぐに理解し、ぞくりと胸を痛めた。
 腹痛を起こしているのだと、明らかに分かるその姿。……下痢をしているのだ。
 正確には、再び下痢という悪魔に腸を襲われた。猛烈な便意と闘っている。二時間前の激しい排泄の光景が焼き付いている真雪には、もはやそうだとしか思えなかった。存在の認識は、洗練を穢す茶色い異変の認識でもあったのだ。

 真雪は戸惑った。
 傍に駆け寄りたい、何か力になりたいが、窓風はいま恥ずかしい状態にある。
 無様な格好も、やむをえずそうしているわけで、できる限り人には見られたくないだろう。自分のことを知る者が相手では、なおさらのはずだ。真雪が話しかけでもしたら、彼女はきっと酷く心を張り詰めさせるであろう。
 今こそ、ぬくもりが必要な時だというのに――。
 いつしか、その願いは強迫観念にさえ近づいていた。迷惑をかけたくないから。複雑な想いが真雪の胸を駆け巡る。

 しかしその逡巡は、ほとんど刹那で終わった。
 さらなる緊張に飲み込まれたのだ。
 外の道を苦しげに歩いていた窓風だが、駐車場の入り口に至ると急に立ち止まり、この静寂の空間を睨み始めた。
 一瞬、気付かれたのかと真雪は胸を鳴らしたが、そうではないようだった。自分の方には視線が来ていない。窓風はただ、駐車場の中を凝視していた。
 その険しい表情は正面から見るといっそう重く、明らかに切羽詰っているのが見て取れた。
 この数分の間にもよおしたのだろうと思っていたが、どうやらそんな程度ではないようだ。十分か二十分、あるいはそれ以上前――おそらく授業中からずっと我慢を続けてきた様子である。どうして塾のトイレを使わなかったのだろう。

 そのまま、二秒か三秒。すると窓風はさらに大きく腰を曲げ、左手を尻の後方、おそらく肛門へと回した。
 目はなお同じ一点を刺しつけたまま。固められた唇の、その口元に苦悶の皺が浮かぶ。どうやら、猛烈な腹痛の波に襲われたようだ。近くにいれば、痛ましい下痢のうなりも聞こえたことであろう。

 その直後。
 窓風は急に焦った様子で辺りをきょろきょろと見回したかと思うと、物凄い勢いで駐車場の中に突進してきた。
 変に背筋を伸ばし、まるで競歩のような早歩きで、ずんずんと圧迫感を放ちながら。
 しかし途中で一瞬立ち止まると、右手まで尻に回され、体も元通り以上に丸まり、這うような全力疾走となった。

 目的地は駐車場の奥だった。最後にはほとんど弾丸と化していた窓風は、そこにずぼりと飛び込んだ。
 ――茂みであった。真雪のすぐ目の前。ほんの数メートルの先。――人目から身を隠せる場所。窓風は飛び込むやいなや足を震わせてしゃがみ込み、真雪の方へ尻を突き出した。同時にぐいと首を伸ばし、獣のような眼で道路の方向を睨みつける。

「……っ、」
 ごくり、と喉を鳴らす真雪。
 草木の多くは枝だけで、ここからだと窓風の身体は全て見える。その背中はぶるぶると震え、両手に包まれた丸いおしりも小刻みに揺れていた。それぞれの中と薬の指が真ん中の窪みにめりこんでいる。まさに破裂寸前の爆発物を抱えているといった様相。
(…………白鳥、さん……?)
 危険な予感が沸き起こる。
 まさか――。
  ジャリガサガサガサジャリリッ!
(、そ……っ)
 真雪が思い至ると同時に、窓風は決意を実行に移した。
 震える両手でスカートごとコートの裾を掴み、まとめて一気にまくり上げる。露になった純白のパンツも、即座に掴んでずり下ろす。真っ白なおしりがむき出しになった。形良く張った、しかし今は限界で張り詰めている窓風のおしり。汗にまみれて震えている。
  ブボオッッ!!! ブビチブリブリブリブリブリブリブリブリブリ!!
 それはいきなり爆発した。物凄い音と共に、中央のすぼみから茶色い飛沫が噴射される。
 そしてそれが雪に染み込むよりも早く、なだれのような勢いでドロドロの下痢便が大量に吐き出され始めた。
 野糞を始めたのである。あの窓風が。……もう、どうしても下痢を我慢できなかったのだろう。
  ブリブリブリッブリリッブリブリッ、ブブブゥーーッ!!
「っ、はぁっ……!」
 赤熱し膨らんだ肛門がはっきりと見えた。窓風の肛門。野糞をしている肛門。その恥ずかしい穴が足元に向かってうず高く盛り上がり、茶色い粥状物をぶちまける。まさに我慢の限界といった様子で始まった噴出。雪を貫くような物凄いおならでいったん途切れると、窓風の激しい喘ぎ声が続いた。

「はあ、はあっっ、はあっ、はぁっ、」
 泣き声にも等しい、荒々しい呼吸が重ねられる。
 地獄の腹痛を味わっているであろう窓風。がくがくと肩が震え、肛門はぬめりひくつき、つるつるのおしりはいかにも下痢気味らしく痙攣していた。――そして数秒も経たず、
  ブボッ!! ブビチュビチビチビチビチビチビチビチッ!!
 再び荒れ狂う腹の中身が地面へと叩きつけられる。
「くぅんんっ……!」
  ブババッッ!! ブヂュビヂビヂビチチチチチビチ!! ブピピピッ!!
 止まない爆音。物凄い勢いで次々と腹痛の源を吐き出してゆく。
 小さく息み声も聞こえた。どうやら、一刻も早く楽になって野糞を終えるべく、全力でふんばっているようだ。
  ブビーーーーーッ!!
 搾り出すような脱糞の合間には、下痢時特有の湿りきった屁が派手な破裂音を奏でる。
 拡がってゆく汚物。窓風の下痢便はほとんど形を失い、こげ茶色に黒ずんでまるでヘドロのようであった。
 完全に未消化。酷い下し具合なのが一目で分かる。漂い始めた強烈な悪臭も、それを露骨に物語っていた。

  ブーーッ! ブブゥゥーーーーーーッ!!
(うんちしてる……白鳥さんが……うんちしてる……)
 真雪は驚愕に震えながら、息を押し殺すのに必死だった。
 静かな雪の世界に下痢と屁の爆音が響きわたっている。あの白鳥さんが、おしりを野外にさらけ出して大便をしている。腹痛に耐えられず駐車場へと駆け込んで、茂みに潜んで野糞をしている。……真雪にとっては目の前で。
  ブリュリュリュリュリュリュリュリュブポッ!!
  ブピッ! ビチュブチュブチュビチビチ……ブボポブポポブボボッ!!
 頭隠して尻隠さずとは、まさにこのことであろう。
 膝ごと腹を抱え、寒そうに苦しそうにぶるぶると震えている窓風の身体。大粒の汗が流れる双球から、便所まで留められなかったピーピーの下痢便を排泄している。絶対に人に知られてはならなかったはずの排泄行為。彼女にとって究極の秘密になるであろう、最低の瞬間。……釈明の余地がない、完全なる野糞。
 それを。見てはならないものを、真雪は目の当たりにしてしまっている。あまりにも緊迫していた。
「ふん……っ!」
  ブウゥーーーーッ!!
 こんな場所にしゃがみ込んで、下劣に股を開いてふんばり、物凄い音を鳴り響かせている窓風。
 純潔高貴な上半身と暴れ狂う尻とのギャップが凄い。まさに下痢である。お姫様の野糞。その耳は真っ赤に染まっていた。すぐ横には、汗で濡れ乱れたうなじ。あまりにも痛ましい後姿だった。おしりの下に撒き散らされたぐちゃぐちゃに乱れた汚物が、哀れな印象をいっそう強めている。雪を冒す下痢色。立ち上る湯気。この腐った卵のような異臭は、疑いようもなく"まどか様"の排泄物の臭いなのだ。

(……っ?)
 そこで、意外なことが起こった。
 いま激しく放屁したかと思うと、ふいに窓風はスカートのポケットをまさぐってティッシュを取り出していた。そして間髪入れずに、中身を引き抜いて肛門を拭い始めたのである。
(もう……?)
 かなり唐突な印象だった。放屁の直前、ほとんど一秒未満前になされた排泄は、依然として凄まじい勢いだったからだ。いきなり止められた滝。まだまだ出てきそうな感じであったが、あれで腸の中身を搾りきったのだろうか。

  ガサガサガサ、ジャリジャリジャリリリ……ッ!
 素早い動きで三回尻を拭くと、さらに驚くべきことに、窓風は十枚ほどのティッシュをまとめて引き抜いてパンツの底に敷き、そのままゴムを両手で掴んで一気に引き上げた。そして即座に立ち上がると、コートとスカートを下ろし、足元を一瞥するや茂みを這い抜け、背筋を伸ばして物凄い速さで歩き出した。

(あ……)
 唖然としてその後姿を見つめる真雪。まるで全力疾走だった。あっというまに窓風は外の道路の彼方へと消えた。
 ……すごい。真雪は大きな瞳を小鳥のようにぱちくりとさせた。ほとんど、いきなり消えた窓風。茂みの中に残されたのは、肩幅に開かれた小さく可愛らしい靴跡と、その間に吐き散らかされているおぞましいヘドロ。……窓風の、野糞の痕跡。それが全てを物語っていた。

 この"現場"から、彼女は心から一刻も早く逃げたかったのだろう。
 行為に及びながら、終始恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかったのだろう。
 窓風が野糞に要した時間は、一分どころか三十秒足らず、――おそらく二十秒ほどだった。
 わずかにそれだけで、彼女は大便を排泄し、汚れた器官の後始末を終わらせたのである。

 パンツの底にティッシュを敷いたのもそのためで、これが特に大きかった。
 彼女は三回だけおしりを拭いたが、あれだけ激しく下痢をした肛門がその程度で綺麗になるはずはない。下着に汚れをつけないためには、幾度となく丁寧に穴と周囲を拭き、粘膜にも紙を押し当てなければならないだろう。――しかしそれには時間がかかる。そのため、窓風は紙を挟んで汚れた肛門からパンツを守り、残りの作業を家のトイレに回したのだ。さすがの機転であった。

 物凄い速さで野糞をすませた窓風。
 下痢に耐えられず、野外で及んでしまった排泄――という情けのないものではあったが、同時にそれは、まさに排泄欲求の"処理"だった。並の行動力では、あれはできないだろう。

 茶色い嵐が去り、白い静寂だけが残った駐車場。
 真雪はただ驚きに飲まれ、木の幹にぎゅっと抱きついていた。


「…………」
 ――しかし、やがてそれを離れると、ぼんやりとした表情で、ふらふら歩き出した。
 窓風がしゃがみ込んでいたその場所へ。まるで誘われるかのように。
 一歩足を踏み出すたびに、漂う悪臭はいっそう濃く強烈になっていった。

(白鳥さんが……、したんだよね……)
 そして、辿り着く。
 ばくばくと騒ぐ胸。鳴り響く鼓動。
 茂みの中の雪の上。靴跡と靴跡の間で、もわもわと湯気を立ち上らせている汚物。
 真雪は、窓風がしたそれを見下ろした。
(……この……うんち……)
 窓風の、大便。完全に下痢をした状態……下痢をしきった大便が、目の前に撒き散らされていた。
 雪をえぐるような姿が、噴出の激しさを物語っていた。よほど限界だったのだろう。野糞に及ぶわけである。
 ものすごい悪臭が立ち上り、まるで腐敗した泥だ。こんなものを腹に詰め込んでいた窓風の苦しみは、それこそはかりしれない。

「ぅぇ……っ……」
 あまりの臭さに、真雪はたまらずうめき声を漏らした。
 窓風のウンチ。窓風の排泄物。窓風の下痢便。数分前には、まだ窓風の腸の中にあったもの。そのドロドロに溶けた茶色い渦の中には、様々な食べ物のかけらのようなものが混じっていた。黒ずんで何かはよく分からない。
(……ひどい……)
 ピーピーの下痢便。下痢をした窓風が苦しみながら産み出した汚物。
 窓風が食べた物のなれのはて。彼女の口から入り、その消化器官を通り、排泄器官である肛門から出てきたもの。しかし腹を壊したせいで、未消化のまま駆け下ってきた。
(あの、白鳥さんが……)
 見開かれた大きな瞳に映る、悪夢のような光景。
 真雪は事実を受け入れていたが、それでもなお、これほどにおぞましいヘドロが、あの麗しい窓風の身体から出てきたとは信じられなかった。それが尻の穴から排泄される様さえ、全て見ていたにも関わらず。

「っ……」
 たまらず目を動かすと、今度は端に添えられたティッシュペーパーが目に入った。
 窓風が肛門を拭いた紙である。雑に丸められ、いずれもべっちゃりとこげ茶色の下痢便が塗りつけられていた。
 うち一枚が、特に酷く汚れている。一回目に使用されたものだろうか。おしりの穴に当てられた面全体に付着している泥の中、赤く細長い破片が張り付いていた。おそらく細切りのニンジンだろう。

  ジャリッ……

 急にいたたまれなくなり、真雪は体ごと目を背けた。
 下痢まみれの肛門を拭くのに使われたティッシュペーパー。
 それはある意味で排泄物以上に、窓風がここで野糞をしたのだということを、生々しく示していた。
 見てしまっていることへの罪悪感が一気に膨らみ始める。これは、窓風が死にも等しく見てほしくないものだ。

 ただでさえ、強烈な便臭とおぞましい光景で、悪心さえもよおしそうな状態である。
 もう、ここにいるべきではない。

 そして真雪は、最後に切ない表情でちらりと窓風の悪夢を見つめると。
 彼女を隠していた茂みを回り込んで抜け、自分もまた足早に駐車場を後にした。
 小さな鼓動と吐息もついに消え、今度こそ雪の世界は完全な静寂に包まれた。


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 風が吹き始めていた。

「うぅ……っ」
 ――寒い。

 ひゅうひゅうと音の鳴る中、真雪は体を縮こませ、ぶるぶると震えながら歩いていた。
 全身にまとわりついてくる冷気。わずかな隙間から服の中に入ってくる。幼くか弱い身体を強引になめ回してくる。
 熱い想いと共に家を出た真雪だったが、その足取りは無限の暴力によって、重く力なく遅められていた。

 あれから、およそ十分後である。

 周りをきょろきょろと見回しながら、頬を真っ赤に染め、途中のゴミ捨て場にビニール袋を捨てた真雪。
 そして逃げるようにして家に帰りついてからすぐに、彼女は再び外へ出たのであった。
 やはり、窓風にパンツを返すためである。帰宅するやいなやパンツを脱ぎ、丁寧に折り畳んで紙袋に入れると、代わりに新しく普通のものを一枚穿き、そして彼女の家に向かって出発したのだった。

 窓風の家がどこにあるのかは噂に聞いて知っていた。
 真雪の家から十五分ほどのところにある、この辺りでは高級で有名な高層マンションの、最上階である。
 しかしいま会うのはあまりにも気まずいので、ポストにでも入れるつもりだった。短い手紙も書いてある。

 窓風が暖かい家に帰ってしまった今となっては、もはや意味がない――遅すぎるのかもしれないが、それでも真雪はそうしたかった。意固地になってもいたし、義務感に近いものさえ感じ始めていた。
 胸の中を渦巻き続ける、自分のせいで窓風が下痢をしてしまったのではという不安。
 それが野糞を見てしまったことで膨らみ上がった罪悪感と溶け合い、今では強迫観念にさえ近くなっていた。

 もう、形だけでも良い。稚拙な自己満足かもしれないが、実際に真雪は幼いので、どうしようもない。
 ただ鮮明なのは、彼女が誰かのためにここまで行動的になったのは、生まれて初めてだということである。


  ビュウウウゥゥゥゥ……
「っぅぅぅ……」
 その健気な彼女に、冬の寒風は無慈悲に吹き付けるのである。
 そのたびに揺れるおかっぱ髪。切ない表情で弱々しく震える真雪の姿は、あまりにも痛ましかった。

 ほんのさっきまでとは、寒さがまるで違う。
 やはり、風が吹き始めたからだろうが、しかし本当の理由はそれではなかった。

「……はぁっ……」
 白い吐息を紡ぎながら、おなかに手を当てる真雪。
 暖めるためである。今はその必要があるのだ。

 ――おなかに、ぬくもりがなかった。

 厚い毛糸のパンツから普通のそれに穿き替えたわけだから、当然である。
 が、このおなかの感覚の違いは、それだけでは説明のつかないものであった。
 もしかすると、あれは魔法のパンツだったのかもしれない。

(寒い、よ……)
 体が勝手にぶるぶるぶるぶると震える。
 おなかは今のところ大丈夫だが、また下痢をしてしまうかもしれないという恐怖感は、すでにはっきりと感じていた。

「はぁ……」
 まるで腹痛をなだめるかのように、両手で柔らかくおなかをさする。
 塾の格好のまま出てきた真雪は、紙袋をNバッグの中に入れていた。両手を自由に使えるのが、何よりの幸いだ。


 ……しかし、結局。

  キュル……ッ……、
「ぁ……」
  グクゥ〜……キュルルグゥ〜〜……
「っふぅ……」

(……やだ……)
 それから数分で、またもや真雪はおなかを壊してしまった。
 不気味な音と共に腹痛が始まる。冷気に腸をしごかれる感覚を覚え、肛門に軟らかい圧力が溜まりだした。
 きょう二回目の下痢。真雪のおなかは、あまりにも、"冷たい"寒さに対して脆弱であった。

  グウウゥゥゥ〜〜……
「うぅぅ……っ……」
 頬が青ざめ、下腹の不快感に表情が歪む。鳴る音どおりに、切ない痛みがぐうっ、とおなかを押してきた。
 反射的に曲がる腰。たまらず、今度は腹痛を和らげるために、真雪はおなかをさすり始めた。
 緩みかけた肛門を引き締めるべく、きゅっと股を閉じる。触れあう両膝。さらに意識して穴をすぼませた。

(どうしよう……)
 強烈な大便排泄の欲求。当然におしりは便器を求め始める。
 だが、そこで真雪は迷った。
 いったん家に戻るのが無難だが、すでにだいぶ進んでいるから、ここからでは十分以上かかる。
 幸いにしてこの近くに公園があることを、彼女は知っていた。一度側を通ったことがあるだけなので中の様子は記憶していないが、おそらくトイレもあるだろう。こちらは、ここから窓風のマンションの方向へ二分も歩けば着く。
 できれば落ち着かない公衆便所よりは自宅のトイレでしたかったが、十分という距離に、いくばくかの不安を感じた。今の程度の便意なら容易に我慢できるだろうが、これが唐突にして理性を狂わす悪魔になりうることを、真雪は嫌と言うほど知っていた。

 一度悪魔が生まれてしまったら、それを一刻も早く堕胎しないと、下半身は悪夢に犯しつくされることになる。
 彼女はすでに今朝、その失敗を味わったのだ。
  ギュルウゥッ……
「っ……、」
 そして早くも、下痢はその牙を剥き始めていた。
 迷いをあざ笑うかのように、腹痛が激しくなる。腹の中身がどんどんと尻へ下ってゆくのが分かった。

  グピィ〜〜
(あ……)
 さらに、今度は別の欲求。腸がぼこりと蠢く感覚と共に、真雪は猛烈に屁を放ちたくなった。
(……)
 顔を真っ赤にして、きょろきょろと辺りを見回す。
 この儚く可愛らしい少女のふるまいを見て、彼女がこれからする行為を想像できる者など誰もいないだろう。
 幸いにして、静かな雪道には真雪のほか誰もいなかった。
「ぅん……っ……」
  プウウゥゥ〜〜〜〜ッ
 確認するなり、真雪は目を細めておならをした。
 可愛らしい音と共に、恥ずかしい臭いが辺りに広がる。
 おしりの穴に切ない感覚。放ちながら、真雪はその音と臭さに、いっそう頬を紅くした。

「……ん」
 それで肛門が刺激されたのか、さらにおならの出る感覚。
 もう一発放つべく、再び真雪はおなかへと力を入れた。
  プリュッ
「っ」
 ……が。

(うそ……っ!?)
 肛門をすべり抜けたのは、気体ではなく液体の感覚であった。
 見開かれる瞳。おぞましい予感が生じ、真雪は顔を真っ白にした。
「……やだ……」
 コートの上から、そっと指先で肛門を撫でる。……ぬるりと下着が張り付く感覚。
 やってしまった……。
 ガスを出すつもりが、"ミ"を出してしまったのだ。便が水のようにゆるんでいる時ならではの悲劇である。

(なに、やってるんだろ……。わたし……)
 物凄い自己嫌悪。はっとして手を離すと、真雪は表情をどんよりと沈ませた。
 まだ限界でもなんでもないというのに、自己の愚かなあやまちで、下着を汚してしまった。
 昼にお風呂でおしりを洗いながら、もう二度とおもらしはしないと誓ったというのに。情けなくて情けなくて泣きそうだった。

「……っ」
 だが、その落ち込みに反し、すぐに顔を上げ、唇を固めて歩き始めた。
 皮肉にも、これで決まりかけていた答えは確定した。便意以上に、一刻も早く下着の汚れを拭き取らなければ。
 おしりをそわそわと触りながら、真雪はガニ股で公園へと向かった。


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 雪で彩られた公園の中へと入る。決して狭くはない公園だったが、この寒さのせいか、人の姿はなかった。
 入り口からは、トイレらしき建物の姿は見えない。が、この規模ならきっとあるはずだ。
 冷たくなったおしりの穴を気にしながら、真雪は白い静寂の中を奥へと進んだ。

 トイレは、やや奥まったところにあった。
 公園の隅の一角から、植え込みに挟まれた細道が五メートルほど伸びていて、その向こうに建物があった。かなり小さいが、ちゃんと男女別に分かれている。

  グリュリュリュリュゥゥ〜〜
「っぅ……」
 便所の存在を脳が認識するやいなや、腹痛がぐうっ、と重くなり、肛門がかっと熱くなった。
 と同時に、軟らかいものがどどっと穴の上に押し寄せる。一気に圧力が倍加した。それが許される場所を前にして、身体が脱糞をいっそう強く求め始めたのである。
 狂おしく膨らむ、尻を出してぶちまけたい欲求。おなかをぐるぐるとさすると、真雪は足早に歩き出した。

「……?」
 その最中、真雪は妙なものに気付いた。
 細道の中ほどから、雪の上に茶色い泥のようなものが点々と落ちているのだ。
 平均数十センチメートル程度の不規則な間隔で一直線に続き、そのままトイレの入り口まで至っている。
 不思議な光景に、真雪は首をかしげた。男の子のいたずらかとでも思ったが、細道はすでに複数の足跡に踏みならされていて、そういった様子を見て取ることはできなかった。
 怪訝な表情で足元を見つめながら、早歩きで奥へと進んでゆく。

 建物を目の前に捉えると、それが左にそれて女子トイレの中にまで続いていることに気付いた。
 泥はほとんど液状に近かったらしく、落下点が固い床タイルになるなり、べちゃりと派手に広がって周囲に飛沫を飛び散らせていた。まだ新しいらしく、色鮮やかで乾燥していない。それが薄暗い中を、ずっと続いている。
 急に違和感を覚えながら、真雪は入り口へと踏み込んだ。

「うっぅぅぅぅぅ……っ……」
(え――)
 中が全て見えると同時に、真雪は目を丸くしてびくりと立ち止まった。
 あまりの驚きに声を漏らしそうになるも、反射的に両手で口を抑え付けてそれを殺す。
 とつじょ聞こえたうめき声。水泥はぼたぼたと床を走り、奥にある個室の前で止まっていた。

(う、そ……)
 さらに意識へ飛び込んできたのは、トイレ中に立ち込めている物凄い下痢便の臭い。
 一つだけある個室の扉は固く閉められ、赤い使用中の印が見えていた。
(や……、だ……)
 口を押さえつけたまま、真雪は顔をぐしゃりと歪め、赤面してぶるぶると震えだした。
 泥の正体に気付き、そして全てを理解したのだ。
 どくん、どくん、と血を吐きそうな鼓動が始まる。
 意識を飲み込む悪夢の渦。"その場所"から扉の前まで続く敗北の痕跡、小さな空間から溢れ出してくる便臭、そして何よりも、個室の中から聞こえてくる嘆き。……よく知っている、ゆえに胸に鳴り響いてくる、声。
「うっ……ぇぇ、ぇ……」
 窓風の、声。

 ……公園隅の薄暗いトイレは、人知れず悲劇の舞台へと変貌していた。
 やってしまったのだ……。
 窓風は……下痢を漏らしていた。

(まにあわなかったんだ……)
 きっと、あれからすぐにまた、おなかが下り始めたのだろう。
 そして家まで堪えられずこの公園に駆け込むも、楽園を目前にして力尽きた。大量の下痢便を下着から溢れさせ、股の間にボタボタと垂らしながら個室へと逃げ込んだのだ。
 あの五メートルの細道は、彼女にとって最後の試練だったのだろう。しかし窓風はそれを越せなかった。道半ばで我慢の限界を迎え、渦巻く腹の中身を全て下着へと放ってしまった。地獄の腹痛の中、狂おしき排泄欲求に屈した。下痢に――自分との闘いに、彼女は負けてしまったのだ。
(……白鳥さん、が……)
 再び足元を見つめる。ピンク色のタイルに撒き散らされた、水のように下った窓風の下痢便。
 美しい顔を思い浮かべる。あの窓風のおなかの中にあったものが、今は汚物として公衆便所の床を汚している。
 全開になってしまった肛門をひくつかせながら、ガニ股歩きでここを突っ切ったのだろう。
(…………)
 もはや、心の口さえ絶句する。
 恥を忍んで野糞にまで及んだというのに、この最悪の結末。真雪はあの時の違和感を思い出していた。……やはり二十秒では足りなかったのだ。一刻も早く尻を隠すべく、おそらく彼女は目先の便意だけ排泄し、そこで無理に肛門を閉めたのだろう。だが、その少女としての切ない想いは、下痢に狂った大腸には届かなかった。

「っふ……、ぇっうぅぅ……」
 えずくような嗚咽。ずうずうと鼻をすする音。……完全に泣いてる。
 自分と同じ、小学四年生の女の子がそこにいた。
 誇り高い彼女のことだ。悔しくて悔しくて、自分が情けなくて情けなくて仕方がないことだろう。
「……うっぅぅっぅ……」
 むせ返りそうな、猛烈な悪臭。
 個室の中は、おそらく惨憺たる光景になっている。薄汚れたドアの向こうで、便器にまたがり、下痢にまみれた尻をむき出して震えている窓風。その太ももの間には、噴射を受け止めたドロドロのパンツが輪をかけていることだろう。その足や靴下にも汚物が付着し、個室内の床は撒き散らされた下痢便で足を置くスペースさえないだろう。
 自らが産み出してしまった汚物で、下半身をぐちゃぐちゃにしてしまった窓風。……あまりにも惨めだった。

「ぅ、ふっぅぅ……」
  ブゥゥ〜〜〜ブヒブビ〜〜……ブビビィィィ〜〜〜……
 震える声と共に、湿った汚らしいおならが個室の中から響いてきた。
 下痢まみれの肛門から屁を連発する窓風。あの気高い窓風が、汚れた尻を便器に向けておならを垂れ流しである。もう、その無様なおしりの穴を、閉める体力も気力もないのだろう。
「ぅっ、ひくっ!」
  プゥゥ〜〜……、プウゥ〜ゥゥゥゥ〜〜〜、プスブブプゥ〜ッ
 さらに続けられる、まるで尻が嘆いているかのような放屁。
 なんという、情けない響きの屁を放つのだろう。
 彼女の下半身の状態を象徴するかのような、惨めさに満ち溢れたおならであった。
  ブプリュトポトポトポトポトポ、プリリッ
 今度は水便が軟らかく便器へと注ぎ込まれる音。
 残滴のこぼれ落ちるかのような、疲れきった印象の排泄。……哀れであった。本当に酷い下痢である。
 真雪は自分の腹痛さえ忘れ、ただうつむいて窓風の悲劇に胸を痛めて震えていた。
  ブーーーーッ!!
 直後、つい強く腹圧をかけてしまったらしく、勢いよく放屁の音が鳴り響いた。
 おそらく、少しでも早く苦しみを吐き出したくてそうしたのだろう。
(しらとり、さん……っ……)
 あまりにも無様な噴出。泣きそうな表情で、ついに真雪は手で顔を覆った。
 ……どうして。どうして、自分はこんなにも知ってしまったのだろう。
 呼吸に気付かれるのが、いつしか怖くて怖くてたまらなくなっていた。もうここから離れたかったが、足を動かすのさえ物音に気付かれそうで怖かった。

「ふっぅぅぅっ……、」
  ビヒピビィィィ〜〜ッ……、ブゥゥッ、ブスゥゥゥッ
 そして、止まらない破裂音。
 それ以外は完全な静寂に包まれたトイレで。
 窓風は泣きながら、何度も何度もゆるみきったおならを放ち続けた……。


 そのまま一分、二分、三分――。

 やがて、真雪は気付いた。
 尻が汚物にまみれているであろうにも関わらず、窓風は少しもトイレットペーパーを巻かないのだ。
 何もできずに途方にくれている息遣い。……どうやら、紙を使い切ってしまったらしい。

 彼女が泣いているのは、自身の惨めさに胸を痛めているからだけではなかったのだ。
 いったん家に帰ったりなどしているから、真雪がここに来た時点で、窓風が個室に駆け込んでからすでに十分は経っていたはずである。おそらく、その間に、使える紙は全て使ってしまったのだろう。もう、ポケットティッシュも空になってしまったようだ。しかしそれだけ使っても、下痢を漏らしたおしりは少しも綺麗になってはくれなかったのだろう。

 真雪が下着を汚しながら野糞をしてしまった時、その後始末用に、窓風はたくさんのティッシュを持ってきた。
『岩崎さんも持っているかもしれないけれど、一つじゃきっと足りないと思う』
 その時の言葉も鮮明に記憶している。
 あのあと、ティッシュはいくつか余ったが、窓風はその残りの全てを真雪にくれた。今でもNバッグの中に入っている。さっき使っていたのは、元から彼女が持っていたものだろう。

「っぅぅぅぇぇん……」
 ……だが、今では、まさに彼女が一つでは足りない事態に陥っていた。
 きっと、このままでは、永久に個室の外に出られない。

(白鳥さん…………)
 震える指先で目に浮かぶものを拭いながら、揺れる個室を大きな瞳で見つめる真雪。
 彼女は気付いていた。
 あの時に助けにきた窓風がそうだったように、今の自分は、窓風が必要なものを全て持っている。ポケットティッシュだけでなく、替えになるパンツまで持っている。今の自分は、窓風を救える。今こそ、本当の意味でぬくもりを返す時なのかもしれない、と。

「〜〜……っ……」
 しかし、真雪はただ唇を噛み締め、うつむいてぶるぶると震えながら、動けなかった。
 あの気高く繊細な窓風。この最悪の失敗を人に知られたらどれほどに傷付くか、想像するだけで胸が潰れそうになる。そもそも、自分がここにいること自体が、本来あってはならないことなのだ。

 負の感情ばかりが先立ち、勇気を出せなかった。
 窓風の力になりたい一心でここまで来たのだというのに。
 真雪の切ない心は、どうしようもなく葛藤していた。


 そのまま、さらに、一分、二分、三分――。

 窓風は、ただ何もできずに泣いていた。
 真雪の想いは膨らんでゆく。ここにきて、窓風の嗚咽は徐々に収まりへと向かいだしていた。

 やがて、真雪はごくりと唾を飲み込んだ。
 が、その時だった。

 個室の中から、急にがさがさと物音。体が大きく動く気配。続いて何か電子音のようなものが聞こえた。
 突然の異変に脅える真雪。――それからすぐに、
「……お母様……」
 弱々しく、窓風の声が聞こえた。
 一瞬だけびくっと震えたが、すぐに真雪は理解した。どうやら、携帯電話を使い始めたらしい。

「いま……第三公園の……お手洗いに、います」
 相手は母親。おそらく、『どうしたの?』とでも問いかけられたのだろう。
「…………おなかを……ひやして……、こわして、しまって……」
 その声が、著しく震え始める。理由は明らかだった。
 わずかな間の後、
「……おしりと……パンツを……汚して、しまいました……」
 告白。何度も途切れながら自分の失敗を母に伝える窓風の声は、あまりにも惨めな羞恥に満ちていた。
「でも……紙が、もう……、なく、って……」
 半分泣きながら、今にも消え入りそうな窓風の声。息継ぎのたびに鼻をすすっていた。

「はい、おねがいします……」
 あっというまに連絡は終わった。
 母親の声は聞こえなかったが、何を話しているのかは、おおよそ見当がついた。
 おそらく、これから数分の内に、大量のトイレットペーパーと、替えのパンツやスカートを持ってここにやってくるのだろう。真雪の想像を超えたところに伸びていた活路。まさか携帯電話を持っているとは思わなかった。窓風は最終手段を有していて、ついにそれに頼ったのだ。

 そしてその事実は、いよいよ真雪がここにいてはならなくなったことを示していた。
 力になることができなかった。――というよりも、自分は最初からいらなかったのだ。

 最後に目の前のドアを見つめると、真雪は後ろを向き、そのまま音を立てずに歩き始めた。
 沈みきった、今にも泣き出しそうな表情で。足元の汚物を危なかしくふらふらとよけながら。

 外に出て視界が白に染まると同時に、トイレの中とはあまりにも異なる空気が体を覆い包む。
 吹きすさぶ風。冬の空の匂い。新鮮な冷気。
 それは、忘れかけてさえいた自身の便意の再自覚を促した。
 音の鳴るおなかを、二度三度と弧を描いてさする。

 次の刹那、真雪は全力でそこから遠くへと駆け出した。

 <続く>


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